自分の文章をどう読み、自信を持てば良いのか
ひさびさにこのタイプの文章を書きました。
はじめに
毎回、趣向や話題を変えて送るこのシリーズ、今回は自らが書いた文章をどう読み、自信持てば良いのかについて、また思いつくままに書いてみた。第一に自分の書いたものを自分で大切に出来ればと思うが、これがまず難しい。まったく自信を持つ事が出来ないこともあるからだ。だったら、どう発展していけるのか、どう自分の書いた物に向き合えば良いのか出来るだけ単純に基本的に考えてみる事にした。それが今回のお題である。
後半は単に自分で読むことを超えて、批評的に読むことで自分の文章をより客観的に、また、自分自身の価値観や文章を読むときに何に着目するのかを掴むことが出来るのではないかなと思いあれこれと書いてみた。あと、批評にとって重要なのは何かみたいなものを書いてみた。
自信のなさ、ありがちなこと
昨日、寝ながら考えた。言うまでもないことだが、ここには小説を書く人々が集っている。その力の差は色々あるだろうが、その自分の書いたものを前に途方にくれる。自信なさを味わったという経験がないだろうか?自分はそういうことをいつも感じながら書いている。もう、書き始めて何年にもなるがいまだ自信が持てないのである。
まず、自信の持てない症状は人それぞれであるが色々と列挙してみようと思う。初心者から書きなれたものまで、色々な症状があると思う。
小説やエッセイのようなもの、小論のようなものでも、そう文章そのものが書きなれていない人、そういう人は自らの文章を前にして、果たしてこれはそもそも他人に通じるものなのだろうかという感想を持つに違いない。はじめて文章を書き始めた人は不安であるだろうし、多くは自信が持てないのではないかと思う。
また、すでに小説のような散文や論理的な文章を容易く書くことのできる書きなれた人は、先へ進んで、自分の文章がどう評価を受けるのかが気になるはずだ。例えば、ライトノベルを書いていたとする。その場合、自分の書いているキャラクターが受け入れられるのか、また、筋がうまく展開できているのか、魅力的なキャラクターのかけあい、バトルやギャグ、些細なトリックがうまく機能しているかそれを知りたいはずだ。あるいは真新しさがあるか、そして、受けるかどうかだ。それに自信を持てるだろうか。
詩の様なある種、極端な文章でもそれは変らない。言葉の持つそもそもの音感やリズムが果たして読者の中で自発的に芽を出し、根を生やし、新たな想像力の沃野を拓くかが知りたいはずだ。しかし、どう受け取られるか、自分の感性は通用するのかと考えた時、果たして自信を持つ事が出来るだろうか、
寄り道すると、詩は言葉の持つ可能性への一つの挑戦でもある。言葉は意味を持った、一つの点でありそれはコミュニケーションで結ばれる事ではじめて機能する。考えてみたまえ、例えば“手術台の上のミシン”のような言葉の表現は中世には存在したか?そう、詩はそうした、言葉の持った全く考えもしなかった領域への挑戦を含んでいる。だから、常に挑戦的であるべきだと私は思う。そのため、感性の優れた、同じく挑戦的で批評的な読者が必要であると思う。それがないと詩人は心細く、情熱や感性が枯れてしまうと思うのだ。
小論文のようなものや学術の論文、或いは大学のレポートのようなものはどうだろうか?それはもっとも他人から、読者から、同じ分野の研究者からどう読まれるのか知りたいものだ。客観的にみた論旨の展開は妥当か、資料は論旨を補強しているか、正当性を与えているかを知りたいはずだ。あるいは全く新しい歴史的な事実の発見などは、どう他の研究者に受け入れられるのかも知りたいはずだ。この分野の書き手は真理を得るために、より高い精度を持つために、批判的な読まれ方を受け入れなければならない。そのため、自信は何においていも重要だし必要である。
このようにあらゆる文章を書いてみても、それは何か意味を伝えるために書いているので、すべて広い意味のコミュニケーションなのだという事が出来よう。自分で書いて他人に見せることのない日記や秘密のノートだって、それは自分に対して意味を取り出せるように書かれているから、それも、そもそも一種のコミュニケーションなのである。まあ、ダヴィンチの鏡文字はひねくれているが、それの範疇をこえていない。
そしてコミュニケーションである以上、伝える事の質があり、その技法の優劣や思いのあるなしは問われてくる。そこで、優れたものを書くために、何よりも自信を築いて行くことは大切であるし、自分を成長させる大切な要素なのである。
まず客観的に読み、他人に見せること
自分の文章に分らなくなったら、自信が持てないときは、どうするか?それは少し時間を置いて、出来るだけ客観的に読んでみる事だ。
これはもっとも単純でシンプルな方法だ。注意するのは、ひたすら、機能的に客観的に読んでみることである。小説でも、論文でもエッセイでも、始めから終わりまで読んでみて、しっかりと意味が通っているか、誤字や脱字がないか、起承転結や序本決がしっかりと意味を成して、確立しているかなどを、手がかりに読む。
なんだとそんな事かとあなたは軽く見るかもしれないが、これは最も基本的なことだ。例えば大学の試験場で、小論文の試験会場にあなたがいたとする。そこで、役に立つ方法はこれしかないはずだし、ここに投稿しようとしている人だって、これをやっているはずである。
では、ひたすら、自分で客観的に読んでいれば良いのか?それは違う。上の方法を自分でやってから、他人に見せることだ。自分で自らが書いた文章に対して客観的になるのは限界がある。いや、そもそも、自分の文章を他人の読むように読むことは出来ない。
他人に文章を読んでもらう意味は何か?それは全く、何もない状態から読んでもらうことに尽きる。他人はあなたの書いた文章を知らない。ゼロの状態で読む、だから、容易に誤字や脱字を見出すかもしれない。それに、あなたは意味が通っている、論理が成立していると考えたところを、他人は容赦なく不備を指摘しそれを否定するかもしれない。また、内容の不備を指摘するかもしれないし、逆に賞賛を述べるかもしれない。あるいは怒り出す、泣き出すかもしれない。他人は自分より客観的に文章を読んでくれるのだ。
このように文章は他人に見せてはじめて意味があるとも言える。とかく他人に文章を読んでもらうことは意味がある。そして、それは最終的には多くの読者の獲得へつながるかもしれないのである。
意見と個性、解釈の差
さて、自分で自らの書いた文章を読むことを客観的に出来ても客観性はない。そして、実は他人の読みにも究極的には客観的ではないのである。自分たちはポストモダンの地平に立っているから、それもあながち間違いではない。客観性は表現される中で権威によりかかる事を完全に排除できないからである。あなたが近代主義者でポストモダンを否定しているなら、それはそれである。
さて置き、完全な客観性がないのは、人は各々が違った個性を持っているからであり、文章を読むレベルも違っているからであるともいえよう。だから、客観性と言っても千差万別になるのだ。
まあ、難しい意味でなく、人には各自の意見もあり、同じ文章を読んでもそのテキストから情報を得る量には差があるということである。例えば、同じ文学作品を読んでも、人によってどこまで読み、その話を解釈できたかは差があるということである。年齢や読書量、それまで読んできた本の傾向、その人の性格など様々な要素で文章は全く違った趣を見せるのである。
評論もそうだ、現代文のテストでお目にかかったが、あれだって、解釈できる人、面白かったという人とつまらない、よく分らなかったという人に分かれたはずだ。たとえば自分の書いたライトノベルを年配の国語の教師に読んでもらっても、意味が分らないという事もまま起こる。
だから、人に自分の作品を読んでもらう時は、ある程度、想定しておいた方が良いということだ。ただ、無作為に自分の書いたものが通じるかを試す事も面白いと私は思っている。意外な人から得た、意外で素晴らしい指摘や感想は思いがけなく、自分のためになることがある。そして、大きな勇気を貰う事がある。
批評のチカラを得よう
では、少し進んで、ここで批評に目を向けてみよう。自分の文章を読むことと、批評のどこが関係するのだという意見が出てくるだろう。これはもっともな意見である。批評とは何かある種の価値判断のことである。それも客観的な価値判断のことである。なので、その文章は論理的に構成されることになる。つまり、文学批評とはある文学作品を批評する事になる。
この価値判断とは結構厄介なことである。例えば「源氏物語」を批評するとする。すると日本文化上の価値や歴史的な価値など色々と出てくる。まあ何を至上の価値とするかと言うのは判断が批評家の中で分かれることだろう。ちなみに、私は長く読み継がれている事は一つの価値としている。物語は時の審判を受けることが大事だ。時代を超えて読み継がれた事は尊敬すべきだし、それは何かを持っているということだろう。例えば神話や民話だが、いわゆる民間伝承であるが、シンデレラにしろ桃太郎にしても、その物語の命は長い。それに比べて、現れて消えていく物語のなんと多い事よ。ライトノベルの中にも生き残っていくものが出てくるとは思うがごく少数であろう。しかし、長く語られる物語は、いわゆるテンプレートと呼ばれるものの元祖であることはどこかで覚えておいても良い。
さて寄り道をしたが、僕らは積極的に文学作品、文学作品は言うまでもないことだが、それはライトノベルのようなもの、アニメやマンガでも良い自分の価値観や人のそれでも良いから、批評すべきだ。にわか仕込みの批評で結構、様々な作品を論じ、批評する事で、何を題材に据えて書かなければならないかが判ってくる。娯楽作品では何が面白いか、受けるのかが判ってくると思う。
それは自分の文章に大きな変化をもたらすと思うし、自分の文章に自信をもたらす事になると思う。よく読み、自分の価値判断や問題意識がどこにあるかを把握することは、批評につながり、それは自分のチカラになって行くと思う。
また、余計な事だが、批評をすることで自分が批評型の人間か、物語を書く創作型の人間かがわりとはっきりと見えてくると思う。ここの差は越えがたいものがある。自分はどっちでもない、どちらもロクに書けない人間だが、それでも物語に固執したいと考える人間である。だから、批評は程ほどにしたいし、それに自分の作品は、結局は自分自身にしか分らない事があると思っている。自分はそれをもっとも大切にしている。
批評の勇気と精神
批評の原点であるが題材が必要だということだ。まあ、簡単に言えばお題が必要だという事だ。日曜の笑点で落語家たちがやっているアレみたいな物だ。難しく言えばメタレベルを借りてこなければ始まらないという事でもある。なので、威張るなといいたいところだが、批評家は大いに威張っても良い。それは批評が、それを含む論文が、例えば自分はバフチンの「ドストエフスキーの詩学」を尊敬しているが、あれはドストエフスキーのある本質を捉える事が出来たと思うからだ。多声性小説内の人物たちの声が、あたかも独立した一つ一つの声のように響きあう事を指すが、確かにそれは真実だと思う。批評家は作品を蘇らせたり、また誕生させる事も可能なのだ。それははっきり言ってすばらしい仕事であると言ってよい。なので、批評家は必要だし、もっと言えば文学研究もさかんにされるべきである。
批評でつまらないのは、始めから自分のレールに沿って、作品を整理してしまう事だ。例えばだが、三島由紀夫でも中上健次でもいいが、三島由紀夫がこれこれという思想を持って、こうした作品を書きました。よって日本の美と死生観が彼の主題です、というのはつまらない批評だ。自分はこの人の文学作品は様々な比較の中でしか見えてこないのではないかと考えている。中上健次はいかにして、土着の問題をあの時代に書くことが出来たのか、はじめから結論ありきで考える人がいる。はっきり言えばそういうのは批評としては、意味を成さない。
だが、そういう批評は良く見かけるし、たとえ答えはそれになっても、過程が大事だし、もっと肉薄すべきだし、作者や作品と対話し、揺らぎを、自分にしか判らないもの、自分の論理に不都合なものを見つけるべきだ。そこには大切なものが存在していると思う。容易に判断できないもの、割り切れないものこそいつも重要なのだ。
よって私は批評家の何を尊敬するかと言うとそれは勇気ではないかとおもう。または、挑戦する精神だ。前述のミハイル・バフチンはソ連時代にこうした研究や文芸評論をしたが、それは全体主義的なものに対する違和感を持っていたからだという。そうした果敢な勇気や問題意識を私は批評家に期待したい。また、そうした批評家の文章に刺激を受けて自分の書くものを発展させて行きたいと思う。
まとめ
自分の作品をどう読み自信を持つかと言うことだが、まとめれば、自分で最初に客観的に読んで見る事が必要だという事だ。次に、他人に見せてより客観性を広げようと言うことだ。さらに、それも限界が付きまとう。また、批評家的な価値論を軸に、客観的な読み方も効果的だということである。そして、批評家は尊敬できる部分があり、それは認めても良いと思う。なので、全てやってみると良い。全て出来なくてもはじめの二つだけでも、自分の自信がだんだんと付いてくると私は思う。
お読みいただきましてありがとうございました。次は何を書くかなと思っています。
お気に召しましたなら、引き続きよろしくお願いいたします。