第八章 第八話 ~ワイバーン~
「まだ、血の跡は残ってたけど、それだけだったよ」
「なら、とりあえずは安全か」
偵察から帰ってきたレックの報告に、グランスはそう答えた。
「本当にとりあえずじゃろうがな」
ディアナがそう茶化すも、その声は低く抑えられていた。
レック達が今いるのは、昨日ワイバーンを見かけた場所の側の森の中である。
一夜が明けた後、早速昨日の場所へと戻ってきたレック達は、ワイバーンも、その食べ残しに集まってきているようなエネミーもいないことを確認しに来たのだった。
ちなみに、いつもの偵察役のリリーを行かせるには身体強化を使えないと逃げ足が確保できずに危険だと言うことで、パワーもスピードも仲間達の中で一番のレックに白羽の矢が立ったわけである。
「どちらにしても、ここから先は昨日話し合った通りだ。そうそう上空をワイバーンが通りかかるとは思わないが、わざわざ見つかる危険を高めることもない。出来る限り木の陰を移動していくぞ」
ディアナの台詞をスルーしたグランスの言葉に、仲間達は頷き、森の中を歩き始めた。
「さっぱり、距離が稼げねぇな」
昼時、冷たい昼食を摂りながらクライストがぼやいた。その視線は、すぐ側を谷川に沿って走る道へと向いている。
その視線を見て、クライストの気持ちを察したグランスが、
「やむを得まい。これだけの悪路だ。おまけに警戒しながら、だからな」
そう言って、サンドイッチの最後の一切れを口へと放り込んだ。
「それにしても、さっぱり人がいないよね」
「そう言えばそうじゃのう」
レックの言葉に、今更ながら気づいたようにディアナが木陰の下から道の方を見回した。
レック達の隣を走っている道は身体強化の祭壇へ行く道なのだ。最近はすっかり人が減ったとは言え、全くいないというわけでもない。その事は、ロイドの所に行く前に寄ったユフォルの様子を見れば明らかだった。
「ワイバーンのことを知っていて、誰も来ないのかも知れないな」
「そう考えるのが……自然ですね……」
そして、そこで会話が途切れた。どうやって知ったのかということにまで、何人かの考えが及んだ結果である。
勿論、そこまで頭が回らなかった仲間もいたりする。
「どうやって知ったの?」
途切れた会話を再開しようと思ったのか、単に不思議に思ったのか。兎に角、リリーがそう口にしてしまった。
「…………」
思わず予想が付いていた仲間達が顔を顰め、それにリリーが目敏く気づいてしまった。
「クライスト、どうやって知ったんだと思う?」
名指しされ、思わずクライストの顔が引きつる。
「あ、いや、それはだな……」
助けを求めて仲間達の顔の上をクライストの視線が彷徨うも、さりげなく視線を逸らされてしまった。
「ねえ、どうして黙ってるわけ?」
じりじりとクライストに詰め寄るリリー。その様子を羨ましそうにレックが見ていたが、クライストが視線を向けようとすると、すかさず明後日の方角へと顔ごと向き直った。
(あー、もう言っちまうか?)
考えてみれば、あまり口に出したくない想像というだけで、誰かに教えることすら憚られるような内容でもないのだ。
クライストはそう覚悟を決め、口を開いた。
「実際に目撃者……というか襲われた連中がいたんだろうな」
「あ、それもそうだよね」
リリーはそう言ってあっさりと納得し……見る見るうちに顔色が悪くなった。
「……えっと、それってつまり……」
確認するような内容でもないのだが、リリーは誰かに自分の想像を否定して貰いたかったのかも知れない。だが、全員が同じ想像に辿り着いていたのでは、否定する仲間はいないわけで。
「まあ……多分、何人かあれに殺されてるな」
流石に喰い殺されただろうとまでは、クライストも口にしない。だが、昨日見た光景から簡単に想像してしまったらしい。リリーの顔は真っ青になってしまっていた。
そんなリリーをミネアが介抱し始める。
それを横目にレックが責めるような視線をクライストにぶつけてきた。だが、そもそもリリーの興味から逃げ切れなかったクライストに全部を任せてしまった自覚もあるようで、そんな視線は数秒と持たなかった。
そんな微妙な場の空気を変えるべく、グランスが口を開く。
「兎に角、俺達としては先にあれに気づいたわけだ。このまま見つからずにユフォルまで戻るぞ」
その言葉に、思ったより早く立ち直りつつあるリリーを含めた仲間達が頷いた。
が、
「ユフォルをあれが襲撃してきたりはせぬと良いがのう……」
などというディアナの言葉に、絶句した。
「基本的にエネミーは街には入れへん訳やけどな……」
マージンがそう言うものの、例外があることを仲間達は知っていた。
「襲撃イベントか。発生確率は高くはないが……」
「ゼロとは違うもんね。……でも、あんなのに襲われたら、大惨事だよ?」
「ユフォルに着いても気を抜かねぇようにするしかねぇな」
「全くだ。だが、出来れば起きて欲しくはないな」
グランスの言葉には、不吉な予想を言いだしたディアナですら同意せざるを得なかった。
だが、そんな予想は全く意味がなかった。
「どうした?」
不意に足を止めたレックにグランスが声をかけた。レックは先頭を進んでいたので、自ずと全員の足も止まる。
「……静かに。何か聞こえた」
レックの言葉に耳を澄ますも、仲間達の耳には何も聞こえない。だが、身体強化の強さの分だけレックの耳が良いのは仲間達もよく知っていただけに、全員がしっかり口を閉ざし、緊張をはらんだ静寂が一行を包み込む。
そして待つこと暫し。
静寂を破ったのは、レック達の誰でもなかった。
突如、頭上の木の枝ががさつくと、人の大きさほどの影がグランスの上に落ちてきたのである。そして、その影はレック達が反応する間もなく、真下にいたグランスに取り付いてしまった。
「何だ!?」
誰かがそう声を上げるが、答えはない。尤も、答えは全員の目の前にあるのだが。
「くそっ!離れろっ!」
落ちてきた影に取り付かれたグランスが、両手でそれの頭を押さえ、顔に食いつかれないように踏ん張っていた。
「きゃああぁぁぁぁ!」
一瞬遅れて黄色い悲鳴が上がったのも仕方ないだろう。
グランスにしがみついて、今にもその頭を噛み砕こうとしているそれは、どう見ても巨大すぎる芋虫そのものだったのだ。普段なら小さいから目に入れなければ済むそれが、いきなり目の前にドアップで出現して悲鳴を上げずにいられる虫嫌いの人間など、そうそういないに違いない。
そうして、リリーとミネアが役立たずになっている傍らで、レックとマージンがいち早く動いた。
各々の武器である大剣を抜き放ち、巨大芋虫の頭を剣の腹で殴りつける。が、
「ちょっと硬すぎない!?」
「石みたいやな」
硬い音を立てて弾き返され、驚愕していた。
「ばっさり斬ってしまえば良いではないか」
これ以上悲鳴が漏れないようリリーとミネアの口を塞ぎながら、ディアナがそう言うが、
「グランスに体液かかりそうでなぁ……」
とマージン。
これは単に汚れることを嫌っているからではない。エネミー、特に脊椎動物系以外の体液には毒が含まれていることもあるので、出来れば浴びずに済ませるべきものなのだ。
とは言え、そうも言ってられない状況でもある。
「多少はいいから、何とかしてくれ!」
頭の一点を除けば柔らかすぎる相手では押しのけようにも腕が相手の身体に食い込むばかりで、今にも食いつかれそうになっているグランスが悲鳴を上げた。
それを見て悠長にしている時間はないと判断したレックが仲間に指示を出す。
「みんなは下がってて」
斬った時に周りに飛び散る体液を被らなくて済むように仲間達が数歩下がったのを確認すると、レックとマージンは芋虫に横から剣先を突きつけた。
「なんや、鈍いやっちゃな」
突きつけられた剣先など全く気にする様子もなく、ひたすらグランスの顔へ食いつこうとしている芋虫に呆れながら、マージンがそう零し、
「どうでも良いから、早くしてくれ!」
とグランスが叫んだ。
別にそれが合図であったわけでもないのだが、レックとマージンは互いに目で合図を交わすと、一気に剣を芋虫の身体へと突き立てた。
これには流石に反応せざるを得なかったのか、芋虫は今まで熱心に齧り付こうとしていたグランスから頭を離し、ついでにグランスにしがみついていた身体も離すと当然のように大きく暴れ始めた。
勿論、人間大の芋虫が激しく暴れれば、巻き込まれる者も出る。というか、しがみつかれていたグランスはそもそも逃げられないので、真っ先に巻き込まれ、
「がふっ!」
大きく弾き飛ばされ、近くの木に激突した。それを見ていたミネアが小さな悲鳴を上げ、すぐにグランスの元へと駆け寄った。
一方、レックは辛うじて避けきったが、流石に芋虫の身体から剣を抜き取る余裕はなかったのか、グレートソードは芋虫の身体につき立ったまま、レックの手から離れてしまっていた。
「うわ!?ちょっ!?」
そんな叫び声を上げているのはマージンである。レックと違って剣を手放すのが遅れた彼は、芋虫の身体に突き立ったままの剣と一緒に、激しく暴れる芋虫に振り回されていた。といっても、それほど長い時間でもない。
体液を撒き散らしながら芋虫が暴れる度に、マージンをぶら下げたまま突き立っていた剣は芋虫の身体を大きく切り裂き、その傷口をみるみる広げていった。そうなると自ずと剣も抜けやすくなるわけで。
「うわ!!?」
悲鳴を上げながら、すっぽ抜けた剣と一緒にマージンが2~3mほど飛ばされた。
「っつう……」
先に弾き飛ばされたグランスは大した怪我は負っていなかったらしく、ミネアに介抱され、礼を言いつつ頭を軽く振りながら立ち上がった。そして、すかさず状況を見て取ると、
「それはもう俺達を追いかけてくる余裕はないだろう。余計なものが寄ってくる前にさっさと逃げるぞ」
そう急いで指示を出した。
グランスの言う余計なものに大いに心当たりのある仲間達は、暴れ続けている芋虫の様子をもう一度確認し、すかさずその場を離れようとする。が、
「グオオオオオオォォォォォォォォ…………!!!」
さほど遠くない距離から、強者の存在感をたっぷりと纏った雄叫びが響き渡った。
「くそっ!近いぜ!」
クライストが舌打ちする。
「音で気づかれたんやろな。結構、騒がしくしてしもうた……っちゅうより、現在進行形で騒がしいからな」
未だ暴れ続けている芋虫に白い視線を送りながらマージンがぼやくが、それで状況が良くなるわけでもなく。
「喋ってないで、さっさとここを離れるぞ!」
グランスの言葉に、一行はさっさとその場を逃げ出した。
そして100mも進まないうちに、再び獰猛な雄叫びが周囲に響き渡り、そして力強い、しかし途轍もない緊張を強いる羽ばたきの音が聞こえてきた。
「随分早く来てしもうたのう……」
走りながらぼやくディアナに、
「最初から近くにいたのかも」
とレックが答える。
「もっと遠くにおってくれても良いものを……」
「そんなことより、足を動かせ」
グランスはそう言うが、あまりペースを上げると、軽装とは言え身につけている武器や防具がカチャカチャと立てている音が余計に激しくなるのだ。
勿論、グランスもそれは分かっているわけで、実際には黙って走れと言いたいだけだったのだが、些か変な台詞になってしまったのは少々慌てているからだろう。
一方、先ほどまでレック達がいた場所へと飛来したワイバーンは、地面の上でのたうち回っていた芋虫を一口で飲み込んでしまっていた。そして、当然のように物足りなさそうに周囲を見回し――その首はレック達が逃げていった方向でピタリと動きを止めた。
そして、大きく口を開け、
「グオオオオオオォォォォォォォォ!!」
その雄叫びを聞いたレック達はというと、軽い混乱状態にあった。
「近いぞ!」
「いや、分かっとるから!」
「見つかったと思う?」
「この距離なら……あり得ぬとは言えぬのう」
すっかり足も止まってしまい、小声とは言え口々に言葉を交わす一行。
「……とりあえず、迎え撃つつもりで行くぞ」
グランスがそう言ったが、その時には既に再び空へと舞い上がったワイバーンの羽ばたきの音が、急速に自分たちの所へ近づいてきていることをレック達は聞き取っていた。
「レック、マージンがやつの気を惹け。俺はレックとマージンの援護にまわる。ディアナとリリーは攻撃魔術の準備。クライストとミネアはその護衛だ!」
ワイバーンの翼の音に固まりかけていた仲間達は、それで一気に動き出した。
レックとマージンは空から見えやすそうな位置へと移動し、互いの剣を軽く打ち合わせて大きな音を出す。
グランスは少し離れた木陰に隠れてそんな二人の様子を見守り、ディアナはやはり木陰で火球の魔術の詠唱を開始していた。リリーも水筒の口を開け、精霊魔術の準備をしていたのだが、
「……水が少ないよ?」
ワイバーンの巨体の前に、あまりにも心許ないその量に思わずそう呟いた。
それにミネアが答えようとした時、
「来たよ!!」
そう叫んだレックの姿は近くにいたマージンもろとも、轟音と共に空から降ってきた巨大な影に一瞬で覆い隠されていた。
「レック!マージン!大丈夫か!」
「何とかね!」
「わいもや!」
グランスの声に、すぐに返事があり、仲間達は胸をなで下ろした。
どうやら、ワイバーンも自分の体重で獲物をいきなりぺちゃんこに潰してしまうことは嫌ったらしいかった。
だが、ホッとしたのも一瞬。
ちょっとした小屋ほどもある巨体を持つワイバーンは、丸太などよりも遥かに太いその首を回し、獲物の姿をその目に捕らえていた。二人が構えている大剣など気にする様子もなく、高々と上げた頭から獲物に向かって咆哮を放つ。
「グオオオオオオォォォォォォォォ!!」
至近距離からのそれは、音量に加えてワイバーン自身の威圧感もあり、レックとマージンの身を竦ませた。
だが、それも一瞬。
「レック、ぼさっとしたら喰われるで!」
いち早く立ち直ったマージンの声にレックがハッとなると、ワイバーンが大きな口を開けて迫ってくるところだった。
「わわわわっ!!」
慌てて後ろへ飛び退くも、ワイバーンは元々地面に頭をぶつけるつもりはなかったらしい。地面すれすれで閉じた口の中に何も入ってないと知るや、皿よりもでかい目玉をぎょろりと動かしてレックの姿をとらえ、再び大きく口を開けてレックへと突っ込んできた。
が、その体勢はレック以外に隙を見せているに他ならない。
「おりゃあぁぁぁ!!」
マージンがかけ声と共に、ワイバーンの脇腹に切りつける。が、
「硬すぎるやろっ!?」
頑丈な鱗に阻まれ、ほとんどダメージを与えることは出来ていなかった。尤も、人の掌ほどもある鱗を数枚割る程度の収獲はあったようだが、その代償がワイバーンに目を付けられることというのは、大赤字かも知れない。
実際、ワイバーンは鱗が割れたことでダメージらしきものはなくても痛みは感じていた。
レックを追いかけるのを止め、ぐるりと首を回して痛みを感じた脇腹を見てみれば、そこにはマージンの姿があった。それだけで、先ほどの痛みの原因を知ったワイバーンは怒りの咆哮を上げると、意外に素早くその巨体の向きを変え、マージンへと猛進する。
マージンはと言うと慌てて近くの木の幹の裏に隠れたのだが、
バキバキバキ……!!
「……マジか!?」
ワイバーンの突進を受け止めるには全くの強度不足だったようで、いとも簡単に木は折れてしまった。
マージン自身はワイバーンが木に激突する少し前に急いで横へと身を躱していたのだが、
「がふっっ……!」
距離が足りず、大きく揺れるワイバーンの尾に弾き飛ばされてしまっていた。
「マージン!!」
10m以上も弾き飛ばされ、地面に落ちてそのままぴくり友動かなくなったマージンに、誰かの悲鳴が上がった。
一方、ディアナ達である。
ワイバーンの最初の咆哮ですっかり集中を乱され、ディアナの火球の魔術はやり直しになっていた。それでも少し遅れるくらいなら良いのだが、実際にはそんなものではなかった。
いざ、目の前にワイバーンの巨体が現れると、そこから感じる威圧感と恐怖、何より焦りのせいでいまいち集中がうまくいかなくなっていたのである。
片やリリーはというと、別の問題に悩まされていた。
「ミネア、水持ってない?」
リリーとしては水筒一本分の水だけでも、そこそこの威力を出す自信はあったのだが、ワイバーンの巨体相手ではせいぜい指の一本を落とすのが精一杯である。風呂桶一杯分とまでは行かなくても、せめてバケツ一杯分くらいは欲しいところだった。
だが、ミネアがアイテムボックスから取り出したのは、
「……これだけ……ならあります……」
せいぜいコップ一杯分程度の水だった。
「う……。でも、無いより良いよね?」
リリーはあまりの少なさに肩を落としながらも、ミネアから貰った水を操って自分の水筒に纏わり付かせる。
「ってか、川に行って水を取ってきた方が早くねぇか?」
ミネアと同じように自分の飲み水をリリーに提供しながら、クライストがそう提案する。
「そうかも……しれませんね……」
「でも、あたしだけ離れるのは……」
リリーは逃げるようで気が引けるらしい。しかし、その時、周囲に凄まじい音が鳴り響いた。
バキバキバキ……!!
音の方にリリー達が視線を向けると、マージンを追いかけてワイバーンが木をなぎ倒しているところだった。そして直後、ワイバーンの尾に弾かれ、マージンの身体が宙を舞った。
「マージン!!」
思わず叫ぶリリー。
ミネアとクライスト、それにディアナも詠唱を止めて地面に落ちるマージンを見ていた。
だが、すぐにそれどころではなくなる。
「不味い、こっちに気づかれた!」
リリーの叫び声がワイバーンの注意を惹いたらしい。クライストの声に仲間達がワイバーンを見ると、リリー達の方が与し易と見たのか、その視線は確かにリリー達へと向いていた。
尤も、レックとグランスもすぐにそれに気づいたらしい。
後衛からワイバーンの注意を逸らすべく、レックは正面から、グランスは側面からワイバーンへと斬りかかった。
だが、グランスの力ではワイバーンの鱗に傷を付けるのが精一杯だった。
レックはというと、ワイバーンの牙を避けながらもその顔に剣を振り下ろすが、避けながらでは力の入った一撃など望むべくも無い。
それでも稼げた僅かな時間の間に、クライストとミネアがリリーを引っ張るようにして川へと走り出していた。そしてその後を、レックを振り払ったワイバーンが木々を薙ぎ倒しながら追いかけていく。
「レック!すぐにワイバーンを追ってくれ!俺はマージンを見てからすぐに追いかける!」
グランスに言われるまでもなく、レックはワイバーンを追って走り出していた。
身体強化もあって、レックはすぐにワイバーンに追いついたが、激しく揺れる尾に邪魔され、
(後ろからの攻撃は無理っぽい。でも、急がないと!)
今となってはリリーも川に向かって全力で走っている。だが逆に言えばそれは、川に着いてしまえばワイバーンが早かろうが遅かろうが追いつかれるということでもある。
そうなってしまえば、クライストは兎に角、近接戦闘能力がないに等しいリリーがどうなるかは、簡単に想像できた。
既に川まで距離もない。
レックは更に走る速さを上げ、急いでワイバーンの側面へと出る。そして、ワイバーンが地面を蹴っている脚に全体重をかけて斬りつけた。
あまりの急減速とワイバーンを斬りつける反動に耐えきれず、レックの履いていた靴が無残に破けながらも、足下の地面を大きく抉った。
「ギャオオオオオオオォォォォ!!」
そして、斬りつけられたワイバーンが悲鳴を上げる。
その左脚にはレックのグレートソードの刀身がしっかりと食い込んでいた。
だが、
「まずっ!」
レックは短く叫ぶと、グレートソードのやたら軽くなった柄を掴んだまま大きく後ろに飛び退り、ワイバーンが振り回す翼を回避した。
ワイバーンもひとしきり暴れまわって脚からグレートソードの刀身が外れると、少し落ち着いたのか、再び自分に痛みを与えた小さな獲物を睨み付ける。
その視線を受けるレックの背中を、無数の冷や汗が流れ落ちて行っていた。何しろ、レックの手に残っているのはグレートソードの柄だけなのだ。
(何でいきなり壊れるんだよ!?)
心の中で八つ当たり気味に叫びつつも、その答えも分かってはいる。レックの力にグレートソードが耐えきれなかったのだ。
幸い、ワイバーンは多少なりとも自分に痛みを与えられる獲物ということで警戒でもしているのか、レックを睨み付けたまますぐには動こうとしない。だが、ワイバーンから視線を外せば即座に襲いかかってくるのが分かっているだけに、レックは身動きが取れなかった。
一方、リリー達は後ろでレックが足止めに成功したことを知っても、変わらず川へと走り続け、すぐに川へと辿り着いていた。
ただし、川と言っても谷川である。
ゴオゴオと音を立てて流れる水は、崖の上を走る道から遥か数十m以上も下だった。
「水、取れるか?」
少し離れたところでレックと睨み合っているワイバーンを気にしつつ、クライストが小声でリリーに確認する。
当のリリーはというと、身体強化も使えない身でクライストとミネアに引きずられるようにして走ってきたことで、すっかり息が上がってしまっていた。何より、命の危険が少しだけ遠くなったことで、自分がさっき見た光景を思い出してしまったらしい。
「マージン……マージンは!?」
そう大声を出しそうになるところを、ミネアに口を塞がれてしまった。
ミネアはリリーの口を塞ぎながら、
「大丈夫。グランスがついてます」
実のところ、治癒魔術を使えないグランスがついていても役には立たないかも知れないのだが、その事は敢えて口にしない。
尤も、幸いなことに混乱気味のリリーはそこまで頭が回らなかったらしい。ミネアの言葉に、露骨にホッとしたような顔になった。
「それじゃ、早く水を確保してくれ。レックが抑えてくれてるが……あんまり余裕はねぇからな」
クライストの言葉に軽く頷き、リリーは自分の中にいる精霊へと意識を伸ばしていった。
「マージン!おいっ、マージン!大丈夫か!?」
リリー達を追いかけていったワイバーンを追って、更にレックとディアナも走っていった後。
グランスは地面に倒れたマージンの元へと駆け寄り、その頬を叩きながら何度も名前を呼んでいた。
既に呼吸と脈拍は確かめ、生きていることまでは確認している。だが、何らかの致命傷を受けていればそのまま死んでしまってもおかしくないため、グランスの顔には焦りの色が濃く出ていた。
「マージン!おいっ!!」
何度そう名前を呼んだだろうか。
「う、う~ん……」
「マージンっ!!無事か!?俺の言葉が分かるか!?」
マージンが唸りながら目をうっすらと開けたのを見たグランスは、喜びを隠そうともせずにマージンにそう訊いた。それでもマージンの身体を迂闊に揺すったりしないのは、流石と言うべきか。
「なんや、旦那か……ってか、どうしてわいはこんな所で寝とるんや?」
「バカか!ワイバーンに弾き飛ばされたんだ!」
「ワイバーン??……っ!だだだだ……」
今の状況を理解できていないのか、グランスの説明に首を傾げながら身体を起こそうとしたマージンは、全身を走った激痛に顔を顰めると、再び地面に倒れ込んでしまった。
「大丈夫か!?」
「とりあえず治癒魔術使うわ。ってか……ワイバーン……ワイバーン?」
心配してくるグランスに声をかけながら、マージンは意識を無くす前のことを思い出そうとし……その顔は見る見るうちに険しいものへと変わっていった。
「旦那、ワイバーンはどうしたんや!?ってか、みんなは無事なんか!?」
痛みで顔を顰めながらも身体を起こし、マージンはグランスに問い質した。
「ワイバーンはリリー達を追いかけて川の方へ向かった。レックがその後を追いかけて、今はワイバーンを抑えているはずだ」
「ってことは……旦那、早く応援に行くんや!わいも治癒魔術で痛みだけ何とかしたらすぐ向かう!」
その様子にもうマージンは大丈夫だとグランスは安心し、立ち上がった。レックの能力を信用はしているが、それでもワイバーンという強敵相手のことだ。ミネアや他の仲間達のことも心配だった。
だが、
「あ、ちょい待ってや。これ持ってってくれ」
マージンに呼び止められて振り返ったグランスが見たのは、マージンが差し出しているツーハンドソードだった。
「どういうことだ?」
「下手したら、レックの剣がもう駄目になっとるかも知れへん。念のためや」
怪訝そうに確認したグランスだったが、マージンの言葉を聞いて納得した。
「分かった。預かっていく。だが、おまえもすぐに来い」
「勿論や」
そう答えたマージンに背を向けて、預かったツーハンドソードを片手にグランスは走り出した。
その耳には、しばらくの間止んでいた、木々を薙ぎ倒す音が再び聞こえ始めていた。
グランスがマージンの元を離れる少し前。
「うわっ!」
レックは柄だけになったグレートソードをアイテムボックスに放り込み、再開されたワイバーンの突撃をひたすら躱していた。
ただ、擦ったらそれだけで動けなくなること間違いなしのワイバーンの攻撃を、レックは余裕を持って躱すことが出来るようになっていた。尤も、これは剣を失ってしまって、攻撃のことを頭から追い出していたからという事が大きい。勿論、ワイバーンの存在感に慣れてきたこともある。
とは言え、
(こんなのいつまでも続けられないよ)
などと、ワイバーンが繰り出す攻撃を躱しながら、レックは考えていた。1つのミスが即死に繋がる状況である。しかも、人間の体力やら精神力やらを考えると、そのミスというのはいつかは必ず訪れる。
そんな事を考え、少々焦り始めたレックの耳に、クライストの声が飛び込んできた。
「レック!こっちに誘導しろ!」
そう、クライストは川の方にレックを呼んでいた。
レックにクライストの考えが分かるわけはない。だが、何か策があって呼んでいるのだろうということくらいは見当がつく。
「分かった!」
レックはそう叫ぶと、クライストの声に気を取られかけていたワイバーンの頭の上に飛び乗り、その注意を引きつけた。
そうして、再びワイバーンがレックというちょこまか逃げ回る餌に注意を向けたことを確認すると、レックはワイバーンを谷川の近くへと誘導し始めた。
一方、レックを呼びつけたクライスト達はというと。
「すごいです……ね……」
崖の上の道から谷川を覗き込んでいたミネアがそう言った。
その視線の先、谷川の底では現在、リリーの意志を受けた水の精霊の力によって、幾つものサッカーボール大の水の球が作り上げられ、リリー達のいるところにまで浮かび上がってきていた。ただ、完全に宙に浮いているわけでもない。よく見ると、水面からボールまでとても細い糸のような何かが繋がっているのが見えるだろう。
「レックがこっちに来るぞ。ワイバーンも一緒だ」
クライストの声にミネアが頷き、
「わたしは離れたところから援護……します」
と、あらかじめの打ち合わせ通りにクライストとリリーの元から離れ、ディアナとの合流を目指した。
水の球を操っているリリーは返事をする余裕はないようだが、既にワイバーンの姿が迫ってきている事に気を取られているクライストが、それに気づくことはなかった。
やがて、レックが森から飛び出してくる。
そのすぐ後を追って、木々を薙ぎ倒し、無数の破片を撒き散らしながらワイバーンの巨体も姿を現した。
「リリー!今だ!!」
クライストの合図で、幾つかの水の球から細く絞られた水が勢いよく飛び出す。それはさながらレーザーのようにワイバーンの身体へと殺到し、硬い鱗を切り裂いた。
が、レックに大きく傷つけられた脚の痛みの方が大きいのか、ワイバーンは数枚の鱗を切り裂かれた程度を気にする様子もなく、レックの後を追い続ける。
そうして、ワイバーンはレックを追いかけて、すぐにリリー達の前から離れていった。
「多少のダメージはあったみたいだが……効いた感じがしねぇな」
クライストの言葉に、水の球の数が減った分だけ余裕が出来たリリーが、
「ってゆ~か、ワイバーン硬すぎ。脚の一本くらい切り落としたかったのに」
と悔しがった。
尤も、それでは今度はワイバーンの狙いがリリーやクライストに移ってしまうのだが。
さて、リリー達の前をワイバーンを連れて駆け抜けたレックは、勿論リリーが放った水ジェットの成果もしっかりと確認していた。
(あの一瞬じゃ、あれが限界なのかな?やっぱり、剣が欲しいとこだよね)
などと考えながら、谷川に沿って走っている道を爆走していた。
その時、後ろから今までよりいっそう重い音が聞こえてきた。
「って、それは反則じゃ!?」
後ろを振り返り、ワイバーンの様子を確認したレックは思わず叫んでしまった。
いつの間にか、ワイバーンが走るのを止め、その翼を羽ばたかせながら飛んでいたのだ。その速さは走っている時の比ではなく、見る見るうちにワイバーンとの彼我の差は埋まりつつあった。
(何で今頃飛ぶんだ!)
とレックは心の中で叫ぶも、先ほどまでは森の中で飛び立ちづらかっただけなのだろう。
とりあえずレックは開けた道を走るのは諦め、即座に右手の森へと飛び込み、走り続ける。
だが、森に入ったレックの上を追いかけるように飛んでいたワイバーンは、暫くすると上空から森の中を走り回るレックをとらえるのは難しいと判断したのだろう。不意に方向を変えた。
「ちょ!」
ワイバーンが向かった先は、リリー達がいる方角だった。その事を知ったレックは、慌てて森から飛び出し、先ほど来た道をひた走りに駆け戻る。
「戻って……来ました」
横に立つミネアの報告を聞いたディアナは、僅かに口の端を持ち上げた。
なかなか上手くいかなかった火球の魔術の詠唱だが、レックが思ったよりも見事にワイバーンをあしらっている様子を見たことでディアナの心にかなりの余裕が生まれていた。そして、先ほどついに火球の魔術の詠唱が完了していたのである。
流石にワイバーンを追いかけて走り回ると集中力が乱れて折角の詠唱が無駄になってしまうので、リリー達の近くで詠唱を終えた状態で待機していたのだが、どうやら無駄にならずに済んだというわけだった。
ディアナは集中力を維持するために閉じていた目をゆっくりと開け、羽ばたきの音がする方へと視線を遣る。頭上に作り上げていた火球の熱さに、額から一筋の汗が流れ落ちた。
そして、その視界にワイバーンの姿をとらえた直後、ディアナは火球をワイバーンへと向けて解き放った。
凄まじい勢いでワイバーンの進行方向へと飛んでいく火球。
突如目の前に現れた火球に、ワイバーンは 為す術もなく突っ込んでいき、次の瞬間、
ッオオオオオオォォォォ…………ンンンン……
火球が大爆発を起こし、その爆音はワイバーンの悲鳴すらかき消した。
流石にいくらワイバーンが頑丈だからといって、空を飛んでいる目の前で大爆発が起きればただでは済まない。
あまりの光と音の量に目を閉じ、耳を塞いでいたディアナ達の足下に、途轍もなく重たい何かが地面に落ちた振動が伝わってきた。
「倒した?」
流石に集中力を維持できなくなり、水球を全て谷川に落としてしまったリリーが恐る恐る目を開け、そして動きを止めた。
「まだ生きてるぞ!」
クライストが叫んだ。
尤も、生きていても瀕死なり、それなりのダメージを受けているなら良かった。
爆発の衝撃をまともに受けただけに流石に足下がふらついているものの、それでもワイバーンは今にも立ち上がりそうである。翼の皮膜がかなり破れているものの、大きなダメージを受けたようには見えない。むしろ、あまりの痛みに怒り狂っているかのようであった。
「凄まじい爆発だったな。今ので仕留められていれば良いんだが」
「期待しない方がいいと思うよ」
リリー達の所に戻る途中、レックはグランスと合流していた。既にその手には、グランスから受け取ったマージンのツーハンドソードが握られている。
「そうだな。急いで向かうか」
グランスの言葉にレックは頷き、
「先に行くよ」
と身体強化をフルに使い、グランスを置き去りにして駆け始めた。
その甲斐はあったと言うべきだろう。
「!!!」
レックがリリー達の所に辿り着いた時、流石に翼の皮膜こそボロボロになったワイバーンが、リリーとクライストに狙いを定め、突撃を始めるところだったのだ。
「間に合え!!」
ツーハンドソードを構え、更にスピードを振り絞る。
だが、レックはこの時、あることを見落としていた。
ワイバーンが突撃を開始すると同時に、完全に固まっていたリリーを抱えてクライストが横っ飛びにそれを躱した。
そうして空いた空間にブレーキをかける様子もなく突っ込んでいくワイバーン。
そして、その後ろから半ば体当たりに近い形でワイバーンの身体に斬りつけるレック。
「えっ!?」
そこで事故が起きた。
ワイバーンの尾の先には、それほど大きくはないが幾つものぎざぎざとも短いトゲとも言えないようなものがある。
リリー達が回避に成功したことも確認し、一撃入れただけで距離を取ろうとしたレックだったが、跳んでワイバーンから距離を灯籠としているまさにその時に、何の偶然かボロボロになっていた靴からほどけて延びた紐が、そのワイバーンの尾の先に絡まってしまったのだ。
勿論、すぐにそれをどうにか出来るはずもなく、しかしレックは急いで絡まった部分を剣を振って切り離そうとする。
だが、その時間は最早無かった。
リリーとクライストが谷川を背にしていたのだから、そこに突っ込んでいったワイバーンの進む先には、当然地面はない。
勿論、普段なら地面がないなら、ワイバーンにとっては翼を羽ばたかせて飛べば良いだけのことである。だが、今は翼の皮膜はディアナの火球の魔術でボロボロになっており、ワイバーンの巨体を支えるだけの浮力を得ることは出来なかった。
悲鳴を上げながら、谷川へと落ちていくワイバーン。
そして、その後を追うようにしてレックもまた落ちていった。宙に放り出された拍子に靴の紐がワイバーンの尾から離れていたが、遅かった。
「ああああぁぁぁぁぁぁ……!!」
悲鳴を上げながら谷底へと落ちていくレック。
その様子を見ていた仲間達が、ハッと気づいて谷川の縁へと駆け寄ったのは、崖に身体を何度もぶつけたワイバーンが谷底の川に落ちて派手に水しぶきを上げた後だった。
「レーーーーーック!!!」
グランスの、クライストの、仲間達の悲壮な叫び声が、谷川に響き渡った。