少し昔の話 釣へ行く モノレール干潟編
形を変えたエッセイです。色々なものを書いていきたいので、こういう感じにしました。実験的なものですがよろしくお願いします。
昔々の話である。私は小学生で、世の中のことや、人の心の事も、自然の事も何も分っていなかった頃の話である。そのころ好きだったことがある。釣である。
私は自分が落ち込んでいるなと思う時は、何となくいつも川に行った。それもたった一人で、竹竿を持って、川に出かけたのだ。この短い話はその釣の話である。
目を瞑って思い出すと、思い浮かんでくるのが、高度成長はとっくに終わっていたけど、私の育った街は、大きな町の外れあって、表通りから小さな路地まで、町工場が通りの両側をほとんど占めているような街だったことだ。当時はその工場で多くの人が働いていた。その後、今はだいぶそれらの工場は少なくなったようだ。
私はそんな中を子どもの乗る小さい自転車に乗りながら、片手に竹竿を持って川を目指してゆっくりと進んでいく。今じゃ考えられないジャージなんかを着ている恰好だ。
緑の少ない工場ばかりの灰色の多い空間、私はそんなところを歩いて学校へ通い、放課後のなるとひとりで遊んだ。ひどく空気が悪く、大気汚染で橋の欄干や金網が腐食してボロボロになってしまうようなそんな場所だった。しかし、人はみんな一生懸命暮らしていたし、そこには様々なわけや感情を秘めていた人もたくさん住んでいた。そういう人たちはどこへ行ったのだろうかと今になるとふと思う。いつかはそれらの人たちの事も書いてみたいと思う。
自転車を滑らせていくと、様々な工場がある。本当にこれでもかと言うくらいに工場がある。普通の一軒家の一階を利用した町工場、傾きかけた木造の倉庫みたいなところを利用した工場、石綿のボードで出来たいかにも工場らしい工場、幾つもの工場がある門のついた本格的な工場もある。巨大でひっきりなしに大きなトラックや特殊車が出たり入ってる工場、立派な船着場を持った工場、専用の鉄道線が引き込まれている工場など、とにかくありとあらゆる工場が半径十キロくらいにはあった。
それは仕事の種類も果てしなくあったということでもある。火花を散らして、何かを切断している工場、金属を削っている工場、螺子やボルトを作っている工場、小さな電子部品を作っている工場、豚の皮やらなんかを煮詰めて、ラードを集めている工場、離れたところにはチョコレートの工場もあった。大きな川の向こうには、大きな自動車工場もあったし、製鉄所も石油の精製施設もあった。
それらの工場からは削る音、潰す音、同じリズムを繰り返す音、始業や終業を告げるサイレンや電子音などあらゆる音がしていた。
そして、深夜まで働き、人々のおしゃべりや時には罵声が工場からは聞こえてきた。
それから臭い。これもまたあらゆる臭いがした。有機溶剤の刺激的な、研磨する時の、あるいは潤滑油の臭い、金属を削る時や切断する時の焼け焦げた臭い。プラスッチック、電子部品の工場からは電子臭もした。それに食事の臭い、仕事の後の浴室からする風呂のから石鹸の香りもしていた。
私はそれらに時には良さを感じ、吐き気を感じ、暖かさを感じ、何かが出来上がっていく過程を見て、驚いたりした。また、働く人々の表情を見て、そこに様々な感情があることを知った。
子どものころは多くの人がそうだと思うが、世界は常に驚きに満ちていたし、素直な喜怒哀楽にみちていたのではないかと思う。子どもの頃はすぐに人は世界と直観でつながる事ができるのだ。だが、歳をとるとそれが失われてしまうのだ。それが悲しい事なのかは分らないが。
私は、池田食堂の交差点を左に曲がり、自分の通っている学校の前を通り、少し先の船堀の跡を進む、ここはかつて堀があり、海苔の養殖に向かう船を留め置いた場所があたった。しかし、埋め立てられ、この時には公園になっていた。
このあたりは、低湿地帯を嵩上げした土地で、縦横に水路がめぐらされていたのだ。それらのほとんどは埋められ、今は真上に高速道路があるか、ここのように公園になっている。
さらに先に進み行き着くと、青色に塗られた、大きな水門が見えてくる。ここまで来ると、隣は東芝の工場が撤退して大きな空地なっているが、コンクリートの壁が残されていている場所へとやってくる。
左側にはさび付いて一部崩落した、危険な橋が架かっている。その横にはなぜかたくさんのシェパードやドーベルマンのような猛犬がたくさんいる檻があった。犬の獣臭がして、歯を剥いて吠え掛かる犬が怖かったので、出来るだけ離れたところを通って進んだ。先へ行くと、左側はコンクリートの護岸になり、砂地のむき出しの道になる。道の横には、ブタクサやらクコ、葛が茂っていて見通しが悪くなる。葛の花の季節には、落ちた花弁が道に敷き詰められた。工場と集合住宅しかないような街中にも、自然のめぐりはひそやかに訪れていたし、子どもの私はそういうものにずいぶんと救われたりした。
行き着くと、その先には運河になっている。多摩川と京浜運河を結ぶ水路だった。目の前には空港島が見え、今は沖に移転したが、整備場があり、昭和島から海底トンネルを駆け上がってくるモノレールが見えた。特徴的だったのはその音だったモノレールはつるつるの木を何かで擦る様な音をたててトンネルから姿を表した。それは私のお気に入りの光景だった。
そこで自転車を降り、鍵をかけ、そこらの草地に放り出すと、竹竿を護岸に置き、よじ登り、向こう側に降りた。運が良ければ、潮がひいて、干潟が出ていた。そこを持ってきたバールやスコップで掘ると、ゴカイという紅い虫が採れた。ミミズみたいな形をしていて、ムカデのような歯を持っているが、毒はないがすこしグロテスクな虫だ。それを釣の餌にする。
干潟は沖のほうまで大潮の時は百メートル位まで姿を現す。月の満ち欠けが、そういう物理的な現象を起こすわけだが、私は教師からそれを説明してもらっても全く理解できなかったのを覚えている。当時の私は、とにかく理屈を覚えるのが苦手だったのだ。
干潟は清潔ではなかった。よく干潟と言うと、潮干狩りを想像すると思うが、ああいうところではなく、いわゆるヘドロというもので、腐った卵のような臭いがするところだった。そして、掘ると油が浮き、手が重油のカスようなもので汚れた。運河の水も芥や様々なものが浮いていて、臭い、ひどく汚れていた。場合よってはネズミの死骸も流れてきていた。
ゴカイは拾ったカップ麺の容器に入れて、ちぎりながら、釣バリに刺して使う。水深を見計らって浮きを調節して、放ると釣の始まりだ。自分はさっきの水路の入り口近辺が良くつれると思っていたので、そこへ行き浮きを垂らした。目の前には船の修理工場があって、大きな船が陸に上げられていて、塗装を施していた。たくさんの作業員が懸命に働く姿が見えた。その人たちが船の外壁の錆び落としをしていると、ひどい音がして、塗料の剥がれた塵が飛んできて、釣どころではないこともあった。どうでも良いことだが、そこの工場は何かと片手で振る鐘で合図をしていた、その鐘のカーンカーンという音が耳の奥に残っている。
運が良いとすぐに手ごたえがあった。ぶるぶると手ごたえが雌竹のやわい竿に伝わって、白く虹色に輝く腹を見せながらマハゼが釣れた。たいてい二十センチに満たない小物だったが、場合によっては他にイナ(ボラの幼魚)やセイゴ(スズキの幼魚)なんかも釣れた。そんなものが数匹でも釣れると、暗い気持ちも吹き飛んだ。
釣をしていると段々と日がかげる様子や、潮が段々と満ちてくる様子を進む時と共に見ることになった。芥(あくた=ゴミ)が潮にのって、上に流れていった。逆にひいて行くのを見たこともある。私はそういうのをみていると、まだ方丈記は知らなかったけど、不思議に死を連想した。もちろんそれは深刻ものではなかったと言っておく。
時には西の空に赤々とした日輪が信じられないように色合いで、青空を燃えるように茜色に染め上げ、光を失し段々と黒々とした闇に包まれていく様子を黙って見つめていた事もある。時間は確実に流れ、それとともに全てが移り変わっていくと言う事を私は学んだと思う。
運河が目の前にあり、自分がたった一人で護岸にいると、そこの世界を独り占めにしている気持ちを良く感じた。すると訳もわからない、情熱にとらわれる事があった。自分は直に独りで世界と対峙していると感じたのだ。そして、それは様々な事を成し遂げられるような、期待のような、少しの切なさをもった感覚を感じた。そんな時は走り出して、よくわからない事を川に向かって叫んだ記憶がある。こんなことを告白すると自分の変人振りを言っているわけで、恥ずかしい話である。
また、そもそも、潮がひいていなくて、干潟が運河の底で、餌が採れないときもあった。そういう時は、そこで川を見たり、モノレールを見たりして、時間を潰した。友だちもまったく居ないと言うわけではなかったので、近くの集合住宅へ友だちの家に遊びに行く事もあった。
運河は様々な船が通っていった。そこは様々な世界につながっているという感覚もあった。
帰りはいつも切なかった。道具をまとめて、魚を持って家路についた。元来た道を引き返していく、途中で通りかかるラード工場から、決まって豚の皮の焼ける香ばしいが、食欲をそそらない匂いがしていた。
公園は仲の良くない同級生もいたので、それと顔を合わせないように帰った。途中で家のことや明日の学校のことを考えると、気持ちが沈んだ。
家に帰ると自分で魚をさばいて、焼いて食べた。たいていは石油の匂いがしたが、新鮮で不味くはなかった。そして、寝て学校へ行った。そんな事を繰り返していた時の話である。
お読みくださいましてありがとうございます。少し昔の話はちょっとづつ書いていきます。