第六章 第七話 ~ケルン襲撃1~
「徒歩にしろ、馬を使うにしろ、移動だけで時間がかかりすぎる」
グランスがそう言ったのは、ケルンに戻ってきたその夜のことだった。
眠りの魔術をディアナ達が習得してから4日目。レック達はケルンに無事に辿り着き、ワッペン達との再会を果たしていた。そして、商隊の出発を翌々日と決めた上で、身体の疲れを癒すため、宿になだれ込んだのだった。
「そうは言ってものう……他に移動手段など無いのではないかのう?」
そう言ったのはディアナ。
その本人は意図していなかったのだろうが、石けんの良い匂いを漂わせ、微妙な色気を振りまいている。いや、正確には、女性陣全員が、なのであるが。
おかげで、先ほどから男性陣の挙動が微妙に怪しい。特に、この手のことに免疫が無さそうな約一名――つまりはレックは、完全に落ち着きを無くしていた。
さりげなくそれを見ながら、ニヤニヤとしているディアナ。ミネアはいつも通りグランスにべったりで、リリーはと言うとレックを白い目で見ている。その視線に気づく余裕がないのは、レックにとって良いのか悪いのか。
それはさておき。
「しかし、確かに移動に時間を取られすぎとる気はするな」
グランスの言葉にマージンが頷き、
「それは否定出来ぬのう……」
ディアナもそう言わざるを得なかった。
事実、『魔王降臨』から1年と2ヶ月以上が過ぎているが、思い返せば、その半分以上を旅路の空の下で過ごしているのだ。この調子では、いつになったら魔王に手が届くのか、分かったものではない。
「空の王でも、捕まえるか?」
クライストがそう言うが、
「それが出来れば、苦労は無い」
グランスは首を振った。
「だが、何らかの移動手段を開拓した方がいいのは確かだ。当面は魔術の祭壇を訪ね歩くしかないのだし、その移動時間を大幅に節約する方法は確保したい」
「そやな。何をするにしても、移動に時間を取られとったら、魔王を倒す前にわいらが爺婆になってまうな」
「……それはイヤですね」
マージンの言葉にミネアが本気で顔を顰めた。
「まあ、馬でもいないよりはマシじゃねぇか?」
「だが、今回みたいにダンジョンに何日も潜るとなると、な」
グランスにそう言われ、クライストも「だよなぁ」と考え込んでしまった。
それからも暫くあれはどうだ、これはどうだと意見が出るが、どうにも良い案が出ないまま時間だけが過ぎていく。
「そう言えば、次はどこに行く予定?」
女性陣の色気にいい加減慣れてきたレックが、ふと、グランスにそう訊ねた。
「魔術の祭壇を探すのが1つだな。武器だけで倒せないエネミーもいるしな。手札は増やしておきたい」
「あー、確かにいたね……」
まだ『魔王降臨』以前のことになるが、ゴースト系のエネミーや上空から魔術らしきもので攻撃してくるエネミーに追われた時は、逃げるしかなかったことをレック達は思い出した。確かに、今あの手のエネミーに追いかけられれば、かなり困ったことになる。
「ただ、キングダム大陸にある分だけでも、各地に点在しているからな。出来れば、効率の良い移動手段を確保しておきたいんだが……」
「今はそれは諦めるしかねぇな」
先ほどまでの話し合いの結果を思い出しながら、クライストがそう零した。
グランスもそれに頷くと、他の候補を挙げていく。
「あるいはキングダムに戻って、リリーに精霊王に会ってもらうというのもあるな」
しかしこれにはマージンが異議を唱えた。
「今のリリーはコップの水を回すのが精一杯やろ?そんなんで、精霊王と契約とか、ありえへんやろ」
確かに、ケルンに戻ってくるまで毎晩練習していたリリーであったが、地底湖で触手の群れを殲滅した時ほどの力はどう見ても出せていなかった。
「ぶー。分かんないでしょ~」
リリーが可愛くふて腐れてみせるが、レック以外の仲間には全く効果がない。
「確かにのう。行くのは反対せぬが、無駄足に終わる事は覚悟しておくべきじゃろうな」
「ですね」
「あう。ミネアまで。酷い……」
予想外の仲間にまで裏切られ、がっくり肩を落とすリリーだったが、仲間達は気に止めずに話を続ける。
「ただ、キングダムはまだ調べるべき事も残っているからな。地下書庫の未だに読めない本や、そもそも地下通路のもっと下の階層とかな。それらもまとめて片付けるというなら、またキングダムに戻るのもありだろう」
「そう言う考え方なら、戻るのもありじゃろうな」
「あるいはロイドの元に行ってみるのもありか」
「ロイドか?まだ何か得られると思ってんのか?」
「否定は出来まい?」
グランスにそう言われ、クライストはそれもそうかと頷いた。
「結局、俺達に圧倒的に不足しているのは情報だ。魔王がどこにいるか。どうやってそこに行くか。その辺まではある程度は分かっている」
「魔王は中央大陸にいて、サークル・ゲートで渡ればいい、だよね」
グランスの言葉に、レックがそう口にする。
「そうだ。だが、魔王の力はどのくらいなのか。魔王に辿り着くまでにどのくらいのエネミーを倒し続けなくてはいけないのか。さっぱり分かっていない。そもそも、剣が通じるのかどうかすら、な」
「ただのゲームなら、当たって砕けろだけどな。砕けるわけにはいかねぇからな」
クライストの言葉にグランスは頷いた。
「その通りだ。せめて、どれくらい強くなれば魔王を倒せるのか。それくらいは知りたいんだがな」
そう言ったところで、グランスはふとレックが難しい顔をしていることに気がついた。
「レック、どうした?」
「あ、うん。ちょっとね……」
もごもごしていたレックだったが、すぐに考えていたことを口にする。
「さっき、僕はサークル・ゲートって言ったよね?」
「ああ、そうだな」
「それで思いついたんだけど……対になってる両方の場所が分かってるサークル・ゲートがあれば、移動に利用できないかな?」
「「……??」」
レックが何を考えてそう言いだしたのか、仲間達はすぐには理解できなかった。いや、気づいた者もいる。
「なるほどのう……。レックが魔力を注ぎ込めば、サークル・ゲートはいつでも動かせる。ならば、サークル・ゲートをいつでも使えるわけじゃからな」
「「「……!!!!」」」
レックが言わなかった部分をディアナに説明され、仲間達も理解した。
「なるほどな……。うまく行けば、移動に月単位でかかるところが一日もかからないか」
「ですね!馬も要りませんし、楽になることはありそうです!」
感心しているグランスの横では、興奮しているのか、珍しくミネアの声のボリュームが大きい。
「サークル・ゲートの場所の情報も、冒険者ギルドに一応集められていたはずだ。……どうやら、キングダムに戻るべきのようだな」
グランスの言葉に仲間達は一斉に頷く。
こうして、またもやキングダムに戻ることが決まり、その夜は解散――と言っても、女性陣が部屋に戻るだけだが――と相成った。
その翌日。
レック達は眠りの魔術の祭壇へ往復してきた疲れを癒すため、ワッペン達に頼んで休ませてもらうことになっていた。
尤も、ケルンでは日本語も英語もまともに通じないので、町に遊びに繰り出すわけでもない。で、
「ごろごろ出来るっていいね~」
と、自分のベッドの上で転がっているリリーのように、時間が有り余っていた。
そんなリリーを見ながら、
「少しは訓練くらいはしておきたい所じゃがのう」
「そうですね。リリーも精霊の力を使う練習をしたらどうですか?」
とディアナとミネアが言うが、
「ん~……昼までこうしてる~」
完全にだらけモードに入っているリリーはベッドから起き上がろうとはしなかった。
コンコン
「開いておるぞ」
扉をノックする音にディアナがそう答えると、油をちゃんと差されていないのか、軋むような音を立てながら扉が開き、クライストが顔を覗かせた。
「何の用じゃ?」
「少し遅いけど、何か食べないかって事なんだが……」
そこでクライストはベッドの上のリリーに視線を遣った。
「後にするか?」
「いや。一緒に食べるぞ。マージンがおらねば、メニューの注文すら出来ぬからのう」
切実な理由を挙げて、ディアナはクライストにそう答えた。それを聞き、
「あ、あたしも食べる!」
お腹が空いていたのか、はたまたマージンの名前に反応したのか、リリーがベッドから飛び降りた。
呼びに来たクライストと共に女性陣が食堂に着くと、既に残る3人がテーブルを確保し、レックとマージンがメニューと睨めっこをしているところだった。と言っても、
「おすすめコースしかないね……」
「あらへんな……」
というレックとマージンの言葉通り、メニューにはおすすめコースしか書かれていない。どうやら、メニューと睨めっこをしていたのではなく、呆然と見つめていただけらしい。
「おまえ達も来たか」
ディアナ達がやってきたことに気づいたグランスが軽く手を上げる。
「マージン抜きでは食事ができんからのう」
ディアナが述べた理由に、グランスが苦笑する。
「……わいがおらんでも、これなら問題あらへんで……」
「そんなことないよ~。お会計とか困るもん」
テーブルの真ん中にメニューを広げたマージンに、抜け目なくその隣の席を確保したリリーがそう言った。
ちなみに、ワッペン達商隊の人間も同じ宿に泊まっているのだが、この宿の食堂には今はいない。と言うのも、もう、朝とは言い難い時間帯になってしまっているからだった。
どうやら、久しぶりのベッドのおかげで、蒼い月の全員が寝坊した……らしい。
兎に角、本来の食事時間を過ぎてやってきたお客に、宿の従業員――というか女将さん?――は迷惑そうな顔をしていたのだった。
そして食事も終わる頃、見計らっていたかのようにワッペンとロックが姿を現した。
「遅い朝食だな」
「ロック。ブランチって言うんだよ」
ロックだけだと嫌みか皮肉に聞こえる台詞も、ワッペンの微妙なフォローのおかげで随分と丸い印象になっている。
「疲れが溜まってたからな」
クライストがのんびりとそう返し、
「何か用か?」
とグランスが訊く。
「別に用事はないよ。敢えて言うなら、明日には出発できるか訊きに来た、かな?」
「問題はないだろう。むしろ、あまり休みが長くなりすぎると、身体がなまる」
「無理はしなくてもいいんだよ?一応、あと2~3日はここに滞在できるだけの余裕はあるんだし」
「だが、早く出発できた方がいいのは当然だろう」
そう口を挟んできたロックをワッペンは軽く睨み、グランスに視線を戻した。
「ロックの言うとおりだ。それに、俺達も用事もないのに同じ町にずっといるつもりもないからな」
グランスの言葉にロックは満足そうに頷き、
「ならいいのだけどね。じゃあ、僕達は明日の準備もあるから、これで失礼するよ。……また昼食か、夕食の席で会おう」
ワッペンはそう言うと、ロックと一緒に建物から出ていった。
「さて、わいも少し散歩でもしてくるわ」
二人を見送った後、マージンがそう言って席から立ち上がった。
「今日は一日休むんじゃ?」
「そやけど、引きこもるのはな。どうせなら、日当たりの良い場所でゆっくりする方がええやんか」
マージンの言葉に、確かにその方が気持ちよさそうだと、レックも頷いた。
「俺もそっちの方が良いな」
「あたしも一緒に行くよ~」
と、クライストとリリーも同行するつもりのようである。
ディアナはと言うと、
「私は……」
そこで言葉を一度切り、ミネアとグランスにちらりと視線を送った。そして、
「うむ。私もそちらに同行するぞ」
そう言って、ミネアとグランスに意味深な笑みを送る。
その意味を察したのか、真っ赤になったミネアがぱたぱたと部屋へ戻っていき、
「ほれ、さっさと追わぬか」
そうディアナに追い立てられ、グランスも部屋へと戻っていったのだった。
「……少々、不健康ちゃうか?」
それを見ていたマージンがそう零すと、レックとリリーもどういう事か察したらしく、今頃顔が赤くなっていた。
ディアナはというと、
「二人きりの時間をたまには持っても良かろうよ」
そう言ってあっけらかんとしている。
「……ま、気にしたら負けだ。俺達もさっさと散歩に行こうぜ」
呆れたように見ていたクライストのそんな言葉で、レック達は宿を出たのだった。
幸い、今日の天気はよく晴れていた。マージンが散歩に行くと言い出しただけのことはある。
「これで、手頃な芝生のある公園でもあれば、完璧やな」
とマージンは言うものの、さして広くもないケルンには残念ながら公園など無かった。そもそも、町を一歩出れば緑などいくらでもあるのである。
「どうせなら、町の外まで行ってみるか?」
クライストがそう提案すると、
「悪くはないがのう。私は部屋に武器を置いたままじゃぞ」
「あたしも置いて来ちゃった」
流石に丸腰で町の外に出たくはないらしく、ディアナとリリーが渋い顔をしていた。
尤も、武器を持ってきている者もいる。
「僕はあるけど……」
「レック、お主は例外じゃ」
当たり前のことを言うレックの肩を、ディアナがぽんぽんとと叩く。
そもそもレックはアイテムボックスが巨大なため、武器は常に入れてある。言い換えれば、常に持ち歩いている状態だった。
「俺もあるぜ」
そう言ったクライストの場合は、武器自体がそれほど大きくないので、やはり常にアイテムボックスに入れている。
「わいもあるで」
そう言って、ツーハンドソードをアイテムボックスから取り出すマージン。
たまたま近くを歩いていた通行人がそれを見て一瞬ぎょっとした顔になるが、マージンが剣を鞘から抜いて振り回す様子がないことを見て取ると、すぐに落ち着きを取り戻していた。
一方、仲間達は軽く驚いていた。
「マージン。アイテムボックス、常に広げてんのか?」
ロイドの所で習得したアイテムボックスを拡張する魔術は、アイテムボックスを維持するために常に魔力を消費し続ける。レックのように魔力がかなり多いなら兎に角、そうでないはずのマージンがアイテムボックスを拡張しているのであれば、それは十分驚くべき事だった。
尤も、マージン曰く、
「いんや。これを入れる時だけやな。それに少し広げるだけなら、喰われる魔力も少ないしな。問題あらへん」
とのこと。
それを聞いた仲間達も、そういう使い方もあるかと納得していた。
「ふむ。すっかりレックに頼りきっておったからのう……そういう使い方は考えてもみなんだのう……」
「だな。つっても、俺の武器は最初から普通に入るけどな」
「私の槍はそうはいかんからの。今度試してみよう」
ディアナとクライストは感心しきりであるが、クライストにはあまり役に立たない小技だったようである。
加えて、
「あたしはそもそもダメなんだけど?」
と、精霊は扱えるようになったものの、魔術自体はさっぱりダメなリリーにも役に立たないし、
「僕は常に広げてるから……」
と、歩く倉庫のレックにも関係のない話ではあった。
尤も、
「まあ、グランスとミネアには教えておいた方がよかろう」
というディアナの言葉通り、この小技が役に立ちそうな仲間は他にもいるのだが。
そんな感じで雑談をしながら、レック達は町を歩き続けた。なかなかくつろげそうな良い感じの場所がないのである。
結局、レック達はケルンの町の外まで歩いてきてしまっていた。
ジ・アナザーでは大抵の町の周囲には、理由はどうあれ、防壁が張り巡らされている。ここケルンにも、町を守るには力不足の感が否めないながらも、一応石造りの高さ2m弱の防壁が周囲に張り巡らされていた。そんな防壁に幾つか存在している、門扉のない門をくぐると、ケルンの防壁から10mほどの所にまで針葉樹林が迫ってきているのが確認できる。
「結局、良い場所はここしかあらへんか」
「じゃのう。草も良い感じに茂っておるしのう」
マージンにそう返したディアナは、やはり微妙に不満そうでもある。それは、武器を持っていない事への不安からだろうか。
「じゃが、くつろげる自信はないのう……」
「そ~だよね~……」
ディアナほどではないが、丸腰のリリーも些か落ち着きを無くしていた。水の精霊と契約はしているが、戦闘にはまだまだ使えない以上、丸腰に等しいのだ。
町の側とは言え、丸腰で不安になっている分だけ警戒していたからかも知れない。
リリーはふと、ある物音が近づきつつあることに気がついた。
言うなれば、何かが草木を薙ぎ倒し、岩を弾き飛ばしながら猛進してくる……そんな音である。
1つや2つではないそれが、確かに近づいてくる。
はっきりそうと認識した瞬間、リリーは叫んでいた。
「何か来るよ!」
その声に含まれた警戒の色を感じ取り、仲間達にも一気に緊張が走る。
「確かに……まだ少し距離はあるみたいだけど、何か来てる。それも多分……エネミー!」
レックもすかさず身体強化で聴力を強化し、リリーが聞きつけた音を確認し、叫んだ。
「どのくらいで来るのじゃ?」
「分かんないけど、5分……いや、2~3分もかかんないはず。門に戻った方が良いと思う」
レックがそう言うと、仲間達はその言葉通り、すぐに走って門へと戻った。町の外にいたと言っても、門から20mほどしか離れていなかった事が幸いする。
だが、30秒と経っていないにもかかわらず、既に誰の耳にも、何者かが草木を薙ぎ倒し、弾き飛ばす音が聞こえるようになっていた。
「こりゃ、完全にエネミーやな。まさか、魔物の襲撃かいな?」
そう言いながら、ツーハンドソードをマージンが構える。レックとクライストも、既にアイテムボックスから各々の武器を取り出していた。
この頃には、町の住人達も異常事態に気づいたらしい。門から外を睨んでいるレック達の後ろが、一気に騒がしくなってくる。
「……武器を取ってきた方が良さそうじゃな」
とディアナ。
「だな。……それまで持ちこたえるぞ!」
そんなクライストの言葉に、レックとマージンも大きく頷いた。ケルンはなじみのない町ではあるが、見知らぬ人といえどもエネミーに蹂躙されるのを指をくわえて見ているつもりもない。
尤も、
「……手に負えへんようなら、逃げるけどな」
ボソッとマージンが言ったように、命をかけるつもりは流石になかったが。
既にディアナとリリーは宿へ向かって走っていっていた。代わりに近くの建物から、武器を構えた住民が何人か飛び出してくる。
「一体何なんだ!?」
「分からんけど、多分エネミーの襲撃や!」
その一人が叫んできたドイツ語に、マージンがそう叫び返す。
「どういうことだ!?」
再び男が叫ぶが、マージンがそれに答えることはなかった。いや、男も答えを求めるどころではなくなったのだ。
「来たよ!!」
レックの叫び声と共に、門の向こうに見える森が大きな音と共に次々と弾け飛んだ。
その直後、凄まじい音がした。森から飛び出してきた巨大な影がケルンの防壁に激突した音だった。
町の中からは見えなかったが、その事は割と簡単に察することが出来た。というのも、
「マジか……やっぱ、お飾りの壁かよ」
呆然とクライストが零したように、ケルンの防壁はいとも簡単に崩れ去っていたからだった。
尤も、呆然としたままでいる暇など無い。
「来るよ!!」
レックの叫び声にそこにいた者たちがハッと気づくと、防壁を破壊したそれが頭を振りながら、再び動き始めていた。
それを見ながら、呑気にマージンが言う。
「でっかいイノシシやな~……今夜はボタン鍋やな」
その言葉通り、森から現れたのは数頭のイノシシだった。ただし、大きさが尋常ではない上に、その牙は凶悪なまでに前方に突き出している。
「大きいにもほどがあるだろ!?」
クライストが叫んだように、イノシシたちはかなりでかかった。
一番小さいイノシシは体長2m、体高も1m程度だった。だが、一番大きなイノシシは体長4m、体高2mとバッファローかと叫びたくなるようなサイズである。
そんなのが、5頭。
「さっさと小さいの倒して、大きいのは囲んで倒すしかない?」
「そうだけどな。囮がいるぜ?」
「それはクライストに任せるわ」
「……分かったよ」
クライストはさりげなく囮の役目を押し付けてきたマージンに何か言いたげだったが、言い返している暇は既に無かった。立ち上がったイノシシたちが、突撃してきていたからである。
幸い、イノシシなんてものは小回りはきかない。割と簡単に避けることは出来る。だが、町の住人達はドイツ語で何か叫びながら、既に腰が引けていた。
そんな彼らにマージンが簡単にレックの作戦を説明する。が、
「囮として逃げ回ってくれてた方が楽かも」
レックがそう零す。
そう言っている間にも目の前に迫ってきていたイノシシ達をレック達は躱す。が、
ドゴオォォォォンン…………
イノシシたちは曲がりきれずに、町の建物に突っ込み、数件まとめて大破させる。
先ほどまでとは別の意味で上がる悲鳴。
だが、そんな悲鳴には構わず、レック達は動いた。
一番大きなイノシシにクライストが近づき、数発ほど殴りつける。
なかなかいい音がしたが、勿論この程度でどうにかなるようなら苦労は無い。実際、崩れた建物から頭を出した巨大イノシシは、大したダメージもないらしい。
だが、それでも自らを攻撃してきているクライストに対して、怒りを覚えたのか、ブフフと唸るとクライストを牙に引っかけるべく、頭を振り回す。
それを身軽にクライストは躱しながら、イノシシを翻弄し続けていた。距離を取れないのは、イノシシが突撃を始めかねないからである。
一方、レックとマージンは小さめのイノシシの狙いを定め、イノシシが建物のがれきから出てくるところを狙い、各々の大剣をその首筋へと振り下ろしていた。
それだけでイノシシたちは致命傷を負う。
レックの一撃を受けたイノシシに至っては、脊椎までやられたのだろう。ゴリッという音共に悲鳴を上げる間もなく、痙攣すら見せずに倒れ伏す。
マージンの方は、残念ながらイノシシを一撃で絶命させるには至らなかった。
「危ないな!」
一撃を受けたイノシシは、何とも言えない悲鳴を上げ、こちらも地面に倒れ、激しくもがいている。その足掻きに巻き込まれ、イノシシが突っ込んだばかりの建物が今度こそ全壊し、イノシシを押し潰さんと崩れ落ちていった。巻き込まれては敵わないと、慌ててマージンは建物から距離を取る。
尤も、レックもマージンもそちらにばかりは構っていられない。
クライストが引きつけている1頭を除いても、イノシシはまだ後2頭残っているのだ。
瞬く間に2頭が仕留められたことを見て、レック達が脅威だと判断したのか、はたまた仲間をやられた事への怒りか。
武器を持ったまま逃げ惑うケルンの住民を追い回していた2頭のイノシシは――逃げ損ねたらしい住人が一人、既に地面の上に倒れていた――レック達を次のターゲットに定めたらしい。レック達の方へと向き直るのが見えた。
「来るよ!」
「分かっとる!」
既に数の上では三対三。一人一頭を受け持てばよい今の状況は、レック達にはかなりの余裕があった。
建物がない方向にイノシシが突撃していくように、常に位置取りに気を配る――べきかと思っていたレックだったが、既にそんな気配りは必要ないようだ。
突撃を許したのは防壁を破られた直後と、レックとマージンが一頭ずつ仕留めている間の二度だけなのだが、既に周囲の建物は根こそぎ破壊されていた。今も、まとわりつくクライストに我慢なら無くなった巨大イノシシが、残っていた建物に突撃し、木っ端微塵にしたところである。
その木っ端微塵になった建物の残骸を軽々と振り払い、堂々と立ち上がる巨大イノシシ。
「おいおい……とんでもねぇ破壊力だな」
そうぼやくクライスト。その口調からはまだ余裕が失われてはいない。イノシシの攻撃は確かに破壊力絶大だが、大振りすぎて避けるのは簡単なためであった。
視界の端で、レックとマージンが1頭ずつイノシシを仕留めたことは確認している。
「もうしばらく、囮役を頑張るとするか」
そう言いながら、上にジャンプしざまに再び突撃してきたイノシシの鼻面を殴りつけ、その反動をもってイノシシの背中を飛び越えていくクライスト。身体強化様々である。
自分たちを追い回すイノシシがいなくなり、余裕が出来ていたケルンの住民達は、そんなクライストの様子を見て歓声を上げていた。
そんな住民達に、
「もう、どうせならさっさと逃げてくれた方がいいのに……」
とレックがぼやく。
かなり余裕があるとは言え、イノシシたちが変な方向に突撃しないように注意を払うのは難しい。マージンやクライストに気を遣うだけならば楽なのだが、逃げるどころか戻ってきて呑気に観戦している住民達にまで気を遣わなくてはならないとなると、それだけで余裕がかなり食いつぶされてしまっていた。
おかげで、なかなかダメージを与えられる攻撃を行う機会が掴めない。
小さかった2頭のイノシシに比べて、今相手をしているイノシシは毛皮も筋肉も頑丈なのだ。実際、全力突撃中のイノシシにすれ違い様に一撃を入れてみたのだが、巨大な岩でも殴りつけたような感触で、あっさりと弾き返されてしまった。生半可な攻撃では効果が望めないのである。
マージンの方も似たようなもので、どうにも攻めあぐねていた。
「さっきのと違って、毛皮固すぎやろ!!」
と叫んでいる。
「動きが止まってくれたら、楽やねんけどな!?」
そうは言っても、こちらの都合でエネミーが動きを止めてくれるなら、誰も苦労はしない。
再び突撃してきたイノシシの鼻面めがけてマージンが剣を振るも、大きく突き出した牙にあっさりと弾き返される。
一方で、マージンの言葉を聞いたレックは、ふとあることを思いついていた。
実行するのは多少どころか、かなりの手間がかかるだろう。だが、今のままだと倒すのにいつまでかかるか分からない。
「マージン、あいつらに眠りの魔術は効くと思う!?」
大声でそう訊かれたマージンは、意表を突かれたような顔になったが、
「試す価値はあるやろ。でも、詠唱の時間がかかるで?」
イノシシの突撃をいなしながらマージンが叫ぶ。
「避けながらは無理!?」
レックも、イノシシの頭上を飛び越えるように突撃を躱しつつ、そう確認する。
その様子を見ていたマージンは、
「……むしろ、レックが素手で殴った方が早い気がしてきたで」
と零した。
レックはそんな馬鹿なと思いつつ、先ほどからイノシシに斬りつける度に剣が軋んでいたことを思い出す。マージンの言葉ではないが、単なる時間稼ぎだけなら、剣を使わない方が良いかもしれなかった。
そんなレックの考えていることなど露知らず、マージンは言葉を続ける。
「まあ、避けながらでも何とかなるかも知れんけど……出来れば、腰を据えて詠唱したいところやな!」
半分は予想通りの答えに、レックは思案した。
レック自身は眠りの魔術を使えないが、ディアナが面白半分に仲間達に掛けまくったので、詠唱に必要な時間は知っている。多少の準備時間などを足して、発動には30秒近くかかる。
(何とかなる、かな?)
時間にして、イノシシの突撃2~3回分だろう。
ちらりとクライストの方にも視線を遣り、彼の助けは借りられないと判断する。最悪ぶん殴ってイノシシの進路を変えられるこっちと違い、クライストの方はあの巨体を避けるしかないのだ。
(何とかするしかないね)
そう結論したレックは、
「マージン!時間は稼ぐからやってみて!」
その声にマージンも答える。
「分かった!そっちに引きつけられたら、やってみるで!」
それを聞いたレックは、早速エネミーの関心を惹くべく動き出す。具体的には、攻撃を仕掛けるだけなのだが。
「ハアッ!」
マージンとの距離を詰め、そのまま気合いと共に、マージンに迫ってきたイノシシの足めがけて斬りつける。勿論、ダメージをまともに与えることなど期待していない。
ただ、イノシシはかなり痛みに鈍いのか、なかなかマージンを追うのを止めようとはしなかった。ただ、気を惹くだけならもっと良い方法もある。
レックはイノシシたちが崩した建物に駆け寄ると、数kgはあるであろう瓦礫を幾つかアイテムボックスに放り込んだ。ついでにグレートソードも放り込む。ダメージを与えるつもりが無いなら、邪魔でしかない。
突撃してきたイノシシを躱し、レックは瓦礫を1つ手に取ると、マージンを追い回しているイノシシへと全力で投げつけた。
「グォフッ!?」
身体強化された腕力で投げられた瓦礫の威力は相当なものだったらしく、それが脇腹に命中したイノシシがよろける。
「もう一発!」
とレックは思ったが、既にレックを追い回していたイノシシが再び向きを変えて、レックへと突撃してきていた。
慌ててその進路から身体をずらし、アイテムボックスに手を突っ込んでもう1つ瓦礫を取り出す。そして、マージンを追い回していたイノシシへと視線を遣ると、
「ちょ!もう!?」
脇腹を思いっきりやられた怒りを目に宿し、突撃してくるところだった。
それを確認したのか、イノシシの攻撃対象から外れたマージンは足を止めて半眼になった。精神集中である。
今から30秒。レックはイノシシ2頭をマージンの方に行かせないことだけに、神経を注がなくてはならない。
まずは、2頭のイノシシの突撃を避ける。お互いに衝突しないようにする程度の知恵はあるらしい。その結果なのか、時間差で繰り出される突撃は些か厄介だった。
それでも所詮直線的な攻撃なので、危なげなく回避する。ただ、一頭が周りで観戦していたケルンの住民達の近くにまで突撃していき、後ろで騒ぎになっていた。
残り20秒。マージンの詠唱が始まる。
そちらに注意が行かないように、レックは取り出したままで投げていなかった瓦礫を、片方のイノシシへと投げつける。これはいとも簡単にイノシシの牙で弾かれ、粉砕された。
そして、再び繰り返された突撃を、これまた躱し、隙を見ては瓦礫を投げつける。
そうして残り5秒。
今から、片方だけマージンの近くに誘導しなくてはならない。
レックはイノシシたちの位置を確認し、突撃のコースがマージンの側を通るように自分の位置を調整する。
「近くを突撃させるから注意してよ!」
念のため、マージンに声をかけ、そしてイノシシ達の突撃が始まる。
レックはギリギリまでイノシシたちを引きつけ……そして、身を躱した。
片方のコースは最初からマージンからもクライストからも離れているので問題ない。
そして予定通り、もう一頭のイノシシはマージンへと向かって突撃していく。が、
「近すぎねぇか!?」
巨大イノシシの攻撃を躱しながらも、レック達の様子にも気を配っていたクライストが叫んだ。
その言葉通り、イノシシの突撃コースは下手すればマージンに当たりかねないほど近い。
だが、クライストの心配は杞憂に終わった。
イノシシが接触する直前、マージンはスッと横に身を躱すと、イノシシの頭に撫でるように手を当てたのだ。
その効果は劇的だった。
イノシシはあっという間に足をもつれさせ、ごろごろと転がっていく。
「……目が覚めるんじゃない?」
「かもな!?」
あまりのことに、唖然とするレックとクライスト。
「起きとらん事祈るで!」
そう叫びながら、マージンは転がっていったイノシシを追いかけ、
「……堪忍な」
まだイノシシが鼾をかいていることを確認すると、ツーハンドソードをその眼球に突き立てた。その時のマージンの顔は、どこか申し訳なさそうだった。
鋼のような体毛にも、岩のような筋肉にも覆われていないそこを狙われては、流石のイノシシも堪ったものではない。眼球から突き入れられた剣はそのまま脳まで達し、いとも簡単にイノシシの命を奪う。
「次行くで!」
イノシシの頭から剣を抜いたマージンが叫ぶ。
そこから先はすぐだった。
イノシシたちの注意がマージンへと向かないように、レックとクライストが引きつける。
そして、マージンの詠唱が終わるや、マージンの側を通るように突撃させ、それをマージンが眠らせる。そして、さっきと同じように止めを刺した。
眠らせたイノシシなら、全身の力が抜けていて、体毛の間を縫うように剣を刺せば、心臓までブッスリ刺さる。その事が分かったのは、その場にいたイノシシを全て倒した後だった。