第十章 第四話 ~当てない旅で~
ナスカスで一泊した蒼い月の一行は、翌日にはユフォルへと向かって旅立った。予定ではもう一泊するはずだったのだが、ナスカスの物資のなさに早めに移動した方がいいだろうとグランスが判断したためである。
ちなみに、懸念されていたナスカスの一部の男達の暴走などはなく、寝不足の一名を除き、無事に朝を迎えた事を付け加えておく。
暑い中、時折夕立に襲われたりもしながら――しかし、リリーの精霊魔術のおかげで誰一人濡れなかった――ユフォルに到着し、預けていた馬車を引き取った一行は、再びナスカスを経て、更に東へと向かっていた。
「やっぱ、森の中は涼しくていいよな」
ガタゴトと揺れる御者台で呑気に言ったのはクライストである。
「そうだな。外だと木陰ですら暑かった」
手綱を握っているグランスがそう答えるが、森の中を進んでいる今もじんわりと汗は滲んできている。それでも日差しに直接晒される森の外よりは随分とマシだった。
今彼らがいるのは、ナスカスから東に進み、河も越えた先にある森だった。この森の中には廃棄された町の1つであるシャックレールがあるはずで、グランスたちの目的地はそこだった。
だが、問題もあった。
幸町まで道は整備されているものの、2年近くも放置されていた以上、馬車でシャックレールまで行けるとは限らない。となると、途中で馬車を置いて行かざるを得ない可能性が高いが、森の中には比較的強力なエネミーが数多く生息しているのだ。
勿論、森の外からシャックレールまでクランチャットが届くなら、無理に森に入る必要はない。森の側でクランチャットを打ってみればいいのである。だが、シャックレールまで迷わず行けるだけの情報はあるのだが、正確な距離が分からなくなっていたため、行かざるを得なくなっていたのだった。
そんな事情もあって森の中へと入ってきた蒼い月だったが、馬車でシャックレールまで行けるなら良し。行けないならシャックレールは後回しにして、後日、ナスカスに馬車を置いて来る事になっていた。
ちなみに、まだ森に入って数分と比較的浅いところを進んでいるせいか、エネミーの気配はない。代わりに、小鳥たちの鳴き声が森には満ちていた。
「この調子でエネミーも出ないといいんだがな」
グランスがそう言ったとき、馬車が大きく揺れた。放置されている街道だけあって、地面がかなり荒れているのだ。
馬車も随分と改良されてきているとは言え、あくまでも乗り心地が大きく改善されたのは整備された街道を走るときだけである。今のように荒れた土地を走ると、まだまだ酷く揺れるのだった。
「エネミーが出るかどうかより、先にもう一人くらい酔いそうだぜ?」
「……もう少しゆっくり進むか」
クライストの言葉に、誰の事を心配したのかグランスが馬車の速さを更に落とした。おかげで、もう普通に歩くのとどちらが速いかかというレベルである。
ちなみに、馬車の中では既にマージンが酔って倒れていた。厳密には馬車の隅で馬車の柵にもたれかかるように潰れている。ちなみに先ほどクライストがもう一人と言ったのは、既にマージンが潰れていたことが理由である。
「……大丈夫?」
そんなマージンに、白を基調とした涼しげな格好のリリーが声をかけた。が、見事なまでに青ざめたマージンから返事はない。
「そこまで酔われるとむしろ感心するのう……」
心配より呆れの方が勝った声音でそう言ったのはディアナである。
肩まで大きく露出する薄手の服を身に纏ったディアナは、汗で紫色の布がその肌へと張り付き、得も言われぬ色気を醸し出していた。
「感心というか……むしろ、わたしは心配……です」
ミネアの方はというと、こちらもディアナと同じく比較的薄手の服を着ているが、露出は控えめだった。ちなみに、グランスの心配とは裏腹に、マージンがあまりにも酷く酔ったのを見たのが効いた訳でもないだろうが、今のところ元気そうである。
一名を除けば割とノンビリとした時間が、そんな具合で過ぎていく。
だが、今彼らがいる場所はこの一帯では最もエネミーが数多く生息している森なのだ。その森の真ん中へと進んでいく以上、エネミーに遭遇しないわけはない。
案の定、森に入って30分と経たないうちに、遠くから獣の吠える声が聞こえてきた。
「そろそろ危険地帯という訳か」
グランスの言葉に、潰れている一名を除いた仲間達の緊張が嫌でも高まった。
馬車で移動しているという事は、馬を守りながら戦わなくてはいけない。これが見晴らしのいい草原などであれば接近される前にエネミーを見つけて向かい討てばいいのだが、森の中では下手すれば気づくと同時に馬を襲われかねない。
そんな時に真っ先に攻撃を仕掛けられるミネアは、いつでも矢を放てるように既に弓を構えていた。後は弦を引いて矢を放つだけという状態である。
リリーもあらかじめ河で補充してきた水をグランスと馬をつなぐ手綱にたっぷりと纏わせ、即座に反応できるようにしている。
そんな二人は勿論自身の守りにまで気が回っていないので、馬車の方の守りは槍を取り出したディアナが引き受けていた。
が、
「……一人では少しきつい気がするのじゃが」
3人+馬車本体を一人で守るのは、やはり無理がある。
「俺も後ろ行くぜ」
ディアナが零した台詞を聞きつけ、クライストが御者台から移ってきた。
そこで潰れている一名に視線をやり、それから外を見て、グランスに声をかけた。
「グランス、一旦馬車止めねぇか?」
「何かあったのか?」
「この速さなら、歩いても変わらねぇだろ?ならマージンの調子が戻るまで休んで、その後マージンに馬車の横を歩いてもらったら戦力が一人増えるぜ」
「なるほどな」
クライストの提案も尤もだと思ったグランスは、すぐに馬車を止めた。
「マージンはどのくらいで使い物になりそうだ?」
「かなり酷いから、しばらく無理かも」
前方への警戒を怠らないまま声をかけてきたグランスに、潰れているマージンの代わりにリリーが答えた。
「そうか」
予想通りの答えにグランスは短く答えた。その声に焦りはない。止まってしまえば待ち伏せを食らう事はないわけで、その分、警戒にも余裕が生まれるからだった。
ただ、しばらくここで休む事になるのは確かなわけで、グランスは御者台から降りる事にした。
「クライストはそのまま中でミネアとリリーの護衛をしてくれ。ディアナは俺と一緒に外で警戒に当たってくれ」
そう指示を出し、馬車で潰れているマージンの様子を見にやってきた。
「……どうだ?」
「………………止まって少し……マシに」
とは言うが、マージンの顔はまだまだ青い。ただ、早くも返事くらいは出来るようになっているし、10分も休めば大丈夫だろうとグランスは当たりを付けた。
それから10分後。
グランスの予想通りに随分顔色が良くなったマージンは、馬車から降りていた。
ちなみに、馬車から降りる前、マージンはリリーに看病してもらっていた礼を言ったのだが、今度はその際に頭を撫でられたリリーが倒れかけたのは余談である。
「やっぱ、揺れへん地面はええわ」
軽く身体を動かしているマージンにグランスが声をかける。
「戦えそうか?」
「万全とは言えへんけど、最初の攻撃だけ凌げばええわけやし、問題はないと思うで」
マージンはそう言いながらツーハンドソードを抜き放ち、数度ほど軽く振り回した。
「……酔い止めの腕輪とか、研究せなあかんな」
「ああ、是非ともそうしてくれ」
何の脈絡もなく聞こえてきた言葉に苦笑しながら、グランスは馬車の御者台へと戻った。
「そろそろ出発するぞ」
それを合図に、仲間達は休憩の間に決められた配置へと移動する。
まず、先頭はマージンである。馬よりも先を進んで、待ち伏せなどの警戒および迎撃に当たる。
次に御者台にグランス。動きづらい場所なので、防御力が高いほうがいいだろうという理由である。
ミネアとリリーは馬車の中であるが、先ほどまでと違って、リリーが水の精霊魔術で守るのは馬車本体になっている。
その二人を横で守るのはクライスト。この人選は狭い馬車の中で武器を振り回すのは難しいからである。
最後に、馬車の後ろにディアナが付く形であるが、ディアナは馬車に乗っていた。馬車は人が歩く速度程度で進む予定なので、何かあってから飛び降りても怪我などはしないだろうという訳である。
そうして進み始めた馬車の中では、ミネアがまだ微かに顔に赤さが残るリリーに声をかけていた。
「大丈夫……ですか?」
「……えっと、うん」
声をかけられたリリーは、何となくマージンを追っていた視線を慌ててミネアへと移した。
リリーとマージンを除く4名は、ナスカスで宿を取った後、リリーとマージンの間に何らかの進展があったのかずっと気になっていた。まあ、すぐに何も無かったらしいとは分かったのだが、先ほどのリリーの様子でそれは確信に変わっていた。
(あの様子だと……マージンはまだこの子の想いに気づいてすらいないのでしょうね……)
そんな事を思いつつ、ミネアはそっとため息を吐いた。
正直、ミネアもレックがリリーに寄せる想いは気づいていた。なので、レックがいない間にリリーとマージンを引っ付けるような事をするのには後ろめたさも感じないでもない。だが、やはり同性のリリーを優先したいと思うわけでナスカスでの事には反対しなかったのだが、あそこまで状況を整えてこれでは、先が思いやられるというか、リリーが不憫というか。
そんな事を考えていたミネアだったが、今は周囲への警戒を怠る事は出来ない。リリーの注意力が少しでも戻った事を確認すると、ミネアもまた周囲への警戒に注意を割き始めた。
そして、数分後。
「来たで!」
マージンが叫ぶより早く、大きな羽音が襲ってきた。
大きく開け放たれていた幌から羽音の方へと視線を向けたミネアの目に、幾つもの緑色の光沢が飛び込んできた。
大きく翅を広げて猛烈なスピードで飛ぶそれは、50cm以上のサイズがある巨大な甲虫だった。それが数十匹。
ミネアがすかさず矢を放つも、そのあまりの速さになかなか当たらない。それどころか、随分固いらしく、当たってもその甲虫たちは平然と馬車の周囲を飛び回っていた。
ザシュッ!
一方、馬車の前方では馬に飛びかかってきた巨大な緑色の甲虫たちをマージンが威嚇していた。たまに運の悪い甲虫が、マージンの剣の餌食になるが、それはまだ僅か2匹だけ。
「ヒヒィイイイインンン!!」
「くそっ!またやられた!」
「すばしっこ過ぎるで!」
マージンの隙を突いては馬に噛みつき、肉を食いちぎっていく甲虫たちにマージンが焦りを見せる。
一方のグランスは御者台から降り、既に何度も背や脇腹の肉を食いちぎられ、痛みと恐怖から恐慌状態に陥った馬たちを力尽くで抑え込んでいた。とてもではないが、甲虫を迎撃する余裕はない。
そんなグランスを抵抗できない相手と見たのか、甲虫たちは容赦なく襲いかかるが、最低限の防具は身につけていたおかげでグランス自身は大した怪我には至っていなかった。尤も、馬の血で真っ赤には染まりつつあったが。
そんな馬車の前方と違って、馬車本体は全く襲われていなかった。
元々幌を張るための骨組みのおかげで、甲虫たちは馬車の中のミネア達を襲えていなかった。そこにリリーの精霊魔術が合わさる事で、馬車にとりつこうとした甲虫たちは次々とばらばらにされていたのである。
その様は、
「えげつねぇな」
思わず漏らしたクライストの台詞が、全てを物語っていた。幸い、虫系のエネミーは倒しても体液などはほとんど飛び散らない。それが救いだろうか。
尤も、馬車本体が大丈夫だからと言って、ノンビリしていられる状況でもない。
「グランスっっ!!」
馬たちを抑えているグランスが甲虫たちに襲われているのに気づいたミネアが悲鳴を上げた。
「クライスト!」
「分かった!」
飛び出そうとするミネアをディアナが羽交い締めにし、その横からクライストが馬車を飛び出した。
即座にクライストも甲虫たちに襲いかかられるが、身体強化さえしていれば、ついていけない速さでもない。
クライストは群がる甲虫たちを振り払い、時に殴り飛ばしながらグランスの元へと急いだ。
それに気づいたグランスが叫ぶ。
「クライスト!馬に治癒を!このままでは死んでしまう!」
だが、クライストにそんな暇はなかった。
治癒魔術を使うためには動きを止めなくてはならない。そんな事をすれば、クライスト自身が甲虫の餌になってしまうのだ。
マージンに援護を頼もうにも、マージンは既に馬に群がる甲虫たちを追い払うので手一杯だった。もしそちらの手を止めれば、馬はあっという間に食い尽くされてしまうだろう。
しかし、このままでも馬が死んでしまう。
そう焦っていたクライストの視線を、何本もの細い糸が横切った。それは宙を飛び回っていた甲虫たちの間で踊り狂う。
それと同時に、何匹もの甲虫たちがその軌道を乱し、周囲の木々へと激突、四散した。
その様を見せつけられ、半分以上残っている甲虫たちが思わず距離をとる。警戒する程度の知能はあったらしい。
「今のうちに!」
その声に、今のがリリーの仕業だと察したクライストはすかさず治癒魔術を行使した。
見ると、もう一頭の馬にもマージンが治癒魔術をかけていた。
だが、十分な治療を行っている暇など無い。
とりあえず、馬たちの出血が止まった事だけ確認すると、クライストとマージンは再び襲いかかってきていた甲虫たちの迎撃を再開した。
だが、リリーの精霊魔術以外に頼れる遠距離攻撃がない状況では、遅々として殲滅が進まず、襲ってきた甲虫たちを粗方倒し、残りが逃げ去っていくまでには更に10分以上の時間を要した。
「……何とかなったか」
ミネアに治療を受けながら、グランスが大きくため息を吐いた。
「馬も生きとるしな」
マージンの言葉通り、何とか危機を脱し、怪我も治療された馬たちは何とか落ち着きを取り戻していた。
だが、ディアナが首を振った。
「生きてはおるが、これ以上は進めまい。馬車で進むというのが、甘い考えじゃったのじゃろうな」
「そうだな。この調子で襲われたら、次は馬車を捨てざるを得まい。シャックレールまで行ければ良かったんだが……ここからでもクランチャットは届くか?」
グランスはそう言いながら個人端末を取り出し、クランチャットでレックに向けてメッセージを打った。そして待つ事数分。
「返事は無し、か。やはり一度行ってみる必要はあるな」
とは言え、馬車のまま行くのは無理だとグランスも認めていた。
「サーカスにまずは行ってみよう。その後、今度は徒歩で来るしかないな」
「ってことは、ここで引き返すんだな?」
クライストの言葉にグランスは頷き、早速御者台へと上がる。
他の仲間達も配置に戻ると、馬車を方向転換させて森を出たのだった。
森を出た後、その森を迂回するような進路で東に進み始めて三日。グランスたちはサーカスを視界に捕らえるところまで来ていた。
だが、未だにクランチャットにレックからの応答はない。
「結局、サーカスにもいないということなんだろうな」
「そうみたいやな」
今日も御者台に座っているグランスと、この間手ひどく酔ってから中より外の方がいいと御者台にいる事が多いマージンがそう言葉を交わした。
それを聞きつけ顔を出したディアナが、御者台の二人の会話へと加わった。
「後はシャックレールとか、もっと南の方のミリオドットやミーアクアくらいじゃのう」
「全部回ると……馬車でも2~3週間かかりそうだな」
グランスは大雑把な地図を頭の中に思い浮かべ、大体そのくらいだろうと必要な日数を見積もった。
馬車を使って回るだけならそれほど日数は要らないはずなのだが、如何せん、ディアナが名前を出したミリオドットもミーアクアも『魔王降臨』から間もなく放棄され、今ではシャックレールやサーカスと同じくゴーストタウンと化していた。当然、それらの町では食料などの補充が出来ない。そのため、食料の補充のために一度はナスカスに戻らなくてはいけない計算だった。
さて、既にサーカスにレックはいないと判断したグランスたちだったが、一度はサーカスに入る予定だった。既に日も傾きつつあり、今から西へと引き返して下手な場所で野宿するより、ゴーストタウンであっても町の中の方がゆっくり出来るだろうという判断である。
だが、サーカスまで後1kmくらいになった時だった。
「……旦那、ちょい馬車止めてや」
すぐ隣で前方を見つめていたマージンのそんな言葉に、グランスは首を傾げつつもとりあえず馬車の速さを緩めた。
「どうかしたのか?」
そんなグランスの言葉に、マージンは御者台で立ち上がると前方のサーカスに身体強化まで使って目を凝らした。
その真剣な様子に、グランスは速度を緩めていた馬車を今度こそ止めた。それが合図だったわけでもないだろうが、マージンが口を開いた。
「サーカスって無人やったと思うんやけど……」
「ああ。放棄されてからは誰もいないはずだ」
グランスが即答すると、マージンは首を傾げ、後ろの馬車へと声をかけた。
「クライストかディアナか、どっちでもええから、ちょいサーカスを見てみてくれへんか?」
「なんだ?」
名指しされた二人が顔を出すと、マージンは改めてサーカスを指さし、よく見てくれるように頼んだ。
クライストとディアナはそのことに首を傾げながらも、身体強化を発動させて視力を強化してサーカスを観察し、そしてマージンと同じものを見た。
その二人の様子を見たマージンは、二人の言葉を待つまでもなく自分の目の錯覚ではないと確信した。
「人はおらへんはずなのに、人影っぽいものが動いとる……やな予感しかせえへんわ」
「大陸会議が把握できてない連中が住み着いてるんじゃないのか?」
グランスがそう言ったが、クライストが首を振って否定した。
「あれは人間ってより、亜人型のエネミーって言われた方がしっくり来るぜ」
瞬間、それをちゃんと視認していなかったグランスに加え、馬車にいたミネアとリリーにも緊張が走る。
「プレイヤータウンにエネミーは入れないんじゃないの?」
「そのはずだが……」
リリーの疑問に誰も答えられない。
だが、ノンビリしている暇はなさそうだった。
「……あー、やっぱあっちからこっちは丸見えみたいやな。なんや、動き出したで?」
マージンの言葉に仲間達がサーカスへと視線を向けると、確かにサーカスからごま粒ほどの影が幾つも出てくるのが見えた。
「よく分からないが……距離はとった方がいいと思うか?」
「だな。逃げた方がいいと思うぜ」
まだ判断しかねていたグランスだったが、クライストの言葉にマージンとディアナの二人が頷くのを見て、即座に馬車を反転させた。
その瞬間、マージンが御者台から飛び降りた。
「マージン!?」
「ちょい、あれの正体だけ見てくるわ。街道沿いなら追いつけるやろから、先行っといて」
驚く仲間達にそう声をかけると、マージンは街道から南に外れていく。
その様子にどうやら正面から謎の影とぶつかるつもりではないらしいと察したグランスは、マージンに了解の意を伝えると馬車を走らせ始めた。
それに驚いたのはリリーである。
「ちょっと!マージン一人だけで行かせるの!?」
「あの影の速さなら、マージンが全力で逃げれば余裕で逃げ切れるはずじゃ。マージンもわざわざ無駄な危険は犯すまいし、心配は要らぬじゃろう」
ディアナにそう説明され大人しくなったが、それでもその視線は既に豆粒よりも小さくなったマージンの背中を追っていた。
そんなマージンはというと、街道から少し離れたところの木の陰に身を隠していた。ここから馬車を追いかけて行くであろう謎の影を観察するつもりなのである。
「まー、オークかゴブリンか……大きさから見てオーガやトロルはあらへんやろな」
そう呟いたマージンの顔に、不思議と驚きの色はない。疑問を持つよりも先に自分の目で見たそれを素直に受け入れた――そうも取れる感じだった。
それはさておき、どうやらサーカスから出てきた影の主達は大して足が速くなかったらしい。身体強化無しでも、冒険者なら4分とかからない距離だったのだが、マージンが身を隠して6分と少し。やっとマージンが隠れている木の側まで影の主達がやってきた。
「……やっぱ、オークやな。やけどあれは……」
既に日も落ち、辺りも徐々に暗くなってきているせいか、それとも単にオークの注意力がないのか。まず後者だろうが、20体を超える数のオーク達はマージンに全く気づく様子もなく、どたどたとグランスたちの馬車が走り去った方角へと街道を走っていった。
その中に3体ほど雰囲気が違うオークが混じっていた事を見て取ったマージンは顔を顰めた。
「グランスたちが途中で馬車を止めとったら……あれに気づくの遅れたらまずいなぁ……」
そうぼやきながら、グランスたちがあのオークの群れと正面からやり合う場面を脳内でシミュレートする。その結果はあまり芳しいモノではなかったらしい。
しばらくしてシミュレートを終えたマージンは軽く頭を振ると、ツーハンドソードを背中から抜き放った。左手にはアイテムボックスから取り出した投擲用ナイフを3本。
「しゃーないな。幸いこっちは奇襲できるし、あれだけは仕留めさせてもらおか」
そう呟くと、マージンは街道に戻り、オーク達の後を追った。
そんな事があったとはつゆ知らず、グランスたちは2kmも行かないうちに馬車の速度を緩めていた。勿論、マージンに追いついてもらうためであるが、当のマージンがそのことを知ったらもっと遠くまで逃げろと叫んだ事だろう。だが、ここにマージンはいない。
「で、結局、さっきのはなんだったんだ?」
グランスの言葉に、馬車の中から後ろを警戒しつつクライストが答えた。
「二本の足で立ってたしな。亜人種系のエネミーだろ。サイズから見てオーガとか面倒な連中じゃなかった事は確かだぜ」
「それより、マージンまだ帰ってこないの?」
「まだ早すぎるじゃろう」
ディアナがそう言うが、やはりリリーは心配らしい。
「もー、この辺で待とうよ」
そう言い出した。
「ふむ……2km以上来たわけだが……」
「大抵のエネミーならもう諦める距離だな」
クライストの言葉にグランスは軽く頷くと、手綱を引いて馬車を止めた。
「ここでマージンを待とう。念のため、クライストとディアナの二人は警戒に当たってくれ」
そう指示を出すと個人端末を取り出し、マージンへと連絡を付けようとして、手を止めた。
(隠れてる時に音なんか鳴ったら、まずいか)
という訳である。
が、グランスが何故手を止めたのか、理解できなかった仲間もいた。むしろ、クランチャットは名案だとばかりに、リリーは自分の個人端末を取り出すと、マージンへとメッセージを送ってしまった。
ピロンポローン
普段は聞き逃す事も多い音が鳴った。大した音量ではなく、実際今の場面でなければ、問題にもならなかっただろう。
「……!!」
休息を取り始めたオークの群れに後数十mというところまで接近したそのとき、懐で不意に鳴ったその音にマージンは舌打ちしかけたが、すぐに気を取り直した。
その視線の先では、今の音を聞きつけたらしいオーク達が周囲を見回し、きょろきょろし始めていた。それほど耳がいい亜人ではないのだが、個体差もある。気づいてしまったオークがいた事で、他のオークも反応したのだろう。
そんなオーク達は、姿を隠していなかった――というより、身を隠す場所がなかった――マージンをすぐに見つけ、うなり声を上げ始めた。
その中に一体だけ混じっているローブっぽいボロを纏ったオーク。それがマージンが一番懸念しているオークメイジだった。名前の通り、大した威力ではないものの、攻撃魔術を使えるオークである。
そのオークメイジに狙いを定め、マージンはナイフを投擲した。
だが、既にマージンを見つけていたオーク達が振り回す武器に次々と叩き落とされる。
かろうじて3本目のナイフがオーク達の武器をすり抜けオークメイジへと迫ったが、
「マジか!?」
オークメイジはひょいっと首を捻って躱してしまった。
そしてにんまりと笑うと――マージンにはそう見えた――杖を掲げた。
その様子を見たマージンは、
「まずっ!」
慌てて身を翻してサーカスの方へと逃げ始めた。
その後ろを一足先に走り始めていたオーク達が追いかけるが、マージンはそれよりオークメイジの方が気になっていた。
何しろ、攻撃魔術を使えるのである。
身体強化さえしていればオーク程度に追いつかれる心配はないが、攻撃魔術は別だった。
背中にぞくっと寒気が走ったマージンは、いきなり右へと折れる。
そのすぐ横に小玉スイカほどの火の玉が着弾した。
「わちちちち!!」
四散した火を少し浴び、マージンは叫ぶが、今のを避けた事でかなり余裕は出来た。
少しだけ立ち止まって後ろを振り返ると、数十mほど離れてオークの群れが走ってきていた。その向こうでは、攻撃魔術を外したオークメイジが両脇をオークガードに固められ、もたもたとマージンを追いかけ始めているところだった。
「あー……。まあ、これなら目標は達成やな」
全てのオーク達が自分を追いかけ始めたのを確認し、マージンはそう呟いた。
元々、オークメイジにグランスたちの馬車を追いかけさせないために、ちょっかいを出そうとしていたのである。経緯はどうあれ、オークメイジが追いかけてきてくれるなら、後は適当に距離をとりつつ馬車と反対方向に誘導し、適当に撒いて逃げるだけだった。
マージンはしばらくの間オーク達を引っ張り回していたが、もう十分と見るや、身体強化で一気に速度を上げ、あっさりとオーク達を振り切った。
そして、それから10分としないうちにクランチャットで連絡を取ったマージンは、グランスたちと合流した。
「にしても、町にオークが住み着いてるとはな」
サーカスから更に20km以上も戻ったところで、マージンと合流した蒼い月の一行は焚き火をしていた。勿論、サーカス方面からは見えにくいように馬車を壁代わりにしてである。
「町にはエネミーは入れないはずじゃがのう」
グランスの言葉に、ディアナがそう答えた。
「しかし、確かにオークはサーカスから出てきとったで」
「だよな。俺も見た」
「わたしは見ていませんけど……嘘を吐く場面でもありませんし……」
「あたしも信じるよ!」
最後のリリーは、妙に力が入った言葉を吐いた。
だが、無理もないと言えば無理もない。合流したマージンから話を聞いて自分の失敗を突きつけられ、あわや泣きそうになっていたのである。
幸いマージンがケロリとしていたのでそれで済んだが、先ほどの失敗分を是非とも取り戻したいというわけだった。
「まあ、誰も信じないとは言っていないんだがな……」
何故か四面楚歌っぽい状態に置かれたグランスが、ため息を吐きながら言葉を続ける。
「とりあえず、このこともギルドに伝えておいた方がいいだろう。単に人がいない町だから入れたのならまだいいが、そうじゃないなら事だからな」
「もう知っとるかもしれへんけどな」
余計な茶々を入れたマージンをじろりと睨み、「それでもだ」とグランスは答えた。
そんな二人のやりとりを見ながら、クライストが地面に寝っ転がった。
「にしても、それだとこれから放棄された町は迂闊に寝床にできねぇな」
「そうじゃのう。まあ、馬車があれば寝袋よりはマシじゃがのう」
「天井と壁が幌ってのが、何とも防御力が低そうで不安やけどな」
馬車に視線をやったマージンの台詞に、仲間達も唸った。
確かに、幌ではエネミーに襲われた時に壁代わりに使う事すら出来ない。
だが、
「どっちにしても馬という弱点がある以上、エネミーを馬車に近づけずに戦うしかないがな」
そんなグランスの台詞も尤もだった。
その後も、最悪の時に最後の壁になるとか、冬は幌じゃ寒そうだとか、いっそのこと馬にも鎧を着せてみてはとかいろんな意見が飛び交った。
だが、切羽詰まった問題でなく各自が好き勝手言っていたため、何の結論も出なかった。
ただ、言えている事もある。
「……馬より頑丈で馬車を引けるのがおればええんやけどなぁ」
つまりはそう言う事だった。
サーカスに巣くっていたオーク達から逃げ出した蒼い月の一行は、それから2週間ちょっとをかけ、予定通りミリオドットとミーアクアを回っていた。
ちなみにミリオドットは植物が好き放題に生え、その間を小動物達が駆け回るという一種のどかな雰囲気を醸し出していたが、ミーアクアにはゴブリン達が住み着いていたとだけ記しておく。
そして、一度ナスカスに戻った彼らは予定通り馬車を預け、シャックレールのある森へと再びやってきていた。
森の中は3週間前に来た時と同様、鳥たちのさえずりで満ちていた。今はそれに加えて、蝉まで鳴いている。
「蝉がうるせぇな」
クライストがそうぼやくと、
「確かにのう。前はこんなに五月蠅くなかったがの」
とディアナも周囲を見回しながらそう言った。
「前は午後やったしな。こいつら、午後は暑すぎてあんま鳴かへんし、それが理由ちゃうか?」
そう言いながら、マージンは道ばたの木に止まっていた蝉を一匹捕まえた。
捕まった蝉はギィギィと暴れながら鳴き散らした。
「人から逃げるとかいう脳みそあらへんみたいやな」
しばし捕まえた蝉を観察していたマージンは、そう言うと蝉を放り投げるように放した。
「今の……酷くないですか?」
「いや、普通に放すとしょんべんかけられるやん」
非難がましいミネアに、マージンは悪びれることなくそう答え、
「あー、それあるね~」
「あるな」
「ああ、あるな」
と、蝉取りの経験者達がマージンの言葉に理解を示した。
「しっかし、ナスカスにミネアだけ残してくるわけにはいかんかったんは分かるんやけど……」
そう言うマージンの視線は、ミネアのお腹へと向いていた。
既にそこは誰の目にも分かるほどに脹らみつつある。現実と同様の経過を辿るのであれば、後一月も経たないうちに戦闘のような無茶は出来なくなるのは明白だった。
それを見た他の仲間達も、
「仕方あるまい」
「仕方ねぇよな」
としみじみと頷いている。
ちなみに、ミネアの妊娠がはっきりした段階では思ったほど誰も混乱しなかった。既にそう言う噂が流れていて、誰もがそれを耳にしていた事が大きい。
尤も、仮想現実のはずのこの世界で生まれてくるものが何なのかという点については、仲間内でも喧々囂々の議論があった。
だが、それが何であれ産んでみたいというミネアの強い要望と、そんなミネアを支え続けるというグランスの断固とした意思表明により、仲間達はとりあえず様子見という方向で一致した。
さて、少し話が逸れたついでに、もう少しこれについて放しておく事にしよう。
この時点で既に、キングダム大陸全体では何十人もの女性達が妊娠し、赤ん坊を出産していた。
生まれた赤ん坊達は大陸会議が総力を挙げて調査しているのだが、今のところ、普通の人間の赤ん坊と何ら変わるところは見つかっていない。
勿論、仮想世界のはずのここで生まれた赤ん坊がまともであるはずはないという意見も根強く、そういった人々の間では今のところ、赤ん坊の正体はコンピュータ制御のAIなのではないかという説が有力だった。
ただ、それでも大陸会議は生まれた赤ん坊を殺す事を禁止していた。理由としては、見た目には人間の赤ん坊そのものである何者かを殺すのは、やはり誰にとっても精神的に良くないという事が大きい。
実際、自分が産んだ赤ん坊への恐怖から、産んですぐに殺してしまった母親もいたのだ。だが、そういった母親達はすぐに精神を病んでしまっていた。ただでさえ理解できない現象への恐怖で精神が参っていたところに、赤ん坊にしか見えないモノを殺した事で、殺人への罪悪感に苛まれ、彼女たちの精神の限界を超えてしまったのである。
そこで大陸会議は、赤ん坊の正体を調べるための研究を兼ねる形で、自力で赤ん坊を育てる事を拒否した女性達から赤ん坊を預かり、一箇所に集めて保育し始めていた。
尤も、妊娠した女性達全員が全員、出産した赤ん坊をそこに預けたわけではない。
中には、愛玩用ロボットを可愛がるのと大差ないとか、AIでもこの世界での私の子供には変わりはないんだと開き直って、自らが産んだ赤ん坊を育てている強者達もいるのだった。
「まあ、シャックレールまでは徒歩でも4日もかからんだろう。そうすれば、レックがいてもいなくても一度キングダムに帰るわけだし、まだ大丈夫のはずだ」
グランスはミネアに寄り添いながら、そう断言した。が、その目は明らかにミネアを心配した。
それを見ていたリリーが、ぼそりと零した。
「いいなぁ~……」
「ふむ。何がじゃ?」
「え?あ!?な、何でもないよっ!?」
意地悪くディアナに訊かれ、リリーが慌てて両手を振って否定した。
それをどこか寂しそうに見ているのはクライストだった。
それに気づいたマージンが、
「どないしたんや?」
と声をかけるも、
「いや。何でもねぇよ」
そう苦笑しながら答えた。
そんな具合で一行は、時折雑談を交えながら森の中を歩いて行く。勿論、周囲への警戒は怠っていないが、足手まといとなる馬がいない分、随分とリラックスしていた。
元々、『魔王降臨』前でもこの辺りはぎりぎり何とかなるエネミーばかりだったのだ。なので、身体強化やらリリーの精霊魔術やらで火力ががっつり上がった今、馬という足手まといさえなければ割と何とかなる自信が彼らにはあるのだった。
だが、いくらエネミーが多い森の中とは言え、徒歩でノンビリと進んでいればそれほど襲われる事もない。
そして、3週間前に巨大な甲虫の群れに襲われた場所を過ぎた頃、マージンがぽつりと漏らした。
「……暇やな」
「暇なぐらいがちょうどいいだろう?」
「そやねんけどな」
グランスの言葉に頷きながらも、マージンは物足りなさそうだった。
が、
「前に来た時はあの様じゃったというのに、此度は随分余裕じゃのう」
そんなディアナの言葉に、思わず苦笑した。
「確かに、あん時は酷かったよな。生ける屍って感じだったしな」
「ああ。まさかあそこまで酔うとはな」
クライストの言葉にグランスが頷いた。
「人間、乗り物酔いであそこまでいけるとは……正直知らなかったぞ」
「いや、知らんでええし。ついでに言うなら、忘れてくれるともっとありがたいんやけど」
あのときの事をあまり思い出したくないらしいマージンは、割と真剣である。
が、
「あたしはもう忘れたよ?」
「……おおきに」
どこか間違えた方向のリリーのフォローに、マージンは撃沈した。
その様を見ながら、ディアナがふと首を傾げた。
「どうした?」
「いやの。かれこれ2時間以上も歩いておるはずなのに、エネミーに襲われんものじゃなと思ってな」
ディアナの言葉に、グランスもそう言えばと周囲を見回した。
確かに、徒歩はあまり大きな音を立てたりしないのでエネミーとの遭遇率は低いのだが、エネミーが多く生息している森の中ともなれば1時間に1回くらいはエネミーと遭遇する。それが理由でこの森に入ろうとする者はほとんどいないのだが、それはさておき。
尤も、
「運が良ければそんなもんだろ?タイマーで遭遇するわけでもねぇし、これくらいは普通だろ」
と言うクライストの言葉通りだった。
が、それも2~3時間程度の話である。
結局、昼過ぎになってもエネミーと一度も遭遇しない状況が続くに当たって、流石に全員が首を傾げ始めていた。
「一応、確率的にはあり得ない話ではないんだが……」
昼食を交互に取っている間、見張りに立っていたグランスが隣に立っていたマージンにそう零した。
「そやな。これくらいなら、まだ運がいい部類に入るんちゃうか?」
どうやら、マージンはまだ気にかけていない様子である。呑気にグランスにそう返した。
が、グランスはそうもいかない。こういったいつもと違う事が起きていると、妙に気になるのだ。
ただの心配性と言われればそこまでだが、何かあれば仲間達の、ミネアの身の安全が脅かされることもあり、嫌な予感というものを大切にするようになっていた。
「……こういうパターンでありそうなのが、ボス級のエネミーが湧いていて、雑魚が全部どっか行ったというのなんだが」
そんなグランスの台詞に、グランスと同じようにどこか不安になりかけていた仲間達がシンとなる。
が、呑気なマージンがそれをあっさりひっくり返した。
「いや、それはあらへんやろ。鳥の鳴き声はいつも通りや。そんな危ないんが湧いとったら、鳥も逃げとるはずやで」
その言葉に、仲間達も耳を澄ませ、確かに鳥たちはいつも通り鳴いていると頷い、この時は納得した。
しかし、夕方になるまで一度もエネミーと遭遇しないともなると、流石にマージンも首を捻り始めていた。
「助かるっちゃ助かるんやけどな。ここまで遭遇せえへんのは、流石に運がいいとかじゃ済まへんな」
シャックレールまでの道の途中に設けられた、野宿用と覚しきちょっとした石畳の広場の真ん中で、彼らは野宿の準備をしていた。それが一段落した時点での台詞である。
「エネミーの気配を感じて回避しながら来たってなら話は変わるけどな。そうじゃねぇしな」
万が一に備えて、目立たないようにとやたら小さい焚き火に小枝を放り込みながら、クライストが答えた。
「エネミーの気配など、つゆほども感じなんだのう」
ディアナがそんな事を言うが、別段気配を察知するのに優れているわけでもない彼らはそれこそエネミーが襲ってくるまで気配など感じないのだが、そこには誰も突っ込まない。突っ込むような気分でないのである。
代わりに、
「とりあえず、だ」
そう口を開いたグランスへと仲間達の視線は自ずと集まった。
「いくら深い森でもシャックレールまで一週間も歩かないといけないという事はなかったはずだ。遅くても明日にはクランチャットの有効範囲にシャックレールが入っていると考えていいだろう。
出来ればシャックレールまで行ってみたかったが、サーカスやミーアクアのことを考えると、迂闊に近寄りすぎると万が一の時が面倒だ。明日、夕方が来る前にクランチャットで確認をとった上で、反応がなければそこで引き返そうと思うが、どうだ?」
「良いのではないか?」
「だな。いいと思うぜ」
「わたしも……いいと思います」
既に不安にとらわれていた仲間達にとって反対する要素の少なかったグランスの意見は、あっさりと受け入れられた。勿論、本音を言えば、明日の朝にでも引き返したいと思っていた仲間もいないわけではない。
だが、不安故に周囲に気を配っていたはずの彼らは、自分たちを観察している者がいる事に全く気づいていなかった。
「どうやら、明日には戻る事にしたみたいだね。このまま奥に進まれたらどうしようかと思ったけど、何より何より」
野営用の広場にいる蒼い月の一行を、離れた森の中から観察していたロマリオは満足そうにそう言った。
「進まれたら大変」
すっかり薄手の服装になったロマリオとは対照的に、エセスはこの暑い時期にもいつも通りのゴシックドレスを着込んでいた。
「シャックレールで一泊とかされたら……レイゲンフォルテの存在を誤魔化すのも一苦労だからね」
そう言ったロマリオ達は、先日シャックレールを訪れていた。目的は、レイゲンフォルテに蒼い月に手を出さないように要請する事にあった。
蒼い月の名前を出した事で、詳しい事情を説明することなく話がうまく進んだ事に驚いたロマリオだったが、レイゲンフォルテも蒼い月に注目しているのだと聞かされ、納得していた。
ただ、そこでレイゲンフォルテのメンバーの頭を悩ませたのが、如何にして上手く蒼い月にお帰りいただくか、という事だった。
何しろ、レイゲンフォルテの事は知られたくない。なのでシャックレールには来て欲しくないが、無事にお帰り願いたいので下手な実力行使もできない。
そんなレイゲンフォルテのメンバーに対しロマリオが提示した案が、蒼い月の警戒心を最大限に煽るというものだった。
具体的な方法については秘密にしたため、とりあえず初日はロマリオ達に任せるが、うまくいかなかった時はレイゲンフォルテの方でも別の案を実行に移すという事になっている。
その話がまとまったときのことを思い出しながら、ロマリオは周囲の気配を窺った。が、何も感じられない。
そのことに感心しながら、ロマリオは一人ごちた。
「にしても、レイゲンフォルテもどこにいるのかさっぱり分からないとか……見事だよね」
気配は感じられない。だが、確実に自分たちも蒼い月もレイゲンフォルテに見張られている。ロマリオはそう確信していた。
何しろ、レイゲンフォルテは好奇心の塊なのだ。
元々ロマリオ達の作戦には興味津々だっただろうが、蒼い月の不安を煽るために、どうやってか彼らの周囲からエネミーを徹底的に排除している事実を確認した今となっては、自分たちも間違いなく彼らの興味の対象になっていると、ロマリオは理解していた。
尤も、エネミーがいなくなる原理などロマリオにもエセスにも理解できていなかったりする。
と言うのも、エネミーを排除しているのは、ロマリオの胸元で揺れている金属製のメダルだったからだ。
このメダル、例によって朝起きたら枕元に置かれていた。予言者の声曰く、あらゆる種類のエネミーを遠ざける効果があるのだとか。ただ、二週間しか効果は持続せず、効果がなくなると自壊するとも伝えられていた。
それを見ながら、エセスが呟く。
「すごい効果」
「だね。出来れば効果が永続してくれるとすごく助かるんだけど……」
とは言え、枕元に置かれてから既に十日近くが経過した今、メダルの効果はあと数日しか持たないはずだった。実のところ解析も試みたのだが、手も足も出なかったのは余談である。
「まあ、これで予定通り彼らも引き返してくれそうだし、それが終わったら逃げないとね」
ロマリオはそう小声でエセスに言った。
今のところ蒼い月が近くにいる事で大人しくしているレイゲンフォルテだが、蒼い月がいなくなればロマリオ達がエネミーを遠ざけた方法を調べるべく、ロマリオ達の身柄を拘束しに動きかねないのだった。
そんな予想をロマリオが立てている頃、蒼い月を挟んでほぼ反対側の森の中でも、何人かの人影がじっと蒼い月の様子を観察していた。
「あれがレックの仲間ですか」
レックの名前を知っている事からも分かるように、彼らはレイゲンフォルテのメンバーである。
「やっぱり、レックを探しに来たのよね」
そう言ったのは、ウェーブのかかった髪を腰まで伸ばした女性――テュータだった。薄暗くてその髪の色はよく分からないが、その腰の左右には短剣と呼ぶにはかなり大きめの刃物が刺さっていた。
このテュータ、いつもはサビエルと一緒につるんでいるのだが、今は彼がレックと行動を共にしているためシャックレールでお留守番をしていたところ、今回の出来事があって興味津々でやってきたというわけである。
「会話から判断するに間違いないでしょう。シュレーベの連中の思惑通り、明日には帰ってくれる事も含めてね」
そう答えたのは最初に声を出した小柄な人影――エミリオだった。このエミリオもあのレックの仲間達という事で見物に来ている口である。
「シュレーベと言えば、一体どうやってエネミーを遠ざけたのかしらね」
エミリオの口から名前が出た先日の客人達の事を思い出し、テュータは首を捻った。
「そちらの方は、クラウス達が動いています。成果が上がっているかどうかは知りませんが、最悪あの二人を捕らえれば済む話です」
ロマリオが懸念していた事をあっさり口にするエミリオ。
捕らえた後がどうなるかはあの二人次第とは言え、最悪のケースもあり得ると知っているのに、テュータの顔色は全く変わらず平常運転だった。結局は同じ穴の狢なのである。
とはいえ、別の予想もある。
「捕らえ損ねるって可能性は無いのかしら?」
「あるでしょうね」
あっさり認めるエミリオ。
そもそも彼らの手札を全て知っているわけではないのだ。現に今も、どうやってかエネミー達をこの場から遠ざけているのだ。思いもかけない方法どころか、全く未知の術を用いて逃走を図られたら逃げられてもおかしくない。
「まあ、逃げられたら逃げられたで仕方ありません。むしろ、今後下手な干渉を受けないためにも、見逃してしまった方がいいくらいですが……」
そう言いつつも、興味本位で動き始めたクラウスを止めるのはレイゲンフォルテのマスターであるアルフレッドでも難しいと知っていた。尤も、アルフレッドに止める気があるかと言われれば、皆無に間違いないのだが。
自分たちの周囲でそんな風に自分たちを観察している者たちがいるとも知らず、グランスたちは広場で一夜を明かした。勿論、交互に見張りを立てたのだが、エネミーなど現れる気配すらない。
その点では楽だったのだが、小物の襲撃すらなかった事はむしろグランスたちに異常事態をはっきりと印象づけ、その精神をがりがりと削っていた。
「正直……もう引き返してしまいたいのう……」
満足に眠れず寝不足気味のディアナは、そう言った直後に欠伸をした。
「まーなぁ……。気持ちは分かるぜ」
そう答えたクライストも含め、まだ欠伸をしているミネアやリリーの様子を見るまでもなく、全員が全員、見張りの時間帯以外でもちゃんと眠れず、軽い寝不足の状態にあるのだった。
そんな状態で一行は森の中の道を進んだが、この日もエネミーに遭遇する事はなかった。加えて、クランチャットでレックとの連絡を付けることも出来ず、シャックレールにレックはいないと判断した一行は、キングダムへの帰途についたのだった。