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話により視点が変わります。また、視点の人物が回想をしている<現時点>順での構成のため、時間軸が前後します。なおその関係で、呼称を同じくする者がおりますが、話の前後で察していただければと思います。
※以前別アカウントで連載していた話の、移行版です。誤字脱字等の修正の他は、殆ど変わりありません。
もう随分と長い間、快適な目覚めとは程遠い日々を送っている。
意識を失う前も覚醒した後も、感じるのは倦怠感と不快感だけだ。
ただそれらさえ既に馴染みのものとなりつつあるのは、さて幸か不幸か。
意識が浮上するにつれ、かたわらに人の気配を感じて薄眼を開けると、帳を下ろし薄暗い室内の中、ぼんやりとした人影が視界に映り、次いで聞きなれた淡々とした声が耳に響いた。
「お目覚めですか?少し魘されておいででしたので、起こしてさしあげようかと思ったのですが……」
ああ、汗が、と寝台の傍らに立つ娘は手にした布で、額や首筋に浮かんだ汗を拭ってゆく。
じっとりと肌を濡らしていたそれらが拭い去られるのは気持ちがよく、少しばかり吐息をこぼした。
されるがまま重だるい体を寝台に預けていると、再び娘が問うた。
「何かお飲みになりますか」
では水をと言いかけて、先程まで見ていた夢の名残か……口の中に何ともいえぬ苦味を感じた。
それを打ち消したくて何かさっぱりしたものをと頼むと、娘は、では檸檬水でよろしいでしょうかと尋ねてきた。
それで構わないと答え、娘が扉の外に控えている侍女に何やら伝えているのをぼんやりと眺めていた。
華奢な背をこちらに見せているあの娘は、はて幾つになったのだったかと記憶を巡らせた。
そろそろ“娘”でなく“女性”と呼ばれる年になっているはずであるのに、自分の中であの娘の年はあの時の……幼い年で止まったままなのだろう。目を閉じると浮かびあがる娘の顔は、いつでも幼いままだった。
娘は侍女から何やら受け取ると、殆ど足音も立てず傍に戻って来る。
涼やかな水の匂いと柑橘系の香りを感じて、そちらに視線を向けた。
「果物くらいでしたら、召し上がっていただけるかと思いまして。少しでも口にしてはいただけませんか」
淡々と紡がれる言葉にも声にも、懇願の響きさえ、ない。
まるきり平坦な声音は定められた台詞を読んでいるかのようであるのに、自分にとっては逆らい難いもので。
仕方ないとため息を押し殺して、手を貸せと言うと、娘は慣れた手つきで寝台の上に体を起こすのを手伝い、凭れやすいようにと背には幾つものクッションを当てた。そうしてまずは、と差し出された檸檬水を口にする。
よく冷えた水が喉の奥を滑り落ちてゆき、熱で霞んだ思考が束の間覚めるかのようだった。
たちまち空になった器を返すと、では少しでもこちらを、と娘は皮を剥き、薄皮までも剥いたオレンジを差し出してきた。鮮やかな橙色と漂う香りは、食欲を誘うものなのだろうが、今の自分にとっては少しも旨そうに見えない。
思わず眉間に皺を寄せていたのだろう、娘が、「召しあがられるのは、難しいでしょうか」と首を傾げながら、問う。その動きで、項のあたりで一つに束ねただけの、癖のない長い髪がするりと背や肩を滑り落ちる。
その瞬間、眩暈にも似た感覚に襲われる。
あの人の面影を色濃く残す娘では、ある。
それでも性差のせいで、普段はさして思う事はないのだが……それでもふとした時の仕草がまるで同じで。
あの人を思い出すと同時に、二度と会えない事を突きつけられるのだ。
浮かんだ面影が重なり、たちまち泡のように儚く消え去る。
後に残るのは何とも言えない苦い思いだけ。それを何度繰り返したことだろう。
「……陛下?」
怪訝そうに自分へと向けられる瞳は、瞳の色はあのひとと同じ。
その目で、波ひとつ立たない凪いだ水面のような視線をこちらに向けている。そうしたのは自分だと、よく……わかっていた。
からかうように、食べさせてくれと言ってみても、その眼には揺らぎ一つない。
仕方ないですねとため息一つ零したあと、細い指先でオレンジの房を一つ摘み、口元に差し出してくる。
オレンジの房ごと……指先までも食み、指先に着いた果汁を舐め取っても、娘は顔色ひとつ変えなかった。
それどころか、もうよろしいので、と逆に尋ねてくる。それは果物かそれともこの戯れか判然としなかったが、おそらく両方だろう。
もうよい、と言い捨て、背をクッションに預けた。娘は口直しにどうぞと再び檸檬水をすすめてくる。
器に満たされたうちの半分ほどを飲み、器を娘の方へ押しやった。娘は器や果物が盛られた皿を部屋の隅に片づけると、寝台傍に置かれた椅子に腰掛ける。
「横になられますか」
いや、と首を横に振った。しばらく体を起こしておくと言えば、そうですかと娘は頷く。辛くなったら仰って下さいと続けた娘に、もっと近くへと手招けば、素直に近寄って来る。腕を取り、引き寄せれば細い体は簡単に腕の中に囲い込む事が出来た。
「お戯れを……」
紡がれる声は平淡であるが、体は硬く強張っていた。微かに震えてさえ、いる。
それに気付きながらも、腕を解くのではなく、逆に……拘束するように抱き締める。
幾つになった、と耳元で囁けば、十八になりましたと答えが返った。
十八か……ではそろそろ、あれとの婚約の解消をしておかねばなるまい、と呟けば、覚えておいででししたかと娘から細い声が返る。
もともと、一時凌ぎの仮の婚約だと、一番初めに話したはずだろうと苦笑交じりに囁いても、あれから何も仰られないので、すでにお忘れかと思っておりましたと声は冷淡極まりない。
娘の動揺、あるいは感情を伝えるのは、声でなく表情でなく、小さく震える体なのだろう。
あの時から……声にも表情にも、言葉すら拒絶の色は見せず、あくまでも従順だった娘の、これが一番の“拒絶”だった。それに対し、何らかの感情を覚える資格は、自分にはなかった。
「安心致しました。殿下には陛下の方からお伝えいただけるんでしょう?」
そのつもりだと答え、次いで娘に尋ねる。あれは……自分の息子は“婚約者”としては不足だったかと。
「……そのようなことではなく。あまり血を濃くするのはよろしくないでしょう」
そうだな、とため息交じりに言葉を零す。
近親婚が多い家系だった。それが自分でも持て余す厄介な気質を強めたことは否めない。
またそれがゆえに……自分の一族は、救いようのない呼び名で呼ばれるのだろう。
娘と自分の息子もまた、従姉弟同士の間柄だった。婚約をしている間柄とはいえ、それはあくまでも名目上のものに過ぎなかった。難しい立場に置かれた娘を守り、息子に降りかかる縁談を遠ざけておくためのものだった。
けれど、それももう終わる。
息子が正式に自分の跡を継ぐのが間近である今、早々に娘を解放しなければならなかった。
後の事を考えているのかと問えば、娘は祖母の実家の方へ行くつもりだと答えた。
「あちらも今は跡を継ぐ者が絶えたと聞いておりますが、管理を兼ねて移り住むつもりです。もしお許しがいただけないようでしたら、適当な所を紹介して下さいませ」
望むとおりにすればよいと答えれば、ありがとうございますと娘は呟いた。
娘の祖母の実家は、確かかなり辺鄙な場所だったと記憶している。そうすると娘は二度とここへは戻らないつもりなのだろうか。それも当然だなと苦い思いで腕に力をこめた。身を固くする娘に囁いた。
何か望むことはあるか、と。娘はしばし黙した後、小さな声で言った。
「では……どうかわたしに陛下を看取らせて下さいませ。確かに陛下が居なくなったのだと、ちゃんとわかるように。そうでなければ、わたしはいつまでも眠れないままです」
夢を見るのですと娘は続ける。
「あの時のことを、何度も夢に見るのです。望みを叶えて下さると言うのなら、わたしを安心させて下さい。二度と夢を見る事がないように」
わかったと頷くしかない。自分たちが見る“夢”は同じもの。
それをどれほど悔やんでいると伝えたところで、もう遅かった。娘を傍に置き続けながら伝える事は出来ず、そうして自分に残された時間はあまりない。
腕の力を緩め、娘の顔を見おろした。血の気の失せた唇と蒼褪めた頬が痛々しい。額に落ちかかる髪の毛を払いのけてやり、露わになったその場所に口づけを落とすと……娘が僅かに瞳を揺らした。
そういえば、こんなふうに触れるのは、あの時以来初めてだったかと思う。この手で触れる事はどうしても憚られて。娘は小さく息を零し、俯いていた顔をあげた。
「陛下に伝言がございます」
伝言という言葉に首を傾げる間もなく、頬に温かいものが触れた。
右に、左に、そして最後には額へと。
触れていたのは娘の唇。何が起こったのかと目を見開いた自分は、娘の顔を見て今度こそ息を飲んだ。
なくした人によく似た面影の娘は、かの人によく似た表情で自分を見、そして言った。
『誕生日おめでとう。恙無く平穏な日々が続いていきますように』
そう、伝言を託されておりましたと娘は淡々と紡ぐ。
いつ、と掠れた声で問えば、“あの時”の少し前でしたと答えが返る。
自分で伝えるつもりだが、もし自分になにかあったらと言われておりましたと娘は言った。
「お伝えするのが遅くなり申し訳ありません。まして陛下の誕生日にはいささか早い時期ですが……言う機会がいつあるかもわかりませんでしたので」
そうか、と短く答えた。十数年を経てもたらされた伝言は、皮肉としかいいようがない。
表面上はともかくも、内心は……娘にとっても自分にとっても、平穏とは程遠かったからだ。
あの人も何故わざわざこのような伝言を残したのだろう。もし自身に何かあれば、娘も自分も心穏やかに過ごせない事は予想出来ただろうに。
もっとも、あの人が何を考えているか、自分にはわからないことの方が多かったが。
娘の体を離し、帳を開けるよう頼む。遠ざかる体温を寂しく思う。
未だ夢に見るのだと娘は言う。その時、娘の傍には、誰かがいただろうか。眠れぬ夜、一人過ごさなくてもよいような。そんな誰かが居てくれたら……そしてこれからも居てくれる事を願いながら吐息を零す。
厚い帳が引き開けられ、眩い光が室内に差し込んだ。薄暗さに慣れた目が瞬間眩み……目を閉じる。
初夏の日差しは暴力的なまでの激しさで目を灼いた。
「陛下?」
娘が尋ねる声に、全部開けてくれと頼む。紗の帳も開けられ、窓越しに青い空と瑞々しい緑の木々が見えた。
あの日から十年以上経つ。
あの日もこんなふうに日差しが眩しかった。
窓辺へ佇む娘に、そして胸の中の面影に呟いたのだった。
すべて望むとおりに。それが償いになるとは思っておらぬが、と。