第一章 第三話 ~魂の牢獄~
8月。世間一般で言うところの夏休みが始まった。
今年は猛暑だと天気予報が言っていたとおりに、連日、うだるような暑さが続いていた。まだ涼しいはずの午前9時にはもう気温が30℃を超え、正午過ぎには36℃とか37℃とかも珍しくも何ともない。
リアルがそんな猛暑のせいか、ジ・アナザーはいつもより人が多かった。
仮想世界にログインしていれば、リアルの暑さ寒さは感じない。ログイン中に熱中症にならない程度に(ガンガンに冷房を効かせているとむしろ風邪を引く)空調を効かせた部屋からジ・アナザーにログインしていれば、リアルの暑さにおさらばできるのは仮想世界の魅力の一つだというのは、プレイヤーにとっての共通認識だった。
もっとも、今日のこの混雑っぷりはそれだけが原因でないことはレック達もよく知っていた。
「うっわ~、すっごい人……」
「思った以上に人がいたのう」
「俺もサーカスにこんなに人がいるとは思わなかったな」
ログインしてきてすぐに蒼い月のギルドハウス(かなりボロい借家である)の窓から通りを見たリリーの言葉に、ディアナとグランスが同意する。
ちなみに、サーカスというのはナスカスよりも更に東のこぢんまりとした町である。先月にナスカスに移動した後、もう少し東まで行けそうだということで、そのままサーカスにまで移動してきていた。物資の面では潤沢とまでは行かないものの、最低限の補給は出来そうだったので、レック達は新しい拠点とすることにきめ、貧相ながら借家も確保していた。
今日、蒼い月のメンバーでログインできたのはさっきの3人に加え、レック、ミネア、クライストの6人だった。全員同時にログインしたわけではないものの、皆、ログイン直後の最初の台詞は似たようなものだった。
「マージン、来れなかったのは残念だったなー」
「ほんと、勿体ないよね」
「でも、フォーマルではログインしておくって言ってました」
「いや、メトロポリスじゃこんな雰囲気味わえないっしょ」
さほど広くもないサーカスの中央通りを埋め尽くす無数のアバター。リリーが数えようとして100人くらいですぐ断念していたものの、グランス曰く、通りだけで1000人はいるなとのこと。レック達と同様に建物の中にいるプレイヤーも入れたら2000人くらいいてもおかしくなかった。
ただ、プレイヤー活動圏の端に近いサーカスは普段はそれほど人が多くない。
「これは、フロンティアの開拓組もこっちに来ておるのかの」
というディアナの言葉の通り、最前線で新しいダンジョンや資源、マップの探索を行っているプレイヤーも、今日はサーカスまで戻ってきていた。その理由は、
「ジ・アナザー初の大型アップデートか、何が来るのか楽しみだな」
というクライストの言葉の通りである。
ジ・アナザーはその広大なマップ故に、マップの拡張や新しいダンジョンの追加といったMMOでは頻繁に見られるアップデートは今まで一度も行われていない。
小規模アップデートも、使い勝手の悪かった仕様の修正やバグ潰しが主な内容であり、サービス開始から20年もの間、大型アップデートを一切してこなかっただけに、告知があった瞬間からプレイヤーの期待は否応にも高まり続けていた。
「でも、ここでこうしてる意味ってあるのかな?」
ふと、レックは気になった。
ジ・アナザーは世界中で展開されている上に、ゲームとしてだけではないその性質上、一瞬たりとも止めることが出来ない。しかし本来、MMOのアップデートはサーバーからプレイヤーを全員追い出して、サービスを一度止めてから行うものである。
それが出来ないため、イデア社はアップデートの適用を6時間ほどかけて徐々に行うと発表していた。
「それ言っちゃおしまいでしょ」
窓に張り付いていたリリーが疲れたのか、部屋の中に戻ってきた。
「そうそう。何しろ初めての大型アップデートだ。気になってログインするのが人情ってものだろ」
壁により掛かって、自分の言葉に自分で頷くクライスト。
「ま、ね」
レックは苦笑いするしかなかった。そうだったからだ。
「でも、アップデートの適用はもう始まってるはずですけど、終了予定時刻は当分先ですから……こうしていても暇になるだけじゃないかと思います」
部屋の中央におかれた大きなテーブルの周りに並べられた椅子の1つに座り、紅茶をすすっているミネアがそう言った。
その横に座っているグランスも、
「確かにな。アップデートが終わるまでは暇になりそうだ」
と紅茶をすする。
ちなみに、紅茶を入れたのはディアナだ。
空腹まで再現されているジ・アナザーではリアル顔負けの多様な食材を使った料理を楽しむことが出来る。ただ、基本的な調理の動作はスキルのシステムサポートを受けることで誰にでも出来るが、それだけだといまいちな料理しかできない。そこから踏み込んで独自の工夫を凝らせるかどうかが、腕の見せ所だとレックはディアナから聞いていた。
余談になるが、ジ・アナザーにも他のMMO同様にスキルは存在する。スキルはNPCとの会話やクエストの報酬などで手に入れることが出来る。だが、使い方が他のMMOと大きく異なる。
スキルを覚えた直後はコマンドからスキルを実行しシステムサポートによってアバターを動かすものの、スキルの行動をプレイヤーが覚えた後はスキルと同じようにプレイヤーが直接アバターを操作し、コマンドは使用しなくなるのである。
その理由は簡単で、システムサポートによるスキル使用といっても、アバターを型どおりに動かしているだけで、ステータスボーナスなどが付くことはないからだった。ならば、動きさえ覚えてしまえば、杓子定規のシステムサポートよりも、自分で直接動いた方がよりよい結果を出せる。そのことに気づいたプレイヤー達は、スキルを覚えた最初だけはコマンドから使うものの、すぐに自分で直接アバターを動かすようになった。
「こうして紅茶を味わっているのも悪くはないがの。さすがに丸一日というのは、御免被るかのう……」
ミネアの正面では、ディアナがクッキーをポリポリ囓っていた。
もちろん、クッキーもディアナお手製である。外見に似合わず、ディアナの料理の腕前は確かで、時々蒼い月のメンバーはその恩恵にあずかっていた。
「ま、アップデート開始時に何もなかったんだ。次に何かあるとしたら完了時だろうぜ。それまで狩りでもしてるってのは悪くない」
壁から離れたクライストはそう言いながら、テーブルの中央におかれていた籠からクッキーを2つほどつまんだ。
「リリーはどう?」
「あたし?……ん~、確かに町の中で待ってるだけってのはつまんないかも」
レックに訊かれ、リリーはそう答えた。
「ふむ。ここでこうしていても暇を持て余すだけ、というのは皆が同意するところのようじゃの。どうする、グランスよ?」
「何かイベントがあるとしても、アップデート終了時刻までに戻ってくればいいわけだしな。
半日ではダンジョンは厳しいが、谷くらいはいけるだろう。それでいいか?」
そのグランスの言葉にメンバーが賛意を示し、レック達は北東にある霧の谷に行くことになった。
「ごめん!一匹抜けられた!!」
レックに言われるまでもなく、予め弓につがえていた矢を狙いを定めてミネアは放った。
「ギィィィィ!!」
片目を潰され、突撃を止めて暴れ出すロックリザード。
ディアナがその脳天に杖を思いっきり振り下ろし、トドメを刺す。
その様子を確認する間も惜しんで矢をつがえなおしたミネアに、
「ミネア!上だ!」
グランスから指示が飛び、右の岩の上から飛びかかってこようとしていたロックリザードの腹に矢を放つ。
「ギャァァ!!」
背中と違って柔らかい腹部に深々と矢が突き刺さった。そのまま着地に失敗し、頭から地面に突っ込んだロックリザードはトドメを刺すまでもなく動かなくなる。
霧の谷はその名の通り、常に濃い霧に覆われた大きな谷だ。途中で幾つにも枝分かれしながら山頂へと続いている。谷というだけ会って、左右を険しい崖で挟まれているが、その底を川が流れているようなことはなく、雨が降った直後にのみ、それに見合った程度の水が流れる。ただ、その水が土を流してしまうため、底には石や岩がごろごろしていて、足場としては決して良くなかった。
そんな霧の谷に入ってしばらくは何にも襲われなかったレック達だったが、すぐに周囲を取り囲む気配に気づき……そのまま気配の主であったロックリザードたちとの戦闘に突入していた。
幸い後ろからは襲ってこなかったので、前衛にグランスとレック。後衛にミネアとディアナ。その二人の護衛としてクライストとリリーが配置された。ただ、今のところ、リリーが攻撃に参加する必要はなく、リリーはロックリザードの腹を切り裂いて、腹の中に隠されていることもある宝石を回収している。
「また来てるなっと」
左右の岩の上から襲ってくるロックリザードがだいぶ減ったものの、油断するとまだ時々飛び降りるように襲ってくる。クライストは主にそれを狙い撃ちにしていた。さっきのように、ミネアが弓で撃ち落とすのは、クライストが弾を込め直している間だけである。
「グランス、そっちはあとどのくらいじゃ?」
魔法使い志望のはずなのに、主に杖による打撃で戦っているディアナが前衛に声を飛ばす。
「あとちょっとだ。暇なら何匹かそっちに通すぞ?」
「それは何か間違えてます……!」
グランスの好意?をミネアがきっぱり断った。
「あ!」
「今度は何だ!」
クライストが訊くと、
「剣が刃こぼれした!」
ロックリザードの固い鱗を斬り続けていたのが原因だろう。初心者なら刃こぼれどころか、刃物であの鱗にまともな傷をつけることすら難しいことを考えれば、十匹以上も切り倒したレックの腕は決して悪くはない。
「レックは一度後退して新しい剣に変えろ!
後衛!そっちに行く分が増えるから注意!」
「「了解!」」
グランスの指示に従い、すぐにレックが後退する。
それを追おうとしたロックリザードが一匹、グランスの戦斧に首を叩き落とされたが、その隙を突いて二匹、グランスの横を抜けた。
すかさずミネアとクライストがその二匹を迎撃し、仕留める。
その間に列記は刃こぼれしたロングソードをアイテムボックスに放り込み、予備のロングソードを取り出していた。
「オーケー!前に戻るよ!」
「ちょっと待て!」
前衛に戻ろうとしたレックをグランスが止めた。
「あれは……!!」
何か見つけたらしい。
グランスの視線を追ったレック達もすぐにそれに気づいた。
「バジリスク!!」
体長10メートルにもなろうかという巨大なトカゲ――ただし胴体はヘビに近い――が前方の岩陰からのっそりと姿を現していた。
その巨体だけでも十分脅威であるが、有名な特殊能力――爪や牙で傷を負わせた相手を石化する能力は厄介極まりない。上級プレイヤーのパーティなら近づかずに安全に倒すことも出来るが、レック達には厳しい相手だった。
「やむを得ない!撤退するぞ!
クライスト、銃弾は!?」
「まだ詰め直す必要はない!」
「なら、牽制頼む!
リリーとディアナから撤退しろ!
ミネアはクライストの援護!
俺とレックはロックリザードの迎撃だ!」
グランスのてきぱきとした指示で、レック達は速やかに後退を始めた。
幸いなことにバジリスクの動きは鈍い。その上、レック達よりもより近くにいたロックリザードの方に興味を持ったらしく、クライストとミネアは、バジリスクそのものよりも、バジリスクに追われて逃げてきたロックリザードの足を止める羽目となっていた。
「いやー、まさかバジリスクが出てくるなんてなー」
レック達は霧の谷の入り口から1kmほど離れた森の端でやっと一息ついた。全力で……とは言わないまでも、走って逃げてきたので全員ばてばてだった。
「ほんと、ちょっと焦ったよね~」
たまたまあった岩に腰を下ろしたクライストの台詞に、両足を投げ出すように地面に座ったリリーがうんうんと頷く。
「でも、いつかはバジリスクも倒してみたいものじゃのう。あれの牙や爪は結構いい値段で取引されておるしの」
「それにはまず、遠隔攻撃の手段が欲しいよね。ミネアの弓とクライストの銃だけじゃ足りてないし……僕も弓やってみようかな」
「いや、私が魔法を使えるようになればよいのじゃ」
ぐったりと地面に座り込んだレックとディアナがそう話す。
「わたしも……もっと強い弓が使えればいいんですけど……」
「もっと強い弓となると、エンチャント付きの類か」
「でも、あれってめっちゃ高いよね?買えるの?」
「いえ、どう考えても……無理かと」
一人だけ平然と立っている(ように見える)グランスとリリーの発言で凹みかけたミネアに、ディアナが、
「弓ではなく、矢の方で工夫する手もあるのう。リリーの炸裂弾みたいに、当たると爆発する矢とかはダメなのかの?」
と、助け船を兼ねた提案をしてみるが、
「そういう特殊な矢って、あんまり売ってないんですよね……」
と、あまり効果はなかった。
「さて、そろそろ戻るか?」
しばしの休憩の後で、端末を確認したグランス。しばらくは警戒のためか一人だけ立っていたが、特に襲ってくるような敵はいなかったため、今は腰を下ろしていた。
「え?もーそんな時間なの?」
というリリーの声に釣られて、全員が各々の端末で時間を確認した。
「あと、大体4時間じゃな。ということは、リアルだと2時間ほどということかの」
「思ったより、時間かかったもんだな。……今からでも間に合うかね?」
「サーカスに戻るのに2時間くらいかかるから、アップデートが予定より早く終わらなければ多分」
いつの間にか木の根っこの上に座り直していたクライストに、地面に座ったままだったレックが答える。
「どっちにしても、さっさと帰るに越したことはないか……よっと」
クライストのその言葉で、思い思いの格好で座っていた仲間達も次々と立ち上がる。
「よし、戻るとしようか。何か記念イベントが起きるなら、見逃したくはないからな」
そう言ってニッと笑ったグランスも他の仲間達も、その期待されていたイベントがまさかあんな形で起きるとは、誰一人として想像していなかった。
「……ついに、その時が来たのか」
レック達がサーカスへの帰途についたその頃。
たった一本のロウソクが灯されただけの暗い空間に集まったいくつかのローブをまとった人影が感慨深げに呟く。
「やっとなのだな」
「ついに長年の労が実るときが来たのだな」
しかし、一人がそんな仲間達を諫めるように、
「しかし、まだ始まったに過ぎない。全てはまだこれからよ」
その言葉に応じる声はなかった。
「結局、あんまり宝石取れなかったんだ?」
「そそ。ケッチよね~」
サーカスへの帰途についた当初は、アップデートの内容についてあーでもないこーでもないと予想が盛り上がっていたレック達であったが、さすがに同じ話題で延々と話が続くわけでもなく。
いつの間にか、さっき狩っていたロックリザードから取れた宝石の話に移っていた。で、どれくらい取れたかレックが訊いてみたところ、さっぱりだったと回収役だったリリーが答えた。
「まあ、当たり外れが大きいからのう」
さも分かった風にディアナが一人うんうんと頷く。
「あ、でも2つくらい良さそうなのは出たよ?サファイアとルビーだけど」
「へぇ?でかかったのか?」
「ま、こんな感じ?」
クライストの質問に、実際にアイテムボックスから宝石を出してみせるリリー。それを受け取ったクライストは、
「ふむ。サイズはなかなかだな。ミネアはどう思う?」
と、2つともミネアに渡した。
ミネアは受け取った宝石を、しばし、何度も向きを変えながら見つめて、
「ええと、サファイアの方は質があんまり良くないみたいです。ルビーは質もそれなり、でしょうか」
「そっか。ちょっと残念~」
そう言いながら、ミネアから宝石を受け取ったリリーは、再びアイテムボックスに放り込んだ。ミネアの宝飾品関係の鑑定は、それなりに信用できるので、ミネアの鑑定結果については誰も突っ込むことはない。
「ホント、数も10個いかなかったし、今日のは外れかな~?」
「ま、暇つぶしの狩りだったしいーんじゃねーの?消耗品の元は十分取れただろ?」
「そーだけどね~。やっぱ、狩りに来たならちゃんと稼ぎたいじゃん?稼げるときに稼いどかないと、思い切った冒険に出づらくなるんだよ?」
クライストのフォローにも、微妙にリリーは不満げだったが、
「思い切った冒険って言えば、そろそろ一度東に遠征してみない?」
というレックの言葉を聞くと、急にニコニコして、
「そだよねー?そのためにこんな辺鄙なサーカスまで来たんだもんね!行かなきゃソンだ!」
一人で「おー!」などと右手を握りしめて空へと突きだした。
「ま、アップデート次第では、そっちの方にかかりきりになるかもしれんがの」
そんなディアナの台詞で、再び、アップデート談義が始まろうとしたちょうどその時だった。
その一瞬、確かに世界が軋んだ。
自分の気のせいかと思ったレックは、周りの仲間にそれを訊こうとして、
「ちょっと、今のなんだよ?」
しかしその前に、やはり気のせいではなかったことを知った。
「あ、そっちも?」
「気のせい、じゃなかったんだな」
「何だったんじゃ、一体」
「あたしに訊かないでよ」
一緒に狩りに来ていたパーティの仲間達が頭を軽く振りながら、口々に騒ぎ始める。
しかし、
「で、結局何だったんだ?」
その問いに答えられるメンバーは誰もいなかった。しかし、
「アップデートの終了予定時刻はあと2時間ほど後だが……」
「いや、予定より早く終わることもあるじゃろう」
「じゃ、今のはひょっとしてイベントが始まる合図だったのか?」
というディアナ、クライストの予想に、
「えー!そんなんヤダ!絶対見たーい!」
と、リリーが騒ぐ――というか駄々をこね、
「でも、合図にしては、変というか……イヤな予感がしませんか?」
ミネアの言葉で、全員が感じつつも敢えて知らない振りをしていたことを考える羽目になった。
――そして落ちる沈黙。
その場の重たい空気のせいで誰もが気づいていないが、いつの間にか、フィールドからは鳥の鳴き声も、風に揺れる草のざわめきも、いや、風そのものも静まりかえっていた。太陽が陰り、急速に辺りが暗くなっていく。
そんな中、静寂に耐えきれなくなった誰かが、その異様な静寂を破ろうとする前に、
天からの声が静寂を破った。
『我が魂の牢獄に囚われし儚き者どもよ……』
そのあまりにも低く禍々しい声にレック達が空を見上げると、
『我は魔王。魔王ディヴァズクード』
自らを魔王と名乗る巨大な影が空をほぼ全て覆っていた。
『汝らは全て我に捧げられし生け贄なれば……』
その影には確かに顔があると分かるのに、
『いずれ我が前に来ることになろう』
目も鼻も口も見えない。
『我が僕共に刈り取られたささやかなる前菜としてか……』
見ようとすればするほど、顔があるのかどうか分からない。
『あるいは自ら我が前に辿り着いた主菜としてか……』
それでも、確かに禍々しい顔があると分かる。感じる。
『……1つ、良いことを教えてやろう』
声は一度言葉を切って、
『我が牢獄より出ることを望むならば』
希望という名の罠を提示する。
『我を見事討ち果たしてみせるが良い』
手が届くかどうかも分からない。
『さすれば、牢獄の扉は開け放たれよう』
それを最後に影も声も消え去った。
いつの間にか風に揺られる草のざわめきや鳥たちの鳴き声が帰ってきていた。
そんな中で、呆然と突っ立っていたのも束の間、
「すっごーい!!」
と、興奮を隠しきれずにリリーが飛び跳ねた。それをきっかけに、驚愕といくらかの恐怖で固まっていた仲間達も動き出した。
「すげぇな。今のがアップデートなのか?」
「魔王が来るとはのう……MMOでありなのかのう?」
口々に興奮を口に出す。
「あれ倒したら、ちょーゆーめーじんだよね、あたし達っ!」
「まあ、倒せたらな」
そう言いながらも、普段は冷静なグランスも、興奮を隠し切れていない。
「魔王が出たって事は、魔王軍みたいなのも実装されたのかな?」
「うむ。ありそうな話じゃな」
「じゃ、じゃ、四天王!みたいなのもいるのかな!」
「四魔将、みたいな名前かもしれんのう」
「あー、そんなんに襲われたら俺ら、一発昇天しそうだな」
「え~。せめて、一撃くらいは入れてみたい~」
と、話は終わりそうになかったが、グランスが軽く手を叩いて、
「話は歩きながらでも出来る。とりあえずギルドハウスに戻って、他の連中にも話を聞いてみよう」
そう、話を打ち切らせた。
それから間もなくサーカスの門に着いたレック達を待っていたのは、異様な雰囲気だった。その雰囲気に飲まれ、レック達は町の中へ入ることを躊躇していた。
「何これ?何でみんな暗いの?」
リリーが眉をひそめて言ったように、町にいるプレイヤー達の表情は一様に暗い。地面に座り込んでいるプレイヤーもかなり多かった。仲間を思しきプレイヤーを慰めているようなプレイヤーもいたりしたが、慰めている側の表情もやはり明るいとは言い難かった。
「アップデートを喜んでるって雰囲気じゃありませんね……?」
「そうだな」
ミネアの言葉にグランスは頷くと、クライストに視線をやって、
「クライスト。イヤな予感がする。ちょっと、誰かに話を聞いてきてくれるか?」
「ああ、分かった」
頷いたクライストが門をくぐっていったのを確認すると、グランスは後ろに着いてきていた残りの仲間達の方へと向き直り、
「念のため、ここで待機しよう。周囲への警戒は怠るな」
と、指示を出した。
町の異様な雰囲気に飲まれていたレック達は、それでやっと自分を取り戻したかのように動き出した。
「グランス、何があったんだと思う?」
「分からん。だが、タイミングから見てアップデート絡みの可能性が高いと思う」
横にやってきたレックにそう答えると、グランスは頭を左右に振った。
「私もそう思うのう。ただ、それでもこれは異常じゃな。魔王という新しい目標が出来たにしては……」
ディアナはそこで言葉を切って、町の中で呆然としているプレイヤー達に目をやった。
「皆、暗すぎるのう。私にはショックを受けて我を忘れているように見えるが、さて、どうなのじゃろうな」
「ふむ。まあ、クライストがすぐに戻ってくるだろう。その報告を聞いてからでもいいか」
さすがのグランスも、何が起きたのか、事態が把握できないままでは動きようがなかった。
ただ、幸いと言って良いのか、クライストは思った上に早く戻ってきた。ただし、それを見ただけで、レック達全員の表情まで硬くなるような表情を浮かべて。
「クソ!一体何なんだよ、これは!」
窓際でギルドハウスの床を思いっきり蹴りつけるクライスト。
しかしこれは元気がある方で、ミネアやリリーは魂が抜けたかのように椅子に座り込んでいる。もっとも、グランスがレックに、床にへたり込みかけた二人を椅子に座らせるように指示を出さなければ、今頃床に座っていたのだが。
「まさか、ログアウト出来なくなってたとはな……」
仲間達の様子が酷かったためか、椅子に腰を下ろしたグランスは、本人も落ち込みながらもかろうじて冷静さを保っているように見えた。無論、内心は言うまでもない。
戻ってきたクライストから「ログアウトできなくなってる」という話を聞いたレック達は、まさかと思いながらも、個人端末を取り出し、ログアウトコマンドを確認してみた。
結果は言うまでもない。コマンド一覧の目立つところにあるはずの「ログアウト」は、誰の端末からもきれいさっぱり無くなっていた。
一瞬、全員の頭が真っ白になった後、その場で誰も暴れ出したりへたり込んだりしなかったのは、グランスの放った「ギルドハウスに戻るぞ」という冷静な声のおかげだろう。
「ディアナ、どう思う?」
グランスに問われ、
「そうじゃのう。アップデートに伴う設定ミス……ならよいのじゃが」
グランスの右隣の椅子に腰掛けていたディアナのその口調は、自らの言葉が楽観的すぎると思っているかのようだった。
無論、ディアナも前例のない上にあまりにも重大な事態に混乱しなかったわけではない。ただ、突如として襲ってきた非日常にどこか胸躍らせていたためか、クライストやミネア、リリーほどに取り乱さなかっただけだった。
「曲がりなりにも20年、大きな問題も起こさずにここまで運営してきた以上、今更そんな初歩的なミスは考えにくい……か」
ディアナが口にしなかった言葉を、グランスは正確に理解していた。
「つまりは、意図的って事?」
「そうなるかのう」
グランスを挟んでディアナの反対側に座っていたレックの質問に、ディアナは頷き、
「何を考えて、このような暴挙に出たかは知らんがの」
と、付け加えた。
「ふむ」
そのディアナの台詞を聞いて、何か思うところでもあったのか、グランスは徐に個人端末を取り出すと、何かを確認するかのように操作し始めた。
「グランス、何か思いついたのかの?」
「いや、念の……」
念のためだ、と言おうとしたグランスの口が止まり、その顔が歪んだ。
「ディアナ、レック。お前達も端末でコマンドを全部確認してみてくれ」
「ふむ?」
「うん?分かった」
疑問符を交えながらも、二人とも端末を取り出し、コマンドを順に確認していく。しかし、
「む」
「何、これ……」
すぐにその手は止まった。そして、グランスにはその様子だけで十分だった。
「やはり、意図的な改変か」
小さく呟き、端末に何か打ち込んだ。
「む?」
端末を操作していたディアナはちょっとだけ首をかしげ、
「ふむ。ギルドメッセージは使えるのじゃな」
グランスが試しに送ってみたメッセージを確認して、頷いた。
ギルドメッセージは、同じギルドに所属しているプレイヤー同士で連絡を取るための機能だった。ギルドに所属することで得られる唯一のメリットでもある。
「フレンドメッセージは使えないがな。これでは他の町の様子を知りたくても、分からんな」
「設定コマンドも無くなってるけど……」
「ああ、他にもパーティコマンドとかいくつか無くなってる」
端末を懐に戻し、グランスは椅子の背もたれに身体を預けた。
「アップデートの失敗という線は、ほぼ消えたと見て良さそうじゃの」
「ああ。全く、何のためにこんな事をしたんだろうな」
ディアナの確認に、さっぱり分からん、と頭を振るグランス。
「そう言えば、BPの強制停止命令はどうじゃ?」
ディアナの提案を聞いて一瞬希望の光が見えたような気がしたレック達だったが、
「無理だぜ。それも使えねえ」
窓際から返ってきた言葉に、すぐに沈むことになった。
しばしの沈黙を破ったのはレックだった。
「グランス。それで、この後僕たちはどうしたらいいと思う?」
その言葉に、会話に参加していなかった二人の身体が一瞬ビクッとなった。
その様子を視界の端に収めながら、グランスは、
「そうだな。今のままってのは精神的にも良くないか」
と自分の言葉に頷くと、
「とりあえず、クライストも座ってくれ」
その言葉に従って、窓際からテーブルに戻ってきたクライストが渋々と座った。
それを確認して、グランスはもう一度、何のためにか頷くと、
「現在の状況からまとめる。分かっていることはこうだ。
端末のログアウトを含む相当数のコマンドが抹消され、使えなくなっている。BPの強制停止も使えない。つまり、ジ・アナザー内部にいるプレイヤーが自力で脱出する手段はない。
そして、これはイデア社が計画的に行ったことだと思われる」
ディアナとレックは、グランスとその話をしていたので異論は無いし、クライスト・ミネア・リリーの三人は異見を唱える気力もなさそうだった。
「なので、この後何が起こるのか予測し、どうするか決めなくてはならない」
そこでクライストが何か言葉を挟もうとしたのを視線で制し、グランスは自分の言葉を続ける。
「一番いいのは、リアルでの第三者が我々のBPを強制停止してくれることだ。
家族がいるプレイヤーもジ・アナザーにはいるからな。閉じ込められたプレイヤーの家族が異常に気づけば、そこからリアルに話が伝わって、遅くとも数日中にほぼ全てのプレイヤーが救出される可能性が高い」
「そっか、そーだよね……!」
「それも……そうですね」
ふさぎ込んでいたリリーとミネアの表情が、目に見えて明るくなった。
だが、グランスとディアナの表情が晴れていないことにレックは気づいた。クライストもまだ納得できていないような顔をしている。
「喜こんでいるところに水を差して悪いのじゃがな……話は終わっとらんぞ」
そう言ったディアナを、ミネアとリリーが不思議そうに見た。
「すまんがその通りだ」
続けてグランスを見たミネアとリリーは、その言葉に再び不安げな表情を見せた。
「今言ったのは可能性の1つに過ぎない。無論、最も高い可能性であることには変わりがない。だが……」
「運営がこんなことをやらかした理由が分からねえからな」
グランスの言葉を遮って、クライストが発言した。
「そうだろ?
こんな事をして何の得がある?数日もしないうちにここに閉じ込められたプレイヤー全員が救出されて、会社は不祥事をしでかしたって事で間違いなく潰れる。
なのに何でこんな事をする?結果が見えてない訳じゃないだろう?」
クライストは、窓際でじっとしていた間に考えていたことを、言いしれぬ不安をはき出すかのように一気に口にした。
その様子を呆気にとられて見ていた仲間達だったが、
「そうじゃな」
というディアナの言葉で気を取り直した。
「問題はそこじゃ。
どう考えても、今回のことはイデア社にとってマイナスでしかないのじゃ」
既に、イデア社が確信を持って今回の事件を引き起こしているという説に、誰も異論を唱えようとはしなかった。
「イデア社が破滅願望の持ち主であった……という可能性もあるのじゃがな。幹部の大半が破滅願望の持ち主でもない限り、組織が自らを破滅させるような行動を積極に取ることはあり得んからの」
そこで、ディアナはグランスに視線をやって、軽く頷いた。そして、ディアナの後を受けて、グランスがもう1つの可能性を提示した。
「最悪、我々は救助されない可能性がある。
運営が何らかの方法でこの事態をリアルに伝わるのを防ぐか、伝わっても打つ手がない場合、我々は救助されない」
誰にとっても、あまりに信じたくない話だった。それを口にしたグランスでさえも。
そして、空気をいっそう重くするような言葉を、ディアナが付け加えた。
「まさしく、『魂の牢獄』というわけじゃな」