第七章 エピローグ
あまりにも酷い違和感にこれが夢だと気づいた経験は、誰でも持っているものだろう。
(ああ……これは夢なんだな……)
恭平はそう自覚した。
ファーストフードの店でテーブルを1つ陣取り、ポテトフライの取り合いの傍ら、友人の一人の熱演を聞いている。
それそのものは、恭平の日常で何ら珍しい光景ではなかった。
退屈な授業を終え、放課後、友人達とあちこちに寄り道をする。ちょっと買い食いしたり、公園に寄ったり、服を見たり、部屋に飾る小物を漁ったり。
そんな中で普通に見られる、何の変哲もない見慣れきった光景。
その筈だった。
そこに、強烈な違和感があった。
理由は……分からない。
尤も、目を覚ませば簡単に分かるのだろうが、夢を夢と自覚しても起きようとまで思わなければ、夢を夢と自覚したまま眠り続けるのである。
「VRで再現できない感覚なんてあるのか?」
「感覚だけならほぼ無いな。感覚神経の信号をエミュレートしてしまえばいいんだ。だから、視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も全部再現できる。暑さ寒さも空腹も痛みも何もかもだ」
目の前では友人達――名前は何故か思い出せない――がVR技術について論じている。というより、詳しい友人に他の友人達が質問をぶつけている。
「じゃあ、俺達がこうしてるのも実はVRの中だなんてことはないのか?」
そう、友人の一人が、誰もが一度は夢想した疑問をぶつける。
「否定は出来ないんだよな。ま、調べる方法はあるぜ?」
「どうやるんだ?」
興味深そうに友人が訊ねる。恭平も方法があると聞いて、ポテトを運ぶ手を止めた。
「アルコールだよ、アルコール。覚醒剤や麻薬の類でも良いな」
「いやいや、それって犯罪だろう?」
「アルコールは怒られるだけで済むけどな」
「ってか、未成年が飲んで良いもんじゃないじゃんか!」
そう言いながら、友人達は景気よく笑う。
恭平自身も笑っているのだが――どうにもその自覚がない。自分の視点なのに、他人が見ている光景を覗き見ているような、そんな感じがつきまとっていた。
「それより、アルコールでどうやって見分けるんだ?酔っぱらったら、逆に訳分かんなくなるだろ?」
「逆だよ、逆。酔っぱらうことこそが、VRじゃないって証明なんだ」
その言葉に友人一同は首を傾げた。
恭平も首を傾げる。
「VRなんだから、酔うって感覚も再現されるんじゃないのか?」
誰かの言葉に、詳しい友人は頷いた。
「そう、感覚は再現される。でも、感覚だけだ」
その言葉に皆は再び首を傾げた。それで十分じゃないかと。
しかし、詳しい友人は更に説明を続ける。
「酔いってのは感覚だけじゃないんだ。酔ってるって一番分かりやすいのは、バランス感覚を失うってのかな。でも、これは三半規管の信号をエミュレートすればいい。少しずれた信号を脳に送ってやれば、それでバランス感覚なんて簡単に失う。
他にも胃が熱いとか、体温が上がって顔が火照るとかあるけど、この辺は全部感覚神経に伝わる信号をエミュレートすれば済む話だな。飲み過ぎて吐き気がするってのもそうだ。
でも、酔うってのはそれだけじゃないだろう?」
そこでその友人は一度言葉を切って、自分の話を聞いている仲間達の顔を見回した。
「何とか上戸って言葉、聞いたことあるだろう?笑い上戸とか泣き上戸とか。ああ言った酔っぱらいの行動は、アルコールが脳の神経細胞に作用して、その結果、いつもとは思考や感性が変わってしまう結果なんだ。
でも、ブレインプロキシはそこまで介入できない。そう作られているんだ。んで、感覚までしか介入できないから、思考や感性を変えてしまうようなことは出来ないんだ。だから、VRでビールを飲んでふらふらになることはあっても、笑い上戸とか泣き上戸になることはない。
実際には暗示効果で多少それっぽくなることはあるだろうけど、疑ってかかってさえいれば、VRで本当の意味で酔うことはないんだよ」
そんな小難しい説明をいきなり理解できたのは、その場にいた仲間達の半数にも満たなかったらしい。何人かはまだ首を傾げていて、あまつさえ理解できたらしい他の友人に説明を頼んでいた。
そんな中、その友人の説明を理解した一人が訊ねる。
「じゃあさ、ジ・アナザーの体感時間が2倍の速さになってるのはどうやってるんだ?」
その質問に、他の友人達もそう言えばそうだと興味を示した。アルコール云々より食いつきが良い。
一方で、そう訊かれた友人の方は一転、小難しい顔になった。
「そこが分からないんだよな。いろんな人が調べてるみたいだけど、どうやってるのかさっぱりなんだってさ」
「動きを全部2倍の速さにしたらいいんじゃないのか?」
「あ、なるほど」
誰かの意見にまた別の誰かが感心したような声を上げる。
しかし、詳しい友人は首を振った。
「そう簡単な話じゃないんだ。そうだな、例えばビデオを倍速で再生して、それをまともに愉しめるか?」
「無理に決まってんじゃん」
「急いでる時はアリだけど、見るだけだよな」
口々にそう言う仲間達に、詳しい友人は頷いた。
「そう言うこと。例え、物の動きが全部2倍になっても、それを見る俺達は元のまんまだ。だから、そんな簡単な話じゃないんだ」
その説明を聞いて今度はよく理解できた仲間達は、改めて説明を求める。
「じゃあ、どうやってるんだよ?」
「幾つかの説では、走馬燈みたいな原理を利用してるんじゃないかって言われてるな」
「走馬燈って、あの死ぬ直前に見るってあれか?」
「そう。でも、ブレインプロキシの原理からすれば、やっぱり難しい筈なんだよな。人間の運動神経と感覚神経にしかアクセスできない仕様だし」
「ブレインプロキシにそう言う機能があるってのはないのか?」
「ないね。そもそも、ジ・アナザーよりかなり先にブレインプロキシは発明されてるし、その後徹底的に解析されて、運動神経と感覚神経にしか接続されないことは国際的にも十分確認されてる」
「じゃあ、どうやってるんだよ?」
「だから、未だに分かってないんだよ。そんなんだから、実は異世界に繋がってるんだなんてことを言う人までいるくらいなんだ」
「異世界だぁ?」
「それ、漫画の読み過ぎだろ!」
爆笑する友人達。
そんな中、恭平はただ一人、笑うことが出来なかった。
まだうっすらと酒の臭いが漂う中、レックはゆっくりと目を覚ました。
何か懐かしい夢を見ていた気がする。そのせいか、目の端から涙がこぼれ落ちた。そんな気がした。
明かりも切れた暗い室内。周囲には毛布に包まれて眠る仲間達がいる。見回してみると、その辺中のテーブルの周囲に同じように毛布製の蓑虫が転がっていた。
日の出も近いらしく、窓から見える外は薄ぼんやりと明るくなってきている。ただ、外で鳴いている鳥たちを除けばこんな時間帯に目を覚ましている者など、レックの他に一人としていなかった。
「う、う~ん……」
寝苦しいのか、クライストがうなり声を上げながら寝返りを打つ。
その腕が顔の上に乗ったグランスは余程深く眠っているのか、身動き1つしない。
そんな仲間達を見てレックは苦笑する。そして、思わず出た欠伸に眠気を感じ、まだ早すぎるようだしだともう一眠りしようとして、ふとテーブルの上の酒瓶の影に気がついた。
『……酔っぱらうことこそが、VRじゃないって証明なんだ』
レックの耳に、友人の声が響いた。
それと共に、さっき見ていた夢の内容が一気に思い出され、レックの顔が凍り付く。
『実は異世界に繋がっているんだ』
それは夢の中で、いや、あれは過去に確かにあった雑談だった。だから、あの友人が実際に言ったことなのだ。今まで忘れていただけで。
ジ・アナザーから出ることが出来なくなって一年と半年。魔王を倒せば戻れると言われていて尚、最早、あの現実世界こそが夢か仮想現実だったような気すらしてきている。
そう考えると、あの友人が言ったこともあながち間違いではなかったのかも知れない。
この世界がコンピュータのCPUとメモリの上に存在しているに過ぎないただの電気信号の固まりだと頭では理解している。ただ、それでもここが現実だという意識が圧倒的に強くなってきていた。
だからだろうか。
ここが仮想現実ではなく、全くの異世界なのだという考えを、レックは妙に気に入ったのだった。
さて、場所は変わる。
とある山の中腹に威容を振りまいている巨大な城があった。
その壁面は全て黒で統一され、周囲は高さ50mにもなろうかという巨大な城壁で囲まれている。聳え立つ無数の尖塔はいずれも攻撃的なまでにその先端を尖らせており、その様はあたかも天を突き刺そうとしているかのようだった。
そんな無数の尖塔を抱えた城の中央には他の建物を圧して止まない一際巨大な建物が屹立していた。要所要所に施された精緻な彫刻は、しかしその全てが悪魔か苦悶に喘ぐ人間の姿をしており、とてもではないがここに人間が長居すれば、その精神を間違いなく侵されるほどに禍々しさに満ちあふれている。
周囲に満ちる瘴気と合わせてプレイヤーが見れば、周囲の尖塔に出入りしている無数の黒い影を見るまでもない。即座に断定するだろう。
こここそが魔王の城であると。
そんな城の上空には無数の魔物と覚しき影が飛び交い、城から太陽を見ることはとてもではないが叶いそうにもない。
ただ、この城には1つ、明らかな異常があった。
これほどまでに威圧的な城であれば、当然のようにそれを見下ろせる場所などあってはならない。あるべきではないのだ。しかし、この魔王城は何故か山の中腹に建設されており、魔王城を抱く山の山頂から見下ろせる形となっていた。
この魔王城がある山は、5000mにも達するかと思われる巨大な山々。その中でも一際大きく聳え立つ山である。そういった点では、実に魔王城があるに相応しい。深い霧とたっぷりと纏ったその山は、頂が雲すら届かぬ高さにまで達し、あまりにも峻厳で何者をも寄せ付けぬ威容に溢れていた。そんな山の徒歩では近づけそうにもないほどに険しい山の斜面が緩んだところに、建てられているのである。
さて、そんな山の山頂には一本の巨木が生えていた。
いや、訂正しよう。
その山の霧も雲も突き抜けた高さの山頂を覆うように、一本の巨木が枝葉を広げていた。その巨木の根元は実は山頂にはない。どこにあるかというと、5000mを越える標高を誇る山々に囲まれた盆地にあった。
決して広いとは言えないその盆地の大半を占めるその巨木の幹は、直径だけで500mは優にあるだろう。高さもまた5000m級の山々の山頂を枝葉で覆い隠すのだから、推して知るべしである。
そんな巨木という表現も生ぬるい樹の、太陽の光を存分に浴びている梢――と言っても、一面緑の葉で覆われた地面が広がっているかのようであるが――に、穏やかな風に吹かれながら一人の男が立っていた。
蒼いローブに身を包んだその男の風に揺れる髪は白銀。蒼穹を映し出すその瞳は青銀。
遥か下には魔王城があり、無数の魔物が飛び交っていると知ってか知らずか、男には何の緊張も見られない。
果たして足下にどこまでも広がる巨木の枝葉が魔物を寄せ付けないというのか。あるいは、男の遥か頭上に翼を広げて滞空している、蒼穹に相応しい透けるような明るい蒼い鱗に包まれたドラゴンが寄せ付けないのか。
絵とするにはあまりにもスケールが違いすぎるその光景の中で、男の唇が動いた。
「精霊の筺はあと4つ。もう少し急がせた方が良いか?」
それに応じる声は、遥か頭上のドラゴンから。
「御身の言われる仮想現実を鋳型としても、今はまだこの世界は自立するには不完全なれば。如何に世界樹とて、六大精霊の力無くして世界を支えきることは出来ませぬ」
だが、男はそれに答えなかった。代わりに、
「間もなく夜が明けるな」
小さくそう呟き、そしてその姿を消した。
太陽の光が降り注ぐ中に残されたのは、蒼いドラゴンとドラゴンが世界樹と呼んだ巨木だけだった。
よし、これで第七章も終わりです。
といっても、最後の方は上手く書けた気は全くしませんが。
せめて、何が起きているのか読み手に伝わっていると良いのですがと思いつつ、レック達の今後を考えています。
そろそろキングダムから飛び出させたいところですが、足がないのは問題ダ。