第十八章 第六話
「……蒼い月は無事に逃げおおせたと思うかい?」
レック達を送り出した翌日。部下の訓練を始めようとしていたリドベックのところにやってきた風間は、周囲の様子を窺ってからリドベックにそう尋ねた。
「多分大丈夫でしょう。一応、西門からこっちまでの経路を見張らせてますが、何の報告もありません。今の時点で動きがないってことは、まず捕捉しかねてますね」
そんなリドベックの予想は当たっていた。
夜を徹して蒼い月を見つけ出そうとしていたエイドリアンの努力は、結局報われることはなかったのだから。実のところ、それらしき一行が通ったらしい痕跡は明け方頃に見つけることが出来ていた。だが、その痕跡が途中でぷっつり途切れてしまっていた上に、他国の訓練施設に少々近づきすぎていたため、引き上げざるを得なかったのだ。
そんなエイドリアンはこの後、彼らを動かした次官連中からネチネチと嫌みを言われ続ける羽目になるのだが、全く関係の無い風間達はそのことに思い至ることすらないのだった。
さて、その逃げおおせたレック達と言うと、リーフに乗って飛び越えたどこぞの国の訓練施設から十分に距離をとった場所で夜を明かしていた。と言っても、かなり遅い時間まで移動していたため、太陽が昇ってそれなりの時間が経っているのに、まだ何人か寝たままだったりする。
それでも先に寝床に潜った女性陣は既に起き出していた。男性陣に代わって見張りをするためである。
そんな中、一人だけ特にいつもと様子がおかしい仲間がいた。
リリーである。
ちなみに、一緒にいる女性陣は昨夜のうちにあれこれリリーから聞き出した後なので、今は生暖かく見守っていた。
「はぁ……」
昨夜から何度目になるか分からない溜息を吐き、自覚もないままにマージンの寝袋を見つめる。
そんなリリーの頭の中は、昨夜のことで一杯だった。
(あんなにすぐに答えちゃって……マージンに引かれてないかな?)
マージンから聞かされた話はショックだったが、それでもマージンに答えた内容に嘘はない。ただ、何も考えずに答えてしまったようにマージンに思われていたら――実際、ほとんど考えずに答えたのだけど――それで幻滅されていたらと、そう不安を抱えていたのだ。
その一方で、ちょっとだけマージンに近づくことが出来た気もしていて、嬉しい気持ちもあったりした。
今までずっとマージンに積極的に引っ付きに行っていて、引き剥がされはしなかったけど、受け入れてもらえている感じもしなかった。実際その通りだったわけだが……それでも、そのことをマージンに認めてもらっただけでも、なんとなく前進できた気がするのだ。
正直、問題がないわけじゃない。どころか、このままマージンのことを好きでいつづけるのは問題しかないけど、恋愛というのは理屈じゃないんだと誰かが言っていて、リリーもその通りだと思っていた。
だから、今は今のことだけを考える。
それで万事解決なら良かったけど、やっぱり幻滅されていたらと思うと不安になってしまうのだった。
一方、見守る側の一人、ディアナは複雑だった。
何しろ、昨夜のリリーはその辺りのことをぼかしていたが、リリーの恋はたとえ実ったところで、先がない。そのことをマージンから直接聞かされていたからだ。
かといって、リリーに諦めろとも言えない。言えるなら、ここに来るまでにとっくに言っていた。
「はぁ……難儀じゃのう」
「難儀って……リリーのことですか?」
朝食代わりの干し肉を囓りながらディアナにこっそり声をかけてきたのは、アカリだった。ミネアは少し離れたところで、エイジの朝ご飯を用意していた。
「うむ。何しろ相手がマージンじゃ。応援はしてやりたいところじゃが、のう……」
「それって……ひょっとして、ディアナってマージンのことが好きだったりするんですか?」
突拍子もないアカリの言葉に、ディアナは一瞬フリーズしてしまった。
「……いや、それはない」
「えっと、今の間は……?」
「アカリがあまりにも変なことを申すからじゃ」
そう言ったディアナの顔があまりにも真面目だったからだろう。アカリは素直にその言葉を信じることにした。
「それで、リリーのことが難儀ってどういうことですか? マージンにそんなに問題があるとは思えないんですけど……」
そのアカリの質問に、どう答えたものかとディアナは悩んだ。
全てを正直に話してしまうのは、少々、いや、かなり問題があるからだ。
「……あれはあれで見ても分からぬ問題を抱えておるのじゃよ」
結局悩んだ末にディアナはそう、答えを濁したのだった。
そんな感じで女性陣がリリーの様子にもやもやしている間にも太陽は高く昇っていき、9時くらいには男性陣も起き出してきていた。
「流石に徹夜はきついな」
今更急いで出発しても意味は無いだろうと、レックのアイテムボックスから取り出した食料で遅い朝食をとりつつ、欠伸を堪えたクライストがそう言った。もっとも、その隣でマージンが遠慮無く欠伸をしたせいで、結局はクライストも欠伸を堪えきれなかったのだが。
それはさておき。
「今日からは北に向かうんだっけ」
「そうじゃな。徒歩じゃから……半年以上かかるのじゃろうな」
追っ手も振り切れはずなのは良かったが、キングダムに戻るまでの時間を考え、レック達の間に少々げんなりした空気が流れた。何度考えても、なかなか慣れない。
「街やら村やらに寄らへんかったら、一月位早くなると思うで」
「そいつは結構魅力的だけどな。たまには仲間以外の人間とも話したくならねぇか?」
「消耗品の補充もしたいよね」
「消耗品はメトロポリス大陸出るまで、ほとんど補充できん気もするで?」
マージンの言葉に、メトロポリス大陸の現状を思い出した仲間達は、再び肩を落とした。
「なんかもう、サークル・ゲートとかねぇのか? キングダム直通とかよ」
「探せばあるやろうけど、普通に歩いて帰った方が早いやろうな。ついでに言うとや。今わいらがおるメトロポリスの西部にはサークル・ゲートはまずあらへん」
「どういうことじゃ?」
「この辺、世界中の国の訓練施設が集まっとるんやで? そんな地域にどこに繋がっとるとも分からんゲートなんぞ、設置できるわけないやん」
「言われてみればそうじゃな」
マージンの説明に納得した仲間達だったが、それで肩を落とすことはなかった。サークル・ゲートは最初からあてにしていなかったからである。
そんなこんなで、朝食と言うには遅い食事を終えたレック達は、キングダムへと戻るべく、北へと向かって歩き出した。
『魔王降臨』前に各自が使っていた部屋の様子を見に行きたいという心残りはあったが、メトロポリス・シティには寄らないことは既に決めていた。次にいつ来れるかとか、それまで部屋が無事に残っているかとか、気になることは気になるのだが、あの広いメトロポリスの中から全員の部屋を探そうとすると、それだけで週単位で時間がかかるのは目に見えていたし、その間に何か起きればもっと時間がかかってしまう。そうまでして部屋に行かなくてはいけない理由もなかったのだ。ベルザとか、挨拶しても良い相手もいることにはいたが、その辺は風間が任せておけと言っていたのもある。
そうして、北に向かい始めて数日。
時折前方に見えてくるどこかの国の訓練施設を迂回しつつも、一行の歩みは順調そのものだった。
何しろ、エネミーすら出ないのだ。
「全部、狩られて食われたんやろうな」
ぼそりと漏れたマージンの言葉に、仲間達は苦笑いするしかなかった。
実際、メトロポリス近郊――この辺りが近郊と言って良いかどうかは別として――には、普通の動物の他には弱いエネミーしか配置されていなかった。いろいろな理由があったが、結局のところ、本格的にファンタジーな冒険をしたければ、キングダムかカントリーに行けということだったのだ。
ただ、エネミーが出なくても、何の問題も無く進めるわけでもない。
「……今日は早めに野営の準備した方が良さそうだね」
明日から進路を北東に変えようと決めていたその日、先頭を歩いていたレックが西の空を見上げてそう言った。
「ふむ。確かに雲が多いのう。久しぶりに雨が降りそうじゃな」
レックの視線の先を追いかけたディアナの言葉通り、遙か西の空には黒い雲が、遠くの山々を覆い隠すように広がりつつあった。
屋根か幌付きの馬車があるなら兎に角、今のレック達は徒歩である。一応雨具はあるものの、雨の中を歩き続けたいとは思わなかったし、何より雨でびしょ濡れになった地面で野宿ははっきりと嫌だった。
「昼過ぎくらいまで持つと思うか?」
「風次第やろ。リリー、精霊に聞いたらなんか分からへん?」
「え? うーん……ちょっと試してみる」
マージンにいきなり話を振られたリリーはそう言うと、中空を見つめるように何かに精神を集中させようとした。が、
「歩きながらだとうまく集中できないよ~」
そもそも、一緒にいる精霊と意思の疎通が出来るようになったのが最近のことのせいか、うまく出来なかったらしい。
「ふむ。では、休憩を兼ねて少し止まるとしよう」
リリーの様子を見ていたディアナが休憩を提案し、レック達は足を止めた。
「じゃあ、やってみる。ちょっと静かにしててね」
リリーの台詞はミネアが下ろして早速辺りを走り回ろうとしていたエイジに向けたものだったが、意味は無かった。エイジはリリーやミネアの制止など聞かず、その辺をとてとてと彷徨き始めた。
「……ごめんなさい。あの子に……ついて行きますね」
そう言いながらミネアが少しだけ距離をとるようにエイジを誘導して、やっとリリーは集中できるようになった。
近くにいてとてとて歩き回るエイジは、その興味がいつ誰に向かうか分からない。つまり、目を閉じて集中しようとしたところに、エイジが突撃してくることもあって、リリーはそれが気になっていたのだ。
それはさておき、エイジに邪魔されないと安心したリリーは精霊との意思疎通に精神を集中させた。精霊の方から話しかけてくるときは、集中などしなくても良いのだが、大人しくしている精霊に話しかけるのはまだまだ慣れていないのだ。
それでも、元々、精霊の存在自体は常に感じているせいか、そばにいる精霊へと話しかけるのは、集中さえ出来ればすぐだった。
ただ、風の精霊と違って水の精霊はいまいちはっきりした意思の疎通が出来ない。風の精霊によると、まだ精霊としての格が低いのだと言う。
それでも雨のことだからとなんとか水の精霊に質問を投げかけていたリリーだったが、一分と経たないうちに諦めることになった。水の精霊に質問そのものが通じなかったのもあるが、そばでリリーの質問を聞いていたのだろう風の精霊が、横から答えを教えてくれたからだ。
「昼前には降り出しそうだって」
「まだ遠くに見えるんやけどなぁ」
「結構強い風が吹いてるみたいだよ? あと、なんかざわざわするって」
「なんや、気になる表現やな。それも精霊が言っとったん?」
リリーが頷くと、仲間達はわずかに眉を顰めた。
「……良い予感がしないのじゃが」
「奇遇やな。わいもや」
とは言え、何か出来ることがあるわけでもなく。
休憩を早めに切り上げて、雨をやり過ごしやすそうな場所を探すことになったのだった。
そして、1時間後。
周囲よりほんの少しだけ盛り上がった地面の上に、丸太と板で作られた急拵えの小屋があった。材料は勿論、レックのアイテムボックスに入っていたものである。正確には、レックのアイテムボックスにマージンが手当たり次第に詰め込んだ大量のあれやこれやの一部と言うべきか。
「思ったより、雨脚が強いね」
「屋根だけでもあって助かったのう」
あっという間に本格的に降り出した雨と急拵えの屋根を交互に見ながら、レック達はホッと息を吐いていた。
適当に立てた柱と梁に、やはり適当に板を乗せて並べただけの構造の一辺4mほどの小さなスペースだが、こうして雨脚が強くなってみればそれでも十分心強かった。
跳ね返りの類いはリリーが水の精霊に頼んで防いでもらっているおかげで、屋根の下のむき出しの地面は乾いたままである。ちなみに、いっそのこと降ってくる雨そのものを逸らしてもらえないかとクライストが思いついていたが、それはとても疲れるから雨がやむまで持たないとリリーが答えていた。
「この雨、いつまで続くんやろうな。リリー、分かる?」
「えっと……明日の朝まで止まないんじゃないかって」
「了解や」
すぐに精霊から返事をもらったリリーの答えを聞くと、マージンは丸太と板をレックに取り出させ、丸太を地面に並べ、その上に板を並べた。隙間だらけだが、即席の床である。
「幾つ入れてあるのじゃ……」
「もう覚えてないよ……」
それを見ていたディアナとクライストが呆れたような視線をレックに向けるも、レック自身も覚えていなかったりする。
とは言え、とりあえずの屋根と床を用意したところでマージンが満足したらしい。
「まあ、明日の朝までやったらこれでしのげるやろ。リリー、雨が降り込まんようにだけやったら、明日まで持つ?」
「ちょっと自信ないけど……多分、大丈夫、かな~?」
幸い、雨が降り始めた頃には強かった風も、大分弱くなっていた。
「まあ、リリーが力尽きても降り込まんこと祈っとくか」
「ひどい。あたしが力尽きるって思ってるんだ……」
恨めしそうにマージンを見るリリーだったが、その視線にはどこか甘い感情が籠もっており、そのことに気づいたディアナが、パタパタと手団扇で自らの顔を扇いでいたのだった。
一方、急拵えの屋根――と言うよりもはや小屋か――と外の雨を交互に眺めていたクライストは、別のことが気になっていた。
「しかし、雨の度にこうすんのか? ちょっと効率が悪い気がするぜ?」
実際、雨が止んでも小屋を解体する時間もかかることを考えると、
この雨で丸一日時間を使ってしまうことになる。何しろまだ昼過ぎで、しかもこのまま明日の朝まで足止めされるのがほぼ確定しているのだ。
ここまでの時間ロスはそうそう無かったとしても、これからも雨の度に小屋を建てていると、かなりの時間をロスするのは目に見えていた。
「そうじゃのう……。こまめに宿場町があれば良いのじゃが……」
「略奪のことを考えると……宿場町は結構危ない気がします」
キングダムほどではないが、メトロポリス大陸も主要な街と街を結ぶ街道沿いにはそれなりに宿場町が出来ていた。だが、『魔王降臨』後から横行した略奪により、幾つもの宿場町が潰れていたし、そもそも今でも略奪の対象になりかねないことを考えると、街道沿いに進むのは、無視できない危険があるのだった。
「かといって、濡れた地面で寝るのは寝袋があってものう……」
ディアナがそう言うまでもなく、そもそも、雨の中で寝ること自体があり得ないことを考えると、屋根とそれなりに乾いた床か地面は欲しかった。
誰ともなくそういう意見が出たところで、マージンがぼやいた。
「まあ、屋根作って乾いた板並べたらええんやけど……アイテムボックスの中って、濡れたもんが乾かんからなぁ……」
「どうせ、毎日雨が降るわけじゃねぇんだろ? だったら、毎日寝る前にアイテムボックスから出して乾かすってのはどうだ?」
「ふむ。それならなんとかなりそうじゃな。……どうせなら、もう少し早く思いついておけば、今日はもう少し進めたのかのう?」
「流石にこんな大雨の中で屋根作るんはちょっと遠慮したいで」
ディアナの言葉にマージンが首を振り、それもそうだなと皆で苦笑いすることになったのだった。
それでももはや移動できないことに変わりは無く。
どうでもいい話やら、ちょっとした魔術の訓練やらをしながら時間を潰したレック達は、夕方に簡単な食事をとると、さっさと寝ることにした。マージンが作った魔導具があるので明かりはなんとかなるのだが、下手に明かりをつけて、余計なものを引き寄せても面倒であるし、そもそも明かりをつけても暇ばかりはらどうしようもない。
とは言え、エネミーがいなくても見張りを立てることは忘れない。最初の見張りは暇を持て余して昼寝をしていたマージンとリリーが手を挙げた。
やがて、暗くなって真っ先に眠ったエイジに続き、他の仲間達からも静かな寝息が聞こえてくる。もっとも、雨音の方が大きいので、耳を澄まさないとよく分からないのだが。
そんなある意味二人っきりの空間だったが、マージンとリリーの間には会話はなかった。
マージンはアイテムボックスから明かりの魔導具と何か素材らしきものを取り出すと、かろうじて手元が見える程度の明かりをつけて素材をカリカリと削り始めていた。そもそも会話をする気が無いらしい。
リリーはマージンと何か話したいと思っていたが、寝ている仲間達の中に、狸寝入りがいるんじゃないかと考えると、下手な話題は切り出せない。そう考えてしまって、話題を見つけられずにいたのだ。
と言うより、熱心に何か作業をしているマージンを見つめるだけでもリリーは満たされていたのが大きい。
それでも、出来ればもうちょっと近くで見つめていたいと思うのが乙女心というやつなのか。
リリーは眠っているはずの仲間達の影を避け、マージンの隣にまで静かに移動した。
「なんや?」
「ううん。何でもないよ」
リリーが隣に来たことに気づいたマージンが顔を上げるも、リリーはそう答え、そのままマージンの横に腰を下ろした。マージンもそれで特に気にすることでもないと思ったのか、すぐに作業を再開した。
リリーはそのことがちょっとだけ寂しかったが、最初からマージンの邪魔をするつもりもなかったから、静かにマージンを眺め続けていた。
だから、不意にマージンが顔を上げた時、驚いてしまった。
「ど、どうかしたの?」
「あー、うん。そやなー……」
雨に覆われた夜空に視線を投げかけていたマージンは、リリーに声をかけられると、なぜか歯切れ悪くどもった。
そのことにリリーが疑問を持つよりも先に、リリーと契約している風と水の精霊が警戒の声を上げた。
「っ!? 何!? どうしたの!?」
だが、精霊達がリリーに答えを返すよりも早く、それはやってきた。
一瞬だけ雨が止んだかと思うと、二人の目の前に何か巨大なものがズズンと降り立ったのだ。
それから先は一瞬のことだった。
リリーめがけて襲いかかってきた鋭い牙が並んだそれの口の正面にマージンが割り込み、そして噛み付かれ、そのまま夜の闇へと飲まれていったのだ。
リリーの悲鳴と直後の振動で目を覚ました仲間達が起き上がる前に、全ては終わり、マージンの姿はそこから消えていたのだった。
さて、その頃のメトロポリスはというと。
「メトロポリスを捨てる? そんな話は聞いてないぞ!」
「そうね。今話したもの」
ワッツハイム街区の住人のうち、希望者を移住のためにメトロポリスの外に出し始めてから数日。ワッツハイム街区の異常に気づいたカンパニーユニオンのある企業の代表が、ベルザの元にやってきていた。正直、こうなる前に自分もさっさとここを離れるつもりだったベルザとしては、よく舌打ちを我慢できたといったところか。
「今の異常事態に対して、カンパニーユニオンは総力を挙げて対応しなくてはならない。君はそうは思わないのか!」
「思わないわね。仮に対応できたとしましょう。それで、その後はどうなるの?」
がなり立てる男にベルザは淡々と答えた。もう結論を出したどころか、行動にまで移しているのだ。今更目の前の男に何を言われようとも予定を変える気はなかった。
そして、男もベルザの問いかけに感情のまま答えようとして、答えがないことに気づいたらしい。
「それはっ……」
口ごもる男にベルザは追撃をかける……ようなことはしなかった。状況を理解しているのであれば追い詰めても仕方ない。
「辿り着けるかどうかは分からない。何年かかるかも分からない。それでもワッツハイムはキングダムを目指すわ。理由は分かるでしょう?」
ベルザがそう言ったところで、部屋の扉がノックされた。
許可を出すまでもなく開いた扉の向こうからは、予想通り、シモンが顔をのぞかせた。
「最後のグループが間もなく出発します。ベルザも急いでください」
その言葉にベルザは頷くと、席を立ち上がった。
そして、
「あなたたちも、メトロポリスを離れるなら早いほうがいいわよ。遅くなればなるほど……多分、ここは地獄になるわ」
わなわなと震え続ける男にそう言い残して、部屋を出た。
「それで、結局どのくらい残ることになったのかしら?」
「最初は半分くらいは残るかと思っていたのですが、我々が本気だと言うことを理解したのでしょう。1割も残りませんでしたね」
「と言うことは、結局2万人近くなっちゃったのね。まあ、いいわ。当初の予定通り、やりましょう。……5年くらいで終わるかしら?」
「もう少しかかるかも知れませんね。どれだけ早く、大陸会議とやらの助力を得られるかによるかと」
「そうね。……こうなってみれば、レック達がガバメントに行く前にちゃんと頼んでおくべきだったわ」
少なくとも、冒険者の方がキングダムまでの移動時間は遙かに短いはずだからとは、ベルザは言わなかった。シモンも分かっていることだからである。
それでももう、計画は動き出したのだ。
2万人のうち、どれだけが生き残れるかは分からない。ただ、このままメトロポリスに居続ければ、全滅同然になるのは分かりきっていた。今のメトロポリスには、何十万もの人間を支えられるだけのキャパシティがないのだから当然だ。
シモンと話しながら歩き続けたベルザは、やがて今まで拠点にしていた建物から外に出た。
そこで一度振り返る。
「……これで、残る人間も少しは生存率が上がるかしら?」
「願わくば。ただ、多分無理でしょう」
人数が多いと食料が足りない。今までも、略奪による供給がなければ、あるいは黙認されてきた口減らしがなければ、もっと露骨に餓死者が増えていたはずなのだ。それでも、メトロポリスの人口は着実に減ってきていた。
勿論、メトロポリス周辺で生産できる食料で支えきれるところまで人口が減れば、そこで人口の減少は止まっていただろう。
だが、今ではゾンビという脅威があった。
メトロポリスにいる人間は近いうちに全滅する。ベルザ達はそう確信していた。
何しろ、人間が多ければ勝てるという相手ではないのだ。むしろ、戦えない人間などゾンビの材料にしかならない。そして、メトロポリスにいる人間の大半は……材料の方なのだ。
幸いなことに、今のところメトロポリスの外にゾンビが出て行ったという話はない。ゾンビの行動を監視させていた者達からの報告によれば、夜の間であればふらふらと出て行くこともあるのだが、朝になる前にメトロポリスに帰ってくるらしい。明るい昼間、何の遮蔽物もない屋外での行動を厭っているのではないかというのが、監視している者達の推測だった。
言い換えれば、メトロポリスから出てしまえば、ゾンビの脅威はなくなるのだ。勿論、たまたま近くの街まで夜の間に流れ着くのもいるかも知れないが、確率を考えれば、それこそどうとでも対応できる程度の数だろう。
既に、最初の中継地点にする街には最低限の防御態勢を敷いている。そこさえ崩壊しなければ、ある程度の時間は稼げるはずだった。
ただ、懸念事項もある。
「他のとこが動き出す前に、最初の街からは離れておかないといけないわね」
これから、ワッツハイムの後を追うように、メトロポリスから逃げ出す人間が増えるだろう。そうなったとき、メトロポリスに近い街ほど流れ込んできた人間によってひどい混乱が引き起こされる可能性が高かった。
勿論、それも計画のうちなのだが、その事態が予想以上に早く生じた場合、その分だけ切り捨てざるを得ない人間が増えることも分かっていた。
ベルザは自分のことを善人だとは思っていない。
ただ、無駄に人が死ぬのを喜べる性格でもない。それだけのことだったのだ。