5-1
これでよかったのだろうかと、今でも思う時がある。
幼い娘の泣き声に、慌ててそちらの方へと顔を向けると、娘は短い手足をばたつかせて息子の方へとしきりに手を伸ばしていた。
息子の方は口を引き結び、手に握りしめたものを離そうとはしない。それがまた気にいらないのか娘はますます大きな声で泣き喚いている。
「どうかしたのか」
取りあえず近くに居た息子の頭を撫で、娘の傍に居た彼女に問いかける。
妻は用事で家を留守にしていて、そこへ彼女が作った菓子をお裾わけに来てくれたのだ。
彼女は娘の背中を撫でてやりながら、わずかに苦笑を滲ませた。
「お菓子をあげたのですけど……この子、すぐに全部食べてしまって。あの子がまだ全部食べていなかったから、あの子の分まで欲しがってしまったの」
息子はどちらかというと好きなものは最後まで取っておく方で。
娘は一番初めに食べてしまう方だった。
よくある、いつものきょうだいげんかだったので、息子には妹にとられない間に早く食べてしまえと言っておく。
すると息子はうんと頷いて、またテーブルの方へと戻り、わざと妹と離れた場所に座って、もそもそと食べ始めた。それを見た娘はまた癇癪を起しかけるが、彼女は娘をしっかりと抱き抱えて静かな声で諭した。
「あれはあの子の分。あなたの分は、もう自分で食べたでしょう?ね、あなたの分を誰かにとられたら悲しいでしょう?」
娘はうん、と小さく頷く。
「それと同じよ。あなたにとられたら、あの子が悲しいの。わかる?」
娘はまた、うんと頷いた。
そして、お兄ちゃんごめんねと息子……兄に謝っている。
いいよと息子は答え、手に持っていた焼き菓子を半分に割り、妹に差し出した。
きょとん、と娘は目を見開いたものの、すぐにぱあっと嬉しそうな顔で、笑った。
いつもの、仲直りの情景に苦笑を滲ませていると、彼女もまた柔らかい表情でこどもたちを見ていた。
あれから何年も経つ。この地での暮らしにも慣れ、彼女も穏やかに微笑んでいる。妻は国にいた時よりもはつらつと立ち働いているし、こどもたちも健やかに育っている。
それでも……ふとした時に思うのだ。
これで、よかったのだろうか。あの時の自分の選択は、正しかったのだろうかと。
「……何だその話は。くだらない噂話に決まっているだろう!誰が信じるものか」
その話を運んできた部下は、いえその、と歯切れ悪く答える。その様子にますます苛立ちがつのり、ばん、と手のひらを机に叩きつけた。部下はびくりと肩を跳ねあげ、上ずった声で答えた。
「実は、すでに姫は離宮に身柄を移されておいでです」
「なんだそれは。じゃああいつは、こんなくだらない噂を信じたのか!」
信じてしまったのだろう。そうでなければ、姫の身柄を移すなど、誰にも出来はしない。本人に会って問いただすしかなかった。大股に歩きだした自分の背に、部下の声が聞こえてきたが、振り返る余裕はなかった。
自分とこの国の王子と、そして今は他国へ留学しているが宰相の息子は、いわゆる幼馴染だった。
互いに年が近い事もあり、産まれた時から学友として、そして長じては王の側近となるようとの周囲の思惑があったのだろう。
しかし幼い子どもには、そんな大人の思惑は関係ない。
広い城全体を遊び場にする勢いで、三人は屈託なく遊んでいた。
少しものがわかるような年になると、このまま気安い態度をとっていいものかと宰相の息子は躊躇ったようだが、とうの王子本人は今までどおりにして欲しいと言った。公の場ならともかく、普段お前たちに畏まられるのは気味がわるい、と。
それなら、と自分は人目が無い場所では今までどおりの態度を貫いたし、宰相の息子もそれにならった。
王子はけして愚鈍な人間でもなければ、ものの道理がわからない人間でもない。やがては王位を継ぐだけの器量はある人間だと思っていた。
それでも……つきあいの長い自分や宰相の息子にしても、王子を扱いかねる時はあった。何が気にいらないのか、何が引き金なのか、手に負えないほどの癇癪を起こすのだ。
初めてその状態になった王子を目にした時、自分たちは驚き、困り果てた。大人たちを頼ろうにも、生憎そばには誰も居ない。宰相の息子はうろたえ、青い顔で涙目になっていたし、自分もどうしていいかわからなかった。
そこへ。静かな声が聞こえたのだ。
「どうかなさったのですか。……あら、お困りのようですね」
花の垣根から現れたのは、自分たちより少し年上の少女だった。自分たちの困り顔と王子の様子を等分に眺めて、何ごとかを察したらしい。
躊躇い無く王子の傍に歩み寄ると、衣裳の裾も気にせずに地面にしゃがみこんだ。そして背中を丸めて蹲っていた王子の背を宥めるように何度もさすり、小さくささやき続けていた。
やがて、王子の呼吸も落ち着いてきた。そうすると王子は自分たちの存在をようやく思いだしたのか、ぎゅうっと少女の腰にしがみつき、恥ずかしそうに顔を隠してしまった。
あらあら、仕方ないですねと少女は王子の頭を撫でながら、自分たちを振り仰ぐ。
やさしい仕草は年の離れた姉のようにも見えるが、王子には兄弟はいなかった。簡素であるが上質な衣装からも、そして物腰からも侍女には見えない。それなのに王宮にいるこの少女は誰なんだろうと疑問に思っていると、少女は目を僅かに細めた。
「初めてお目にかかります。わたしは殿下の従姉で、こちらでお世話になっています。これからも殿下のこと、よろしくお願いしますね」
静かな声と、やさしい手のひと。
その声と手が、なんども王子を宥めるのを見た。誰にも手のつけられない癇性を見せていた王子も、やがてはそれを見せなくなっていった。
少女……従姉姫は、王子の婚約者だと聞かされた。王子かまだほんの幼いうちに、婚約をしたのだという。
王兄であった父を亡くし、また母も既にないため、叔父である王の後見の元、王宮で暮らしているらしかった。
従姉姫と王子がともに居る様子は、仲の良い姉弟のようだった。
すくなくとも従姉姫が王子を見る目には、弟以上の感情はないように見えた。しかし、王子の方は違った。
成長するにつれ、従姉姫との将来を思い描くようになっていた。他愛ない言葉の端々にそれらは現れ、そのたびに従姉姫は……どこか遠くを見ているような瞳をして、明言を避けていた。
その頃から、少しおかしいとは感じていた。けれどやがては二人は結婚するのだ。従姉姫はまだ王子を弟のようにしか思えなくとも、王子が成長して真摯にかきくどけば気持ちを動かしてくれるだろうと。もともと婚約しているのだし、王子を大事に思ってくれているのには違いないのだし、と。
そう、楽観的に思っていたのだ。何一つ、彼女の事情を知らなかったから。
侍従に王子の居場所を聞き出し、足音も荒くそこへ向かった。王子は私室に居た。案内も請わず、そしてノックもせずに扉を開けても、王子は顔を向けようともしなかった。
長椅子に腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めているように見えた。つかつかと歩み寄り、低い声で問いかけた。
「お前、何を考えているんだ!くだらない噂話に踊らされているんじゃない!」
彼女がそんなことをするはずないだろう、噂を真に受けて彼女を閉じ込めたのかと問えば、王子はゆっくり顔をあげ、こちらを見た。時に支配者ゆえの傲慢さも垣間見えるが、いつもは明るく輝く瞳が、今は暗い光で淀んでいた。
「噂、ね。本当にそうなのかな」
「何を言っているんだ。あれほど彼女に大切に思われているのに、何故疑えるんだ」
すると王子は、くすりと小さな笑い声をあげた。それはやまず、やがて大声で哄笑をはじめる。
その様子に眉をひそめていると、王子は肩を震わせながらも笑うのをやめた。
「ああ、おかしい事を聞いた。そうだな、確かに大事にはされていたんだろう。弟のようにな」
そう、従姉姫は王子をまるで弟のように見ていた。自分にはそう見えていた。それを王子も知っていたのだ。
王子は唇の端を歪めて続ける。
「彼女は私をいつまでも弟としてしか見ない。婚約をしていると言うのに、だ。王と関係があるからだったんだな」
「それ以上彼女をおとしめるな!確かに彼女は陛下の離宮をよく訪ねているが、それは叔父上へのお見舞いだろうが!」
「見舞いと称して、何をしていたかわかったものでなないな。一応まだ清い身であるようだが、な」
言葉も無い自分に、うっそりと王子は笑う。
「医師に確かめさせたぞ。だからといって、それが身の潔白を示すのでは、ないがな」
駄目だと唇を噛む。王子はまるで聞く耳を持たない。噂を……王と彼女が通じているとの噂を信じ込み、あげく彼女を酷く辱めてしまったのだ。
婚約者として不適格だと放り出してしまうのなら、まだよい。噂を流した者たちは、おそらくそれを狙っていたのだろう。しかし王子は彼女を閉じ込めた。手放す気はないと示してしまったのだ。
王子の、執着にも似た彼女への想いを知っている。それゆえに、何か恐ろしい事が起こる気がしてならなかった。
今はこれ以上話をしても無駄だろう。ますます王子は頑なになるに違いない。ぎり、と奥歯を噛みしめ、王子に背を向けた。そのままの姿勢で尋ねた。
「姫はどこに居るんだ」
王子はふん、と鼻を鳴らして答えた。
「誰にも会わせないと言いたい所だが、まあいいだろう。顔くらいは見せてやるさ」
案外簡単に王子は従姉姫の居場所を告げる。扉に手を掛け、外へ出て行きかけた時、王子は言った。
あれは泣きも喚きもしなかった。泣いて許しを請えば可愛げがあるものを、と。
王宮内でもっとも奥まった場所に、従姉姫は軟禁されていた。
棟の要所には監視の兵がおり、また扉の前にも立っている。中へ入ろうとすれば、武器をこちらにお預け下さいと、少しも引かぬ様子で手を差し出してきた。
ここは事をあらだてるわけにはいくまいと、大人しく腰に佩いていた剣を預ける。
開けられた扉をくぐり室内へと足を踏み入れた。
小さくとも王宮内の建物だ、内部には贅が凝らされている。踏みしめる絨毯も厚手のもので、少しも足音がしなかった。繊細なレースのカーテンが窓にかかっており、日差しをやわらげていた。
彼女は何処だろうかと首を傾げていると、静かな声があがった。
「あなたがこちらにおいでになるとは」
従姉姫は窓辺の長椅子に腰かけていた。本当にひっそりと、息すら感じさせない様子で。
立ちあがろうとする彼女を手で押しとどめ、そばに近寄り、傍らに跪いた。間近で見る彼女は、落ち着いた様子ではあるが、頬は蒼褪め、唇にも血の気がない。
無理もないと、莫迦な噂にとり憑かれた王子に苛立ちが募った。自分の立場、家の事が頭を過ったが、言葉が口をついて出ていた。
「事情は聞いた。噂とやらが、馬鹿馬鹿しい事実無根のものとわかっている。今日すぐは無理だが、早いうちに此処を出た方がいい。一時的に身を隠して、事態が収まるのを待とう。今のあいつは駄目だ、莫迦な考えにとり憑かれて、少しも聞く耳を持っちゃあいない」
取りあえず逃げ出した方がいい。あいつがこれ以上莫迦な事を仕出かさないうちに。
そう言っても彼女は首を横に振った。
「わたしはここにいます。やがては殿下も、噂が真実ではないとわかっていただけるでしょう」
「あいつは何をするかわからないんだ!そうなってからでは遅い!もしそんなことになれば、あなたもそうだが、あいつだって傷つく。そんなことにはしたくないんだ」
必死になって言葉を連ねた。外で立っている兵を気にして、声は囁くようなものになっている。
彼女はしばらく迷っていたようだが、やがてわかりましたと吐息を零した。
「わかりました。あなたにお任せします」
ほうっと大きく息を吐き出し、彼女の傍から立ち上がる。
「近いうちに俺の婚約者を来させるから、話は彼女に聞いてくれ」
はい、と彼女は静かな声で答えた。
王子は言った。彼女は泣きも喚きもしなかったと。それは違うと彼女を見て苦く思った。
青ざめた頬、小さく震える指先が、彼女の受けた衝撃を物語っている。
なぜ、王子は彼女が何も感じていないと思えたのだろう。また……彼女が身にまとう衣装は彼女が好む簡素なものでなく、袖口や裾にレースをあしらった豪奢なもので、王子が寄越したものだろうと察しが付く。彼女の青ざめた顔には、酷く不似合いにうつる、それ。王子は一体、彼女のどこを見ていたのだろう。
それでは、と踵を返し、扉の方へ向かう。彼女に背を向けたまま、躊躇ったのちに告げた。
「……あいつはとても酷い事をしている。それは許さなくてもいい。だが……それは全てあなたを想ってきた事の裏返しだ。こんなことをされて、あいつを嫌いになったか。それとも……やはり弟としてか見ていないのか」
そうですね、と彼女は言った。
「そうですね、殿下はやはり、わたしにとっては弟のような方です。まだ……嫌いにはなっておりませんが……もっと早くに、きちんとお話しておくべきでしたね」
そうすれば、殿下はこのような事をされなかったでしょうに。
その彼女の言葉の意味を、もっとよく聞いておくのだったと……のちに後悔することになる。