ファンタージエン雑想
「果てしのない物語」の中の”絵の採掘坑”という話が、私は気に入っている。名前以外忘れてしまったバスチアンがヨルという抗夫の導きで「忘れた夢の絵」を深く暗い坑道に入って探す話である。書いていてそれを思い出した。
ファンタージエンを知っているだろうか?ミヒャエル・エンデが書いた「はてしない物語」に出てくる国の名前である。私はかなり前にこの物語を読んだ。ミヒャエル・エンデは身近で、誰にでもある問題を話にすると思う。「モモ」は時間を巡る話だった。そして、この物語の半分はバスチアン少年が本当の自分を探す話でもある。
この話は興味深い話だ。例えばバスチアン・バルタザール・ブッスクは現実世界では愚鈍な少年であり、太っている上に虐げられる存在でもある。しかし、ファンタージエンに行くと美少年になり、無双の存在になる。ここはありがちで面白い。
ここで、思うのは、しばしばファンタジーが人にとって心地の良い想像の話になっている事である。これは意外に他の作品にも共通する話で、ふとしたことで途方もない力を手にしてしまったり、神の加護を受けたりとか、それで富や異性を獲得していく話である。また、この我々の世界では過ぎ去った時代の遺物、例えば王政や神権政治、巫女やら神やらがどんどんと出てくる。さらには幻獣や魔物、悪魔そして魔法や魔法使い、果てのない迷宮などがファンタジーには欠かせない存在である。
また、現代において、こうした世界に憧れやロマンを感じる人がたくさん居て、ファンタジー小説やらゲームやらアニメを見たりしている。映画だって、ファンタジーは一つのジャンルになっている。こう見るとファンタジーは私たち現代人にとって、男にとって、女にとって心地の良い幻想を表現する場であるのかもしれない。ただ、そう考えると、とたんにファンタジーはひどく安いものに見えてくる。自分の心の内にある、人と同じような願望の展覧会みたいな感じをファンタジーに持ってしまうと、私はその幻想がひどく冷めて見えてきてしまうのだ。こういうとアンチと思われるかもしれないがそうではない。自分はファンタジーの愛好者である。私は奥の深いファンタジーを求めているのかもしれない。
それとして、ファンタジーはいつも世界とつながっているように思う。世界をどう解釈し、その世界がどんなものかが物語と分かれがたく結びついている。この世は一つの木によって結ばれた世界だったり、幾つもの鏡が結び合う世界だったりする。しばしば、ファンタジーの物語の結末はその世界の原理や原則に話が向かう。新しい名前を授けなければならないとか、再び世界中心にある時計の螺子を巻かなければならないとか、そんな事が大きなストーリーの軸になる。
私はファンタジーの世界を眺めていると、人間の心象世界をふと想像したりする。そして、そうしたものと、このファンタジーが実はどこかで、結びついているのかもしれないと思うのである。それは心の力や人間の中に非合理な力を認める魔術も実はこの精神的な世界と近い考え方でもあるからだ。また、とうに歴史の彼方に消えた古代や中世的な世界も生きている。それに、ファンタジーの物語が最後はその世界そのものに話が及ぶことが多いのは、人間の自我=世界を連想させるのである。また、長い旅の中で主人公が人生の意味を悟るはなし。勇者が大きな心の闇を抱えていたりする話もファンタジーには多い、ここにも我々の自我や心の世界に近いものであるということを想起させる。まあ、私の考えすぎかもしれないが。
さらに私がファンタジー小説を読んでいて、面白いなと思うのは、人間が神の世界に接したり、その世界の神話に触れたりする事だ。そこには現代人の感じなくなった、聖なるものへの畏敬や畏怖が出てくる。こうした感覚は実は大事なものだと思う。人間に広大無辺な世界や時間を意識させ、己が生命がそこに帰属することを気が付かせるからである。ファンタジーはこうした世界をかろうじてこの現代に保存しているのかもしれない。
また、ファンタジーは人間の想像力への挑戦でもある。こう考えるとファンタジーは物語の中でも特異なジャンルなのかもしれない。こうしたファンタジーの物語の特性はユニークである。
そう、好き勝手に書いてしまったが、最後に一つ、ファンタジーで異世界に行った者は最後にはこちらに戻ってくるのが良いと思う。バスチアン・バルタザール・ブッスクも最後はこの世界に戻った。異世界は黄泉や楽園ではないのだから。
お読みくださいましてありがとうございました。