7-1
ねえ、とても大事な事があったのに、忘れてしまったの。
その頃僕は“六番目”と呼ばれていた。六番目にその家に売られてきたから。
けれどあまりの扱いの悪さに、僕はいつも傷だらけだった。
殴る蹴るは日常茶飯事。家人たちは何か気にいらない事があるたび、それを僕にぶつけてきた。
苛立ちやうっぷんを晴らすための道具みたいな扱いだった。
傷だらけで、小汚い子ども。それがその頃の僕だ。
しかしその日々は唐突に終わりを告げた。傷が膿んで、やがて病気になった僕を、不要物よろしく放り出したのだ。熱で朦朧としていた僕だが、ごみのように放り出される時、聞こえた声を覚えている。
“こいつ気味が悪かったんだよ。いつまで経っても全然大きくならねえし”
ごみの山に埋もれたまま、ああこれが最後かとぼんやり思っていた。
もう碌に目も見えていないし、匂いもわからない。それでもこんな終わり方は嫌だなあと思っていた時。
ざり、と土を踏む音が聞こえた。それから、この場に似合わないのんびりした声が聞こえた。
おや、こんなところに子どもが落ちてる。どれ、ひとつ拾って帰るか。
まるで木の実でも拾い上げるかのような気安さで、僕は拾われたのだった。
驚いたことに僕を拾った人は、貴族の中でも高い位を持っていた。
たっぷりとした睡眠と栄養のある食事、そして傷の手当て、これらを与えられ頭がしゃんとした頃、その人と初めてちゃんと顔を合わせた。
髪は真っ白で、口髭もほとんど白くなっている。でも白い眉毛の下から覗く灰色の目は、あかるく輝いていた。
「身体はどうだい、よくなったか」
おかげさまで、と僕は答えた。この屋敷に来てから、ちゃんと食事もして、いい匂いのする寝床でたっぷり眠った。傷も手当してくれた。目の前の、人がよさそうな老人が何を考えているのか僕にはわからないけれど、取りあえずごみの山から救い出してくれた事は事実だった。
ありがとうございます、と頭を下げた僕に、老人はいやなにと手を振った。
「こちらの気まぐれだからな。それにしても、うちの者から話は聞いておったが、まあ磨いてみれば驚いたもんだ」
灰色の目を丸くして、僕を見る。
そうですかと答えながら、面倒な事になったら嫌だなあとこっそり思っていた。
自分で言うのもあれだが、僕はとても目立つ容姿をしているらしい。
きらきらしい金色の髪に、明るい緑の目。初めて売られた家での用途も、そもそもはいわば愛玩用だったのだろう。僕を売った奴は、せいぜい可愛がってもらえとか言っていた気がする。
ただ幸いと言っていいのか、僕を買ったとうの主人が、あっけなく死んでしまい、屋敷は長男が継いだ。“可愛がられなくて”よかったのだが、殴る蹴るが日常茶飯事になったことと引き比べれば、どっちが幸いだったかは微妙なところだ。
用心のためにきらきらしすぎる髪の毛は煤で汚していたし、身体は少なすぎる食事のせいでがりがりに痩せこけていたから、いつのまにか僕が愛玩用として買われた事なんて、誰もが忘れていた。
「実はな、お前さんに頼みがある」
僕の内心を知ってか知らずが、老人はのんきに言った。
「私には嫁いだ娘がいてな、その娘は息子を産んだ。色々事情があって、娘は子を連れてここへ帰ってくる。お前、孫の遊び相手になってくれんか」
「……は?」
思わず聞き返してしまった。まるで予想外な申し出だったからだ。孫の遊び相手。それはもしかして、殴る蹴るなんか好き放題の“遊び相手”なのだろうか。
それはちょっと、いやかなり嫌だと思ったけど、今の僕ではどうしようもない。逃げようかとも思うが、この屋敷、のんびりした雰囲気に見えて隙がなかった。僕を放り出したあの屋敷は、主人や使用人がそれはもうだらしなかったから、あちこち杜撰だったのに。
とりあえず様子を見るしかない。そう思って、僕は頷いたのだった。
「きみが、おじい様が仰ってた“おともだち”?よろしくね!」
にこにこと微笑む少年を前に、僕は、はあと気の抜けた返事をした。
闇夜のような髪と目の、僕より少し年上に見える少年が、老人の孫だった。育ちの良さをうかがわせるおっとりとした仕草や言葉に、荒れた所は見られない。老人から僕の出身もしくはここで世話になっている経緯を聞いていないからかと思ったけど、すぐにそれは否定される。
「落ちていたから拾ってきたぞ!それならお前も文句は言わないな、なんておじい様は時々仰天するような事するからね……きみには悪いけど、しばらくつきあってくれるとありがたいな」
困ったように笑う少年に、僕は、まあ別にいいけどと答えていた。
結局のところ、老人の言葉に裏なんてなかったのだ。
屋敷に来る孫のために、遊び相手を用意したかった老人は、孫本人から拒否されたそうだ。断れない筋へ誰かを寄こすようになんて強制しないで下さいねと、孫から釘を刺されたらしい。
「あの時ってさ、実の所、今まで色々あったからね、少しひとりでいたいっていうのが本音だったんだよ。それがねえ……おじい様の突飛さを忘れてた。ねえ、私になんて言ったと思う?」
「……さあ?」
首を傾げて見せると、少年は少し遠い目をして呟いた。
「強制して連れてきたわけじゃないからな、お前の要望どおりだからな、なんてねえ……。遠まわしに言っても伝わらないのをうっかり忘れてたよ……」
ああ、そうだねと僕も答えた。確かに老人は、悪い人じゃあないんだが、時々恐ろしく話が通じないのだ。
今は自分の娘……少年の母とともに、田舎の領地に引っ込んでいる。街中は騒がしいと言って。
結局。僕は少年の遊び相手兼話相し手兼、勉強仲間の立場になった。
少年が僕にも、“勉強してみる?”と声をかけたのが始まりだった。
読み書き出来た方がいいよなとは思っていたから、少年の言葉には頷いた。ここを辞めた時役に立つと思ったことも理由の一つだった。
勉強もやってみると楽しかった。読み書き出来るようになれば、一人で色んな本を読めるようになった。今まで知らなかった事をたくさん知った。一つ一つ知識が増えるたび面白かった。少年は家庭教師が来る日は僕を同席させ、一緒に授業を受けさせた。来ない日は、あれこれ訊いてくる僕を面倒がらずに相手をしてくれた。
使用人の態度じゃないよなあと思った事もあるが、少年がにこにこと楽しそうに笑っているから、まあいいのかと自分を納得させた。駄目なら少年、もしくは周りが何か言うだろうと、ずうずうしくさせてもらえと考えたのだ。
それにしても、少年は面倒見がよかった。どうも年下の相手をし慣れているようだった。兄弟でもいたのかと訊けば、いた、というか、居るよ。一緒に住んでいないけどねと答えられる。怪訝そうな顔をした僕に気付いて少年は、ああ、と手を打った。
「母親が違うんだよ。弟は……というか、妹も、何人もいるけどね。その中で一人、私によく懐いてくれた弟がいてね、きみより小さいかなあ……いい子なんだけど、時々暴れん坊になるから、困りものなんだよ」
眉を下げながらの言葉なのに、目は仕方ないなあなんて笑っていたから、その弟とやらを可愛がっていたんだなあと、その時は思っただけだった。
かなりあとになって、少年が廃太子であり、弟が王太子であったことを知った。
少年に、何で黙っていたとくってかかれば、少年は至ってのんびりと、あれ言わなかったっけ?と首を傾げていた。やはり老人の孫だと思った。
そんなこんなで日々は過ぎた。僕は相変わらず言葉づかいも態度も改まらないままだったけど、少年は相変わらず気にもしなかった。
変わったことといえば、少年がかつていた場所……王宮に出向く日が増えたこと、少年が青年へと成長した事。そして、僕がこの屋敷から出て行く事。
僕は相変わらず子どものままだった。少年やこの屋敷の使用人たちは、不思議に思いはしても気味悪そうに僕を見る事はなかった。もしかしたら、とかつての少年は言い、しばらくしたある日フードを被った人物を伴って戻って来た。
「誰、それ」
「彼は魔術師だよ。ちょっと伝手あったから、来てもらったんだ。で、どうなんでしょう、彼」
あとの言葉は、その魔術師とやらに言った言葉だった。魔術師、という存在は知っていても、あまりに馴染みがない存在だった。呪い師ならそこらの路地にでも居るが、魔術師を名乗るものは滅多に姿を見せないからだ。
何が出来て、何が出来ないかも、よくは知らない。
僕が怪訝に思っている間に、魔術師は何やら頷き、青年に返事をした。
「間違いないようです。修業しだいでは私を超える魔術師になるでしょうな。弟子にするに不足はない、どころか、こちらから是非にとお願いしたいくらいです」
「……あの、何言ってるか、さっぱりわからないんだけど」
慌てて二人の会話に割り込んだ。話題が自分であるのに、まったくわけがわからない。
すると青年は、あのねと口を開く。
「あのね、きみって全然成長しないでしょ?というか、成長がすごく遅いんだ。それって、魔術師の特徴でもある。もしきみに魔術師になる素質があるのなら、伸ばしてみるのも一つの手だと思ったんだ。彼は今は引退してるけど、前は王宮づきの魔術師でね。彼の弟子になれば、今まで以上に色んな事を知る事も出来る。どうかな」
僕は青年と、魔術師とを交互に見た。
実際のところ、この屋敷に僕が留まる理由はもうなかった。
青年は遊び相手や話し相手が必要な年齢ではなくなっている。特に出て行けとも言われなかったから、僕は屋敷に留まって家令に言われるまま手の足りない所を手伝っていた。
子どものままの手を見る。この屋敷に来てから、少しは身体も成長した。それでもまだ小さいままだ。
魔術師と一緒に行けば、自分の身体の理由もわかるのだろうか。そして。
「きみ、本当はもっと勉強したかったんでしょ?彼と一緒に行けば、それも叶うよ。どうかな」
「……ほんとに、面倒見良すぎだって……」
苦笑して呟いたら、青年は、乗りかかった船だよ、拾ったものなら、最後まで責任持って面倒みなきゃねと笑っていた。
魔術師として独り立ちをして、かつて世話になった人に挨拶をするため、やって来た屋敷。いつの間にか人間が二人増え、そして一人減っていたらしかった。その時の事は、屋敷に居なかった自分は知らない。
僕が訪れた時、青年は産まれて間もない娘を抱いて、僕の前に現れた。
「よく来てくれたね、きみのことは、きみの師匠からも知らせも貰っていたんだよ。独り立ちしたそうじゃないか、おめでとう。大きくなったもんだねえ」
「ありがとう。ところで、その子は……?」
髪の色は夜の色。瞳の色も同じ色で。訊くまでもないかと思ったけど、そこは一応尋ねてみると、彼は案の定私の子だよと言った。
「そうか、結婚したとは知らなかった。遅くなったけどおめでとう」
そう言うと、青年は少しさびしそうな顔をした。実は、と切り出した言葉に、僕は返す声を失った。
「この子の母親は、出産の時に亡くなってしまったんだよ。きみに紹介出来なくて残念だ」
沈黙が落ちる。こんな時何と言ったらいいのか、わからない。
それを振り払ったのは青年だった。僕の方に、子どもを抱いた腕を伸ばした。
「抱いてみる?」
おずおすと手を伸ばし、小さな身体を受け取った。どこもかしこも柔らかい、頼りない身体に驚いてしまう。
柔らかくて頼りなくて、温かい。
その時に、僕の心は決まっていた。
そうして。僕は再びこの屋敷で働きはじめた。もっとも使用人というより、同居人という扱いだった。
魔術師として独り立ちしたきみを、使用人には出来ないよと青年は言い、同居人ということに落ち着いたのだった。
ここで働かないなら、自分の食いぶち分くらいは稼がなくてはならない。伝手をたどり、魔術師としての仕事をこなした。その傍ら、基本的に屋敷にいた僕は、いつしか子どもの面倒も見ていた。
僕は子どもを姫さんと呼んでいた。すこし人見知りをする子だったけど、流石に産まれた頃から一緒にいる僕は殆ど家族の認識だったんだろう、いつも甘えるように抱きついてくる。
ひょっとすると、父親の青年よりも一緒にいる時間が長かったかもしれない。
どうしよう、きみを父親だと思ってたらっ。
半ば本気で言いだした青年に、思わず白い目を向けてしまった。
「……僕の見た目考えてよ。きみより若いんだよ?せいぜい年の離れた兄妹ってところでしょ。心配しなくても、姫さん“父様いつ帰ってくるの”って何度も訊くんだからさ」
そうなんだ、と嬉しそうに青年は笑い、父親の帰りを待ちくたびれて、眠ってしまった姫さんの頬をつつくのだった。
この時点でも、僕にはちゃんとした名前が無かった。
ただ流石に“六番目”とは呼ばれていない。他の言葉で“六”を意味する言葉をもじり、自分の名前としていた。提案したのは青年……かつての少年だった。
名前を聞かれ、僕が“六番目”と名乗った時に、それは名前じゃないよと困ったような顔をした。他の名前はないと僕が言えば、それじゃあこういうのはどうだろうと提案してきたのだ。
あくまで仮だけど、と前置きをして。
それ以来、僕はその時決めた名前で過ごしていて、今まで何の問題も無かった。ただ、僕にちゃんとした名が無いと知った、師は言った。
いずれは己の名を定めねばならんぞ。名には力が宿る。己を守る力にもなれば、己の力の拠り所ともなる。
そう言われ、自分で名を決めようとしたが、どうにもしっくりしたものが見つからない。これでいいかと妥協すれば、なにやら激しい違和感に落ち着かない。
師に相談してみると、師はまだ名を改める時期でないのかもしれんし、お前に名を与える者が別に居るのかもしれんなと、腕組みをして言った。
そういうものかと、僕の名については、ひとまず棚上げすることになったのだ。
ぽすん、と腰のあたりに衝撃を感じて目線を下にやる。そこに見えるのは艶のある夜色の髪。
短い腕を伸ばし、ぎゅうっと子どもが抱きついて、いる。
「……姫さん、どした?」
わしゃわしゃと髪の毛をかき回してやれば、姫さんは小さな手を振りまわして抗議してきた。
「もう、髪の毛が絡まるでしょっ、意地悪っ。せっかくきれいに結んでくれてるのにっ」
「そんなこと言っても、丁度いいとこに姫さんの頭があるのが悪いって」
うううっと唸りながらも、姫さんは傍から離れていかない。僕のことを意地悪と言いながら、ますます足にしがみついてくる。
それが可愛くて、ひょいと小さな体を抱きあげた。
「っ、びっくりするじゃないっ」
姫さんは慌てて僕の首にしがみつく。
「だって頭撫でられるの嫌なんだろ?僕は下向いて話すの疲れるし。これで丁度いいよね」
ちょっと違うっ、と姫さんはすこしお冠だったが、両腕を僕の首に回してべったり抱きついている様子は、本当に可愛らしいものだとしか思わない。
姫さんを腕に抱えたまま、足を庭園の方へ向ける。
どこ行くのと姫さんは訊いてきた。
「庭。花冠作ろうか」
すぐに、うん、と嬉しそうな返事が返って来た。
庭師に断りをいれて、花を何本も摘んだ。庭にあるベンチに腰掛けて、花冠をつくる。
「……姫さん、ちょっと膝から下りない?ほれ、姫さんがごそごそするから、せっかくの花冠が悲惨なことになってるんだけどな~」
姫さんは僕の膝の上に、ちょこんと座っている。いや、大人しく座っててくれればいいのだけど、そこはまあ、やっと赤ん坊を脱したばかりの幼児だからして、ちっとも大人しくしていないし、僕の言っている事を聞いているようで聞いていなかったり、する。
ただ、この屋敷にいる年嵩の使用人によれば、姫さんは大人しい部類に入るそうだから、他の一般的な幼児がどういう振る舞いをするのか……考えるだに恐ろしい。
僕がベンチに座ると、姫さんは猫の子のようにするりと膝の上にあがってきた。まだ身の軽いこどもの事だから、座られてもそう重たくはないけど、僕の胸に背もたれよろしく寄りかかって、身体を揺らしながら、ちいさな手のひらで花冠を編んでいるのだ。
姫さんはふいっと横を向いた。
やれやれと思いながら、わざとらしくため息をついてみせる。
「あ~あ、せっかく摘んだ花が可哀想な事になっちゃったよ。姫さんがじっと座っててくれたら、すぐに綺麗な花冠が出来るのに」
途端に膝の上の姫さんが大人しくなる。おそるおそるこちらを窺う様子が、悪戯をしたあとの子猫みたいでおかしいが、ここで笑いでもしたら姫さんがむくれること間違いなしだろう。
大人しい間に、と僕はすばやく花冠を完成させた。ほら、出来たよと姫さんの目の前に差し出してやる。すると姫さんは、わあ、キレイねと目をきらきらさせて、笑う。
完成したそれを、頭に載せてやれば、ますます嬉しそうに笑った。
「ありがとうっ、こっちの、もうすぐ出来るから、ちょっと待ってね」
ちいさな指で編む花冠は、あちこちが不揃いでとても不格好だ。唇を引き結んで、一生懸命に編んでいる。
「出来たっ。ちょっと頭下げて?……はい、お揃い、ね?」
ようやく作りあげたそれを、僕の頭に載せてくれる。僕と花冠を交互に見て満足げだった。
「なに?」
「うふふ、だって王子様みたいなんだもん」
僕が、王子様、ねえ。思わず苦笑していると、そこへ訪問者があった。
「あれ、宰相様。今日は何のご用事です」
この国は最近王と宰相が代替わりをした。ともに年齢も近く、つまり、まわりの国々に比べてかなり若い。
あんまり、というか、僕みたいな立場の人間からすると、まず会わない雲の上の人、のはずなのだけど。
この人は時々この屋敷を訪れる。屋敷の主である姫さんの父親は、なんと王の異母兄だった。師の所へ弟子入りする時に初めて聞かされて、驚いたの何の。初めに言っておいてくれと青年に言ったところ、あれ、誰も話してなかったっけと首を傾げられてしまった。まあ今知ったんだからいいじゃないと、手を振られてお終いだった。
本当にあの老人の孫だとしみじみ思ったものだ。
今は臣籍に下っているからね、そう王宮に行く事も無いよと青年は言っていたけれど。
自分がみるに、割と頻繁に行っている気がするのだが。青年が自らすすんでと言うよりも。
今回も、まあいつもの事ですよと宰相様は肩を竦めた。
「そうですか。旦那さまなら部屋ですよ」
わかりましたと頷いて、宰相様はエントランスの方へ向かって歩いて行く。その前に姫さんの前で立ち止まり、腰をかがめて、にこりと笑いかけた。
「こんにちは、姫さま、可愛らしい冠を被っておいでですね」
残念ながら、姫さんからの返事はない。
宰相様が挨拶をしようとした途端に、ぴゃっと僕の後ろに隠れたからだ。
「う~ん、まだ私は人見知りされてるようですねえ」
残念ですと宰相様は少しさびしそうに笑う。
人見知りの激しい姫さんは、なかなか家族やこの屋敷の人間以外の人には慣れないようで、よく知らない人が来るたび誰かの後ろに隠れてしまう。
今も、僕の背中の方に回って、それでも気にはなるようで、顔だけをこっそり出していた。
「ひ~め~さ~ん。いつも来てる宰相様だよ。ごあいさつしないの?」
背中をぽんと叩いてみても、僕の服の裾をぎゅっと握り、猫の子みたいにぐるぐると喉の奥で唸っている。
恥ずかしいでも挨拶しなきゃと小さな頭の中で葛藤しているのが伝わってくる。
「姫さん?」
ようやく決心したのか。僕の後ろから出てくると、ドレスの裾をちょっと摘んで、顔を真っ赤にしながら宰相様に挨拶をした。
「ごきげんよう、ようこそいらっしゃいました」
「はい、こんにちは」
にこやかに宰相様は挨拶を返してくれたのに、その時にはもう僕の後ろに隠れていた。
まあ、前に比べるとだいぶ慣れてくれましたねと宰相様は気を悪くしたふうもなく、屋敷の中に入って行った。
こんなふうに、穏やかな日々が続いて行くものと……何の疑いもなく思っていたのだ。
それがどれほど危うい均衡の上のものか知りもせずに。
どれほど貴重だったか、気付きもせずに。