夏目漱石思いつくまま、前編
ブログに書いた記事の再録です。内容の重なる章は閲覧できないようにしておきますので、すみませんがご了承ください。
今回はあの国民的な作家、漱石について幾つか述べてみようと思います。
しかし、茫漠と漱石論を論じても、つまらないし、かといって、かやまは碩学ではないので、何か具体的に書いていきたいと思います。また、漱石先生の代表作をいきなり持って来ても「ああ、それですか」みたいな、反応になってしまうので、あまり読まれていない作品から紹介してみようかと思います。そこで今回取り上げるのが「坑夫」です。「坑夫」は夏目漱石が朝日新聞に入社してから間もない、1908年に書かれました。百年以上も前の作品ということになります。しかし、その内容は今も興味深いものです。「坑夫」は「坊ちゃん」や「我輩は猫である」の後で「虞美人草」の直後、初期の方にあたる作品です。この作品の直後にあの有名な「夢十夜」が書かれました。文学史的な位置はこんなところです。
ここでちょっと脱線しますが、小説を学ぼう、あるいは文学研究をやってみようと思う人は、とりあえず、どこかで一人の作家を追ってみることも肝要かと思います。説教臭くて申し訳ないですが、すべてとはいかずとも、全生涯に渡って書かれた物を、追って読まなければ分からない事も多いのです。それをすると、事実、色々なことが見えてきます。
文体の変遷やモチーフの変化など学ぶ事は多いですし、それに、その作家とある種の友誼を結べます。別に純文学でなくても、誰でもいいのでそうやって追ってみてはいかがかと思います。
さて、話を戻します。「坑夫」はまあ、こんな小説です。
「色々な事にいやになった若者が自棄になって、ポン引きに誘われるままに、銅山の坑夫に誘われ、道すがら奇妙な人々と合流し、銅山を目指す。そして、ついた銅山では・・・・・・」
全部、書いてしまうのもどうかと思いますので、これ位にします。ただ、この先も特に大きな事件は何も起こりません。まあ、いわゆるよしなしごとは色々と起こりますが、若者は結局銅山に着き、そこを出て戻ってきます。若者は特に成長もしなかったし、何かを学んだわけでもないそんな結末です。すると皆さんは事件のないつまらない作品だねと思われるかもしれません。でも、それがかなり面白いんですよ。かやま的にはこの若者の心の動きが面白い。
また、この小説を端的に表している箇所を一例抜き出してみましょう。
『よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。
読者もあの性格がこうだのと、ああだのと分かった様な事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘を書いて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがっているのだろう。本当の事を云うと性格なんて纏まったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ』
若者が言っていることなのですが、これはある意味、反キャラクター論(反ライトノベル論)なのですが、この小説を貫くものであって、言うなれば漱石の人間観に通じているものだと思います。漱石お得意の言い切りでもあります。
ただ、こう言ってすぐぶち壊すのはどうかと思うけど、「坊ちゃん」はライトノベルに近い手法で書かれているし、「坑夫」以後の作品にも、ここで言うような、人間を漱石自身まとめて、書いているものもある。けれども、これ以後も漱石の小説を読んでいくと、キャラ化された人物も、巧みに揺らいでいるように見える。小説を書く上でキャラクター化は根本的な技術であるが、それでも、漱石のような一級の小説家にかかると、ゆるゆると自由な人間が生まれ出てくるのです。動くなどと言う以上のある種の驚異的な動態です。
ここらは学べますよね・・・・・・。
視点を変えると、その人物たちが避けがたい宿命の中で声をあげるのが漱石の小説でありましょう。後は会話ですね。かやまは漱石の小説は会話がとても上手い印象を持っています。
これは落語が好きだったと言う事と関係があるのかもしれません。
この作品は島崎藤村の連載が遅れたために書かれました。漱石先生が代打に立ったんですね。
この「坑夫」という小説の題材は荒井なにがしとかいう若者がひょこっり現れ、小説の題材にして欲しいといったものを使ったものらしいです。ルポ的な話ですね。結局、この「坑夫」は荒井なにがしの体験談と小説家としての夏目漱石の創作が合体しています。
元旦から四月六日まで連載され、準備期間もなかったことから、その創作の幅はきわめて狭いものだと言うのが定説になっています。その代わり、いつもとは違った語り口、それにもかかわらず、漱石の力量の凄さが出ていると思います。
「坑夫」はあまり読まれませんが、なかなか面白いと思いますので、機会があったら読まれてはいかがかと思います。そこには国民的な作家の普段とはちょっと違った顔が現れています。また、そこから学ぶ事もありますね。次は「幻影の盾」とか初期作品を取り上げます。
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「幻影の盾」を取り上げつつ、初期作を概観、整理してそこから何が学べるか書いていきたいと思います。
はじめにですが、今回取り上げていく「幻影の盾」(まぼろしのたて)は明治38年の「ホトトギス」4月号に「我輩は猫である」と同時掲載されました。彼の初掲載の小説はこの年の一月号に掲載された「我輩は猫である」です。(以下「猫」と略す)
この頃、漱石は矢継ぎ早に1月号の「帝国文学」には「倫敦塔」を、同月の学鐙には「カーライル博物館」を掲載させました。夏目漱石の初期短篇集の続きです。文を続けましょう。この「幻影の盾」などが発表されたのは明治38年は1905年で、日露戦争がありました。夏目漱石はこの年、39歳でありました。
ここに至るまで漱石はたいへんな人生を送ったと言われております。その宿命は漱石の小説の中に刻まれ、それが言うなれば小説の命となっています。漱石は中年にさしかかるくらいでようやく小説家として書き始めたんですね。1905年の文学界では「金色夜叉」の尾崎紅葉は既に亡くなり、明治も後期になっていました。
遅咲きの漱石はこの後、大活躍しますが、今回の短篇集はその始まりの小説なんですね。
だから、この短篇群が後の誰もが知る何になっていったのかそれを纏めてみたいと思います。
そして、そこには私たちが学びうる何かがあると思って、この文章を書いています。
では、この「幻影の盾・倫敦塔」にある作品を分類して、その後、何になったか伊藤整の解説を参考に書いてみましょう。
英国留学の成果と思い出としての一群、「倫敦塔・カーライル博物館・幻影の盾・かい露行」の内、「倫敦塔」と「幻影の盾」は幻想癖を深めた「夢十夜」へと行き、ロマンチシズムは「虞美人草」へと行き着き、徐々に弱まって「野分」から「明暗」に至りました。「一夜」は「草枕」に「猫」の風刺とユーモアは色々な作品に受け継がれました。「琴のそら音」と「趣味の遺伝」写実小説の試作として、「三四郎」「それから」へと至ります。また忘れちゃならないのは「幻影の盾」の中にあった三角関係です。これは深められて恐るべきものへとなりました。三角関係の話は次回します。これはとても大きな意味を内在している事なのです。
そろそろ結論です。何を一体学ぶんだい?との質問ですが、僕はこう答えます。この最初の短篇集に書かれた、様々な違った種類の作品がいずれも発展解消しているか、より大きなものへと発展して行っている点です。ここに関心を持たなければダメです。それはどういうことかと言うと、つまり、漱石は出発の段階で発芽した芽を枯らすことなく育てたんですね。なんだそんな事かと思う方もおられるかもしれませんが、これは、小説家にとってとても参考になることなんです。少なくともかやまはそう考えます。真剣に自分に中に生まれた小説(虚構)に向き合い。それを大きく育てる事ができた。すごいじゃないですか。そして、それは彼の宿命に向き合う事でもありました。半端なく苦しみもあったはずです。もちろん、別に違うモチーフへと行ってもいいんですよ。別にそれで何か掴めればいいし、どんどん、捨てて大きくなる人もいますから。そいうことを批判するつもりはまったくありません。ただ、夏目漱石の真似はそうそう出来るものではないかもしれませんが、こんなふうに小説を彼は育てていった事は覚えておこうと思っております。
手当たり次第読みたくなるのは分かるけど、時には一人の作家に絞り、どうなって行ったのかを辿る事も大切だと思うので、時間を見つけて頑張ってみてくださいとね。自分の書くものの参考になるんじゃないかと思います。
ここで前編は終わります。蛇足だけど、今回、この短篇集を読み返してみて、巻末の伊藤整の解説が秀逸でした。この文もほとんどそれです。
参考文献
新潮社『新潮文庫 坑夫』夏目漱石 引用箇所は12p
新潮社『新潮文庫 倫敦塔・幻影の盾』夏目漱石