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夏目漱石思いつくまま、中編

前にも書きましたが、ブログの記事を改めたもので、新しいものではないです。

 前編からお付き合いくださいましてありがとうございます、中編のはじまりです。


 さていきなりですが「低徊趣味的」という言葉は漱石の造語で、余裕を持って、高踏的に事物を捉える文学スタイルが漱石の特色だと言われております。

 まず、何から始めるかですが、よく言われていることからはじめましょう。漱石を評したり、漱石自身が言っていたことから考えてみると「低徊趣味的」も「則天去私」も漱石の文学を捉えるなら、あまり意味を成さないという事が言えそうです。自分が漱石を読んでいると「低徊趣味」も「則天去私」もそうなりたかったんだな、というくらいのものでしか感じられません。目指したけど、そうはなっていない作品がほとんど多いです。漱石は「余裕派」などといわれますが、自分は漱石に余裕なんてなかったと感じています。


 それはさておき、今回は小説家として漱石の様々な格闘を見たいと考えます。それは、二十一世紀を生きる僕たちの助けになるはずです。自分は特に姜 尚中を推す訳ではないですが、漱石の文学が東アジアの教養となる可能性があると漱石を評しています。自分もそれには同意します。

 なぜか、それは、漱石の小説の中に出てくる様々な問題の提起です。これらは今も色あせていません。

 例えば、現代社会の形骸化した人間関係、ニートのような問題、東洋と西洋、自然と人工、東洋的な美について。また、卑近な例で言えば、小説における人間のキャラクター化への批判など、少し読むと、すぐにそこに示された問題提起の多さに気がつきます。


 明治以来、近代的な小説は数多く書かれ、優れた作家はたくさん居ます。もちろん、川端康成や三島由紀夫、大江健三郎、中上健次、村上春樹など、読むべき作家もちょっと見渡すだけで、すぐに出てきます。

 でも、夏目漱石のような、それ自体が、東洋における近代の人間の問題を提起する。豊富で複雑な意味を持った作家は彼一人だけです。吉本隆明が明治以降にたった一人の作家を選ぶなら夏目漱石を上げていましたが、自分もそう思います。

 吉本隆明は同時に思想家として、柳田國男を上げていました。柳田國男は巨大な存在ですが、彼もまた評価が難しい存在です。これには深く頷くものの、かやまとしてはなんとも言えません。なぜなら、自分は最終的には日本民俗学を専攻したからです。いや、すみません。少し興奮してしまいました。それはさて置き、漱石はそれくらいの人だってことです。


 前置きは長くなりましたが、ラストは漱石の小説に多く出てきた三角関係を主題とする男女の関係が何を意味するのか、それを考えながら、漱石の文学が私たちにとって何の意味があるのか考えてみたいと思います。

 漱石が書いた三角関係の小説は思い浮かぶだけで「幻影の盾」「それから」「門」「こころ」「彼岸過迄」「行人」に上ります。三角関係は恋愛小説では王道で珍しい事ではありませんが、そうでない小説でこの多さは驚くべきものです。この事実はもちろん、研究者によって研究がなされ、なかなか興味深いものです。

 三角関係は恋愛小説のある意味王道の展開です。これを主題としたお話は、場所や時代を問わず無数に存在します。小説ばかりでなく、映画や漫画、劇などでも繰り返し語られてきました。まあ、三角関係は人間にとって愛情と言う感情がある限りいつだって存在していくのでしょう。魔術の話で人間は変わらないって話をしたけど、これも同じですね。


 そして、その、悩ましさは、悲劇と同様に私たちに感情の開放や浄化をもたらします。

 また、三角関係は常に貴賎を超えて人を想うこと大切さ真剣さ、友か恋人か、人に代わりは居ないことなど、言わば究極の選択を突きつけます。だから、残酷な終わり方にもなります。「こころ」もそういう終わり方をしました。

 それに、三角関係には幾つかのパターンやバリエーションがありますが、基本的に同じような話が繰り返しされたのはどうなのでしょう、それは語りつくす事のできない様々な意味がこめられているからではないでしょうか?

 さらにこの三角関係は焦点を広げると恋愛ばかりでなく、様々な事象に見られることに、

 私たちは気がつきます。例えばさっき調べてみて、「サービス経済のトリレンマ」 脱工業化すると、所得平等、雇用拡大、均衡財政の三つをすべて成立させることはできないことが論じられていました。


 つまるところ、いたるところに選択が存在するかぎり、いわゆるジレンマは存在するのです。この図式は三角関係が恋愛ばかりのものでない事ではないのです。ある世界の図式を映した存在だと言えましょう。これは読んでいる皆さんも納得していただけると思います。

 さて、漱石の三角関係に話を戻します。漱石は三角関係の小説をたくさん書きました。

 こういった王道でもあり、多くの何かを表す事のできるテーマをね。それはどうしてか?それは、そうする理由があったということですね。小説家は何かを書きたいと思ったときに、無意識にそのテーマに戻ってしまう事があります。いや、意識的にもです、より深めたいと思うからです。


 その過程で、小説家は自分をいじり、トラウマに塩を刷り込んでみたり、あらゆることをします。ウラジミール・ナボコフは自分に出来る事なら何でもやってみたと言っております。ちなみにナボコフの小説はたぶん文学的な感性のある人なら衝撃を受けます。

「ロリータ」は彼の最良の作品ではないと言われますが、十分以上に超人的な作品です。

 特にその文体から衝撃を味わって欲しいですね。たぶん日本文学にはない文体なので。「ロリータ」をかやまが購入した時、変な顔を店員にされましたけど、そういうのは何も分かっていない人の反応です。ただ、ナボコフは固い側面があります。それをつまらないという人もいます。自分は良くできすぎていると感じますが、良いと思っています。

 それはいいとして、漱石は繰り返し、三角関係を描く事で、自分の中のどうしようもないものを表現したかったんでしょうね。ならば、その表現したかったものを、三角関係を読むことで解き明かせるはずです。

 ということが、今回の記事のテーマですね。そして、そこから学ぼうと、ようやく、ここでテーマがはっきりしました。では、まずそのためには何を見なければならないのでしょうか?そう、どうしようもないもの、漱石が抱えていたものです。吉本隆明はこの漱石の抱えていたものを軸に三角関係の意味を書きました。これを紹介しながら論を進めたいと思います。


 参考文献


 筑摩書房『筑摩文庫 夏目漱石を読む』吉本隆明


お読みいただきましてありがとうございました。

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