あなたは、誰ですか?
「おい、お前。昨日わざわざ俺が待ってたのに何で来なかったんだよ」
振り向くと、服をだらしなく着崩した、金髪の人相の悪い生徒がこちらを見下ろしていました。
ヤンキーです。ヤンキーが私に呼び掛けています。
私は、常識の範囲内で、答えを返しました。
「あなたは、誰ですか?」
とても驚いた顔をしていらっしゃいますが、初対面ですよね?
この時の私は、何と怖いもの知らずだったのでしょう。
だって、この金髪ヤンキーがあの有名な学校一喧嘩の強い、怒らせると生きて帰れる者はいないと知られる伊藤隆也だったなんて、露程も思わなかったのです。
教室に帰った私は、仲のいい早織が私に向かって飛んでくるのをスローモーションのように感じながら見ていました。
おぶ、と女子らしからぬ声が出たのには目を瞑って頂きたい。
「美緒おおおおおお!大丈夫だったのおおおおおお?!!」
今大丈夫ではありません。
腕を回して首を絞められた状態の私は、ぎぶ、ぎぶと早織の腕を叩きます。
私の生命の危機に気付いた早織は、「あ、ごめん」とやっと腕を離しました。今ちょろちょろと水の音が聞こえましたよ。
「だってだってだって、あの伊藤が怒ってたって聞いたんだよ?!生きて帰って来ないかと思ったよおおお!」
わんわんと泣き叫ぶ早織から何とか事情を聞き出して、私は身震いしました。
先程声をかけてきたヤンキーは、本当にヤンキーで、学校で喧嘩の強さでいったら右に出るものはいないと言われる伊藤隆也だと云うのです。
しかも、頭もいいらしく、学校全体の模試の結果を大幅に上げてくれている伊藤には先生たちも強く出れないようで、放置ぎみだとか。おい、先生。
更に次の言葉を聞いた私は、血の気が一気に下がりました。
「最近、美緒ってば、どんな度胸試しなのか知らないけど伊藤に話しかけてたから、気を付けなよって言ってたの、忘れたの?」
そんなこと、一切覚えていなかったからです。
私がそのことを話した後の早織の顔も、心なしか血の気がないように見えました。
「それって、記憶喪失ってやつじゃない?」
記憶喪失?と首を傾げながら隣を見上げます。
学校終わり、私はいつも幼馴染みの斗真と下校します。
斗真は、そこそこ有名ブランドの社長令息で、昔から家が近いだけの私と何かと遊んでくれていた、とても頼りがいのあるお兄さんのような存在です。同い年だけど。
私を心配そうに見つめるその顔は、母親譲りの綺麗な顔立ちで、学校ではファンクラブが設立されているという噂もあるくらいです。
幼馴染みだからといつも優先してもらっている私は、いつか刺されるのではないかと密かにびくびくしながら過ごしています。
だけど、他のことはきちんと覚えてるよ?と素直に疑問をぶつけると、斗真はふむ、と顎に指を軽くつけて考え込みました。
そんな仕草も様になるのが斗真です。
「何かのきっかけで突然その記憶だけ忘れてしまうこともあるみたいだよ。もしかしたら、美緒が思い出したくないことを伊藤がしたのかもしれないね」
そんなこと、思いたくはないけれど。と斗真の顔がどんどん険しくなります。
慌てて私は首を振りました。
「だ、大丈夫だよ!幸いにも生活には支障はないし!思い出したくないんなら、今は忘れてるし、私が話しかけなければあっちも話しかけないっぽいから、斗真は心配しなくていいよ!」
そう?と禍々しい雰囲気をおさめて斗真は、じゃあまた明日と門に手をかけて言いました。
いつの間にか家に着いていたようです。
斗真の姿が見えなくなって、私はほっと息を吐き出しました。
あれではまるで、伊藤という人を庇っているようです。
そんなつもりはないのですが、何故か斗真には心配をかけてはいけないと思ったのです。
私自身何故なのか分からないまま、ただいまーと扉を開けて晩御飯の匂いをかいだ時には、そのことは頭の中からすっぽり忘れてしまっていたのでした。
私の後ろ姿を見つめる影に、気付かないまま。
私は少し考えが甘かったようです。
今私の目の前にいるのは、もう今後関わらないだろうと思っていた金髪ヤンキーのあの伊藤隆也です。
「お前、俺を忘れたって、本当か?」
何故、わざわざそれを聞くのでしょう。
忘れてなかったら、この間、誰ですか?とは聞かなかったと思うのですが。
どうなんだ、と苛ついたように催促され、条件反射のように「はい」と答えていました。
私の返事がお気に召さなかったようで、薄い眉をぴくり、とはねあげました。
と、私はそれに気が付きました。
「伊藤さん、あなた、薄いと思ったら眉毛も金髪なのですね」
もしかして、金髪は地毛ですか?と聞くと、暫くの無言のあと、そうだよ悪いかよ、と不貞腐れたような答えが返ってきました。
私は驚きました。
金髪が地毛であることは勿論ですが、まともに返事をされたことが。
だって、皆さんがおっしゃる伊藤さんの人物像からでは、会話も録に出来ない獣のような傍若無人な振る舞いをする人だと想像してしまっていたのです。
噂は噂ということでしょうか。
なんでも、近くの不良校の生徒50人くらいと喧嘩して勝ったとか、女遊びが激しくて何人も泣かせてきただとか、オブラートに包んでこんなところでした。
それなのに、目の前のこの人は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぷいっと明後日の方向を向いてまるで拗ねているようです。
何というか、あれみたいですね。
「懐かない犬みたいですね」
はっとして口を手で覆いましたが、時既に遅し。
思ったことは口からぺろりと出てしまう。片岡美緒はそんな子です。
とっても失礼なことを言ってしまったので、怒りで暴れ狂うと思いましたが、意外なことに伊藤さんはこちらを目を見開いて見つめました。
「2回目だ、それ」
え?と聞き返すと、「さっきの台詞、2回目」と今度はばつが悪そうに視線を反らしながら呟きました。
失礼な子、片岡美緒。忘れた今でも未だ健在だったようです。
複雑な気持ちになりながら、「それは大変失礼致しました」と頭を下げると、伊藤さんは「別にいい」と去っていきました。
やっぱり、皆さんの言う「怖い伊藤」は、私には見えないままでした。
「美緒、伊藤と喋ってただろう」
ぎくり、と肩をはねあげてしまえば、肯定したのと変わりありません。
私は、そろりそろりと斗真を見上げて後悔しました。
普段怒ることがない斗真が、眉間に皺を寄せて、こちらを険しい顔で見ていたからです。
私は素直に「ごめんなさい。呼び出されてのこのこ着いていきました」と項垂れながら謝った。
「でも、伊藤さんって、噂程怖くはないよ」
「美緒にとって思い出したくないようなことをしたやつかもしれないのに?」
その声は刺々しいながらも、心配の色が窺えます。
それでも私は、弁明を止められません。
「もしかしたら、何か事情があったのかも……」
「美緒!」
普段の斗真からは想像もつかないような大声を出され、ぎゅっと目を瞑ってしまいました。
上から、「ごめん」と力ない謝罪が聞こえました。
「でも、分かってくれよ、美緒。僕は君が心配なんだ。美緒に何かあったらと思うと僕は何をしてしまうか分からないよ」
額に拳をあててため息を吐く斗真は、本当に私を心配している様子が見てとれます。
私はもう一度「ごめんなさい」と言うとドアノブに手をかけました。
「でも、大丈夫だから。心配しすぎないで」
また明日。というと扉がしまる直前、小さく、また明日、と声が聞こえました。
幼馴染みだから、というのは分かります。だけど。
斗真は、どうしてこんなにも私を心配してくれるのでしょう。
その過剰とも言える感情に、自然と腕を擦る仕草をしていました。
校庭の裏、人気のない空間を私は好んでいました。
お昼の休憩時間に一人でうとうととするこの時間は、早織たち友達といる時間よりもリラックス出来る空間でもありました。
だけど、最近は少しだけ落ち着かない気持ちが混ざっていたように思います。
はて、何故だったのでしょう。
ぽかぽかとした日が当たりすぎないよう、木の根元に座り考えます。
その時、ざり、という足音が聞こえました。
そちらを向くと、何と最近よく会う伊藤さんではないですか。
「どうしたのですか?」
「それはこっちの台詞だ」
どうゆうことだろう?
不思議そうな顔をしていたのか、伊藤さんが仕方ないという風に話はじめます。
「お前は、以前来たとき、嫌な気持ちが治まらない時はここに来るんだと言っていた」
何か嫌なことでもあったんだろう?と聞いてきた伊藤さんに目を丸くしました。
そんなことも伊藤さんに話していたのですか、私は。
斗真にさえ話していないのに。
私が黙っていると、伊藤さんはぽつりと呟きました。
「……何なら、聞いてやってもいいけど」
その言葉を聞いて、笑ってしまいそうになりましたが、出来ませんでした。
ぶわりと沸き起こった、胸の奥の高まりを抑えるのに必死だったからです。
「…ありがとう、ございます。でも、大丈夫です」
その言葉を聞いただけで、何故だか変な不安もなくなってしまったようでした。
どうしたのでしょう。こんなこと、今までなかったというのに。
……本当に?
「……お前、本当に大丈夫か?前言ってたあいつの………」
考え込む私に、伊藤さんは何かを言いかけていましたが、昼休憩の終わりを告げるチャイムに掻き消されて聞こえませんでした。
「え?」
「…いや、いい。早く行けよ」
伊藤さんは行かなくていいのでしょうか?
「俺はいい。聞かなくても分かるから」ああ、はい。憎たらしいですね。その謎の賢さはどこから来るのですか。
若干の僻みを抱えつつ、私は教室へと急ぎました。
「…邪魔だな」
消えちまえばいいのに。
「ほんとさ、美緒大丈夫なの?伊藤って、ほんとに怖いんだよ?」
短い休憩の間は早織との下らない会話に注ぎ込まれます。
そのくだらなさが面白いんですけどね。
どうやら今回は伊藤さんのことについてのようです。
「大丈夫ですよ。皆さんがおっしゃるより伊藤さんは怖くないですよ。話しかけてみればいいと思うんですけどね」
私がそう言うと、早織は変な顔をして頬杖をつきます。
「そんなこと言えるのは美緒くらいだよー?まず、皆あの強面な顔に近付けないんだよ。話しかけても睨まれるみたいだし」
「みたいって、早織は話しかけてないんですか?」
「だから、近付けないの、怖くて!噂もあるし」
私はそれが以前から不思議だったのです。
「それです。その噂、本当にあっているのですか?いくら伊藤さんでも、50人っていう人数は人間離れしすぎていると思うのですが」
「う~ん、そう言われてみれば確かに……でも、伊藤ってだけで納得しちゃうんだよなあ」
それは、つまり。
「全部、嘘?!」
早織との会話で生まれた疑問を直接本人に聞いてみたところ、そんな所業はやっていない。真っ赤な嘘だと言われました。
どうしてそんな噂が飛び交っているのかというと、ガンつけただろうと不良校の生徒が伊藤さんに絡んで来たのを目撃した生徒が、尾ひれに背びれに尻尾までつけて噂を流したのではないかと云うことでした。
あまりのことに、開いた口が塞がりません。
ですが、だんだんと怒りが沸いてきました。
「どうして伊藤さんは、誤解を解かないんですか!」
分かっているのなら、どうやってでも誤解を解くことが大切です。
そう告げる私に、伊藤さんはぼそぼそと言い訳じみながら言いました。
「誤解を解く前にあいつら逃げやがるし、俺は人見知りで睨んじまうから、出来なかったんだよ」
それに、と顔を俯かせて呟きました。
「俺なんか、居ても居なくてもどっちでもいいだろ。お前にも、忘れちまわれたときは、ああ、やっぱりなって思ったんだ」
私は、目一杯腕を振りかぶって、伊藤さんの頬に平手を叩き込みました。
ばっちん!と痛そうな音が響きました。私の手も痛いです。
だけど。
「…また泣いてんのかよ」
2回目だぞ。そう言う伊藤さんは、へらりと笑いました。
どうしてそこで、笑うんですか。
きっと、もっと痛いのは、伊藤さんの心なのに。
ぼろぼろと涙を溢す私に、伊藤さんはそうっと私の頬に手を伸ばして涙を拭いました。
ああ、胸がぎゅうっとなるこの気持ち、校庭で感じた落ち着かない気持ち、やっと分かりました。
私は、伊藤さんが好きなのです。
それなのに、どうして。
どうして私は、目の前の愛しい人を、忘れてしまったのでしょう。
「斗真、話があるの」
私が真剣な顔でそう言うと、それじゃあ僕の部屋で話そうか。と久しぶりに豪邸に入らせて頂きました。
何度来てもこのキラキラしさには慣れません。
寒いこの季節は、夕暮れからの夜に移り変わる時間がとても短いため、そろそろ月明かりがないと見えなくなってしまう暗さです。
斗真と机を挟んで向き合って、まずは伊藤さんの噂が嘘であること。伊藤さんがただの人見知りであることを告げ、最後に意を決して告白しました。
「私、伊藤さんが好きになってしまったみたいなの」
どうか、応援してくれませんか?
別に、斗真に許可を得なくても告白なりなんなりすれば良いと思うのですが、あんなに心配をかけた体、報告はしておくべきだと思ったのです。
斗真は俯いていて表情が見えません。
暫く経っても返事がなくて、斗真?と声をかけると、肩が揺れています。
次第に、クックッと笑っているような声も聞こえてきました。
斗真?
「やっぱり、記憶をなくしても美緒は美緒だなあ。また好きになっちゃうなんて」
顔を上げた斗真の顔は、仕方ないなあといういつもの表情です。
だけど、雰囲気はいつもとは違います。
なんだか、とても、怖い。
たまらず立ち上がると、おっと、と素早くドアの方へ体を滑らし出口を塞ぎました。
「斗真?」
「なんでかなあ。こんなに僕は尽くしてるのに、いつも違う人を好きになるんだ、美緒は」
にやにやと笑う斗真は、最早別人でした。
そのままこちらに向かってくる斗真に後退りをしていると、とん、と背中が後ろの壁にあたるのを感じました。
私は必死に、何かないかと周りを手探りで探しました。
近くの机の何かに当たったようで、カチッと音がしました。
そちらに顔を向けて私は、ひっと息を吸いました。
パソコンのマウスを押したようで、画面が起動し、明るいウィンドウが照らし出されます。
そこに映るのは、びっしりと埋まった私の写真。
どれも目線が合っておらず、隠し撮りされていることが分かります。
よく見ると今の写真だけじゃなく、中学生、小学生、もっと小さいときのものもあるようでした。
ぶるぶると震える私に、斗真は、ああ、見ちゃったかと眉を下げています。
「美緒はいつ撮っても可愛いんだよ。何時間眺めても飽きないね。最近ではこっそり入って撮った寝顔の写真なんか、最高だよ」
気持ち悪い。
私は心底そう思いました。
なのに、といきなり低くなった声に私は嫌な予感がしました。
「美緒はいつも僕じゃなく、違う人を好きになる。しかも、すんごくつまんないやつばっか。だからね、いつも僕が処理してあげてたんだよ?」
そう言えば、私が好きになった人は、いつの間にかいなくなっていることが多かったように思います。
運がなかったんだな、と納得していましたが、これが意図的に行われていたのだとすると。
「だから、今回も行かなくちゃね」
大人しく待っているんだよ。そう言うと、斗真はくるりと向きをかえて部屋から出ていきました。
ガチャリ、と嫌な音を残して。
ばっとドアノブにしがみついた私は必死に扉を開けようと暫くガチャガチャといろんな方向に動かしました。
けれど、無情にも扉は開きません。
「伊藤さんが、危ない……!」
斗真は、足がとても速いのです。
もたもたしていたら、間に合いません!
何かないかと周りを見渡して、私は椅子を持って振りかぶりました。
ガチャーンという音ともに硝子が四方八方に飛び散りました。
顔にもあたったようですが、気にしてられません。
近くの木を伝って下り立つと、私は裸足のまま走り出しました。
きっと、用意周到な斗真のこと、伊藤さんをどこかに呼び出してあるに違いありません。
私は直感が赴くままに学校へと向かったのでした。
真っ暗な学校はおどろおどろしい雰囲気を纏って、私を呑み込もうとしているかのようです。
意を決して、私は飛び込みます。
ぺたぺたという間抜けな音をさせ、進んでいくと、がしゃーん!という物が落ちたような音がしました。
私はそちらに向かって走りました。
伊藤さん、どうか、無事でいて……!
教室を覗くと、月明かりに照らされる、人影がいました。
「伊藤、さん…?」
くるりとこちらを振り向いたその顔に、私は絶望しました。
「あーあ、大人しく待っているんだよって、言ったのに」
そう言う斗真の右手には、赤い液体のついたナイフが握られています。
ゆっくりと視線を下に向けると、そこには、血の海に沈む、伊藤、さんが。
「いやあああああああああああああああああああ!!!」
その瞬間、私は思い出しました。
斗真に告げた時、私は斗真に首を絞められ、殺されかけたのを。
忘れろ忘れろ忘れろと怨霊のようなその声に次第に伊藤さんの記憶が薄れていったことを。
「おかえり、美緒」
私の世界は暗転しました。
「ねえねえ、聞いた?」
「聞いた聞いた!伊藤、意識不明の重体だって!」
「怖いよね〜。何でも、不良同士の喧嘩でやりすぎた結果なんじゃかいかって」
「ほんと録なことしないよね。でさ、片岡美緒って子、巻き込まれたらしいよ。あの子もこの間から立て続けに可哀想だね」
「でも、どうして美緒って子、そんなところにいたのかな」
「さあ?」
「おはよう、美緒」
目を開けた先にはやけに整った顔の男がこちらを覗きこんでいました。
起き上がろうとする私の背中を支え、あれから3日眠り続けていたんだよ。と、心配そうに私の手を擦ります。
はあ、と気の抜けたような声が溢れました。3日とは、よく眠ったものです。
私は男の手から自分の手を抜き取ると、先程から聞きたくて仕方のないことを聞きました。
「伊藤隆也という方をご存知ですか?どうしてかその人に会いたいのです。顔も覚えていないのに、会って伝えたいことがあったはずなのです」
必死に教えを請う私に、目の前の男は哀しそうに顔を歪めました。
ところで、
「あなたは、誰ですか?」
知らない誰かは、艶やかに笑いました。
「僕が、伊藤隆也だよ」
私は嬉しくて、目の前の愛しい人に手を伸ばしました。
その時、ちらちらと太陽に反射する綺麗な金色の髪が、頭の中をよぎりました。
あなたは、誰ですか?




