第七章 第二話 ~湿地にて~
ペルの東にある山を大きく迂回して更に東へ向かうと、そこには広大な湿地帯が広がっている。周囲の山々から流れ込む無数の小川の水が、とことん平たい地形のおかげで一気に流れ出すわけでもなく、かといって大きな湖になるわけでもなく、この広大な湿地帯を作り上げている――そんな感じである。
さて、湿地にはそこかしこに沼がある。沼は広さも深さもまちまちだが、一部は底なし沼と化している。その為、死んだらそれっきりの今の状況下では、この湿地帯に好んでくるような冒険者はほとんどいなかった。せいぜい、湿地に住むカエルだの蛇だの、時々鳥だのの気配がある程度である。
さて、冒険者はほとんど来ないと言ったが、勿論例外もいるわけで。
今もまた、湿地に立ちこめる霧の中、数名の人影が一列でゆっくりと湿地の中を進んでいた。
「マージン……この長靴、水が入ってくるよ……?」
「まぁ……試作品やからなぁ……」
ぼそぼそと話しているのは、リリーとマージン。どうやらリリーが、マージンが作成した長靴が欠陥品だっだと訴えているようである。尤も、責めるような口調ではなかったが。
その足下は、足首まで地面にめり込み、その周囲からは水が浸みだしてきていた。
「もうちょっと、何とかならなかったのかのう……」
一行の先頭に立ち、槍の柄で目の前の地面を探っているディアナもリリーに便乗する。
「うーん、形にこだわったのが失敗やったんかも知れへんなぁ」
そう答えるマージンの足下からも、ピチャピチャと音がする。長靴の上のラインを水が越えたわけでもないのに、彼の長靴の中もとっくに水浸しというわけだ。
「む……」
ディアナが不意に足を止める。
「またか?」
「うむ……またじゃな」
一行の中程を歩いていたグランスが声をかけられ、目の前の地面に深々と槍の柄を刺していたディアナが頷いた。
槍の柄は軽く1m以上も目の前の地面に突き刺さっている。つまりは、底なし沼がそこにあるのだ。
「数百mに1つはあるよね……」
「ああ。戦闘になったら、迂闊に移動せずに迎撃するしかないな」
呆れたようなレックの言葉に、クライストが頷いている。
ちょっと走ったくらいで――走れるような場所ではないが――即座に底無し沼にはまる……なんてことはないだろうが、戦闘中にいきなり底無し沼に飲まれましたなんてことは、是非とも避けたいわけである。
「とりあえず、そうなったらディアナには足場の確認をして貰わないといけないな。他の皆は、それまで無闇と動かないようにしながら、迎撃って形になるか」
レックとクライストの話を聞いていたグランスがそう言った。
「そう考えると、不意打ちを心配しなくて良いのは、ホント助かるよね」
そう言いながら、ちらりとリリーに視線を送ったレックだったが、
「……褒めても何も出ないよ?」
さらりとしたリリーの言葉に、僅かに肩を落としていた。
そして、
「とは言え、リリーのおかげで助かっとるんは事実やな」
「え~?褒めても何も出ないよ~」
今度は微妙に嬉しそうなリリーの様子に、レックの肩は更に落ちるのだった。ちなみに、マージンはディアナのすぐ後ろ――つまりリリーとレックより前を歩いているので、二人の様子には全く気づいていない。
「さ、そろそろ黙ろうか。わざわざ、周りに俺達がいることを教える必要もないんだからな」
おしゃべりの音量が大きくなってきていたことに気づいたグランスが、そう仲間達を窘める。それで、仲間達もついつい声が大きくなっていたことに気づいて、慌てて口を閉じるのだった。
そうして、静かになって暫くしてからのことだった。
「……ストップ」
小声でそう言って、リリーが動きを止める。
「何が来た?」
「……この感じだと多分……リザードマンだと思うよ?」
それを聞いた仲間達は、速やかに迎撃態勢を整える。
ディアナは音を立てないようにしながら、周囲の地面に槍を突き刺して足場の確認を行い、前衛のマージンとレックがリリーが指し示した方に立ちはだかる。グランスとクライストはそれぞれミネアとリリーの護衛役、である。
「相手はこっちに気づいてるんですか?」
「……そうみたい。まっすぐこっちに向かってきてるもん」
リザードマンが来るはずの方向にリリーの視線は向けられていたが、霧のせいで視界はせいぜい20~30mと言ったところ。他の仲間達が身体強化を使って目を懲らそうとも、まだなにも見えていない。いや、リリー自身、見えてはいないのだ。
だが、確かに何者かが近寄ってくるような水音が聞こえ始めていた。
「3匹だよ」
リリーの言葉にミネアが頷き、構えた弓を引き絞る。
そして、霧の向こうにうごめく大きな影が見えた瞬間、ミネアは矢を放った。
「ギャオフッ!!?」
放たれた矢が命中した相手が、叫び声を上げる。だが、矢は刺さった様子もなく、あっさり地面に落ちてしまった。
「やっぱり、鱗が固くてダメです!」
ミネアがそう叫んだのが先か、それとも攻撃を受けて興奮したリザードマン達が雄叫びを上げたのが先か。
「グルルウゥゥオオオォォォ!!!」
雄叫びを上げながら突撃してきたリザードマンは2体。身長は2.5mほど。まさしく2足歩行するトカゲであるが、その鱗の強度は半端ではない。
彼らの全身を覆う緑色の鱗は、身体強化を伴わない攻撃はほとんど通じないと言えば、どれほどのものか分かるだろう。先ほどミネアが放った矢が弾き返されたのも、そのせいである。おかげで、武器を使う知能がありながら、盾以外の防具は全く発達させていなかったりする。
突撃してくるのはいずれも戦士タイプなのか、片手に小さなレザーシールドを、もう片手に1mほどもある棍棒を持ち、それを大きく振り上げて走ってきている。
そんな物をまともに食らえばただでは済まないが、レックとマージンにとっては大した脅威でもない。大振りすぎて、避けるのは簡単なのだ。
足場が悪くとも、二人とも軽々とリザードマンの攻撃を避け、
「ミネア!!」
残る一体のリザードマンがいつの間にか弓を構えているのを見つけたグランスが叫ぶ。その狙いは、明らかにレックに向かっていて、前衛から潰していく気らしいことがありありと見える。
だが、ミネアの援護は間に合わなかった。
それよりも先に、弓を構えたリザードマン――リザードマンアーチャーとでも呼ぶべきか――の足下から一筋の水が槍のごとく飛び出し、その足を易々と貫いたのだ。
「ギャオオオオオ!!!」
何が起きたのか理解できないまま、バランスを崩しかけるリザードマンアーチャー。辛うじて地面に倒れ込むことは免れたが、最早弓を構えるどころではなくなっていた。
尤も、弓を構え続けていたところで、結果は同じだっただろう。
再び水の槍が現れ、容赦なく無事な方の足を貫くに至り、今度こそリザードマンアーチャーは地に伏し、事実上無力化されてしまった。
残り2体のリザードマンウォリアーはというと、あっさり仲間が仕留められてしまったことに動揺する余裕も既に無かった。
レックの相手をしていたリザードマンウォリアーは、既に盾ごと片腕が切り裂かれ、牽制のために繰り出したその尾すらもたった今、いとも簡単にグレートソードで切り落とされてしまった。生半可な剣など弾き返すはずの鱗が、何の役にも立っていない。
「もう、近接戦闘でレックに勝てる気が全くしないな……」
そんなことをぼやいているグランスが見ている目の前で、最後の悪あがきでリザードマンウォリアーが振りかざした棍棒が腕ごと切り落とされ、そのまま心臓にグレートソードが突き立てられた。
「身体強化……怖ぇよな……」
「うむ……」
呆れた仲間達は今度はマージンの方へと視線を向けた。
マージンの方はまだリザードマンに大きなダメージは与えていなかったが、それでも他の仲間を全て倒されたリザードマンは、劣勢を悟っているかのようだった。既に、マージンから間合いを取り、逃げる準備をしているように見える。
そんなリザードマンを睨み付け、
「逃がしはせんで?仲間呼ばれたくないからな」
マージンはツーハンドソードを腰に据え、突きの構えを取る。
リザードマンもその一撃を凌がなければ、逃げ切ることは出来ないと感じたのか、盾を投げ捨て、棍棒でマージンの一撃を受ける構えを取った。
これが1対1の対決なら、それも良かっただろう。しかし、冒険者とエネミーの戦闘には正々堂々という単語はない。
マージンの一撃を待ち構えていたウォリアーを襲ったのは、剣による刺突ではなく……地面からの水の槍による一撃だった。
予想もしていなかった一撃を防ぐことは流石に出来ず、アーチャーと同様に片方の足を貫かれたウォリアーは、当然のように大きな隙をマージンに対して見せることになる。
そして、それを見逃すマージンではない。
「すまんな」
小さな謝罪と共に、マージンはリザードマンウォリアーの心臓に、ツーハンドソードを突き立てたのだった。
「……後は、あれもトドメ刺さんとな」
そう言ったマージンの視線の先には、両足を水の槍に貫かれ、地面に倒れ伏したリザードマンアーチャーの姿があった。
勿論、足を貫かれただけで簡単に死んだりはしない。当然、アーチャーはまだ生きていて、何とか逃げようと足掻いている。
「…………」
それを見て難しい顔になるレック達。
確かに、今まで無数のエネミーを殺してきた。だがそれでも、無力化され、それでもまだ生きるために足掻いている相手を殺すというのは、かなりの抵抗がある。
まして、相手は人型をしているのだからその様は余計に生々しく、その分だけ抵抗も大きい。
「……俺がやろう」
そう言ったのはグランスだった。
戦斧を構え、抵抗を止めて自分を見つめるリザードマンアーチャーの元へとゆっくりと近づいていく。
アーチャーの視線に一瞬ひるんだグランスだったが、それでも戦斧を大きく振り上げ……そして、首めがけて振り下ろしたのだった。
それから数分後。
レック達は湿地に点在している乾いた土地の1つに上がり込んで休息を取っていた。
誰も何も言わず、しかし何かを言いたそうな顔をしている中、
「……なんか、随分生々しくなってなかったか?」
そう切り出したのはクライストである。
「やはり、そう思うか?」
疲れたようなグランスの言葉に頷く。
「前はあんなに……こう、動きというとか何か、もっと機械っぽかったって言えばいいのか?」
「そう、ですね。あれではまるで、本物の生き物みたい……です」
ミネアの言葉に、再び沈黙が落ちる。
「……一体、何のつもりじゃろうな」
暫くして口を開いたのは、ディアナだった。
誰が、とは言わない。言わなくても、ここにいる仲間達はよく分かっていた。
だから、
「それが分かれば苦労はせえへんやろ」
と、ふざけ気味にそう言ったマージンに、苦笑するしかなかった。
だが、とりあえずそれで空気は変わった。
「まあ、慣れる必要があるということだろう。一撃で仕留められればその必要もない……かもしれないがな」
グランスが途中で言葉を切ったのは、相手に死を理解し恐怖できるだけの知性があった場合を想像したからだった。尤も、仲間達は気づかなかったようではあるが。
「ああところで、レック。ちょい、剣を見せてくれへんか?」
「え?まあ、いいけど」
そう言いながら、レックはマージンに剣を渡す。
「どうかしたの?」
「ん。ちょいとな」
リリーにそう返すと、マージンはレックのグレートソードを鞘から抜き放ち、その刃をまじまじと観察し始める。
「……ふむ」
一通り確認したのか、すぐにマージンは剣を鞘に収め、レックに返し、レックの顔を見つめ、
「また、少し剣にダメージ入ってきとる。気をつけへんと、また曲がるで。刃こぼれも少ししとるしな」
「……マジで?」
「マジで」
軽くショックを受けた様子のレックに、マージンは即答した。
一方で、他の仲間達は納得している様子で、中でも、
「あれだけ派手に暴れたらな」
「要するに、力任せの攻撃と言うことじゃろうな」
「剣術をちゃんと習った訳じゃないからな」
「で、剣にもダメージが入る訳じゃな」
と、クライストとディアナの二人が言いたい放題である。
そもそも、ジ・アナザーでの身体の動かし方は原則プレイヤーに依存する。例外的にスキルを使用している間だけは、システムによって身体が勝手に動かされていたので、それを覚えて動きを再現することは出来た。だが、所詮スキルは武器を使う技でしかない。それ以外の動作は全くサポートしてくれない。
そんな訳で、まともに武器を使えるようになりたければ、誰かに弟子入りするか我流で頑張るかしかない。だが、蒼い月のメンバーは一人として、道場に通ったこともなければ誰かに師事したこともなかった。
「やっぱ、我流じゃ限界があるよな」
「うむ。本来ならば、数年数十年の鍛錬が必要なのじゃろうな」
「俺は撃って殴って蹴ってだからいいけどな」
「私は……槍は一度習った方がいいのじゃろうな」
今更ながら、その事に思い当たったらしい。
「考えてみれば、レックだけの問題じゃない訳か……。移動手段より先に、各々の武器を指南してもらえる人を探した方が良いのかも知れんな」
「わたしは矢を放つだけですけど……どうなんでしょうか?」
「念入れるんやったら、誰かに少し見てもらった方がええやろな」
「あたしの短剣もかな~……」
いつの間にか、反省会になりつつある。おかげで、自分だけの問題じゃないと知ったレックも気を取り直したらしい。
とは言え、
「こんな大きい剣の扱いを知ってる人って……いるのかな?」
「それを言ったら、俺の戦斧もやばいだろう」
実現への道のりは遠そうであった。
その事に気づいたのか、グランスが咳払いをする。
「それはさておき、だ。リリーの精霊魔術は思った以上に便利だな」
「ああ、それは僕も思った。攻撃だけじゃなくて、索敵にも使えるあたり、便利だよね」
グランスの話題転換にレックがついてくる。
「うむ。リリーがおらねば、この湿地で随分苦労することになっておったじゃろうな」
「そうですね……」
「だな。感謝感激雨あられってやつか?」
「やな」
そんな感じで仲間達から褒められまくったリリーは、顔を少しだけ赤くして、照れていた。
「えへへ?そんなことないよぉ~?」
そのリリーの仕草を見たレックがクラリとしていたが、それはさておき。
レック達はペルを出発してからこの湿地まで、予定より少し時間がかかったがおおよそ6日ほどで着いていた。尤も、湿地に入る前に一泊し、今朝方湿地に踏み込んだばかりなのであるが。
で、ペルに着く手前くらいから精霊魔術のコツを掴みかけていたリリーだったが、ペルを出た翌々日。ついにコツを完全に掴んだらしい。
ただし、あの時は火事場の馬鹿力っぽい何かだったらしく、今のリリーに出来るのは水の槍を一本生み出すことだけ。尤も、その威力は岩をも穿つのだが。
加えて、水がなければ使えない。湿地に来るまでは湿地から流れ出している川沿いに来たので、その水を使って練習していた。
ちなみに、リリーは水を使った索敵も出来るが、これに気づいたのは実は湿地での探索を始めた後のことである。ある程度以上の大きさのものが水の中で動いていれば、せいぜい100mほどまでであるが、精霊を介して感知できるのであった。――動いていないと分からないので、底無し沼を感知できないという問題はあったが。
ただ、それでも、この湿地でのリリーの貢献度は大きいものだった。
と言うわけで、仲間達がリリーを手放しで褒め倒した後。
折角の乾いた地面と言うことで、この日は少し早めに野営することになったのだった。
「今どの辺か、分かっておるのか?」
翌日、霧の中をチャポチャポ歩きながら、ディアナが後ろを歩いているグランスに訊く。
「おおよその所はな。何事もなければ、今日の昼頃には近くに着くはずだ」
「この霧では、余程近づかねば、祭壇を見つけることは難しそうじゃのう。祭壇の周囲は霧が薄いという話が正しいと嬉しいのじゃがのう」
あまりにも濃い霧は、木も人もエネミーも全てを覆い隠してしまっている。予め聞いている情報がなければ、湿地を見た時点で引き返すことにしていてもおかしくはなかった。
ただ、実のところ、現在位置は些か怪しい。湿地に入ったところからまっすぐ歩けていればいいのだが、底無し沼やら普通の沼――リリー曰く、体長数mはありそうな何かが泳いでいた――やらを迂回しているため、方向がずれた可能性も否定出来ないのである。
幸い、方向感覚と距離感覚の両方が優れているミネアがいるおかげで、おおよその位置の目星はついていたが。
「リザードマンも多くなってきとるしな。てか、リザードマンの集落の真ん中に祭壇があったりしてな」
マージンの言うとおり、昨日に比べ、明らかによくリザードマンに遭遇していた。そこから良からぬ予想を立てるのは、マージンに限ったことではない、が、
「そればかりは勘弁だな。リザードマンメイジなんて出たら、目も当てられねぇぜ?」
「冒険者ギルドでは、祭壇がリザードマンに取り囲まれているなんて話は聞かなかったから、大丈夫だろう」
クライストが苦笑し、グランスが否定する。
ちなみに、リザードマンメイジというのは魔術を使うリザードマンのことである。『魔王降臨』以前に何度か確認されているらしい。一撃でパーティを全滅させるような魔術は使えないものの、厄介な相手であるとは言われていた。
「そういう話はそれくらいにしない?」
男性陣の会話に口を挟んだのはリリーである。
「そう……ですね。そんな話ばかりしていると、現実になるとか言いますし……」
ミネアも頷きながら、そう言った。
尤も、これはこれである意味手遅れだったのだが……一行がその事を知るまでには、大した時間はかからなかった。
間もなく正午になろうという頃。
「なんか、霧が晴れてきてないか?」
「言われてみれば……少し薄くなってきてるね」
列の中程で、クライストとレックがそう話しているとおり、先ほどから霧が薄れつつあった。せいぜい20~30m程度しかなかった視界が、明らかに50m以上先までが見えるようになっている。
「祭壇が近いのかも知れんのう」
「確かに、場所としてはだいぶ近づいているはず……です」
どこか浮かれたようなディアナの言葉を、ミネアが肯定する。
しかし、
「霧が薄い分、リザードマンにも見つかりやすくなってる。気をつけろ……と言う前に早速来たぞ」
グランスの押し殺した声の通り、霧の向こうから現れた4つほど影が現れる。明らかにリザードマンと覚しきその影は、しかし一行が警戒する間もなく短く警告音を鳴らしたかと思うと、そのまま霧の向こうへと消えていった。
「……何だったんだろ?」
「さあな。だが、行動パターンが変わったというなら、注意が必要だろう」
拍子抜けしたレックに、グランスはそう注意を促した。
「とりあえず、このまま進むのは止めた方が良い気がするのじゃが、どうするかの?」
「ああ……俺達を見て退いたってことは、仲間を呼んでくる可能性もあるな」
ディアナの言葉に、クライストがそう気づいた。
「確かに数が来られるときついな」
グランスはそう言うと、周囲を見回し、
「……少し退いて暫く様子を見よう。数が増えるようだったら、一度戻るぞ」
そう指示を下した。
そして、グランスの言葉通りに数百mほど後退した一行が、霧に身を潜めて待つこと十数分。
前方でパチャパチャと、微かにだが水音がし始めた。それも、到底少ないとは言い難い数である。
レック達は互いに顔を見合わせると、無言のままゆっくりと元来たコースを後退し始めた。音を立てないように、慎重に、というのは言うまでもない。
そうして、ゆっくりと後退していく間に、前方から聞こえてきていた水音は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「……もう少し下がっておくぞ」
そろそろ声を出しても大丈夫だと判断したのか、それでも小声でグランスがそう仲間達に指示を出す。
そうして更に数百mも下がった辺りで、レック達はやっと緊張を緩め、息を吐いた。
「かなりの数が来てたよね」
「ああ、そうだな。リリー、どのくらいだったか分かったか?」
レックの言葉に頷いたグランスは、そうリリーに尋ねたが、リリーはあっさり首を振った。
「残念だけど、ちょっと遠すぎ」
「そうか。まあ、分かるくらいに近づいていたら、下手すれば見つかっていたしな」
「でも、5匹や6匹って数じゃなかったよね」
「そうだな。あれは少なくとも10匹程度はいたな」
「つまりは、退いて正解じゃったわけじゃな」
そう言ったディアナは、正面から戦うことになっていた時のことを考えたのか、軽く頭を振った。
「そうだな。正面からやり合うには多すぎる」
グランスが重々しく頷いた。
実際、今のグランス達が一度に相手に出来るリザードマンの数はそれほど多くない。レックとリリーという火力がいても、数で攻められるとどうなるか分からない。グランスの見るところ、レックは無事で済むかも知れないが、マージンは大怪我を免れまい。そして前衛を抜かれると、後衛にも被害が出るのは避けられない。
「一気に足を潰して回ってもダメ?」
リリーの言葉でそうした場合を考えてみると、確かにその場合は10匹くらいまでなら何とかなりそうではあるが……
「20も30もいたり、囲まれたらやはり拙いだろう」
グランスはそう結論づけた。
「僕もそんなにいたら、避けるだけで手一杯だよ」
「わいはむしろ逃げるな」
「まー、無茶をしないのは大事だよな」
前衛の二人組に加えてクライストも、グランスの判断を彼らなりに支持する。
そんな仲間達の顔を見回しながら、
「とりあえず、このまままっすぐ進むのは止めるべきだな。少しルートを変えてみるか」
グランスはそう提案した。
「群れに正面から突っ込むよりはマシじゃろうな」
そんな感じで、いつも通り、グランスの無難な提案に反対する者はおらず、
「なら、少し北回りに迂回してみるか」
と言うことになった。
が、この日はどう進んでもリザードマンと遭遇し、すぐに援軍を呼ばれてしまうため、前に進めなかったのだった。
「結局、皆はあれをどう思う?」
その夜、昨夜と同じように見つけ出した乾いた地面で野営をしながら、最初に切り出したのはやはりグランスだった。
「鉄壁だよね」
「たちが悪いのう」
「強行突破が魅力的に思えてきたぜ」
「先に進める気がしません……」
「もー、こうブスブスザクザクッと」
「リリーはすっかり凶暴になってしもうたな」
「ぁぅ……」
何やら一つ、全く関係ない感想が混じっていて、それで撃沈した者がいるがそれはさておき。
「あれを避けて祭壇に辿り着ければ良いんだがな……」
仲間達の感想を聞いたグランスはため息を吐きながら、リリーの書いている「の」の字とは別に、ナイフで地面に簡単な地図を描き始める。
「これがこの湿地だとすると、今俺達がいるのは……」
「この辺り、ですね」
グランスの視線を受け、ミネアが地図の一点を指で指し示した。
「そうだな。で、ここが……」
そう言いながら、グランスはナイフで地図の一点に×印を付ける。
「冒険者ギルドで聞いた祭壇がある場所だ。かなりのずれはあると思うが、要するにあのトカゲ共の向こうにあるはずということだ」
「つまり、あれをどうにかして突破せねば、炎の攻撃魔術を手に入れることは出来ぬということじゃな」
「そうだな。ここがこんなんじゃなければ、二手に分かれるなり何なり出来るんだが……」
「はぐれたらそのまんま迷子だぜ、ここ」
クライストの言うとおりだった。あまりにも濃い霧は、かなりの方向感覚と距離感覚がなければ、それだけで迷子になるに十分なのである。
「少しずつ削っていく手もあるが……」
「あいつらの数次第じゃ、一ヶ月とかかかりそうやなぁ」
マージンの言葉に、自分でもこの案はないだろうと思っていたグランスは素直に頷いた。
「とりあえず、周りをぐるりと一周してみるのはどうじゃ?」
「ふむ……反対側からなら、祭壇がある付近にもう少し近寄れるかも知れない、か」
可能性としては高くはないどころか、むしろ低いくらいだが、無理をするよりはずっと良い。グランスはそう判断し、
「ディアナの案で行ってみるか。それでも無理そうなら、今回は諦める方向でいいな?」
それに仲間達も頷き、明日からの方針も決まったのであった。
そして、翌日。
この日はリザードマンの防衛線――と呼んでいいだろう――を3分の2程度回ったものの、結局その穴を見つけることは出来ないまま夜を迎えた。
そして更にその翌日。
「……今日はリザードマンがいねぇな」
「そうだね。やっと、祭壇を探せるね」
そんなどこか浮かれたクライストとレックの会話で分かるように、朝から一度もリザードマンを見かけていない。
随分と周囲の霧は薄くなってきていて、既に100m先も何とか見える様になってきているのだが、動くものの影は一切見あたらない。
「祭壇の場所はどの辺か分かるか?」
「多分、このまままっすぐ行けばいいと……思います」
やっと目的の物を拝めそうだと言うことで、グランスとミネアもどことなく雰囲気が明るい。
「ふむ。これでやっと攻撃魔術を覚えられるかもしれんのう」
「……あたしは関係ないけどね」
かなり嬉しそうなディアナに対し、魔力制御力の関係で基本的に魔術は使えないとだめ押しされているリリーは、仲間達ほど嬉しそうではなかった。尤も、目的さえ果たせばこのじめじめした湿地から抜け出せるので、それなりには嬉しそうではある。
「む……」
最初にそれに気づいたのは、先頭を行くディアナだった。
「乾いた地面があるのう」
そう言えば、地面に槍を刺す時の抵抗が大きくなってきていたなと今更ながら気づく。
「確かにな。しかも、割と広そうだ……これならリザードマンとも戦いやすそうだな」
地面を確かめながら、満足そうにグランスが言うと、
「つっても、リザードマン全然いねぇけどな」
とクライスト。
そこにレックが首を傾げながら、
「……グランス、あれなんだと思う?」
と、前方を指し示した。その声から先ほどまでのテンションの高さは消え去り、代わりに警戒心が滲んでいた。それに釣られたわけでもないだろうが、
「む?」
グランスだけではなく、仲間達全員がレックが指さした方向へと視線を向ける。
「……建物っぽくあらへんか?」
「やっぱりそうだよね」
霧の中に浮かぶそれらしき影を確認したマージンの言葉に、レックが首を傾げる。
「言われてみるとそんな気もするな」
「……じゃのう」
他の仲間達も同じ感想を持ったらしい。
「じゃあさ、あれの住人って……何だと思う?」
そこまで言われれば、流石に仲間達もレックが警戒している理由が理解できたらしい。
一斉に武器を構えながら、
「当然、リザードマン、だろうな」
グランスがそう答えた。
「祭壇の周りに集落を作っておったのかのう?」
「かも知れねぇな」
周囲を警戒するディアナとクライストの声には、緊張が滲んでいる。
「囲まれたと思うか?」
「分かんない。物音もしないし動くものも見かけないけど……」
グランスにそう答えながらも、レックはしきりにキョロキョロと辺りを見回す。
「……水がないからリリーの索敵は無理だな?」
「索敵も攻撃も出来ないよ?」
そう答えたリリーはいつの間にかマージンの後ろに隠れている。
そして、そのマージンはというと、
「とりあえず、建物の中調べてみんか?」
そう、動きが止まった仲間達に提案した。
「確かに、状況が分からない以上それも手だが……」
「安全を取るなら、退くのも1つの選択肢……ですけど……」
「つっても、今更かも知れねぇしな。グランスに任せるぜ」
そんな仲間達の意見を聞きながらグランスは考える。
危険は最小限にするべきだが、時には冒険しなくては何も手に入れられない。この場合は、引き返せば何も手に入れられず、思い切って前に進めば新しい魔術を手に入れられる、かも知れないのである。
幸い、今いる場所は地面がしっかりしていて、湿地だと足を取られて自由に動けないグランス自身もちゃんと戦える。リリーが戦力外になっているが、少し引き返せばそれも問題ないはずだった。
そう考えたグランスは、
「出来る限り気配を殺して進もう。何かあった場合には、リリーが精霊を使える場所まで速やかに後退する」
仲間達にそう決断を伝えた。
「ただし、出来る限り戦闘を避けるに越したことはない。囲まれたくはないからな」
そんな補足に、仲間達は頷いた。万が一を考えると怖いのは怖いが、怯えてばかりいるくらいなら冒険者などやっていない。
「レック、リリーに少し水を渡しておいてくれ。それだけでも1回か2回は攻撃できるだろう?」
「そ~だね。使い捨てになるけど、あると安心かも」
グランスの指示を受け、レックはアイテムボックスから飲み水を入れてあるボトルを1つ取り出し、リリーに渡した。
早速、ボトルの中の水を操ってみるリリー。
「……2回ってとこかな?」
ボトル一本ではそれが限界らしい。
「じゃ、もう一本渡しておくよ」
さすがに2回しか攻撃できないのでは拙いと思ったレックは、そう言ってボトルをもう一本取り出し、リリーに渡した。
「……蓋は開けておけ。どうせ、溢れないようにするくらいは簡単にできるだろう?」
「もちろん」
グランスの言葉にそう答え、リリーは蓋を外した。そのままボトルを逆さにするが、ボトルから水が溢れることはない。精霊魔術で水を操っているからこそ出来る芸当であった。
「他に出来る準備は……ないな」
グランスの言葉に、素手の各々の武器を構えていた他の仲間達は無言で頷き、そして、ゆっくりと一番近くの建物へと忍び寄った。
「でかいな……やはり、リザードマンの住処ということか?そんな情報は無かったんだが」
すぐ側まで寄って分かった建物の様子は、一言で言うと人間向けにしては妙に大きかった。おまけに、細い木や草を組み合わせただけの、かなり雑な造りである。
「どう見ても人間の住む家じゃあらへんわな」
マージンの言葉に、レックとクライスト、ディアナが頷く。
「で、どうする?中も調べるか?」
クライストに訊かれ、グランスは周囲の様子を窺った。
幸いと言おうか、ここまで来てもレック達以外には何も動くものがいない。途中、その辺に隠れているのではないかと疑い、何度も足を止め、周囲の様子を窺いながら来たのだが……どうにも、リザードマンがいる気配がない。他にも粗雑な小屋が幾つも建てられているのだが、そのどれにもリザードマンがいるような気配は感じられなかった。
「いないなら、それもアリだろうな」
グランスはそう答えると、建物の入り口へと移動した。他の仲間達もその後に続く。
リザードマンの小屋には扉などは付いていなかった。おかげで、中の様子は簡単に覗き込める。
「……やはり何もいないな」
「どうする?他も調べて回るか?」
「そうだな。まだ本当に何もいないのか分からないからな。幾つかは調べて回ろう」
そうして、一行は気配を押し殺し、他の小屋も確認して回った。
が、
「やっぱ、何もいねぇな……?」
「じゃのう。昨日まではあれだけおったのにのう?」
どの小屋も、調べた限りではもぬけの殻だった。粗末なものではあるが、机や椅子のような物もあるあたり、確かにリザードマンがここに住んでいる――という設定にはなっている――ようではある。
「集まってる場所が実はちょっとずれてて、もう少し行ったら沢山いるとかは?」
「かもしれんな」
レックの言ったとおりである可能性が一番高いだろうと、グランスも思っていた。
「ならば、もう少し進むとリザードマンとエンカウントするかもしれない訳じゃな?」
「出来れば、このまま遭いたくないんだけど?」
リリーの言ったことは、全員が思っていることでもあるが、それならそれで、本当かどうか確認しておきたいところでもある。本当なら、後ろから襲われる可能性も随分と減るからだ。
「まあ、この先に集まっているなら集まっているで大歓迎だ。リザードマンがこっちに気づいて移動してくる前に、さっさと祭壇があるかどうか調べるぞ」
そう言ったグランスの後について、レック達は祭壇を探し、こそこそと集落の中を移動し始める。
途中、小屋の中に祭壇があったりしないかと気づき、小屋の中も一通り調べて回るが、やはりリザードマンは一匹も見かけない。
レック達は順調に集落の中を調べていき……集落の真ん中の広場と思われる場所で、ついに目的の物を見つけたのだった。
だが、そこにあったのは祭壇だけではなかった。
「つまりは、あれのせいでリザードマンが逃げたってことかな?」
「あるいは全部喰われたのかも知れねぇな」
そんな会話を交わすレックとクライストの視線の先にいるのは、祭壇を囲むようにしてとぐろを巻いている、人間よりも太い胴体を持つ巨大な蛇だった。