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ジ・アナザー  作者: sularis
第五章 精霊の筺
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第五章 第十一話 ~ケルシューティウラス~

「こいつら、もっと先に進んでいるとばかり思ってたんだが……まだここにいたとはな。おかげでこんなところで魔術を使う羽目になってしまったな……」

 グランス達の意識を奪った男は、手を下ろすとドイツ語でそうぼやいた。

「まさか、イデア社の人間ではあるまいな?」

 誰かが言った言葉に男達の間に緊張が走る。が、

「だとすれば、どうやっても手遅れだ。なら、今は一般人だと仮定した対応でいい」

 また別の男の言葉で、それもそうかと男達は納得し、

「しかし、魔術を使ってしまったことは事実だ。彼らの目に引っかかった可能性は?」

「眠りの魔術の祭壇は発見されていたはずだ。連中にも我々かどうかは分かるまい」

 二人目の男がそう答えたが、グランス達を眠らせた男は首を振った。

「油断はしない方が良いだろう。連中の警戒に引っかかった可能性は考慮するべきだ」

「それもそう、だな。ならば、目的を果たしてさっさと引き上げるとしようか」

 二人目の男はそう答えた。

「そうだな……しかし……」

 戸惑う様にまた別の男が言う。

「この魔力濃度は異様だ。ここには一体何があるというんだ?」

「何があるのかは分からん。だが、何にせよ、調べる価値はあるだろう……行くぞ」

 4人目の男のその言葉に、グランス達を眠らせた男が訊く。

「こいつらはどうする?始末するか?」

 その言葉に、男達の視線が地面に倒れているグランス達に集まった。

 剣呑な空気が漂い、しかし、グランス達の処遇を訊かれた男は首を振った。

「止めておけ。顔を見られたわけでもない。なら、余計なことをするのは出来る限り避けるべきだ」

 その言葉で、その場に漂っていた剣呑な空気は消え去った。それと同時に、何故か感じていた妙な危機感も消えた様な気がしたのだが……気のせいだろうと誰も口にはしなかった。

「では……行くぞ」

 4人目の男の言葉に彼らは頷くと、サークル・ゲートを一歩踏み出した。

 しかし、地底湖への道を歩き始めて数mと行かないうちに立ち止まる。

「まずいな……思った以上に魔力が濃い」

「ああ……これでは魔力酔いを起こす程度では済まないな」

「それで、あいつらはあそこにいたんだな」

 彼らをして今まで経験したことのない事態に戸惑いながらも、その話題は、すぐにどうするかという話に移る。

「あと少しくらいなら耐えられるが……」

「いや、この調子では少ししか進めまい。中和か隔離する必要があると見たが……」

「そんな魔術を使えば、まず勘付かれるぞ……出来れば避けたいところだな」

 すぐに結論は出そうにもないと思った男達の視線は、4人目の男に集中する。その視線から、判断を任されたと男は察し、

「……進まない手はない。だが、ギリギリまで防護魔術は使うな。使うのも二人までだ。わざわざ全員で使ってやることもない」

 そう判断を下した。

 その判断に男達は満足そうに頷くと、再び前進を開始し、やがてその姿はサークル・ゲートからは視認できなくなった。



 そうして動く者が一人としていなくなったサークル・ゲート。そこには再び静けさが戻り……しかし、その静けさを破る小さな音がした。

 立ち去った男達が見ていれば驚いたことだろう。こんなに早く魔術の眠りから覚めることなど、彼らの常識ではあり得ないのだから。

「ん……」

 意識を最初に取り戻したのはマージンだった。

 身体を起こすと頭を軽く振って、それから周りの様子を見回す。それだけで、仲間達が寝ているだけだと見て取ったのか、全く慌てることなく、一人ずつ仲間達を起こしにかかった。

「おい……起きるんや……」

 さっきの男達に声を聞かれるのを警戒してか、大声は出さず、仲間達の身体を揺すって起こしていく。

「何が……あった?」

「後からやってきた連中に魔術で眠らされたんや。あっさり解けてしもうたみたいやけどな」

 マージンの説明で、さっき何があったのか、グランス達もようやく思い出したらしい。だが、やっと回り始めた頭でグランス達が騒ぎ出す前にマージンは言葉を続けた。

「連中が戻ってくる前にさっさと引き返すで。いきなり眠らせてくる様な連中や。引き返してきた時に気が変わってPKしてくるかも知れん」

 その言葉に、ミネアの顔が青くなる。

「……レック達はどうするのじゃ?」

「連中もあの二人ほど先には進めへんはずや。やから、大丈夫やろ。あいつらから逃げた後にチャットで連絡すれば完璧や。むしろ、今すぐ逃げへんとわいらの方が危ないわ」

 立て板に水で素早く説明したマージンに、仲間達は互いに顔を見合わせて軽く頷く。自分たちの状況は芳しくないのだと、察したのだ。

「よし、すぐに引き返そう……サークル・ゲートを戻ったら走りながらレック達にチャットで警告する。それで行くぞ」

 グランスの言葉に仲間達はすぐに立ち上がると、サークル・ゲートへと駆け込んでいった。



 自分たちの後ろでそんなことが起きているとは露知らず、深くフードを被り黒いマントで全身を包んだ男達は、足音を立てない様に、しかし早足で地底湖への道を歩いていた。

 やがて、誰とも無くその足が止まる。

 通路の出口までは後十数m。地底湖の湖面の反射も既に見えている。

「……そろそろ限界か」

 4人目の男はそう言うと、

「ブラウニーと俺はここで引き返す。クレメンスとフランクは俺達が引き返してから防護魔術を展開して進め。対処が難しい状況になったらすぐに戻れ」

 そう仲間達に指示を下した。

「分かった。合流はどうする?」

 クレメンスがそう訊くと、

「しばらくは避けた方が良いだろう」

 ハリスは即答する。イデア社の監視がついているかどうか判断できるまで、一網打尽にされることを防ぐためにも下手な合流は出来ないのだ。

「なら、やはりさっきの連中は口封じに殺すか?」

 クレメンスの言葉に、ハリスはさっき地面に転がしてきた名前も知らない冒険者達の事を思い出す。

 彼らを殺してしまえば、ここのことを報告する者はいなくなる。しかし、彼らは地下通路探索をしている冒険者達であり、もし帰ってこなかったなら、冒険者ギルドがより多くの冒険者を動員して彼らの担当エリアを隈無く探索させるだろう。となると、彼らを殺したところで大した時間稼ぎにもならない。むしろ、冒険者達の警戒心を煽るだけだった。

「殺しても彼らを捜しに来たプレイヤーがどうせここを見つけるだろう。意味はない。放っておく」

 むしろ、一般プレイヤーが大挙して来てくれれば、あるいは今後ここに来る時のうまい隠れ蓑になるかも知れないとハリスは考えた。だが、今そこまで説明する必要もない。

「質問はないな?なら、ブラウニーはついてこい。クレメンスとフランクは合流しても良いと思う時期になったら改めて連絡する」

 ハリスはそう言うと、ブラウニーと呼ばれた男を連れてサークル・ゲートへと引き返した。

 しかし、そこに眠っているはずのグランス達の姿は消えていた。

「ハリス、連中はどうしたと思う?」

 またもや生じた予想外の事態に動揺するブラウニー。ハリスも多少動揺はしたが、すぐに冷静さを取り戻し、状況の分析を始める。

「空間に満ちる魔力が原因、だろうな。そのせいで効果がすぐに切れたのかも知れない」

 考えてもみれば、あの冒険者達が先に進もうとしなかったはずはない。一度は先に進んでみて、魔力酔いのせいで引き返してきていたのだと考える方が自然だった。その時の魔力がまだ彼らの体内に残留していたとすれば……魔術の効果が短くなってもおかしくはなかった。尤も、目覚めるのが早すぎると思わなくもないが、今考えるべきはそこではない。

「彼らに顔は見られていない。なら、予定も変更する必要はない……ゲートを戻った後、奇襲にだけは気をつけるぞ」

 全く動揺が見られないハリスに、ブラウニーが安心した様に頷く。そして、二人の姿もまた、サークル・ゲートの中へと消えていった。

 勿論そんな事を知る由もないクレメンスとフランクは、ハリス達の姿が見えなくなって暫く待った後、各々が防護魔術を発動させた。途端に、今まで感じていた圧迫感が消え去った。

「……ちゃんと効果は出てるな」

「出てくれないと困るさ」

 感心する様に、あるいはおどける様に言いながら、二人は地底湖を目指す。この先に待っている何かへの警戒感から、それ以上は余計な会話を交わすこともなかった。

 だが、すぐにその足は止まることになる。

 地底湖の湖面から突き出る水竜の姿に。

 クレメンスとフランクが、素早く通路へと戻って身を隠したのは言うまでもない。



 レックとリリーはずぶ濡れのまま、完全に固まっていた。

 言うまでもなく、恐怖故に……と言えればまだ楽だっただろう。

 二人の目の前に姿を現したそれは、まさしく噂に聞く水竜そのものだった。

 群青色の鱗に包まれた二抱えもありそうな太い首。その上には同じく群青色の鱗に包まれた巨大な頭部が乗っている。その上から突き出す3対6本の青い角。そのすぐ下には、知性すら感じられそうな深い蒼を湛えた、サッカーボールほどもありそうな瞳がレックとリリーを写している。その瞳は人の心など丸裸にしてしまいそうだ。もう少し視線を下げてやれば、サメすら相手にならないほど凶悪に尖った無数の歯が、牙が並んだ口が見える。顎の下に見える髭のようなものは、しかしその光沢から見て頑丈そうなトゲの集合体のようだ。

 ジ・アナザーにおけるドラゴンはそれほど数は多くない。しかし、その圧倒的な力は非常に有名であった。

 キングダム大陸とメトロポリス大陸を結ぶ唯一の陸路。そこに陣取っていたレッドドラゴン。()のドラゴンは『魔王降臨』の暫く前に打ち倒されたが、その時のプレイヤー側の戦力も被害も相当な規模に上る。現時点で考えられる限り最上の装備と能力を整えたプレイヤー達ですら、ドラゴンの強靱なツメと尾の前に次々薙ぎ倒され、ファイアーブレスによって瞬く間に消し炭に変えられていったという。

 ドラゴンに近いとされるヒドラやワイバーンですら、余程の上級プレイヤー達がPTを組んで倒すのである。

 そんな相手に、レックとリリーの二人だけでは勝ち目など皆無だった。

 いや、頭で考えるまでもない。

 実際、レックもリリーも水竜を見た瞬間から、ただただその圧倒的な力と存在感に威圧され、気圧され、恐怖すらも麻痺してしまっていた。

 理性的に考えれば、勝ち目のない相手だ。相手の気が変わらないうちに刺激しない様にさっさと逃げるべきなのだが、そんなことは二人の頭の中には微塵たりとも浮かんでこなかった。

 ただ、精神を押しつぶされそうな威圧感の中で、真っ白になってしまった頭で、目の前に現れた水竜から目を離すことが出来ない。

 実はそれは僅かに生き残っていた二人の生存本能の仕業だった。

 目の前の圧倒的存在から僅かでも目を離せば、次の瞬間には訳も分からないまま肉塊と化し死んでいかねない。そんな恐怖故なのだが……気づく余裕などレックにもリリーにもなかった。

 そんな極限の重圧の中、無限にも感じられる時間が過ぎていく。

 一方、水竜もまたレックとリリーから視線を外さない。その深い蒼を湛えた両の瞳は、そこに映し出されたレックとリリーをどこまでも、深く、広く見透かそうとしていた。

 その事をレックもリリーも知りはしない。だが、感じるものはあるのだろう。

 実際にはそれは一分にも満たなかった。

 だが、水竜に見つめられた二人にとってはあまりに長く感じられる時間だった。

 そして、沈黙が破られる。

『ふむ……ついにこの地を訪れる者が現れたと思って来てみれば……あまりにも未熟な雛であったか』

 威厳に満ちた重々しい声が地底湖に響き渡ると共に、レック達の感じていた重圧がフッと和らいだ。無論、和らいだだけであって、無くなったとはほど遠い。

 だが、それによってレックにもリリーにも多少の精神的余裕が生まれていた。

 それでも、今の声がどこからしたのか、二人が理解するのに幾ばくかの時間を要したのは決して二人が悪いわけではないだろう。

 そもそも、エネミーが喋るなどということはないのである。いや、無かったと言うべきなのだろうか。勿論、二人の目の前にいる水竜もエネミーの筈であり、プレイヤーに向かって話しかけてくることなどあり得ない。その筈だった。

 だが、

『止めておくがいい、未熟な雛よ……。どれほどの力を持っていようとも、所詮雛の力では我を傷つけることすら叶わぬ』

 僅かに産まれた精神的な余裕で、水竜への戦闘態勢を取ろうとしたレックを、水竜はそう制した。

 勿論、そんな言葉だけで、人間の生き残りたいという本能を止めることなど出来はしない。しかし、

『雛よ……聞くがよい』

 水竜の言葉一つで、そこに含まれた圧倒的な圧力で、レックの身体は身動き一つ出来なくなる。

 それを見て満足したのかどうか――鱗に覆われた水竜の顔からは判別できないが、水竜は言葉を続けた。

『我が名はケルシューティウラス。いと尊き御方より尊き役目を授かりしものなり……。いと尊き御方より授かりし役目。それは今、この場においては裁定……。なれば、雛よ。我が裁定に従うが良い。されば我が手を出すことはない……』

 その言葉の意味するところは、要するに大人しくしていれば攻撃されることはないということだった。

 かろうじてその事を理解したレックは、急いでグレートソードの柄にかけていた手を離す。途中、レックの手の震えがグレートソードに伝わり、カチカチと音がした。……レックは気づかなかったが。

 そんなレックの様子を見ていた水竜ケルシューティウラスは、再び言葉を発した。

『雛よ、それでよい……。では、我が裁定を告げよう……』

 そして、重々しく裁定が告げられる。

『剣を持つ雛よ……汝はここを先に進むべき資格は持たぬ。引き返すが良い。されば、我は雛を追うことはない……』

 その言葉に、自分のことだと察したレックは身体から力が抜けそうになった。今ここで引き返せば、生きて帰れるというのだ。安心のあまり力が抜けるのも当然であろう。

 ただ、流石に水竜の威圧感が消えてもいない今は、力が抜けてしまうほど安心も出来なかった。だからこそ、レックの身体は未だ緊張で強ばっている。

 そんなレックから関心を失ったかの様に、水竜はゆっくりとリリーに視線を移す。その視線の圧力をもろに受けたリリーの身体が一層硬くなるが、水竜は構わず言葉を発した。

『小さく震える雛よ……未熟なれど汝は資格持つ者。なれば、先へ進むがよい。汝が運命の雛であれば、汝の祈りによって筺は開け放たれよう……』

 その言葉を聞いて先に反応したのはレックだった。

 しかし、レックが口を開くよりも早く、

『剣を持つ雛よ、口出しは無用。汝のするべき事はここにはない。疾く立ち去るがよい……』

 その言葉とともに、反抗心を叩き潰すほどに凄まじい、しかし身動きはかろうじて出来る程度に抑えられた威圧がレックに叩き付けられる。

「うぐっ……」

 思わず一歩後ずさるレック。

 この先にリリーを一人で行かせるのが心配なレックとしては、リリーについていきたい。だが、水竜はそれを禁じてきていた。

 この先に何が待っているのか全く分からない。だからこそ何とかして、リリーを一人で行かせまい。レックはそう思う。

 だが、水竜から受ける精神的な――あるいはもはや物理的な圧力は、そんなレックの意志も思いもまとめて叩き潰そうとする。レック自身の生存本能すら、「諦めろ。引き返せ」と叫んでいる。

 一年近くも冒険者と過ごしてきたとは言え、元を正せばただの高校生でしかないレックが、その圧力に勝てるはずもなかった。

 水竜からの威圧に耐えようとしたというほどの時間も持たず、レックの精神はあっさりと負けてしまった。

 次の瞬間、レックはくるりと身を翻すと、脱兎のごとく逃げ出した。

 引き返したのではない。仲間達の元へ戻るのでもない。

 文字通り逃げたのだ。

 飛び石を渡り、湖岸に辿り着いたレックは勢いのまま仲間達が待つはずのサークル・ゲート目指して走っていった。その顔は、恐怖と悔しさと情けなさで、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。


 そうしてレックが逃げ出した後、水竜の前に残されたのはリリーだけだった。

 未だ水竜に威圧されたままのリリーには、レックがいなくなったことは分かっていた。心細くもあった。だが、それ以上の感情は湧いてこなかった。そんな余裕はなかったのだから。

 逃げ出したレックを見送った後、水竜は再び硬直したままのリリーに視線を戻し……そして、このままではいつまでもリリーが動かないだろうとやっと理解したらしい。

『雛よ……汝は先へ進み、祈りを捧げるがよい……』

 そう言い残すと、ゆっくりと水中へと姿を消していった。

 それとともに、リリーを縛り付けていた圧力も消え去る。やっと重圧から解放されたリリーは、へたりと飛び石の上に崩れ落ちてしまった。

 今になって呼吸が早くなる。

 命拾いしたのだと、やっと実感できる。

 言い換えるなら、今、初めて、ジ・アナザーがデスゲームになったのだと、実感したのかも知れない。

 暫くへたり込んだまま荒い息を繰り返していたリリー。その呼吸と共に気分がやっと落ち着いてきて、周囲を見回す。

(レック……いない……)

 一人きりになっていることを確認して、そう言えばさっきレックが逃げていったことを朧気に思い出した。

(追い払われた……んだっけ?)

 その直前、水竜がレックを威圧していた事を辛うじて思い出す。

 リリーとしては、薄情だと文句の一つも言いたいが、水竜に追い払われたのでは仕方ないとも納得できてしまう。あれに抗うなど……酷な要求でしかない。尤も、いくらかの不満は心の底に残っていたが。

 それからやっと、自分がどうするべきか。そこに思い至った。

(進めって……言ってたっけ?)

 正直、もう仲間達の所に戻りたい。マージンやディアナやミネアの顔を思い出しながら、そう思う。

 水竜との遭遇だけで、リリーの精神はすっかり疲れ果てていた。

 一方で、命の危険が去ったとなると、持ち前の好奇心がむくむくと湧き上がってくるのを感じる。

 進むか戻るか。

 迷うのは一瞬。

「っしょっと!」

 短いかけ声と共に、リリーは立ち上がった。

「うわ、気持ち悪い……」

 水竜が出てきた時に大量に浴びせかけられた水で衣服が身体にまとわりつき、気持ち悪いことこの上ない。

 かといって、今はどうにもならない。乾くまで待つ手もあるが――気が変わって水竜がもう一度顔を出すかもと考えると、飛び石の上に留まる気にはなれなかった。

 幸い、最近の気温の上昇のおかげでリリーの服装はどちらかというと薄着だった。地下通路を歩き回る時は流石に1枚余計に羽織っていたが、それさえ脱いでしまえば不快感も随分と減る。

「へくちっ!」

 とは言え、濡れ鼠では寒いのも当たり前。思わずくしゃみをしながらも、リリーは再び島を目指して飛び石を渡り始めた。

 脱いだ上着はくしゃくしゃに丸めて片手に持っている。アイテムボックスに放り込むと他の物まで濡れそうで、手に持つしかなかった。

 ただ、濡れて身体が冷えた以外にも実は問題があった。

「……こればっかりは、一人で良かったかな~」

 薄着で水に濡れたと言うことは、つまり、服が透けてしまったと言うことで……流石にこればかりはレックがいなくなっていて良かったとリリーは本気で思った。

 そんなことを思いながら、急いで飛び石を渡っていたリリー。その耳に、チャットの着信音が聞こえてきたのは、最後の飛び石から島の地面に飛び降りた時のことだった。

 リリーが端末――今更だが完全防水である――を取り出して確認するとメッセージが表示される。

『グランス:怪しい一団の襲撃を受けた。眠らされただけでこちらに被害はない。何人くらいがそっちまで行けるか分からないが気をつけろ』

 そのメッセージを一読し、リリーは緊張した。

 折角水竜との遭遇を経て、島まで辿り着いたのだ。この先にある(かもしれない)イベントを先回りされては敵わない。

 この解釈をグランス達が知れば、口を酸っぱくしてリリーの考え違いを正したことだろう。

 しかし、

『リリー:りょ~かいっ!』

 とだけ返されたリリーのメッセージから、グランス達が何かを察することは結局無かった。



 一方、水竜に追い払われ、逃げ出したレックもまた、チャットには気づいていた。だが、すぐに確認する気にはなれない。

 水竜と遭遇した場所から十分に距離が開き、精神的に余裕が出てくると、逃げ出したのはやむを得ないんだという気持ち以上に、一人だけ逃げてしまった。そんな惨めさ、情けなさ、後ろめたさがレックの心を埋め尽くしていたのだ。

 無論、そんな気持ちのまま仲間達にすんなり合流できるはずもない。サークル・ゲートへと続く通路の手前でレックの足は自ずと鈍っていた。

 仲間達の所に戻りたい。でも、一人だけ逃げてきた後ろめたさで仲間達に合わせる顔がない。だから、あと少し進めば仲間達が待っている通路の途中。そこでレックの足は完全に止まってしまった。

 ジャリッ

 足音にレックは身体を縮こまらせた。

 仲間から逃げたい気持ちと、仲間に見つけて欲しい気持ち。両方が入り乱れ、近づいてくる足音から逃げることも、近づいていくことも出来ない。

 俯いてしまった顔を上げることも出来ず、しかし、ぐちゃぐちゃになった顔だけは拭っておく。

 近づいてきた足音はレックの数歩前で立ち止まった。だが、レックの予想に反して、聞こえてきた声は仲間達のものではなかった。

「これは……」

 聞き覚えのない声に、レックは思わず顔を上げた。

 目の前に立っていたのは前進を黒いマントで覆い、フードで顔を隠した二人の男。レックは名前など知らないが、クレメンスとフランクである。

「ああ。離れていると分からなかったが……いや、それはいい」

 最初の声に相槌を打った二人目の男、クレメンスは、レックへと視線を向けると、暫く口を閉ざす。

 やがて軽く首を振ったかと思うと、

「この先で何があったのか、少し聞かせてもらえないか?」

 そう口に出した。

 クレメンスとしてはレックに余計な情報を与えないためにもさっさと意識を奪ってしまいたかったのだが、あそこで何があったのかはそれ以上に気になった。あのドラゴンが見た目通りの存在なら、近づく愚は出来るだけ避けたい。それに、

(こいつの魔力も相当なものだな。生半可な魔術など効くかどうか……)

 この地下空間を満たす魔力酔いを起こすほどの濃密な魔力でこうして目の前に立つまで気づかなかった。だが、結界も張らずに平然としているレックの様子からして、この空間でも平然としていられるだけの魔力を持っているのは明らかだった。

 一般に、魔術は対象の魔力が強ければ強いほど、その効果が弱体化する。精霊魔術などでは注ぎ込まれた魔力の大半が物理現象に転換されるため話は別だが、眠りの魔術は魔力ごと魔術式を相手にぶつける様なものだ。クレメンスは知らないが、ロイドに魔力量Aと判定されているレックを眠らせるのは、同程度以上の魔力を持つ者物でなければ殆ど不可能なのだった。

 クレメンスがそんなことを考えているとは知らないレックは、仲間達ではなかったことに驚き、安堵し、落胆していた。

 そんな状態であるから、目の前に現れた男達が何者なのかなど、レックは全く考えようとしなかった。

 淡々と水竜に追い返されてきたのだと答える。リリーのことを話さなかったのは、男達を警戒したからではなく、惨めさを隠したかったから。レック自身、そう自覚していた。

 一方、クレメンスはレックの説明は全てではないと察してはいたが、それ以上は無理に聞き出すことも出来なかった。フランクはと言うと、クレメンスに丸投げするつもりらしい。その方がクレメンスとしてもありがたかったので、何も言うつもりはなかったが。

 ただ、目の前にいる少年がこのままサークル・ゲートに戻っていくと、地面に倒れて寝ている冒険者達の姿を目にすることになるだろう。彼らはこの少年の仲間だろうとは簡単に想像できた。なら、どうするか。

(殺さなかったのは幸いだったな)

 最悪、驚いて思わず眠らせてしまったのだと言い訳も出来る。

 そう考えた上で、クレメンスは行動指針を確認する。

(ここにおける目的は、この空間に何があるのかの把握。可能ならば入手。だが、何があるか確定していない現時点では、無理は禁物、か)

 となると、自分たちのことを隠蔽しつつ行動する事になる。出来れば目撃者は消してしまいたいが、十分怪しい格好であるものの、顔も見られていない現時点では、PK(プレイヤーキル)のように派手な真似は避けるべきだった。

(いや、それ以上に……こんな所でも動けるだけの魔力保有者を殺すのは惜しいか)

 魔術の心得があればここでも自由に動けるかも知れないが、目の前の少年の様子からはとてもそうは思えない。ただの一般人だろう。ならば、この少年にはこのジ・アナザーにおいて莫大な魔力を有していることになる。そしてそれは……

 そこまで考えたところで、クレメンスはあることを思いついた。そして、それは考えてみると意外に魅力的な案に思えてくる。

「少年。俺達と一緒に来ないか?」

 クレメンスの突然の提案に、フランクも驚きを隠せない。

「おまえ……何を考えている?」

 流石に看過できなかったのか、問い質してくるフランクを片手で制しながら、クレメンスはフードの中からレックを見つめた。

 驚いた様な顔をしていたレックだったが、その驚きはすぐになりを潜めた。その脳裏をよぎったのは、仲間達の、リリーの顔だった。

 確かに、リリーを置いて逃げてしまったことは、レックにとって仲間達から逃げ出したいほど惨めで後ろめたかった。それでも、もし、今目の前にいる男達と一緒に行ってしまえば、二度と会えなくなるかも知れない。

 悩むこと暫し。

「いや、仲間がいますから」

 結局レックはそう断った。

「そうか。まあ、考えておいてくれ。また会うことがあったら、改めて誘わせて貰うからな」

 クレメンスは苦笑混じりにそう答えると、ホッとした様な雰囲気を漂わせるフランクを連れ、湖へと歩き出した。

 レックはサークル・ゲートの方へと歩いて行くだろう。そこで地面の上で眠りこける仲間達を見つけた時、自分たちはいない方が良い。そう考えてのことだった。

 その二人の背中を見送り、レックは改めて仲間達がいるはずのサークル・ゲートへと歩き出した。

 お互い自己紹介すらしなかったが、あの二人との遭遇で多少は気分が落ち着いた。

 まだ仲間達と顔を合わせづらかったが、そんなことを言ってリリーに何かあったら、後悔してもしきれない。まずは仲間達に相談してみるべきだった。

「誰も……いない?」

 一瞬、自分がリリーを見捨てて逃げたのがばれて、仲間達がどこかに行ってしまったのかと思ったが、レックは首を振ってそんな考えを振り払った。

(そう言えば……)

 そこで思い出したのが、さっき端末が鳴っていたことだった。取り出してみると、チャットにメッセージが入っていた。

(黒づくめの怪しい男達に襲われた……注意しろ?)

 レックはそのメッセージで当然の様に先ほどの二人組の事を思い出す。

(そんな危ない感じはしなかったけど……)

 確かに怪しい格好ではあったが、会話を交わしたレックとしては仲間達が警告してきたほど危ない人間だとは思わなかった。とは言え、いきなり眠らされたというのは、穏やかではない。やはり、いくらか警戒はするべきだった。

 となると、水竜のことを抜きにしても、残してきたリリーのことが心配になる。念のため、念のため、と呟きながら、水竜の事で竦む足に鞭を打ち、レックは再び地底湖へと向かったのだった。



 さて、時間は少し遡る。

 チャットに返信するとリリーは端末をすぐに仕舞った。そして、視線を小高くなっている島の中央へと向けた。

 島に降り立つ少し前くらいから、妙な感じがしていた。水竜と相対した時と同じように、それは圧倒的な力だった。ただ、水竜と違って恐怖は感じない。圧迫感もない。代わりに、得体の知れない感覚をリリーは感じていた。

 その発現点が、島の中央なのだ。

 直径100mにも満たない島の中央には、対岸から見えていた様に四角い何かがあった。大きさは縦横2m、高さ1m位だろうか。何で出来ているのかは正直まだリリーには分からない。

 だが、行ってみれば分かること。

 その筺が何なのか。

 今感じているものが何なのか。

 リリーは好奇心の赴くままに歩を進め、すぐにその四角い何かの側にまで辿り着いた。

 ここまで来るとリリーにもそれの様子がよく分かった。

 リリーの顔が映るほどにつるつるに磨き上げられたその青い表面には、緻密な幾何学紋様が所狭しと刻まれている。それは電子回路にもよく似ていたのだが、そんな知識のないリリーには全く分からなかった。

 文字にもただの記号にも見える紋様にその隙間を埋められた無数の線。それらは四角い何かの側面で地面から天井を目指し、天井で渦を巻く様な形になっている。そこには見て分かる様な絵は一切描かれていない。

 クレメンス達が見ればあるいは何か分かったのかも知れないが、生憎とここにいるリリーには、これが何なのかはさっぱり分からない。

「一体、何で出来てるのかな?」

 それの表面を撫で回しながら、リリーは首を傾げる。

 見た目は金属にも岩にも見えるが、明らかにそのどちらでもない。触ってみた感じは……

「プラスチック……でもないよね~」

 ヒンヤリと冷たいそれの肌触りは、リリーの知る何とも一致する様で一致しなかった。

 紋様を眺めること2~3分。

 それを撫で回すことやはり2~3分。

 ちなみに、この様子をこっそり対岸から観察していたクレメンス達は、リリーがそれを撫でる度にびくついて、今すぐ逃げるかどうか、かなり本気で悩んでいたのだが……余談である。

 結局、何も起きなかったので、リリーは5分ほどでそれに飽きてしまった。

 この頃にはレックも対岸に戻ってきていたのだが、リリーが無事そうだったので胸をなで下ろしつつ、水竜に見つかりたくなくて、声を上げたりせずに様子を見るだけに留まっていた。

「む~……これだけ?」

 もう一度四角い物体の周りを一周してみるが、ボタンも無ければ取っ手もない。開けたり動かしたりも出来そうにはなかった。

 ゲームであれば、必ずや何か起きるかあるかするはずの状況なので、リリーとしてもきっと何かあるだろうとは考えているのだが……如何せん、ヒントがない。

 何かヒントになりそうなものはないかと周囲を見回してみても、木一本生えていない岩一つ転がっていない島には、他には何も無かった。

 ただ、それでもあっさり諦めて戻るのはイヤだった。

 何しろ、全身水浸しにされた上に、水竜との遭遇である。それだけの苦労に見合う何かはあって欲しかった。

「水竜……?」

 そこでふと、水竜が何か言っていたとリリーは思い出した。

 驚愕と恐怖のせいで水竜の言葉などまともに聞いていない。それでも、全く覚えていないわけでもない……ハズだった。

「む~……思い出せ、思い出せ、あたし……」

 青い物体の傍でリリーは目を瞑り、思い出そうとする。

 ほんの数分前のこと。

 しかし、なかなか思い出せないまま、結局、リリーは自力で思い出すことを諦めた。幸い、レックも途中までいたんだし、何か覚えているだろうと訊いてみることにする。

『リリー:レック~、さっきの水竜があたしに言ってたこと覚えてる~?』

 早速端末を取り出し、クランチャットにそう打ち込む。

 反応は早かった。

 ただし、レック以外から。

『ディアナ:水竜ってなんじゃ!?』

『グランス:まさか、襲われたのか!?』

『クライスト:無事か!?生きてるのか!?』

 ちなみに、このとき動揺しまくっている仲間達をマージンが落ち着かせようと苦労していたとは、リリーは後から聞いた。

『リリー:びしょ濡れだけど、生きてるよ~』

 とりあえず、心配してくれているらしい仲間達にそうメッセージを打ち込むと、レックからの反応を待つ。

 が、その前に、

『ディアナ:水竜に水でもかけられたのかの?しかし、そんなことを言うから、マージンが鼻血を出しておるぞ』

 ディアナのメッセージを理解するまで数秒かかったが、理解した途端リリーは耳まで真っ赤になった。

『マージン:ちょ!待てや!あること無いこと言うなや!!』

『ディアナ:いかがわしい想像をしておったのは事実であろう』

『マージン:しとらん!断じてしとらん!』

 クランチャットではまだ必死に無実を訴えるマージンと彼をからかうディアナのメッセージが流れていたが、リリーは恥ずかしさのあまりほとんどスルーしていた。――恥ずかしいだけだったのだけど。

 ただ、二人のメッセージはいきなりぱたりと止んだ。そして、

『グランス:とりあえず、リリーもレックも無事なんだな?』

 その裏では、チャットを荒らすマージンとディアナがクライストとミネアに拘束されていたりする。

『リリー:たぶん。レックは途中で追い返されちゃったから、今はぐれてる』

『グランス:追い返された?』

『リリー:水竜がレックはダメだって言って追い返しちゃった』

『グランス:なるほど……で、レックはこれを見てるのか?』

『レック:見てるよ』

 この段階で、やっと全員の無事が確認でき、グランスは胸をなで下ろしたのだった。

 一方、レックも先ほどからのチャットを見ていて、罪悪感こそ無くなってはいなかったが、ホッとしていた。リリーを置いて逃げ出してしまったので嫌われたんじゃないかとか心配だったのだ。

 勿論、居心地はまだ悪かったのだが、これ以上返事をしない方がもっと悪い。そう考え、足踏みしながらもメッセージを打ち込んだのだった。

 だから、

『リリー:レック~、訊きたいことあるんだけどいい~?』

 そんなリリーからのメッセージに、

『レック:いいよ』

 少し間が開いたものの、そう答えたのだった。

『リリー:さっきの水竜が最後にあたしに何言ったか、覚えてる~?』

 その問いに、頭を捻って水竜の言葉をいちいち思い出すレック。正直、一緒にあの威圧感も思い出すので避けたかったが、やむを得ない。

 幸い、割と最後まで水竜の言葉をちゃんと聞いていたレックは、すぐにリリーに向かって水竜が言ったことを覚えていた。

『レック:確か、祈れば筺が開く……だったと思うよ』

 言われてみればそんな気もするリリー。

『リリー:そだったっけ?やってみるね~』

 そうチャットに打ち込むと端末を仕舞い、筺と覚しき青い四角い物体へと向き直った。

 そこでふと、祈るって何をだろうとふと思い当たるも、

(開くように祈ればいいよね?)

 ダメだったらまた仲間に聞けばいいと、あっさり割り切った。

 そして、祈るに相応しい姿勢を取る。すなわち、両手を胸の前で軽く組み、目を閉じ、軽く俯く。

 後は祈るだけ。

(筺……だかなんだか知らないけど、開け~……開け~)

 仲間達が知ったら、それはちょっとどうかと首を傾げそうな祈り方である。

 だが、そんなのでも効果はあったらしい。

 祈りを捧げるリリーの前で、青い筺の側面の紋様が下から順に青く光り始める。

 その青い光りはほんの数秒で筺の上部にまで到達し、筺の天井に書かれた渦の中へと音もなく吸い込まれていった。

 無論、目を閉じているリリーはそんな事が目の前で起きているとは全く気づかない。

 だが、対岸からその様子を見ていた3人は別だった。

 レックは魔術の祭壇でのことを思い出し、飛び石の手前から何が起きるのか興味深く注視していた。

 岩陰に身を隠して様子を窺っていたクレメンスとフランクもまた、興味深くリリーの目の前で起きている現象を注視していた。

「遠すぎてよく分からないな」

「水竜とやらが出てこないなら、もっと近づけたんだがな」

「せめて、何が起きるか見届けねばな」

 そうひそひそと話しながら、この二人もまた、島の中央で起きていることを注視し続けた。

 だから、すぐには誰も気づかなかったのだろう。

 リリーは目を閉じていたから。

 リリーを見つめていた3人もリリーと精霊の筺(エレメンタル・アーク)を注視していたから。

 地底湖の湖面は誰も見ていなかったのだ。

 それは最初は小さな波だった。

 いつしか湖面全てが波立ち、島を中心にゆっくりと時計回りに渦巻き始めていた。

「あれは……」

 フランクがそう漏らしたものの、次に何が起きるのかなど誰にも分からない。

 ただ、クレメンスは別の異常を感じていた。

「……いつでも逃げられるようにしておけ。魔力が急激に高まってきている。下手すれば結界が破れるぞ」

 その言葉にフランクもやっと危機感を持ったらしい。軽く頷いた。

 やがて、レックも湖面の異常に気づく。しかし、この時には既に波高く、島への飛び石はとてもではないが渡れるような状態にはなかった。尤も、リリーを助けに行く必要は無い。何となくそう感じていた。

 リリーもこの頃になると、流石に異常に気がついていた。

 既に目の前の精霊の筺の光は収まっていたが、波の音がはっきりと聞こえてきていたのだ。

 ただ、リリーの目に恐怖の色はなく、これから起きる事への興味ばかりが先立っていた。

 やがて、渦巻く湖面から幾筋もの水流が螺旋を描きながら、島を包み込むように伸びていく。それらの水流が表面に白い水しぶきを纏っていたために、さながら島は白い繭に囲まれたかのようになっていた。

 だから、ここから先のことは、水の繭の中にいたリリーしか何が起きたのか知らない。

 島を包む水の繭。その天井から霧がゆっくりと下りてくる。

 やがて、その霧は青い精霊の筺の上に蟠ると、後から後から降ってくる霧を吸収しながら、徐々にその密度を増していった。

 その霧の固まりは、すぐに水の固まりとなる。

 そして、その水の固まりはいつの間にか人の形を取ろうとしていた。

 この頃になると、リリーの耳には波の音や繭を形作っている水が流れる音以外の、

「これ……声……?誰かいるの?」

 無数の囁き声が聞こえてきていた。

 思わず周囲を見回すが、勿論、水の繭の中にはリリー以外には誰もいない。

「ここにいる人間はあなただけ、です」

 リリーの動きを止めさせたのは、はっきりしたその声だった。

 ただ、敵意も威圧感もない。

 だから、リリーはゆっくりと精霊の筺の方に向き直った。

 そこにいたのは、渦巻く水を身に纏った一人の長髪の女性。

 しかし、その女性自身も水で出来ている証拠に、美しい身体の向こうの風景が透けて見えていた。

 そんな女性の登場に驚くリリー。

 そのリリーの様子を微笑ましく見つめていた水の女性は、やがてゆっくりと口を開く。

「ようこそ。精霊使いの資質を持つ者よ。そして、礼を言います。私を解放してくれたことを」

 ゆっくりと、一言、一言、リリーが聞き逃さないように水の女性は言葉を紡ぐ。

「私は水の精霊王。新たな世界の理を司る四大精霊が一柱。公の名をウィスリフティと申します」

 そう言いながら、リリーに向かって優雅にお辞儀をして見せたのだった。

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