鍵
旧来の友人から封書が届いた。中には古色がかった瀟洒な鍵が一つ、入っていた。それからメモ書きが一枚。
『この鍵を、今夜から君の枕元に置いて寝てくれないか
理由はまた改めて話す』
奇妙な依頼だった。訝しく覚えながらも、私は、友人の頼みに従うことにした。
夜になった。女房と別れてからというもの、夜は至って気楽な時間だ。夕食の始末やら持ち帰り仕事の片づけやらを済ませ、私は布団に入った。枕元に鍵を置き、読みかけの本を開く。暫く読みふけっているうちに。
ほとほとと、襖を叩く音がした。
私は耳をそばだてた。真っ先に浮かんだのが別れた女房だ。いや、だがあれだけ私を悪し様に言って出ていったのだから、よもや再び訪ねてくる等ということはあるまい。それに、玄関を開けた気配はなかった。
この襖の向こうに居るのは、一体何だ?
私はぞっとした。背中から忍び寄る恐れに喉が締め付けられる。唾液を呑み込み、わざと大きな声で問いかける。
「誰かいるのか。」
「・・・でございます」
襖の向こうから声が返った。私は目を剥いた。誰と言った?内心の問いに答えるように、再び答える。
「深田宗一郎の妻の、香枝でございます」
深田宗一郎とは、件の封書を送りつけてきた当の本人である。その友人の妻が一体何故こんな夜更けに私の家に?疑念を質す間もなく、私は、気配の主が知り合いの人間であったという事実だけに安心して襖を開けた。
「香枝さん、一体こんな夜更けにどうしたのです。」
香枝さんは目を伏せて答えない。私は困った。何しろこちらは男一人のやもめ暮らしである。親友の、とはいえ、妙齢の人妻をこんな時間に寝室に招き入れては、どんな言い訳も立たないだろう。とりあえずこの状況を動かしたくて、私は立ち上がった。
「お茶でも煎れましょう」
「待ってください」
婦人は・・・香枝さんは私の足下に縋った。
「涼介さんに頼み事が」
「一体なんですか?」
「鍵を・・・。」
香枝さんの頬がぱぁっと赤く染まった。
「鍵を、開けてほしいのでございます。」
私は枕元の鍵に目を落とした。小さな、美しい鍵。何か秘密を隠していそうな鍵。これは香枝さんのためのものだったのか。
「これは宗一郎から預かったものです。奥方が来たからといって、そう簡単に渡していいものか・・・そうだ、電話でご主人に聞いて見ましょうか」
「いいえ、いいえ、それはお許し下さい。」
香枝さんは頑として拒む。ただ私に開けてくれと言って聞かない。とうとう私は根負けした。
「わかりました。そこまでおっしゃるなら開けましょう。で、これは一体何の鍵なんですか?」
香枝さんは何か言いかけたが、首を振った。そうして泣き出しそうな顔で、もう帰ります、と言った。送りましょう、と言おうとしたその時には香枝さんはもう部屋に無かった。いくら探しても見つからなかった。
次の日、友人に昨日の一件を電話しようかどうか迷っているうちに、人の家に電話するには不適当な時間帯になってしまった。仕方ない、明日にしよう。そう思って私は床に就いた。正直、あれがほんとうであったのかどうか、自信がなかったからだ。それに、いくら親しい友人であっても、自分の妻が夜着姿で夜更けに独り身の男のところを訪ねたなどと聞いていい気持ちのする男はいないだろう。もし香枝さんが自宅にいたなどとしたらいっそ私の正気が疑われかねない。まぁ今夜も続くと言うことはないだろうし。たかをくくっていた。
夜更け。
再び襖越しに、香枝さんが現れた。
私は襖を開けなかった。もしやあの香枝さんは人ではないかも知れない、と思ったためだ。余りに生々しいので、幻といえども過ちを犯しかねない、とも思ったためだ。香枝さんは美しかった。艶のある表情、匂い立つような振る舞い、しっとりとした話しぶり、女として熟すというのはこういうことなのだとぼんやりと憧れるような婦人だった。
香枝さんは、襖越しに、やはり昨日と同じに私に頼み事があるということを繰り返し言った。だが何の鍵であるか問うても答えない。そのうちに気配が無くなった。
おそるおそる襖を開けると、もう居なかった。
私は香枝さんは幻であると決めた。あの香枝さんはきっと私の欲求不満足が立ち上がらせた幻なのだ。それにしても一体どうしてこんな生々しい幻を急に見るようになったのだろうか。鍵だ。あの鍵が、あの秘密めいた鍵が、私の見知らぬ欲情を開けてしまったのだ。もう送り返してしまおうか。そんな風に思いながら、何故私は三度枕元にそれを置いたのか。
その鍵が、もっと深い秘密の扉を開き、もっとのっぴきならぬ秘密を私の前に曝してくれるように思われたためだった。
襖の向こうに気配がした。
「涼介さん。」
呼ぶ声。私は襖越しに答えた。
「どうかもう消えてください。あなたは幻なんです。鍵ならお渡ししますから、お帰りなさい。」
「私は幻などではありません。」
「鍵はお返しします。」
「私はあなたに開けて頂きたいのです。」
「では、何の鍵が教えてください。」
急に答えが返ってこなくなった。私は勝ち誇ったように言った。
「ほらごらんなさい。あなたは私の潜在的な欲望が拵えた幻だから、鍵がほんとうのところ何であるかを知らないのです。もう消えなさい。お帰りなさい。私は親友の妻をどうこうするほど倫を知らない男ではありません。」
「お教えしますから開けてください!」
それは叫びに近かった。私は勢いに気圧されて襖を開けた。
香枝さんは、切なげな瞳をうつむかせたまま、か細い、消え入るような声で答えた。
「それは、私の、貞操帯の鍵でございます」
言いながら細い指で自分の下腹部を押さえた。
私は後じさった。何を考えて宗一郎は私なぞのところにそんなとんでもない核心の鍵を送りつけてきたのか。だが覚悟を決めた女は却って強かった。私ににじりより、
「何の鍵であるか明かしたんですから、あなたが開けてくださいませ」
という。
「そんなもの、どうして私に開けられるんですか。帰ってご主人に開けて貰いなさい。」
「あの人は意地悪だから開けてくれないんです。私が床に入る前になると必ずこれを無理に付けさせるんです。お前は夢の中で余所の男を欲しがるふしだらな女だ、そんなことができないようにこれを付けてやる、と言って・・・。」
香枝さんはつっぷして泣いた。
「涼介さん、どうか、どうかこれをとって下さいませ。不自由なのです。私・・・私・・・。」
香枝さんは切なげに身もだえた。
「いけません、香枝さん、あなたさっき幻なんかじゃないと言ったじゃありませんか。私は友人の妻とこんな仲になるわけにはいかない」
その言葉を聞いて、香枝さんはきっと顔を上げ、強い瞳で私を見返した。
「これは夢です、夢なんです。」
「あなたにとっては夢かも知れませんけど、私にとっては現実です。」
「いいえ、これは私の夢です。道ならぬ貴方に恋してしまった私の淫らで切ない夢なのです。どうか、どうか。
鍵を。」
香枝さんはもう私の膝にのりかからんばかりだった。床化粧のおしろいの匂い。微かな汗の匂い。膝にかかる体の重さ。指の温もり。
これがどうして幻なものか!
そう思いながらも、私は枕元の鍵に手を伸ばしていた。
週末、私は招きに従い、宗一郎の家を訪ねていた。実に居心地が悪い。幻に見たままの香枝さんが出迎えてくれた。よそ行きの、普通の顔だ。だが私は目を伏せた。
黙って鍵を返す私に、宗一郎はにやりと笑った。
「何の鍵かわかったんだな。」
私は口をへの字に曲げ頭を掻いた。それから、
「どうしてこんなもの、俺のとこに送ってきた」
と問うた。
「香枝はお前に恋をしてたんだ。始めて会った頃からずっと。それが、お前が奥方と別れてからのっぴきならなくなった。とどめられないほどに。あれも立場をわきまえているから表には出さないが、俺も夫だ、見ていればわかる。」
宗一郎は珈琲をすすった。
「結婚する前から・・・あれには自慰癖があってな。私が疲れて相手できないときなど、私が寝息を立てたのを見計らってこっそりしていたものだった。お前が離婚してから、香枝は自慰のときにお前の名を囁くようになった。いくら寝たふりをしていても、腹が立って仕方がなかったよ。だがどうしろというのだ?その怒りをそのままぶつけては、夫としての敗北を宣言するようなものだ。それで俺は香枝に貞操帯を付けることにしたんだ。趣味の店で好みのものを買いこんだ私は、私が休む前に香枝にそれを付けさせ、鍵を隠した。香枝が切なげに太股をすりあわせるのを気配で覚えながら、溜飲を下げた。だが・・・次第に香枝が哀れになってな。
気休めでもいいから、お前に開けて貰う夢を見るといい。
そう思って、お前のところに予備の鍵を送ったんだよ。」
宗一郎はそう言って、苦いような、愛しいような顔になった。
香枝さんに見送られて私は帰った。その立ち居振る舞いから私への恋慕を見透かすことはできなかった。
何食わぬ顔で、あらゆる淫らを着物の下に押し隠して、香枝さんは、宗一郎の妻として生きてゆくのだろう。
終