第十章 第八話 ~山の途中で~
巨亀を倒したレック達は、リザードマンの集落に戻ってから大歓迎を受けた――ということはなかった。
何しろ、集落のほとんど全てのリザードマン達がレックが巨亀を倒したその場にやってきていたのだ。お祭り騒ぎはその場で始まった。
次々にレックの元にやってきてはレックをもみくちゃにしていくリザードマン達。
その様子を見ていたサビエルは、
「まあ、金星上げたのはお前さんだからな。しっかりと栄誉を噛みしめてくれ」
などと曰い、そそくさと待避していた。
幸い、リザードマン達も全力でもみくちゃにして恩人を自分たちの鋭い爪でズダボロにしてしまうような真似はしなかったのだが、それでもお祭り騒ぎは見かねたリザードマンロードが止めに入るまで続いたのだった。
そして集落に帰ってからも続いたそれが一段落したのは夜も更けてからの事。
「サビエル、酷いよ」
リザードマン達が次々とアルコールの威力の前に撃沈していった挙げ句、やっと解放されたレックは湖の畔に一人たたずんでいたサビエルを見つけ、そう文句を言っていた。
「お前さんの晴れ舞台だったんだ。水を差すのは野暮ってもんだろ?」
サビエルはそう言いながらしっかり確保してきていた酒を質素なカップに注ぎ、ぐいっと飲み干した。
「野暮でも何でもいいから助けて欲しかった……」
巨亀を倒した直後とは比べものにならないほど疲労困憊したレックがそう言った。
「まあ、そう言うなって。おかげでこっちは自由に動けたんだ」
「自由にって……何をしてたのさ」
後からばれるよりはと口にしたサビエルの言葉に、レックからの視線の温度が一気に下がった。
「安心しろ。泥棒の真似事なんかはしてないさ。ただ、ちょっとあちこちの様子を見て回らせて貰っただけだ」
悪びれた様子もなくそう曰うサビエルを睨み付ける事暫し。レックは深々とため息を吐いた。
サビエルにしろエミリオにしろ、シャックレールにいた連中の好奇心が兎に角強いのはレックもよく知っていた。それはあんな所に引きこもっているが故に娯楽が足りてないのだろうと思っていたのだが、どうやら違ったらしいということを、サビエルとの旅の間にレックは気づいていた。
その悪い癖が今回も出たと知ったレックとしては、ため息を付くしかないのだ。
そんなレックにサビエルは見て回った結果を伝えた。
「と言っても何も無かったけどな。敢えて言うなら、ここの連中も人間並みの生活をしてるって事くらいか」
「そこまでしておかないと、集落の雰囲気出ないしね」
レックのその言葉にサビエルは苦笑した。
どうやらこの連れは未だにこの世界がどうなっているのか、ちゃんと理解できていないらしい。
プレイヤー以外の存在も普通に生活している――生きていると言えるこの状況は、レイゲンフォルテが出している結論を支持している。そのことにそろそろ気づかせるべきかどうか、サビエルは時々悩む事があった。ただ、どっちの方がイデア社の計画を監察する上で都合がいいのか決めかねているので、伝えてはいない。
大陸会議にも潜り込ませているメンバーからの情報によると、大陸会議も信じるかどうかは別として、この世界は既に仮想ではなく元いた世界と同等の現実になっているのだと考える事にしているらしい。
尤も、そんな事を声を大にして言えばどんな混乱が起きるか分かったものではないからか、大陸会議はそのことを発表する気はないらしい。
だが、無意識のうちにこの世界がそうなっているのだと受け入れつつある人間は着実に増えてきている。
現実だとは思わない。だが、現実と区別がつかない。なら、日々の生活の中でいちいち区別しない。大半の人間は、所詮そう動くのだ。いちいち小難しい事など考えないのだ。
それはさておき。
サビエルとしてはもう1つ気になっていた事がある。幸い今ここには聞き耳を立てるような者はいない。なので早めにレックに話しておく事にした。
「そう言えば、お前さんにちょっと訊きたい事があるんだが、いいか?」
「え?何?」
「いきなりここに飛ばされて、その直後にこんなイベントだ。どう思う?」
「どうって……あ、そっか」
サビエルが言いたい事をレックは正確に察した。だが、サビエルの問いへの答えを持っていないレックに答える事は出来なかった。
「ごめん。分かんないよ」
イデア社が自分に何かやらせようとしたんじゃないかという事は分かる。だが、何を考えて何のためにここに送り込んだかなど、さっぱり分からなかった。
むしろ、街への魔物の襲撃と同じで、ランダムに遭遇する意地の悪いイベントなのではないかという思いの方が強かったりする。
一方、サビエルとしても何の期待もしていなかったので、レックの答えに特に不満を持つわけでもなかった。
だが、今の自分たちのようにいきなり転移させられた人間がいるという話は聞いた事がない。――尤も、人知れず転移させられて転移先で死んでしまっているなら話など聞きようがないのだが。
ただ、イデア社がレックに目を付けている可能性は極めて高いと考えている事もあり、レックと違ってほぼ確実に何かの目的があってここに飛ばされたのだと考えていた。
可能性の1つが巨亀を倒した事で得られる何らかの報酬である。だが、リザードマンロードからレックが受け取ったあの短剣には、サビエルが見たところ特に変わった点は見受けられなかった。
(そもそも俺たち、というよりレックをここに飛ばした理由だな。てっきり、あの亀が理由かと思ったが違ったようだし……まあ、その目的とやらに飛ばされてすぐに遭遇するとは限らないか。様子見だな)
等々つらつらと考えていたサビエルは、ふと隣が静かなのに気づいた。見ると、いつの間にかレックが地面に突っ伏してすやすやと寝息を立てている。
「あー、なんだ。ご苦労さん」
サビエルのねぎらいの言葉は、勿論誰にも聞かれる事はなかった。
そして一週間が過ぎた。
巨亀を倒したレック達はリザードマン達から感謝されつつも、結構な量の食料を貰って彼らの集落を出発していた。尤も、リザードマンロードの指示で数匹のリザードマンが案内役として森を抜けるまで同行していたので、実際にリザードマン達に別れを告げたのはつい昨日の事だったりするのだが。
森を抜けたレック達はあちこちに人の背丈よりも大きな巨岩が飛び出している、俗にカルスト台地と呼ばれる地形帯に入っていた。後ろを振り返れば、やや高いところから森を見下ろせる。その程度には標高もあった。
「意外と魔獣とかに遭わないもんだね」
馬から下りての昼食時、レックはそう言った。
昨日までは進んでいた森の中では同行しているリザードマン達が最も強い種族だったためか、魔獣達の遠吠えなどは頻繁に聞こえていたが結局一度も襲われる事はなかった。
そして昨日今日。リザードマン達と別れた後も魔獣に襲われることなく、順調に旅は続いていた。
そんな状況を反映したレックの言葉にサビエルは首を振った。
「油断するなよ。なんたって俺たちはたった二人だ。馬を守らないといけない以上、襲われたらアウトと思っとくくらいがいいんだからな」
その言葉にレックは頷いた。
サビエルの言うとおりなのだ。キングダムとは言わないまでも、プレイヤーの勢力圏にまで早く戻るためには馬は欠かせない。だが、魔獣に襲われた時、レックとサビエルの二人では馬まで守りきって戦う事は厳しかった。相手によっては不可能と言ってもいい。
尤も、万が一馬を失っても、キングダムに帰り着けないわけではないのだが――できれば避けたい事態であるのは確かだった。
「馬が大人しくしてるか、適当に逃げ回ってくれれば楽なんだけどね」
「適当に逃げるじゃなくて、どこまでも逃げてくだろうな」
サビエルから返ってきた言葉に、レックは全くだと頷いた。
「せめて、馬に乗ったまま戦えればいいんだがな」
その言葉に今度はレックが首を振った。
「無理無理。パニック起こした馬に落とされるのが関の山だよ」
弓や魔術のように、接近される前に攻撃できるなら兎に角、エネミーに接近されてしまえば間違いなく馬は恐怖から大暴れするのが目に見えていた。そうでなくても、武器が届かない馬の足下なんかを狙われたらアウトである。
「馬より精神的にも肉体的にもタフな乗り物が欲しいところだな」
サビエルのその言葉に、レックは深々と頷いた。
そんな訳で地面のあちこちから突き出ている巨岩の陰を縫うように馬を進めた甲斐があったのか、その日もエネミーに襲われることなく日暮れを迎えた。
その少し前に適当な岩陰に入った二人は、レックは日課の鍛錬をこなし、サビエルは地図を広げて現在位置と翌日の進路を確認するのだった。
そして、翌日。
朝出発してから間もなく、レックは雲一つ無い青空に浮かぶ小さな黒い点を見つけていた。
こういう時はとりあえず仲間に伝えておくべきだと考え、即座にサビエルに声をかける。
「あれ、何だと思う?」
そう言ってレックが指さした先を辿り、サビエルもその点を視認した。が、
「何かいるのは分かるけどな。お前さんに見えないものが、俺に見えるわけないだろう」
そんな素気ない返事を返した。
だが、注意すべきであるのは確かであり、
「とりあえず、しばらく岩陰に隠れて様子見だな」
そうレックに指示を出した。
そして身を隠した二人は、頭上だけでなく周囲にも気を配りながら、空の点が消えるのを待つ。
「……やっぱり、魔獣の類なのかな?」
「それ以外に何かあるなら、俺の方が聞きたいぜ」
そしてサビエルはあれやこれやの蘊蓄を語り出した。
「猛禽類だと数km先から地上のネズミを見つけられるって話だからな。もしあれがそんくらい視力が良ければ、20km先からでも俺たちを見つけられるだろうな」
「20kmって……。でも、それだけ離れてたら近づく前に逃げるなり隠れるなり出来るよね」
「お前さん、この周辺にまともに隠れられる場所があるように見えるか?」
「……ないね。でも逃げるくらいは出来ると思うんだけど」
まだ呑気な事を言っている連れに、サビエルは現実をしかと伝える。
「無理無理。地面を走る生き物が、空を飛ぶのにどうやっても敵うもんか。ましてや馬と魔獣じゃ、勝負は見えてるぜ」
実際には追いつかれる前に森にでも逃げ込めればいいのだが、それはそれで別の問題が起きそうなのでサビエルは敢えて口にはしなかった。
そんな事を話している間に、空の彼方に見えていた黒い点はどこかへと消えていた。
「……どっか行ったみたいだね。見えなくなったよ」
岩陰から顔だけ出して様子を窺ったレックが、サビエルにそう報告し、
「ならさっさと次の岩陰まで行くか」
サビエルがそう指示を出した。
だが、次の岩陰に辿り着く前に再びレックは、前方の山の陰から黒い点が現れたのを目撃した。
再び慌てて近くの岩陰へと駆け込むレックとサビエル。
そして暫くして黒い点が山の陰へと消えると、再び近くの岩陰目指して馬を走らせる。
そんな事を数回繰り返したところで、
「こんなんじゃまともに進めないよ」
そうレックがサビエルに訴えた。
「だな。おまけに周囲への警戒もおざなりになってる」
言うまでもなく、そんな状況が安全なわけはない。このまま進めば空を舞う黒い点に襲われる前に、その辺を歩いている魔獣に襲われるのは目に見えていた。
「いっそのこと、暗くなるまで待ってみるとか?」
暗くなれば見つからないだろうからと、レックは提案した。
それに対しサビエルは渋った。
「それも手ではあるけどな……」
夜になれば確かに遙か遠くから発見される心配はないのだが、逆のその他諸々の魔獣と遭遇しては意味がない。
「とりあえず、暫く様子見だ。明るいうちにあれがいなくなってくれれば問題ないだろう」
結局、そんな無難な提案に落ち着いた。
幸い、レックが見つけていた空の黒い点は、それから1時間も経たないうちに見えなくなり、この日は事なきを得た。
そして翌日。
この日は前日にレックが見つけた空を舞う黒い点――どう考えても魔獣の類だろうが――は見えなかった。
だが、レックもサビエルも警戒は怠らない。
隠れる場所も逃げる場所も多いとは言えないのだ。馬を失わないためにも襲われないに超した事はない。
ただ、そんな状態だったからか、レック達が改めてある事に気づくまでには丸二日を要した。
「……森を出てから全然エネミーに遭遇してない気がするんだが、気のせいか?」
いつの間にか地面から突き出している巨岩も数を減らし、たまに見かける程度になっている地域にレック達は入っていた。おかげで身を隠す場所も本格的になくなってきたわけだが、幸いな事にレック達は何にも襲われていなかった。
いや、
「エネミーどころか、獣一匹見かけてないんだけど」
ドライフルーツを囓りながら答えたレックの言葉通り、二人はここ数日、野ウサギ一匹見かけていなかった。
そもそも、周囲には丈が低い草に覆われた草原が広がっている。こんな環境なら草食動物の群れやそれを付け狙う肉食獣がいてもおかしくないのに、その気配すらない。気配どころか、遠吠え1つ聞こえないのだ。
せいぜい聞こえてくるのは、遠くで鳴いている小鳥たちの声程度である。
その事実に気づいたサビエルが昼食時に言葉にしたのが、先ほどの台詞というわけだった。
そのサビエルは、今更ながらに警戒心をむき出しにして周囲の様子を窺っている。が、改めて警戒し直したところですぐに何かが起きるわけでもなかった。
そのことを察し、サビエルはため息を付いた。
「どーにもイヤな予感がするぜ。そりゃもうプンプンとな」
「何となく寒気もするよね」
ここ数日、夏にしては涼しい気がしていたレックがそう答えたが、
「そりゃ、標高が高くなれば気温も下がるからな」
そんなサビエルに答えに、驚いた。
「え?山に登った記憶はないけど……」
そんな連れの様子を見ていたサビエルは、時折連れが見せる注意力不足に嘆息しながら、
「お前さん、もっと周囲に注意しておいたほうがいいぜ?割と妙な事には気づく事が多いけどな。肝心な事に気づかないようじゃ、意味がない」
「あ、うん。そうだね。気をつけるよ」
レックはサビエルからの忠告に素直に頷いたものの、それだけで注意力が身につけば世の中誰も苦労はしない。尤も、そうあろうと心がけるだけでも随分変わるものでもあるが。
それはさておき。
「んで、この何にもいない状況。お前さんはどう見る?」
「えっと……何も住めないから?」
「じゃあ、どうして何も住めないんだ?」
サビエルのその問いかけに、レックは周囲を見回し、
「餌がない……とか?」
「いや、そこで俺たちの馬が草食ってるだろうが」
言われてみると、確かにレック達の馬はのんびりと草をはんでいた。少なくとも、餌がないから草食動物がいないというのは間違えているようだとレックは理解した。
「じゃあ、天敵が……いないってものおかしいよね」
草食動物を襲う肉食動物もいないのだからとそう言ったレックに、サビエルは首を振った。
「何かに食われたからいなくなったってのは否定できないぞ。生半可な魔獣程度じゃ太刀打ちできない何かに襲われて、何にもいないって可能性は否定すべきじゃない」
サビエルのその言葉で、やっとレックは先ほどからサビエルが異様に警戒し始めた理由を察した。
「そんなに危険なエネミーがいるわけ?」
「分かれば苦労はしないさ。ただ、可能性がある以上、そう思っておいた方がいざというとき動けるだろう?」
「まあ、そうだけど……でも、そんなのがいるなら、こうして馬に乗って移動するのって危ないんじゃ?」
何となく周囲に視線を遣りながらレックが訊いたが、サビエルは一笑に付した。
「人間大の生き物すらいないんだ。馬に乗ってようが乗ってまいが、変わらないさ」
そう言うと急に真面目な顔になった。
「だが、さっさとこの地域を抜けた方がいいのは確かだな。抜けたら抜けたで普通の魔獣やら何やらに盛大に歓迎されるかも知れないがな」
そのサビエルの言葉にレックは神妙に頷いた。
だが、少々気づくのが遅かったとも言える。この時点でレック達は既に、それの縄張りに大きく踏み入ってしまっていたのである。
それでも警戒していた甲斐はあったと言うべきだろうか。
昼を過ぎ、傾いた太陽がレック達の目にたっぷりと光を注ぎ込もうとしている時間帯の事だった。
「!!」
何かを感じたのか、不意にサビエルが南の空へと視線を向けた。
レックもサビエルの視線を追って空を見上げ、
「逃げるぞ!」
サビエルが合図を出すまでもなく、レックも馬を全力で走らせ始めていた。
勿論、そんなことで南の空からレック達を目掛けて迫ってくる巨大な魔獣から逃げ切れるはずもない。だが、戦いたくない以上逃げるしかなかった。
「あれっ!グリフォンにしちゃ大きすぎない!?」
馬を走らせながらレックが叫ぶと、
「知るか!ってか、最悪どっちかの馬は捨てるぞ!」
サビエルもそう叫び返した。
「捨てるって!?」
「囮だ囮!あれが馬を食ってる間に逃げられたらの話だけどな!」
そのシーンを想像してしまったレックは、思わず自分の馬を見た。なんだかんだで3週間以上も一緒にいる馬である。所詮モンスターと同じで命なんて無いのだと思っていても多少の情も湧いていて、見捨てるとなると寂しさとか申し訳ない気持ちになったのだった。
だが、それでもコンピュータが作り出したに過ぎないものと思っていたレックはサビエルの言葉に「分かった!」と叫び返した。
そうしている間にもグリフォンはみるみるうちにレック達へと迫ってきていた。
「キイイイイイイィィィィィィ!!」
後ろを追いかけてきているグリフォンがそう鳴き声を上げた。
それを聞いた馬たちは命の危険を感じ、半ば暴走状態の全力疾走を始めた。
「ちょ!わっ!?」
既に十分スピードが出ていたというのに、更にスピードが上がった、だけでなくジグザグにすら走り始めた馬たちに、レックとサビエルが必死にしがみつく。
もはや、どっちかの馬を見捨てるとかそんな話ではない。むしろ、振り落とされないようにするのが精一杯だった。
だが、暴走する馬とて所詮は地を行く生物に過ぎない。
「くそっ!レック!飛び降りるぞ!」
何とか後ろを見たサビエルは、このまま馬に捕まっていてもすぐにグリフォンに追いつかれると判断した。
「分かった!」
レックは頷くと馬から飛び降り、素早く地面に身を伏せた。
その目の前ではサビエルも馬から飛び降り、レックと同じように地面に伏せる。
その直後、二人の頭上を凄まじい音を立ててグリフォンが飛んでいった。
こうして後ろから見送る状況になって僅かに生まれた余裕で、そのサイズを見て取ったサビエルが、
「なんてサイズだ」
呆然とそう零した。
体長6mを優に越え、平均的なグリフォンの倍以上のサイズを誇るそれは、レック達の見守る先で悠々と狂奔する馬たちに追いつくと、うち一頭に飛びかかった。そしてその力強い前足でいとも簡単に馬の背に一撃を加える。
レックが乗っていたその馬はつんざくような悲鳴を上げながら、そのたった一撃で地に叩き伏せられた。地面の上でもがくも、背骨が折れたのか、もはや意味のある動きを取れなくなっていた。
その自分の一撃に余程自信があったのだろう。そして、もう一頭の獲物を逃がすつもりもなかったのだろう。
グリフォンは一度地を踏みしめると再び飛び上がり、更に先に逃げていった馬を追いかけていった。そして、間もなく、サビエルが乗っていた馬も同じ運命を辿ったことをレック達は知った。
「……あれ、どうにかできるか?」
地に伏し、なんとか草に隠れようとしながらサビエルがレックに訊いてきた。
「やってみないと分からないけど……見た感じなら無理じゃないとは思うよ」
とは言え、特殊な能力など持っていれば話は別だとレックは付け加えた。
そうしている間に、サビエルの馬を咥えたグリフォンが飛び立つのが二人の所からも見えた。
一瞬、緊張で身体を硬くした二人だが、グリフォンは仕留めた獲物をどこかへ運んでいくところだったらしい。レック達には目もくれずに蒼穹へと吸い込まれていった。
それを見届けたレック達はしばらくは安全そうだと立ち上がり、まずはレックの馬の様子を確認しに向かった。
だが、
「無理か」
「……そうだね」
既にレックの馬は息をしていなかった。
案の定、背骨を叩き折られていた馬は下半身があり得ない方向を向いている。内臓も大きく損傷したのだろう。周囲には馬が吐いた血だまりが出来ていた。
その馬に僅かに黙祷を捧げると、
「今のうちにここを離れるぞ。あの調子だとこの馬も取りに来そうだからな」
サビエルの言葉にレックは僅かに頷くと無言で従った。
幸い、グリフォンはなかなか戻ってこなかった。戻ってきたのはレック達がその場を去って30分近く経っていた。
何しろ、馬の死体をくすねるような魔獣やら肉食獣の類は既にグリフォンによって狩り尽くされていた。故に、仕留めた獲物を放置など出来たのである。
ただ、その時間はレック達に味方した。グリフォンが戻ってきた頃には、レック達は既に身体強化も使って馬を失った場所から数km以上も進んでいた。
草原を抜ける少し手前で細い川にぶつかったレック達は、そのまま西から流れてくる川沿いに進み、夕刻には浅い谷間へと足を踏み入れていた。
「とりあえず、この辺に何にもいない理由はよく分かった。あれが全部食い尽くしたわけだな」
「……そうだね」
薄暗くなりつつある川原をレック達は歩いていた。ただ、馬を死なせてしまったショックから、レックはまだ立ち直っていなかった。
それを見たサビエルが頭を掻きつつレックに声をかけた。
「もーちょっと元気だせ。お前さんには目的があるんだろう?」
サビエルが口にした目的という言葉に、レックは顔を僅かに上げた。
「うん。でも、やっぱりちょっとね」
そんなレックの様子にサビエルはため息を付きつつ、今はこれ以上は無理かと諦めた。代わりに周囲を見回し、野宿できそうな場所を探す。
生憎と身を隠せそうな洞窟だの巨岩だのはない。だが、夜目が利くフクロウでもあるまいし、グリフォンも夜の間は大人しくしているだろうとサビエルは割り切る事にした。少なくとも、普通のグリフォンはそうである。
やがて、完全に日が落ち、レック達は川原での野宿の準備を済ませた。と言っても、万が一にもグリフォンの気をひきたくない事もあり、焚き火は使えない。なので、せいぜい寝袋を取り出して終わりなのだったりする。
寝袋に潜り込みながら干し肉を囓り、サビエルは明日以降の予定を考えていた。
馬を失ったのは痛い。街に辿り着くまでどれだけの時間がかかるか知れたものではない。戦闘の際に馬をかばう負担が減った以上のマイナスである。
「どうしたもんだか」
サビエルが思わず漏らした一言を耳にしたレックが、同じく寝袋の中から声をかけた。
「身体強化で走るってのは?」
「お前さんと一緒にしないでくれ。普通の人間は、身体強化を丸一日連続で行使なんて出来ないんだ」
「あー……確かに、グランスとか30分くらいしか持たないって言ってたっけ」
「それはそれで短いと思うがね……」
懐かしむようなレックにサビエルはそう返した。
「でも、普通はどのくらい持つわけ?」
「そうだな。1~2時間ってとこじゃないか?俺はもーちょいもつけどな」
レックにはそう答えたものの、サビエル自身は4~5時間くらいいけるはずだった。流石に魔術師たるもの、一般人に魔力量で負けるような事はそうそうない。
ただ、そこまで魔力を使ってしまうと後がつらいのだ。いざというときに魔術を使う事が出来ないのも困る。
そんなわけで、サビエルとしては身体強化で一日に進める距離など知れているのだった。
だから、
「いっそのこと、夜に進んだら?」
そんなレックの提案も悪くないと思うのだった。
実際、翌日からレックとサビエルは昼間は岩陰などに隠れて夜に進むようにした。
幸い、草原を抜けて川沿いの谷間に入ったせいか、そこそこ大きな木だとか水にえぐられて出来たちょっとした崖とか、昼間ちょっと身を隠す場所には困らなかった。
とは言え、相手は空の上からとんでもない視力で獲物を探しているのである。油断は出来ない。レック達は、寝る時も一人は必ず起きているとかの警戒を怠る事はなかった。
その甲斐あってか、馬が無いなりに順調に進めたと言っていい。
昼間もあの巨大なグリフォンの影を見かける事もなく過ごせたし、夜も特に危険な目に遭うことなく先へと進めた。
ある可能性を完全に失念していたのは、そんな順調さ故だったかも知れない。
「なかなか一日二日じゃ、昼夜逆転はきついな」
欠伸をしながらサビエルが言うと、少し先を歩いていたレックが振り返り、
「しばらくはこんな生活になるんだろうし、早く慣れないと」
「あー、はいはい。若いっていいよなー」
「若いとかそう言う問題?」
「そんな問題だ」
そう言いきったサビエルに、レックはあきれ顔になりながらも再び前を向いて歩き出した。
その足下には夜にもかかわらず、うっすらと影が落ちていた。
「満月だねー」
星空を軽く見上げながらレックはそう呟いた。この辺りは背の高い木が少ないため、空がよく見えるのだった。尤も、周囲を山々に囲まれているため、見える空は些か狭かったりするが。
空に見える満月は時折雲に隠されたりするが、やや強く吹いている風に雲はあっという間に流されていき、隠れた月はすぐに現れる。
「そうだな」
サビエルもそれには反対しない。事実を否定するほど愚かではないし、なによりその満月のおかげで地面がよく見えるので歩きやすいのだ。道など無いところを歩いているので、これにはレックもサビエルも助かっていた。
ちなみに、夜に進む事にしたことで二人が享受しているメリットはもう1つあった。
涼しいのである。
そこそこの標高のおかげである程度気温が低いとは言え、季節は夏。昼間は暑い。そんな暑い中をじんわり汗をかきながら歩くよりは、夜の涼しい時間帯に歩く方が楽なのだった。
グリフォンの獲物にならないような小動物達も、暑い昼間より涼しい夜の方が活動しやすいらしく、時々鳥やら小さな獣やらの鳴き声が聞こえてくる。
その動物たちの鳴き声に時折耳を澄ませ、あるいは側を流れている川の水音に耳を澄ませ、レック達は明らかに登りになっているなだらかな斜面を歩き続けていた。
はっきり言って、馬を失った事で一番近くの町に辿り着くまでどれほどの時間がかかるか分からない。地図で見る限り、4000km以上も離れているうえに、途中には山あり谷ありで楽に進めるとは思えない。
それでも、人里離れたここでいつまでも過ごすわけにもいかない以上、レック達は歩き続けるしかなかった。
「この調子だと、何日くらいかかるだろうね」
「さあな。100日じゃきかないのは確かだろうさ」
毎日40kmずつ進んでそういう計算なのだから、もっとかかるのは確実だとサビエルは言った。勿論、この計算は身体強化を最大限使う事が前提になっているので、これより遅れる事はあっても早くなる事はないはずだった。
少ない上に丈の低い木々の梢を掠めていく風の音が鳴り続けていた。
「……?」
ふと、その音に異音が混じったような気がして、レックは足を止めた。
だが、後ろから吹き付けてくる風の音に特に異常はない……そう思ったのはつかの間だった。
「がっ!?」
不意に後ろから短い苦鳴が聞こえたかと思うと、次の瞬間、レックは後ろからぶつかってきた何かに勢いよく弾き飛ばされていた。
「くふっ!」
10m近くも弾き飛ばされる中、レックの目は前方へと跳び去っていく巨大な影と、その嘴にくわえ込まれたサビエルの姿をとらえていた。
だが、レック自身、身体強化をしてない時に大きく弾き飛ばされたのだ。大きな音を立てて地面の上を転がった挙げ句やっと止まっるまで、全身を支配する痛みのせいで身体強化を発動させる事も出来なかった。
それでも、巨大なグリフォンの影がサビエルをさらっていった事だけは理解していた。
レックは急いで身体強化を発動させようとして、
「ううっ……!」
体中を走るあまりの痛みに発動に失敗した。
「サビ……エル!!」
それでもさらわれた連れの名を呼び、無理矢理身体強化を発動させた。
痛みのせいでいつもより効率が悪いとは言え、レックの魔力で強化された視力は満月の明かりだけで辺りを昼間のごとく見通す。
その視力でもって、かろうじて遙か前方の空に、サビエルをさらっていったグリフォンの影を見つけ、レックは地面を蹴りつけたのだった。