7-2
「え、姫さん、僕に名前つけてくれるって?」
うんと姫さんは頷いた。姫さんの父親は、あれまあ、それはいい贈り物だねえと暢気に笑っている。
どんな話題から繋がったか覚えていないが、話題は名前の由来になっていた。
姫さんの父親は自分の名前の由来について話したのち、姫さんの名前の由来を話した。
そうくると僕に振られるのは、流れとしては当然だった。
姫さんの父親は、僕の名前の由来を知っているから、どうしようねえというように僕に顔をみた。僕としては別に本当の事を言っても構わないんだけど、まだ幼い姫さんに言うのは流石に躊躇った。
結局、“六番目に生まれた子ども”で、“六”っていうのを他国の言葉で言い変えたもの、云々と誤魔化してみたのだけど。
少しばかり考え込む表情をしたあと、姫さんは何を思ったのか、じゃあ自分がつけてあげると言った。
「べつに今のままでも不自由ないんだけど?」
それは本当の事だった。顔も覚えていない親がつけた名はあったのかもしれないが、僕が売られた頃にはもう自分でも忘れ果てていた。誰も僕の名前を呼ばなかったし、名前を覚えておけないほど幼かったのだろう。
六番目と呼ばれ続けて、今は“六”をもじったものが呼び名であるが、それはいわば仮の名前。この屋敷に来てから、青年に提案されて……仮につけたもの。
師から、いずれはちゃんとした“名”を定めるのがよかろうと言われていても、しっくりくる“名”が思いつかない以上、それはまだ先だろうと漠然と思っていた。
「だって、もっと意味のある、ちゃんとした名前の方がいいもん。わたしがお父さまからもらったみたいな」
姫さんはどこか怒ったような顔で言う。
実の所、僕は“名前”に、たいして意味を求めていなかった。ただの記号、誰かと誰か、あるいは誰かと自分を区別するだけのものだと思ってもいた。自分の今の名前にしても、取りあえずで決めただけだった。
それでも……自分にとっては、それだけの価値しかなくても。
姫さんが、“姫さんの考えたちゃんとした名前”をくれると言うなら。
「うん、いいよ。とびきりいい名前をつけてよ。楽しみにしてる」
楽しみに待っててねと姫さんは楽しそうに笑った。お父さまに色々教えてもらうね、とも。
その陰で、こっそり父親の方には頼んでおいた。
「……あんまり突飛な名前にするようだったら、それとなく止めてくれるか」
わかってるよ、と姫さんの父親は苦笑している。もしきみが気にいったら使ってやってくれと言われ、呼び名なんだから、姫さんの好きに呼んでくれたらいいんだよと答えたのだった。
どんな“名前”を贈ってくれるのか、怖いような楽しみなような気分で、待っていたのに。
姫さんは覚えていない。
どんな名前を考えていてくれたのかも、そんな約束をした事さえも。
姫さんの父親に起こった恐ろしい出来事。丁度その時、僕は姫さんの傍にいなかった。近くに居れば出来た事もあったかもしれない。姫さんの悲鳴が聞こえた気がして……胸騒ぎに襲われた僕は、とるものもとりあえず急ぎ屋敷に戻った。そこで蒼褪めた顔色の家令に、姫さんの父親に掛けられた“嫌疑”を知らされたのだ。
僕は間に合わなかった。出来たことと言えば、茫然と目を見開いたままの姫さんを王宮から屋敷に連れ帰って、声なき悲鳴を上げ続ける姫さんをどうにか眠らせることだけ。
ひとりでは眠れなくなった姫さんを抱いて、眠る。
姫さんがいつか安心して眠れるようになるまで。少しでも笑えるようになるまで。そばにいようと思っていた。
産まれたばかりの頃から知っている。幼い笑顔も人形のように硬く動かない顔も、そしてようやく微笑みを浮かべるようになった姿も、全部知っている。年の離れた兄のように、見守ってきたつもりだった。
それが、いつ頃から変わってきたのだろう。
多分……あの契約をした時には、もう心は決まっていたのだ。
「……行っちゃったね。寂しい?」
腕に抱いた身体は、相変わらず細いままだ。
ぴたりとくっついて、僕の胸に顔を埋めたまま彼女は小さく頷いた。
「そうだよね。でもあの子の事だから、どこでも大丈夫だよ。逆に元気良すぎて周りが大変じゃないかな」
そうねとちいさな笑い声が胸元から聞こえてくる。
彼女を腕に抱いて眠る。それは彼女の傍にいる時は、ずっと前から変わらない習慣だった。
一緒に居てくれたら、夢も見ないで眠れる気がするから。
あの国を出て少し落ち着いた頃。そう彼女は言った。“夢”とは幼い日の出来ごとか、あるいは自分の身に起こった恐ろしい出来事かは、聞けないままだ。どちらにしても彼女にとっては悪夢でしかない。
そのかわり、尋ねた。
僕が触れても平気かと。彼女は、あなたが駄目なら、わたしは誰にも触れられないわと答えた。
彼女が身に覚えのない疑いをかけられ、その挙句恐ろしい目にあっていた時。僕はまたしても近くにはいなかった。
彼女の“声”を聞いた時、背筋が冷えた。以前一度だけ同じ声を聞いたことがある。その時起こった出来事は恐ろしくまた悲しい出来事だった。
今度は一体何がと急ぎ戻った僕は愕然とし、また酷い後悔に襲われた。
二度も彼女を助けられなかった。
いや、そもそも王子との婚約は反対だったのだ。彼女を連れてこの国を離れていればよかったのだろうか。自分には出来ない事では、なかった。
浮かんでくるのは、どうしようもない繰り言ばかり。
王宮から逃れ、各地を転々としているうちに、表面上は落ち着きを取り戻した彼女を目にしても、後悔は消えなかった。
そうであるからこそ、いつか役立つかもしれないと思い、ひそかに各地に術を仕掛けていった。
丁度その頃は、足取りを隠すため各地を転々としていたから、自分にとっても都合がよかった。
あるとき彼女は僕に望んだ。
“自分の存在を消してほしい”
僕は彼女の望み通り、彼女が存在した事実を消した。王族譜から名は削られ功績は他人のものとなり、殆どの人々の記憶からも消えた。
きみはそれでいいの?
尋ねた僕に、彼女ははっきりと頷いた。
もう二度と関わりを持ちたくないの。それなら、わたしを忘れてもらえばいいのよ。
それはあの子のためかな。
彼女が産んだ子どもは、女の子だった。今は彼女の友人を母として元気に育っている。彼女は隣人として、娘の成長を見守っていた。
彼女は、そうねと頷いた。あの子の存在が誰かを惑わすかもしれない。あの子自身を危険に追いやるかもしれない。それくらいなら、初めから関わりを絶った方がいいのよ。
わかったと僕は答えた。きみの望むように、と。
ただし、きみは魔術師としての僕に依頼をする。それには知っての通り、対価が要る。きみは何を差し出すの?
なにを差し出せばいいのかしら。何を対価とすれば、あなたは引き受けてくれる?
“魔術師として”対価なしには、どんな依頼も引き受ける事は出来ない。それは厳然としてある掟のようなもの。師についたときから、身に叩きこまれた事だった。それを彼女ももちろん知っている。
僕は少し考えたあと、口にした。その対価を、彼女は、そんなことでいいの?と首を傾げていた。
だって、それって結局わたしが得をするんじゃないのかしら。
ずっと、僕の傍にいて。
それが、僕が示した“対価”だった。
そのとき、彼女には言っていないことがある。
「ねえ、僕、ずっと言ってなかったことがあるんだ。聞いてくれる?」
なあにと彼女は怪訝そうな声をあげた。
「前に僕、言ったよね。魔術師としての対価として……ずっとそばにいて、って。覚えてる?」
「もちろん、覚えているわ。対価になんてならないと思ったもの。それが、なに?」
「……十分、対価なんだよ。だって、僕とずっと一緒に居るってことだよ?僕の長いだろう時間に付き合せるってことだ。あの時、僕はきみに術をかけた。僕と寿命をともにするように」
きみは自分で思うよりも、長い時間を生きることになるんだ。
それは、僕が長い間告げなかったこと。彼女が言うような、優しい意味でなく、もっと執着心でどろどろとした……どこか仄暗さも含むような。
傍に居て欲しいと言って縋り、もし離れたいと言われでもしたら、束縛してどこにも行けないようにしてしまうような。
これでは、彼女を酷い目にあわせた、かつての王子を笑えないと自嘲する。彼女を見えない鎖で縛りつけ、彼女の意思を無視しているのは全く同じだった。王子の行為は非難される行いだった。けれど僕の行いも、大いに非難されるべきものだろう。
沈黙が恐ろしくて、息をひそめて彼女からの返事を待つ。思わず腕に力が入り過ぎていたのか、彼女が非難の声をあげて胸を叩いてきた。
「ちょっと、苦しいわ。腕を緩めてくれるかしら」
「あ、ああごめん」
慌てて力を緩めたものの、腕は解けなかった。
彼女は僕の顔を見上げて、ひょっとしたらって思っていたのよと言った。
「あなたは、それこそわたしが小さな頃から、殆ど姿が変わっていないでしょう?わたしもいつ頃からか、自分がどうも年をとっていないように思っていたわ。でも見た目に変化が少ない体質かもしれないし、って思ってた。それでも……あの子たちが大きくなるにつれ、違和感を持つようになったわ。あの子たちは変わるのに、わたしはちっとも変わらない。よくよく考えた時、あの対価のことを思い出したのよ」
彼女の声は淡々としていて、そこからは怒りも嫌悪も読みとれなかった。
「……怒ってる?」
「呆れてるのよ。それともなに、わたしが怒ってるとしたら、寿命をともにする術を解けるの?」
「解けないよ。対価としてもらったものだから、解けないんだ。きみがどんなに拒絶してもね」
ふう、と彼女はため息をついて、僕の胸辺りに置いていた手を伸ばし……僕の頬に触れた。
「怒ってないわよ。対価にもならないって言ったじゃない。あなたと一緒に居たいっていうのは、わたしの本当の気持ちだったから。これは予想外だったけど、もう、いいわよ。一緒に居てくれるんでしょう?」
もちろん、と頷いた僕の耳に、とんでもない言葉が聞こえて思わず目を瞠った。
「ただね、もしあなた、自分が他の誰かを好きになったら、どうするつもりだったの?」
彼女は僕の驚いた顔を見て、うっすらと笑った。
「わたしはずっと、家族みたいにあなたを好きだと思っていたわ。でも……そうね、あの対価の事があってから、かしら……家族とは違う意味でも好きでいたんだって気がついた。あなたも、もしかしたらそうじゃないか、そうであってほしいと思うようになったわ。ねえ、あなたの気持ちを聞かせてくれる?」
「……きみが好きだよ。そうじゃなきゃ、あんな対価持ち出したりしない。本当に怒ってないの?きみの意思も聞かないで、僕に縛りつけるような真似してるんだよ。きみの意思を無視した事は謝っても、行いは謝らないけどね」
彼女は仕方ないわねと笑う。
「わたしの意思を無視された事は悲しいわ。でも……わたしはいつか、あなたを置いて行くんだと思っていた。それを悲しいと思っていたわ。でも……もう、そんな事は考えなくていいんでしょう?置いていくのも、置いて行かれるのも、嫌よ」
「うん、ごめんね……ありがとう」
一緒にいようね。彼女を抱きしめて、滑らかな頬に、額に唇をおとす。
何度も何度も啄ばむように口づけていると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。
それを追いかけるように、頬から白い首筋へと唇で辿ってゆく。
ねえ、と彼女の耳元で囁いた。
「あの子にも、きみをよろしくねって言われたんだよ。ねえこれって、子どもも公認ってことなのかな?」
「もう、あの子に何話したのよ」
眉をひそめた彼女。顔は赤いままで、睨まれても涙目になっているから、煽られるばかりなのに。
「別にヘンなことは言ってないよ。あの子が“あのひとをよろしくね”って言うから、“僕がずっと傍に居るから、安心してよ”って言っておいたよ」
話している間にも、彼女に触れ続けていた。
頬に、額に、瞼に……そして唇に触れる。
ただ押し当てるだけの軽い口付けから、呼吸を奪うほど深いものへと変わって行った。
口づけをといたあと、彼女は僕の肩口に顔を埋め、必死に呼吸を整えていた。
吐息が僕の耳元をくすぐり、煽っていることなんか気付きもせずに。
……いままで、彼女を抱きしめて眠っていても、深く触れあったことは、ない。口づけをしても、親が子に贈るような……まるで色の無いものばかりだった。今彼女にしたものは、あからさまに色を感じさせるもので。
彼女が少しでも嫌悪感を示したら、拒絶されたら……すぐにやめるつもりだった。自分が勝手な事をしているのはわかっているから……これ上彼女の気持ちを蔑にしたくはなかった。
それなのに、拒絶されるどころか、縋るように腕を伸ばされては、もう限界だった。
ねえ、きみに触れていい?
そう囁けば、彼女は赤い顔のまま、僕の首に腕をまわし、頷いてくれたのだった。
夜半。夜明けにはまだ時間があるというのに、ふと目を覚ましてしまった。いささか無理をさせてしまったせいか、彼女は僕の腕におさまり、安らかな寝息をたてている。
穏やかな寝顔を見ていると、自然と笑みがこぼれた。ほどかれた長い髪を撫でてやりながら、温かな身体を抱きよせる。すると。ちいさな声をあげながら、彼女がゆっくりと瞬きをした。
起こしてしまったかと腕の力を緩め、彼女の顔を覗きこんだ。彼女はぱちぱちと何度も瞬きをしたあと、僕の顔を見て。花が開くように笑った。
「よかった、夢だったのね」
その、どこかあどけない表情と口調は。
「とてもこわい夢を見ていたの。お父さまがいなくなる夢よ。ねえ、お父さまは明日には帰って来るの?」
驚きのあまり眠気は綺麗に跳んでしまった。何を答えていいものかわからず、目を見開いて彼女を見つめる。彼女は酷く混乱している僕に気付かずに、まっすぐに僕を見上げてくる。
「ねえ、お父さまは、ちゃんと帰って来るよね?」
「……何言ってるの、もちろん帰ってくるに決まってるよ」
そう答えると、彼女は安心したようにわらう。
その、あどけなくもあけすけな笑顔は、今の彼女にはありえないもので。
“お父さまは”と言った彼女。
此処に居るのは、父親を亡くす前の彼女、だ。
そうだよねと彼女は僕の胸に額をおしあて、ここがとても安心できる場所だとでもいうように、身体の力を抜いた。何故彼女がこんな状態になっているのかは、わからない。
それでも、彼女を不安にさせたくなくて、“嘘”をついた。……幼い時に戻っている彼女にとっては、それは嘘じゃないから。
「ふふ、お父さまが帰ってきたら、楽しみにしてね!名前、決まったのよ!」
どこか得意げに彼女は言った。おや、と内心僕は驚くきながら、彼女に尋ねた。答えが返るとは思わずに。
「へえ、どんな名前にしてくれたの?」
「それはね、……って名前にしたの、あっ、言っちゃったっ」
思わず、といったように、彼女はその「なまえ」を口にした。僕に贈ってくれるはずだった、名前を。
「お父さまには内緒にしててね。帰ってきたらお祝いするから、その時に贈ろうねって言ってたの」
「……お祝い?」
「そう。あなたがうちに来たのが、今頃の時期だったってお父さまが言ってたの。だからそれをお誕生日がわりにして、お祝いしようって。名前はちょうどいい贈り物になるだろうって。お父さまも一緒に、名前を考えてくれたのよ」
「そう、なんだ……」
「どうしたの?」
僕は答えられず、彼女の背に腕を回し、強く抱きしめる。
その名前は、確かに今はいない人と幼い頃の彼女が考えてくれたのだと……思わせるものだった。
今は居ない人。そして彼女も、その事は覚えていない。
どんなに嬉しいか伝えたくても、伝える事はできない。それがとても悲しい。
「どうしたの」
幼い口調で彼女が僕の体に触れる。僕は声だけはなんでもないふうを装って答えた。
「ちょっと驚いてたんだよ。へえ、そういう名前を贈ってくれるつもりなんだね。嬉しいよ」
「本当?喜んでくれる?気にいってくれる?」
「もちろんだよ」
「じゃあ、お父さまが帰って来て、お祝いするまでは知らないふりしててね。お願いよ」
「わかってるよ。それまで、知らないふりをしているよ。……もう一度、その名前で呼んでくれる?」
「いいわよ。………」
「ありがとう。その名前を使うのが楽しみだなあ」
「気にいってくれて嬉しいわ……あれ、何だかとっても、眠くなってきちゃった」
「まだ夜だもの。眠ろうよ」
「うん……ねえ、眠るまでそばにいてくれる?」
「朝までそばにいるよ。起きたらさ、また一緒に遊ぼう。花冠作ってあげる。名前のお礼にさ」
「ふふふ、約束ね。おやすみなさい」
「……おやすみ。いい夢を」
彼女は目を閉じて、眠りに落ちた。そしてそのまま朝が来るまで目覚めなかった。
目覚めた彼女は、昨夜自分が話したことを何一つ覚えてはいなかった。
その代わり、少し不思議そうにしながら僕に言った。
「何か大事な事を忘れている気がするの。でも今までは……そう思う度に苦しかったのに、今日は胸が軽いの。何を忘れているかも思い出せないのに……変ね」
もしかしたらと僕は思った。
父親を亡くした時から、彼女は何かを忘れている気がすると時折言っていた。
それは……僕にくれた、あの名前のことだったのだろうか。
忘れたのが苦しいほど、彼女にとって大事な事だったのだろうか。
そしてそれは幼い彼女によって僕にもたらされ、それゆえに彼女の心の負担が軽くなったのだろうか。
「……大丈夫だよ、いつか思い出せるよ」
きみが呼べない僕の名前や、それを決めた時の様子も。名前を贈ると決めた時の事も。
すべてきみの中にちゃんと残っているから。
きみが……きみたちがくれた名前が、僕に力をくれる。名を拠り所にして僕を守ってくれる。それをどれほど嬉しいと思っているか、きみたちは知らない。知る事はないのかもしれない。
そうね、そうだといいわねと彼女は呟く。どこか遠くを見るような視線で。
どれも僕の推測にしか過ぎないけれど……そうであればいいと思った。
だいじなものはきみのなかにちゃんとあるよ。
今までも、そしてこれからも。
彼女にそう囁いて、そっと抱き寄せたのだった。




