侵食
「ルイちゃん、お待たせ」
江理子の声にルイは振り返る。
ルイは約束した時間のなんと3時間前からずっと江理子を待っていた。
「あたしもさっき来たばっかりだから」
ルイは嘘をついた。江理子に「3時間前から待っていた」などと言って引かれてはいけない。
「そう、よかった、何頼もうかなぁ?」
ルイは江理子と会えるという喜びで昨日は興奮して眠れなかった。疲れも不眠も、江理子に会えば吹っ飛んでしまった。
「私はこれにしよーっと、ルイちゃんは...ルイちゃん?」
ルイは江理子の顔をうっとりと眺めていたので江理子の声は届いていなかった。
江理子の声に思わずハッとするルイ。
「大丈夫?」
「あっ、は、はい!あたしはこのスムージーにします」
それぞれ頼んだドリンクを片手に席に座る。
「ルイちゃん昨日はごめんね、何の用だったの?」
特に用など無かった。
困ったことも別に無かった。
ただ、何らかの口実を設けて江理子に会いたかった。
ルイはあらかじめ用意していた事情を説明した。
自分はかわいそうな人間だと、江理子に思わせて、その同情を引こうと思っていたのだ。
「あたし、小さい頃に両親が離婚して、ママと暮らしてるんですけど」
正義感が強く、その困った子を見捨てられない性格に付け入るには、江理子はルイにとって最も都合のいいタイプだった。
「そうなの?」
「あたし、家をほとんど出たことがないんです。今日も、ママに頼みこんでやっと出てこれたんです」
ルイは嘘をついた。昨日の夜から母親は帰ってもいなかった。
だいたいの見当はついていた、ルイの母親は、男と遊んでいるのだ。
ルイは江理子の顔をちらりと見た。
しばらく黙っていた江理子は、ルイが予想もしていなかったことを言った。
「それでお母さん、大丈夫なの?ルイちゃん、今日は早く帰った方がいいよ」
「え?...」
「お母さんルイちゃんが心配なんだよ〜、大事にされてるんだね!」
ルイは信じられないというように江理子を見ていた。
江理子は決して悪気があって言っているのでは無かった。本当にそう思っているのだ。
世の中には、暴力を受けたり、虐げられて育っている子どももいることを、親に愛されて育ってきた江理子にはわからないのだ。江理子なら分かってくれると思っていたルイは、江理子の気を自分に向けさせるために別の方法を取った。
「ゲホッ、ゲホッ」
「え?どうしたのルイちゃん、大丈夫?」
「ゲホッ、だ、大丈夫です...あたし、昔から喉が弱くって、こういう冷たいドリンク飲むと、むせちゃうんです」
「あら、それ私も時々なるわ〜!でもしばらくしたら治ってるよね!」
そう言ってははは、と江理子は笑った。
自分を心配してくれるのかと思ったら、江理子は心配するどころか笑っている。
何で笑ってるの?
あたしがこんなに苦しんでいるのに?
あなたは何がおかしいの?
あたしがおかしいの?
ルイは自分の思い通りにならない江理子に苛立ちを覚えていた。
あたしがこんなに好きなのに、エリコはあたしと同じじゃないの?
あたしを助けてくれるんじゃないの?
いつの間にか、ルイの咳は止まっていた。
「あ、止まったね!ルイちゃん、むせないようにゆっくり飲んでね」
そう言って江理子はふふっと笑った。
その江理子の笑顔に、ルイの意識はたちまち元に戻った。
先までの、エリコに対する自分の苛立ちは、微塵もなくなっていた。
エリコが、あたしを思って、あたしにだけだけ微笑んでくれた!
「ルイちゃんのそれ、美味しそうだね?ちょっとだけ貰っていい?」
「えっ!?」
「ちょっとだけちょっとだけ!」
「あっ....ど、どうぞ」
「やったー!」
江理子はそう言ってルイのスムージーをスプーンですくってパクリと食べた。
「うん!うまい!あ、そうだ、こうやってすくって食べたらどう?むせないよ!」
と言って江理子はルイの方を向いてまた微笑んだ。
「あ、は....い!」
「へへ〜!」
江理子はにかっと笑ってルイを見ていた。ルイはその笑顔にドキドキしながら、江理子のすくった部分をずっと見ていた。
(エリコが、あたしのエリコが、あたしのスムージーを食べて喜んでる...)
「あたし、あたしもスプーンで食べてみる」
ルイがそう言って顔を上げた時、江理子の美しい横顔がちらりと見えた。
その白く透き通る肌に、ルイは思わず息を呑んだ。
ルイは思った。
エリコのことをもっと知りたい。
エリコもきっとあたしと同じ気持ちでいると。
そしてあたしを幸せにしてほしい。
エリコもきっとあたしと同じ気持ちでいると。
歪んだ愛がじわじわと、ルイの中で形成されていく。ルイを歪んだ愛が侵食していく。
もちろんルイは、そんなことには気がついていない。エリコを愛すれば、エリコもルイを愛してくれるのだと、信じこんでいた。
にやりと心で笑うと、ルイは口を開いた。
「そういえば、エリコさんは、どこに住んでいらっしゃるんですか...?」