3-1
また自分は止められなかったのかと、酷い無力感に苛まれながら部下たちの報告を聞いていた。
「……いつまでそうしていらっしゃるおつもりですか」
重厚な扉をきっちりと閉めたのち、とろりとした飴色の執務机に肘をつき、頭を抱え込む王に、いっそ冷淡といえる声をかけた。
王は顔も上げずに何やら声をあげたが、それはくぐもっており意味ある言葉としては聞こえてこなかった。
王の執務室には、自分と王以外誰も居ない。日差しよけの帳も引かれておらず、夏の光は暴力的なまでの烈しさでじりじりと照りつける。
王の傍に寄り、手にしていた書類を無造作に放り投げた。
それらは王の腕に当たり、鳥の羽ばたきにも似た音をたてて、机の上に広がった。王はそれでも頭を抱え込んだまま微動だにしない。視線すらあげようとしない。
嘆息したいのを押しとどめ、殊更表情のない声で告げた。
「最終報告です。……やはり兄ぎみは潔白でいらっしゃいました。陛下に歯向かおうとした者の、隠れ蓑にされたに過ぎません。これから、どうなさるおつもりですか。どう償われるおつもりですか」
王の肩がびくりと強張った。指先にもかなり力が籠っているのだろう……関節が白く浮き上がって見える。
それを苦々しい思いで見つめながら、口を開く。
事態を止められなかった、無力だった自分を情けなく、また悔しく思いながら。
「私は申し上げました。これは何かの間違いでしょう、よくよく真偽のほどをご確認下さい、と。兄ぎみをお疑いであれば、それとなく遠ざけ、悟られぬよう調べる方法など……いくらでもあったはず。私は何度もそう、申し上げたはずです」
王は苦しげな呻き声をあげた。
わかっている、間違えたのは私だ……信じるよりもまず疑ってしまった。 疑惑で曇らされた目は、耳は何も見えず何も聞こえなかったのだと、懺悔をするように。
裏切られたと思ったのだ。そう思った途端、もう止められなかった。
ぽつりと零された言葉に、静かに息を吐き出し、目を閉じる。
目の裏に浮かぶのは、笑い合う仲の良い兄弟。
側室が産んだ兄ぎみは、一度は王太子に立てられたものの、正妃が男子を産んだ途端廃された。新たに王太子となった弟王子は、年も離れていたためか兄ぎみを慕い、兄ぎみもまた弟王子を可愛がっていた。
廃太子となったあと、兄ぎみは早々に臣籍に下る。それは無用な権力争いを避け、また己を守るためでもあったのだろう。兄ぎみを産んだ側室は、由緒正しい家柄の出ではあったが、実家が権力とは無縁であったため、あまりあてには出来なかったのだろう。
正妃は他にも子を産み、他の側室にも子はあったが、弟王子……今は王となった陛下がことさら慕い頼みにしたのは、この兄ぎみだけだった。
仲の良い兄弟だった。
陛下の学友として、そして将来は側近となるべく幼い頃から傍に居た自分は、それをよく知っていた。自分にとっても、穏やかな性質の兄ぎみは、本当の兄のような存在だった。
穏やかな時間が……まさかこのような形で途切れようとは、考えもしなかったのだ。無残というに余りある。
それでも。自分がいま悲嘆にくれるわけにはいかないのだ。嘆き悔やむのは後でもいい。
目を開け、肩を震わせている王に厳しい声をかけた。
「……それゆえに……わざわざ私が不在の時に、あのような事をしたのですか。そうでしょうね、私が居ればどんなことをしても止めました。今となっては、何をどう悔やんでも、仮定をしてみても無意味ですが……疑ったのなら兄ぎみを遠ざけるだけでよかったはずです。違いますか」
その通りだ、お前はまこと正しい。王は震える声で呟く。
王を幾ら非難しても、もう失くしたものは元に戻らない。今はそれよりもやるべきことがあった。
「……こちらの書類にサインをお願いします」
王の手元に何枚かの書類を滑らせる。王は酷くのろのろとした動作でそれらを掴んだ。
兄上の死亡証明と、姫の後見願い……兄上の葬儀は、もう済んでいたのか、そう愕然とした声で呟く王に、勝手ながらと言葉を返した。
「陛下は兄ぎみの“疑惑の証拠集め”に躍起になっておられましたので。私の権限で内輪での葬儀及び埋葬の許可を出しました。そして、兄ぎみのご息女についてですが……私が後見に立ってよろしいでしょうか」
何故だ、兄上の親族でなく、何故お前がと王は尋ねた。
「ご親族がたは、面倒に関わり合いになるのはご免だとばかりに、どなたも姫ぎみを引きとりたがりませんでした。兄ぎみの身の潔白が証明されたいまは手のひらを返したように集まって来るやもしれませんが、それではあまりに業腹でしょう。私が後見に立つ理由などはいくらでも挙げられますし……何より、あの屋敷では姫ぎみの身の回りの世話にも事欠く恐れがありますので。想像はつくでしょう、嫌疑のかかった主人の元で働きたがる使用人はおりません。あの家の家令は、それを見越してか最低限の人員を残して殆どを解雇しましたよ」
ご存知なかったでしょう、そして、姫ぎみがいまどのようなご様子であるかも、ご存知ないでしょうと重いため息を共に吐き出した。
王は弾かれたように顔をあげ、こちらを見る。
姫はどのような様子なのだ、あの後、姫はどうしていたのだ。尋ねる王に、ことさら抑えた口調で答えた。
そうでなければ、自分でも何を言い出すかわからなかったからだ。
「私の部下の話によりますと、姫ぎみは、魔術師が連れ帰ったそうです。魔術師は言ったそうですよ、逃げも隠れもしない、屋敷に籠っている……心配なら監視を寄こせと。監視といいますか、私はむしろ護衛のつもりでひとを差し向けましたよ。するとその者らが言うのですよ。職分を越えている事は重々承知、だが見ていられないと。姫ぎみがおいたわしいと」
一体そのような様子なのだ、詳しく教えてくれと縋る王に、首を横に振って見せた。
あの日会った姫ぎみは、嘆き悲しんではいなかった。……よほど、そうである方がよかった。
「詳しい事はご自分の目でご確認ください。まずはその書類にサインをお願いします」
では私はこれでと言い置き、王の引き留める声も無視して執務室を後にした。
あの日会った姫ぎみの様子を思い出しながら。
監視と言う名目の、護衛たちからの報告を受け、出向いた王兄の屋敷。
臣下に下ったとはいえ、彼はこの国においては高い身分を与えられていた。しかしその屋敷は、その身分を持つものにしてはこぢんまりとしていた。
何度も訪れたことのある屋敷は、彼の人柄を示すように余計な装飾が少なく、整えられた庭も取り澄ましたような賑やかな花ばかりでなく、気取らない素朴な風情のものが多かった。
その屋敷はいま、ひっそりと静まり返っている。人の気配があまりにも希薄だった。自分の訪れを知らされていた家令により、恭しく出迎えられる。
このたびはご尽力いただき、ありがとうございましたと、壮年の家令は頭を下げる。
「礼を言われるべきことではない。むしろ私は何も出来なかった……ところで、随分と人が減ったように見えるが……」
ええ、その通りでございますと家令は頷く。
お嬢様の事を考えますに、為にならない者を傍におくわけには、まいりません。そしてこの先どうなるかもわかりませぬゆえ……私の勝手な判断ながら殆どの使用人には暇を出しました。
「この屋敷に長年仕えてきたお前の判断だ、間違いはなかろうが……姫ぎみの世話に人手がこと欠く事はないのか?」
ご心配には及びませぬと家令は言外に他者の介入を拒んだ。そこには拭えぬ不信と警戒の色が垣間見える。
無理もないと気付かれぬようため息をついた。
「何か不自由があれば遠慮なく言ってくれ……ところで、姫ぎみのご様子はいかがか。お顔なり拝見させてはもらえないか」
さ、それは……実はあれから、お嬢様は伏せっておりまして……お会いになるのは無理かと。申し訳ございませんがご理解下さいませ。
家令は慇懃に腰を折って答える。その実、明確な拒絶だったが、いたしかたあるまいとも思った。
ただ、護衛たちが口にした“おいたわしい”との言葉が、どのような状態を指しているかが、ひどく気になるのだ。
幼い子どもが、凄惨な場面を見せられて、平常であるはずもない。だからこそ、残された姫ぎみにはせめてものことをと思うのだ。それくらいしか出来ることがない。
様子だけでも伺わせてくれないかと言いかけた時……階段を下りてくる足音が聞こえ顔を向けると。
そこには金の髪、緑の目の、いまだ線の細い青年が居た。何度もこの屋敷を訪れていた自分とは顔なじみであり、魔術師であることも知っていた。
青年は腕の中に姫ぎみを抱いている。
顔を見るだけならどうぞ。
青年は軽やかな足取りで階段をおり、こちらへと歩み寄って来る。家令は少し渋い顔をして青年に言う。
お嬢様は眠っていらしたはずでは。
青年は、そのはずだったんだけどとため息をこぼす。
ついさっき起きちゃって。で、どうしても寝てくれそうにないから、庭にでも出ようと思ったんだ。そうしたらお客様が居るって事に気付いたってわけ。で、姫さんの顔見るんでしょ。どうぞ?
まるで猫の子でも見せるような軽い口調に戸惑った。
無礼な態度をお許しください、この者は当家に仕えて以来、一向に態度を改めようとしないのですと家令は諦めきった顔と声音で頭を下げた。
そうか、と頷くだけにとどめた。ここで咎めだてしても益はないし、無作法であっても然程無礼な振る舞いをされたわけでも、ない。それよりもまず姫ぎみの様子を見るのが先だったからだ。
姫ぎみは青年の胸に頭を預け、目を閉じていた。子どもらしいふっくらした頬は青ざめ、唇にも血の気はない。
腰まである癖のない髪も、結わずに背に流している。ぴくりとも動かない姫ぎみは、まるで人形のようだった。
「……お加減はいかがですか」
姫ぎみの名を呼び、声をかけると、姫ぎみはゆっくりと目を開け、自分を見た。そうしてすぐに興味を失ったように目を閉じる。もう一度呼びかけてみても、もう姫ぎみは目を開ける事はなかった。
姫ぎみの反応に困惑する。それこそ、産まれた時から知っている姫だ。少しばかり人見知りの傾向がある姫だったが、物心つく前からを知っている自分に、それなりに懐いてくれていた。顔をあわせればはにかみながらも可愛らしい笑顔を向けてくれた。そうであるのに……。
まるで知らない人間を見るような目だった。
声もなく立ち尽くしていると、青年は、姫さんはさあ、と状況に似つかわしくない間延びした声で話しはじめた。
あの後さ、そう、姫さん、どうしても旦那さん……父親から離れなくてさ。姫さんもあちこち血まみれで酷い格好だったし、無理矢理着替えさせた。父親の方も、そりゃ酷い状態だったから何とか整えて柩に入れたよ。
でも今度は柩の傍からずっと離れないときた。
眠らないし、食事もしない。ぼんやりと床に座ってんだけど、引き離そうとしたら暴れるんだ。流石にそれじゃあ姫さんの体が持たないから……飲み物に睡眠薬混ぜて眠らせたよ。そしたら色々限界だったんだろうな、丸一日以上眠ってた。で……目が覚めてみたら、もうこの状態だよ。殆ど話さないし、どこを見てるのかもわからない。ちゃんと起きているのかさえ。一応ね、食事も取ってくれるし、眠ってはいるけど、ね。
声の調子とは間逆で、青年の言葉からは鋭い棘を感じたし、青年の話す内容はどこまでも自分を打ちのめした。
これは本来、姫ぎみの身に起きるようなものでは、なかった。
そう知っているからこそ、家令も青年の態度や言葉遣いを咎めはしても、話す内容までは咎めたりしない。
何故もっと強く王を止められなかったのか、いっそ王兄を何処かへ逃せばよかったか……にがい繰り言が頭を過る。
いっそ泣き喚かれ、非難された方がよかった。
何も見ていない硝子のような目を向けられるくらいなら。
何を言っても、もう姫ぎみの元へは届かない気がした。
「……なにか不足があれば遠慮なく申し出て欲しい。希望どおり叶えよう」
姫ぎみから視線を逸らし、傍でこちらの会話を窺っていた家令に言った。 家令は、ありがとうございますと頭を下げたが、特に何が要るとも言わなかった。何かあれば知らせてくれ、そう言い置いて、辞去しようとした時。
なんでも言っていいのと青年が尋ねてきた。
「叶えられるものなら」
青年は躊躇いもせず言った。
それなら、陛下からの謝罪が欲しい、と。