第十七章 第十五話 ~アルフレッド~
「来たか……」
東の空に朝の光が微かに滲み始めた頃。
足下からの光に包まれるクリスタルタワーの最上部。その中央に安置された精霊の筺の上で、風の精霊王はぽつりと呟いた。課された役目からではなく、純粋に興味ある客人が来たことを察知したのだ。
その客人達はおそらくクリスタルタワー最上階を覆い尽くす高密度の魔力から身を守るためであろう、薄い魔力の膜に身を包み、しずかに、しかし堂々と風の精霊王エルファンスラクの元までやってきた。その数がクリスタルタワーに侵入した気配の半分しかないのは、エルファンスラク自身を警戒してのことだろう。
(用心深いことだ……)
その用心など、エルファンスラクがその気になれば何の意味もない。そのことが少しだけおかしくて、エルファンスラクの口の端が僅かに上がった。
それに気づいたのか、それとも思い切っただけなのか。屋上までやってきた集団――レイゲンフォルテの先頭に立っていたエスターがエルファンスラクに声をかけてきた。
「あなたが風の精霊王か!?」
そんなに大声を出さなくても聞こえるのにと思ったエルファンスラクは、魔力以外にこの場を覆い尽くしているもう1つのものを思い出した。
「風が……」
レイゲンフォルテの誰かの言葉を気にすることなく、エルファンスラクはエスターへと視線を向けた。
「いかにも。我が風の精霊王である」
その答えに、レイゲンフォルテのメンバーが僅かにどよめき、
「わたし達がここに立つことができたということは、話くらいはさせて貰えると思って良いのだろうか?」
風が弱くなったことに気づいたのか、先ほどよりは声量を抑えたエスターがそう言った。
「そうだな。まずはおまえ達の望みを告げるがいい。望みには対価が必要だ。だが、望みを口にしなくては、対価も明らかにはならない。故に、まずは望みを告げよ。全てはそれからだ」
エルファンスラクの言葉に、どうやら無条件に排除されることはないと分かったのか、レイゲンフォルテのメンバーの雰囲気が少し緩んだ。
そして、仲間内で頷き合うと、再びエスターが口を開いた。
「ならば知識を。イデア社の目的。そして、この世界がなんなのか。どうやって作られたのか。それを知ることはできるだろうか?」
それを聞いたエルファンスラクは、なるほどと思った。どれほどかは分からないが、どうやら好奇心旺盛な魔術師達らしい。確かに、きっと興味を持つはずだと言われただけのことはある。
故に、エルファンスラクは試してみることにした。
「その知識は身を滅ぼすに値する。それでも求めるか?」
「……っ! 勿論だ」
一瞬の間が空いたものの、即答だった。
「今まで得た全ての知識でもか?」
「問題ない」
「未来永劫の自由を失うとしてもか?」
「好奇心が満たし続けられるのであれば」
それからも幾つかの質問を重ね、エルファンスラクが出した結論は、この客人達は人間として壊れているというものだった。
だが、それはエルファンスラクにとってはむしろ好ましい。
風の精霊王たるエルファンスラクは、今はこうして課された役割を果たすためにこの場に留まることを余儀なくされているし、そのことに不満を感じたりもしていないが、全くの問題がないわけでもなかった。
確かに不満は感じていない。
だが、この世界を自由に飛び回ることができないのは少々不自由に感じていた。
噂話を集めるだけなら眷属たる風の精霊達を使役すれば問題ない。ただ、風の精霊だとどうしても視点や感じ方が精霊のそれに偏りすぎてしまい、しばしば面白そうなことを見逃してるのではないかと思っていたのだ。
しかし、目の前の魔術師達を使えば、人間視点でいろいろな話を、体験を集めることができるだろう。
そう考えたエルファンスラクは内心ほくそ笑んだ。
風の精霊王としてエルファンスラクの行動にはかなりの制限がかけられている。だが、幸いなことに目の前の魔術師達を眷属にして、世界で起きている出来事を見て回らせることは問題なかった。
故に、エルファンスラクはエスターに、レイゲンフォルテに告げた。
「よかろう。ならば、我に誓約を行うが良い。今この時より、我、エルファンスラクに全てを捧げると」
「それは全員が行う必要があるのか?」
「その必要はない。だが、誓約を捧げなかった者に教えることはできぬ」
エルファンスラクの言葉に、レイゲンフォルテのメンバーはお互いに顔を見合わせた。
「それは、あなたから教えられた者が他の者に伝えることも出来ないということか?」
エルファンスラクが頷くと、流石にエスターも少しばかり顔を顰めた。
このような世界を作り上げる術も、その目的も知りたいのは間違いない。そのために自分という存在を投げ出してしまうのも問題はない。
だが、自分だけなら兎に角、全員となってしまうと話は変わる。それでは、これから何も出来なくなってしまうからだ。
何か興味を引かれることがあっても、追いかけることが出来なくなってしまう。それは問題だった。
そんなエスター達レイゲンフォルテの悩みを見て取ったエルファンスラクは、少しばかり説明することにした。
「心配は要らぬ。誓約を捧げた後、おまえ達がすべきことはおまえ達自身の望みと大して変わらないだろう」
「どういうことだ?」
「おまえ達は世界をその興味が赴くままに見て回れば良い。そうして見聞きしたことを、我に伝えよ」
エスター達はその言葉をしっかりと噛み砕いた。そして、互いの顔を見ながらゆっくりと頷いた。
その数分後。
クリスタルタワーの最上部から幾筋もの光が立ち上がったのだが、朝の光に紛れ、気づいた者はいなかった。
「まー、世界一周しろとか、RPGやと基本やな」
一夜明けて。
ガバメントの建物までレック達が戻ってきたときには、仲間達は全員寝てしまった後だった。そのため、全員が起きるのを待って昨日のことをレックが報告し、それを聞いたマージンの第一声がそれだった。
「言いたいことは分かるがのう……。まあ、移動手段について知れただけでもマシかのう……」
ディアナはそう言ったが、それでもここから大陸中央まで移動するとなると、また月単位で時間がかかるのは確実だった。
おまけに、レック達が聞いてきた話通りであれば、竜が住んでいるのはかなり過酷な環境のはずで、
「ってか、アカリとエイジは連れてけねぇだろ」
クライストの言うとおり、そんなところに身体能力の低い二人を連れて行くことは難しかった。というか、エイジに至ってはまだ用事と言うべき年齢で、最初から論外だったが。
「安全に行くなら、一旦キングダムに戻るべきやろうな」
常に物資が不足しているメトロポリスで、アカリとエイジに加え、保護者としてのミネアも待っていてもらうよりは安心だと言うマージンの言葉には、全員が頷かざるを得なかった。
とは言え、
「戻るだけで半年じゃのう。今からならば……冬かのう」
ディアナの予想に、ほとんど全員が一斉に溜息を吐いた。
現実世界では1日もあれば世界中のどこにでも行けたのだが、移動手段が徒歩か馬に限られるこの世界ではそんなことは夢のまた夢だった。野宿前提だと一日に進める距離は馬を使っても50kmが限界なわけで、1万kmとまで行かなくても数千kmも離れたキングダムまで戻るとなると、それだけで半年以上かかるのだ。
尤も、例外がないわけでもなく。
「リーフだったら、もっと早く戻れるんじゃない?」
「一人しか乗れないけど、そうだね。二ヶ月はかからないと思う」
「え、そんなにかかるの?」
「流石に毎日長時間飛び続けたら、リーフも疲れちゃうよ」
レックの答えに、リリーもすぐに納得した。
「それでも、往復に4ヶ月かかるのじゃな。キングダムとここがどれだけ離れておるか、よく分かる話じゃな……」
だが、その上を行く例外もあるわけで。
「それ、ひょっとしたらレックが一人で走った方が早かったりせえへんか?」
「……身体強化フルに使えば、多分二週間くらいで着く、と思う」
そんなレックの発言に、部屋に沈黙が落ち、
「人にばれたら連絡係としてこき使われそうやな」
「あはは……まさか……」
30秒程の沈黙の後、マージンが口にした言葉を否定しようとしたレックの言葉はあっさり途切れた。
「ま、それはさておき。それで全部なん?」
「あ、もう1つあるよ」
そう言いながら、レックは風の精霊王に預かった風の珠をアイテムボックスから取りだし、マージンへと差し出した。
「これ、なんなん?」
「火の精霊王の力の欠片だって。マージンならこれで聖剣を作れるって、風の精霊王は言っていたけど……」
「聖剣とは……また随分なキーワードが出てきたのう……」
竜の話を聞いたときとは別の驚きに部屋が包まれ、その中でマージンだけが動揺することもなく、レックから受け取った風の珠を手の中で転がしながら観察していた。
「マージン、使い方分かるの?」
「んー、なんとなくやな。ま、ここやと設備足らんし、結局キングダムには戻らなあかんな」
「そうなの?」
「そや。下手な炉でこれ扱おう思うたら……炉ごと溶けるんちゃうか?」
リリーにそう物騒な答えを返しながら、マージンは風の珠を自分のアイテムボックスにさらっとしまい込んだ。
「それで、聖剣の作り方って分かる?」
無事にマージンに風の珠を渡したレックは、昨日から思っていた一番の疑問をマージンに確認してみた。
何しろ、風の精霊王は風の珠を渡してくれただけで、聖剣の作り方については何一つ教えてくれなかったのだ。単なるゲームならいざ知らず、今のこの世界ではちゃんと材料を集めて、正しい作業をこなさないとナイフ一本作ることは出来ないのだから、当然の疑問である。
「ちょいと確認してみんとあかんけど、材料は心当たりあるで。作り方は……念のため、キングダムの図書館漁ってみた方がええやろな」
「その返事じゃと、既に作り方を知っておるように聞こえるんじゃが?」
返事の微妙な部分に気づいたディアナにそう問い質され、マージンが苦笑した。
「ロイドんとこで作り方叩き込まれた魔導具ん中にな、それっぽいのがあったんよ。何に使うんかそれだけやと良く分からんかったけど、聖剣って単語でやっと繋がったわ。それだけやと情報がちょいと足りん感じやから、図書館に行かなあかんねんけどな」
「なるほどのう……。しかし、やっと魔王に対する具体的な話が出てきた感じじゃな」
マージンの答えにディアナがしみじみと呟いた。
その言葉に、確かに今までは魔王がどこにいるか以上の情報が全くなかったと仲間達も気がついた。
ただ、その情報が出てくるのは今更な感じがしないでもなかった。
あの『魔王降臨』から既に4年である。
この世界に閉じ込められた人間達は、事情や経緯はどうあれ、随分とこの世界になじんでしまい、自分達を含めて、元の世界に帰ること自体を忘れつつあるように、レック達には思えたのだ。
いや、言葉としては覚えているが、既にこの世界こそが生きていく場所であり、元の世界に戻るということの現実感がほぼなくなってしまっていると言うべきか。
「まあ、キングダムに戻ったら、大陸会議に報告すべき事が山程出来たわけじゃな」
「魔王倒すまで、あと何年かかるか分からへんけどな?」
そう混ぜっ返したマージンの頭をディアナが割と本気で引っぱたいたのは、流石にリリーも何も言わなかった。
「ローエングリスが壊滅したですって?」
執務室でベルザがその第一報を聞いたのは、夕方も近い時間のことだった。
「はい。あちらからの定期連絡がなかったので様子を見に行かせたところ……」
生きている人影が全くなくなっていたのだと、報告に来たシモンは答えた。
「大量の血痕がその辺り中にあったので、多分誰一人生きていないでしょう」
「ちょっと待って。何で疑問系? ……いえ、そういうことなのね?」
シモンが考えている予測を理解したベルザは、思わず立ち上がりかけた。
その予測が正しければ、問題はローエングリスが壊滅しただけではない。壊滅したローエングリスそのものが新しい脅威になっているはずなのだ。
「やっぱり、確保したゾンビの扱いに失敗したのかしら?」
「そう考えるのが妥当でしょうね」
「なんで失敗したのかは……今は良いわ。それよりなんとか出来ると思う?」
「努力はしてみますが、駆除は無理でしょうね」
シモンは即答した。
理由はいくらでもある。
まず、推定されるゾンビの数である。ローエングリス街区の全住人がゾンビに成り果てていた場合、前に殲滅したゾンビの数の倍ではきかない数がいると思われた。
また、火力の問題もあった。前の殲滅のために、ワッツハイムもだが、カンパニーユニオン全体としても相当数の弾薬を消費してしまっていた。おそらく、もう予想される数のゾンビを殲滅できるだけの弾薬は、カンパニーユニオンには残っていない。
「封じ込めることは?」
「まだ可能性はありますね。ただ、かなり難しいかと」
理屈の上では全ての通路を防げば、ゾンビが広がることは防げる。だが、ローエングリス街区の広さを考えれば、短時間で完全に封鎖することは不可能だろう。
「……ひとまず時間稼ぎになれば良いわ。バリケードを作る人手はこちらで集めるから、あなたは護衛とローエングリスの見張りをお願い。……防げるわよね?」
「そうと分かっていて警戒していれば、数日くらいなら全く問題ないでしょう」
シモンはそう答えた。
ローエングリス街区からここまでは10km程度しか離れていない。それでも10kmは離れているのだ。
前にメトロポリスに侵入した謎のエネミーが大量に生み出したゾンビの殲滅作戦の時の観察では、確かにゾンビは生きている人間に近寄っていく習性があるのだが、反応する距離はせいぜい50mあるかないか。10kmも離れていれば、誰かが誘導するような真似でもしない限り、まっすぐワッツハイム街区までやってくるようなことは考えられなかった。
また、でたらめにでも歩き続けていれば、いつかはワッツハイム街区にもやってくるだろうが、その時は集団ではなくバラバラにやってくるはずで、見逃すことさえしなければそれなら十分に対処できるはずだった。
「こうなったら、さっさとメトロポリスを捨ててしまいたいところだけど……そのためにも時間が必要なのよね……」
溜息を吐きながら、ベルザはそう漏らした。
バリケードでワッツハイム街区を囲ったところで、完全な対策とはなり得ない。
殲滅作戦の時に確認されたことだが、ゾンビに噛まれた人間は数分から数十分でゾンビに成り果てる。万が一侵入を許し、そのまま初動に失敗したりすれば、ローエングリスの二の舞も十分にあり得るだろう。
そして、その可能性はゼロにしない限り、いつかは起きるのだ。
「予定より早いけど、メトロポリスを捨てる方向で動くわ。しばらくは時間稼ぎの準備を優先で。それが終わったら、移住の準備ね」
ベルザはそう決断を下した。
ただ、問題は山積みである。
まず、バリケードそのものである。
ワッツハイム街区もそれほど狭くはない。どこに行ったのか最近は活動しているという話を聞かないが、武装勢力のせいで中心部からあまり離れたところに住んでいる住人はほとんどいないが、それでも、もう少し中心に集中させないと、バリケードを作らなくてはいけない道が多すぎた。
と、ベルザはそこであることに気がついた。
「バリケード、簡単なものでも効果あるかしら?」
「……胸の高さくらいまでの柵でも十分でしょうね」
ゾンビの動きを思い出しながら、シモンはそう答えた。
所詮は動く死体に過ぎないということなのか、階段などは上り下りできるようだが、柵の類をよじ登ることはできないようなのだ。なんだったら、机を数段程積み重ねるだけでも問題ないだろう。
シモンがそう答えると、ベルザはホッとした様子を見せた。
「それなら、なんとかなりそうね」
となると、問題は移住そのものになる。
ガバメントからの避難者を受け入れたままのこともあって、ワッツハイム街区だけでも軽く万を超える人間がいるのだ。それだけの人数が移住するとなると、荷物のことを考えなくても大仕事である。実際にはそれなりの荷物があることを考えると、
「一月で終わる、かしらね……」
ベルザは溜息を吐きたくなった。
おまけに万にも及ぶ移住である。移住先のキャパシティを考えると、受け入れ先の準備もちゃんと整えておかなくては、数え切れない人間が死ぬことになるだろう。
「ローエングリスがこのタイミングで潰れてくれて、良かったのか悪かったのか。悩ましいところね」
とは言え、起きてしまったことは仕方ない。
シモンにゾンビに備えるように指示を出したベルザは、事務方の部下を次々と呼び出し始めた。
バリケードの準備に始まり、カンパニーユニオンの他のメンバーとの連絡や調整、ワッツハイム街区の住人の受け入れ先の選定と受け入れるための準備。ワッツハイムとして保有している物資の確認など、やることはいくらでもある。
スケジュールの作成や、万が一が発生したときの対応も決めておかなくてはならない。
これからやってくる嵐のような忙しさを想像したベルザの溜息は途切れることはなさそうだった。
同日の夜。
ガバメントの風間の部屋に、レック達は呼び出されていた。勿論、全員ではなく、レック、マージン、ディアナの3人だけが来ていたのだが。
「……とまあ、そんなことがあったらしいんだけど、やっぱり、君たちには招待を受けてもらいたいんだ」
「ちょっと待つのじゃ。それだけの大事があって、その対応より、私達を連れて行く方が優先するというのか?」
一通りの説明の後の言葉に噛み付いてきたディアナに、風間は苦々しい表情で頷いた。
「こちらとしても出来れば、ローエングリスの対処を優先したいんだけどね。多分、今君たちにあれを見せないと、二度と見せる機会がなくなる」
「どういうことじゃ?」
「ガバメントも一枚岩じゃないってことだよ。実のところ、上が無能だからかなり自由にやらせてもらってるけど、今回のことでどうなるか分からない。私の権限が削られるくらいなら良いけど、最悪ガバメントそのものが崩壊する」
「権力闘争とか、そんなんなん?」
「お恥ずかしい話、その通りかな」
マージンの言葉に、風間は苦笑いを返した。
「そのせいで、もう少し後の予定だったんだけど、明日の朝には出発する。準備はしておいてもらえるかな?」
急な話ではあったが、レック達にとっては特に問題もなかった。元々招待は受ける予定だったし、どうせ、必要な荷物はアイテムボックスに全部詰め込んであるのだ。
そのことをマージンが説明すると、風間はホッとしたように笑みを浮かべ、
「それはそれとして、や。そこまでしてわいらに見せたいもんって何なんや?」
マージンの問いかけに、難しい顔になった。
「……証拠がなければ、まず信じないと思うから、今は勘弁して欲しいんだけど?」
「そこまでの代物なんだ?」
風間の答えにレックは好奇心を刺激されたが、
「そうだね。正直、私もまだ信じたくないしね」
ディアナとマージンは不安を煽られた様だった。
「あー、やっぱ、行くのやめてええ?」
「知らなくても真実は変わらないよ。そして、知らないままだと多分……いや、絶対後悔する」
風間の妙に確信を持った声音に、マージンは溜息を吐いた。
「なら、拒否せんほうがええんやろうな。レック、ディアナ。どない?」
「僕は興味あるかな」
「私は不安半分、興味半分じゃな。それに、その辺りも覚悟した上で、招待を受けることにしたのじゃろう?」
「なら、決まりだね。明日はよろしく」
風間のその言葉でここでの話を終えたレック達が部屋を出て行った後、風間はやれやれと背伸びをした。
ワッツハイムのベルザも大変らしいが、こっちもこっちで大変だった。
幸い、ここはローエングリス街区からワッツハイム街区以上に離れている。だから、ベルザの所程切迫した状態にないことは確かだった。
それでも、ローエングリスが壊滅するような事態である。絶対に上の方が騒ぎ始めるのは目に見えていた。
今は少しばかり時間を稼ぎたいので、上への報告は遅らさせているが、それも明日の朝が限界だろう。そうなると騒ぎ始めた上に足を引っ張られ、何も出来なくなるのは目に見えていた。いや、それどころか上から下までガバメントが分裂する可能性すらあった。そうなれば、ここはかえって危険なのだ。
「全く、足の引っ張り合いは自分達だけにして欲しいよね……」
風間はそうぼやくと、この拠点を引き払う指示のために、部下を呼びつけ始めた。幸い、アリたちの襲撃の前にガバメントの住人はあらかたカンパニーユニオンの街区に避難させていた。おかげで、ほぼ自分達だけ避難すれば良いのが救いだろうか。
とは言え、気分はホント、やれやれだったが。
その数時間後。とは言え、深夜と言うにはまだ少し早い時間。
「本当に行くの?」
「……意味がないのは分かってる。それでも、だ。すまねぇ」
明日には風間と共にメトロポリスを離れることになったと聞いたクライストと、クライストに頼まれてリーフを呼び出したレックが通りの片隅に立っていた。
「暴走しない、暴力的なこともしないって事だけは約束守れるよね?」
出来ればついていきたかったが、クライストに頼まれ、一人で行かせることを了承してしまったレックは、話し合いだけで帰ってくることをクライストに約束させていた。それでも、クライストがアルフレッドの元に行くと言い出した理由が理由だけに、いくら念を押しても足りない気がしていた。
「アルフレッドかイデア社が直接絡んでねぇなら……多分な」
微妙に不安になる答えだったが、紗耶香に直接手を下した何者かがいるのは、あの状況では明らかだった。そして、それがイデア社ではないことも。いや、イデア社にそうする理由が全くないと言うべきか。
それに、クライストがアルフレッドに会いに行く理由は、アルフレッドが何か知っていないか訊くためなのだ。ならば、多分問題はない、だろう。
そう考えているレックの目の前でひらりとリーフに跨がったクライストが、リーフと共に夜空へと舞い上がった。
それを見送るレックの胸に、妙な不安感が湧き上がってきたのは、多分、心配からなのだろう。レックはそう思っていた。
そのほんの少し前。
そろそろその時だろうと、今夜も寝付けずにいたアルフレッドの耳に、ドアをノックする音が聞こえた。
「っ!?」
侵入者を感知する結界には何の反応もない。
それ故に、今の音は気のせいだったのかと、それでもドアを凝視していたアルフレッドは、
「いい夜だね」
後ろから声をかけられ、心臓が飛び出すかと思う程に驚き、声の主の姿を目にしてその時が来たことを知った。
「ああ……。その通り。本当にその通りだ」
どうやら自分はやり遂げたらしい。
そう思うも、魔術師としての性か、確認は取ってしまう。
「私に課せられた役目は、終わったんだな?」
「ああ。だから、僕はここに来た」
若い男の顔は何故か見えない。それでも、その言葉にアルフレッドは歓喜した。
「なら、私の願いは叶うのか?」
「叶うとも。ただ、最後にもう一度だけ確認するけど……本当に良いんだね?」
「ああ」
アルフレッドは即答した。
あの日、目の前の青年に事実を教えられたその日からずっと考えていたことだった。そして決めたことなのだ。
それで青年も、アルフレッドの意思がこの上なく固いものであることを悟ったのだろう。
半ば目を伏せるようにして、片手をあげ、
「お待ちください、マスター」
柔らかな、全てを吸い込むような夜の声に止められた。
その場への闖入者に、しかし青年は驚かなかった。
アルフレッドは微かに驚いたものの、青年をマスターと呼んだ以上、自分と青年の間の契約を破らせるようなことはないだろうと、少しだけ静観することにした。
「どうした?」
青年がその影に声をかけると、いつの間にか現れた夜のような女性が頭を下げた。
その髪は光沢を放ちながらも、全ての光を吸い込むかのように黒く、真っ白な肌には一切の汚れがない。唇は血のように赤く、その上の鼻はすっと伸びていた。伏せた目の色は分からないが、それでもこれからのことを覚悟していたアルフレッドですら一瞬目を奪われる程に美しい。そのことだけは分かった。
「恐れながら、マスターがなさらなくても私に命じていただければと」
「いや、これは僕がなした契約だ。だから、僕が遂行すべき事だ」
「しかし……」
それでも食い下がる女性に、どこからか新たな男の声が響いてきた。
「マスターがお決めになったことだ。それ以上は不敬じゃないかな」
吸い込まれるような女性の声とは対照的に、光り輝くような男の声に、闇の結晶のような女性の頭が微かに下がった。
「……分かりました。マスター。大変失礼いたしました」
その言葉と同時に、女性の姿が掻き消えた。
それでもアルフレッドには何故か、女性がここを見ていることだけは分かった。いや、多分先ほどの声の男性も見ているのだろう。
だが、アルフレッドにはどうでも良いことだった。
「待たせたね」
青年のその言葉に、アルフレッドはやっとその時が来たのだと、確信した。
ニューヨークの路地裏で恋人を失ったあの時。
アルフレッドはただ1つの事を望んだ。
恋人の、エイダの敵は目の前に現れた青年がいとも簡単にとってくれた。故に残された望みはただ1つ。
例え魔術師と言えども容易に勝てる相手ではないはずのそれをいとも容易く滅ぼした青年に、アルフレッドは願ったのだ。
自らも、魂の欠片すら残さず滅ぼして欲しいと。
あの化け物に喰われたエイダは魂すら残っていない。そのことを魔術師として化け物の正体を知っていたアルフレッドは理解していた。
故にエイダの後を追うことに意味はない。せめて、この絶望を魂もろとも消し去ってしまいたい。それだけが望みだった。
そんなアルフレッドに青年は1つの取引を持ちかけた。
数年の時を要するその取引をアルフレッドは少し悩んだだけで、引き受けることにした。
そして、それは今、確かに完了したのだ。
その暗い喜びに身を浸すアルフレッドを見ながら、青年はその手の先に魔力ではない何かを集め、
そして、アルフレッドが消えた。
音もなく、ただ、すっと消えた。
誰かがそれを見ていれば、それがどこかに行ったのではなく、本当に消えたのだと、否応なく感じ取っただろう。
「……過去に遡って消す必要はない、かな」
魂すらも失われたアルフレッドの恋人も、いたという事実と痕跡は残っていたのだからと、青年は独りごちた。
「後を追うにも、恋人はもはやどこにも存在しない。追うべき後がない。なら、自分も消え去りたいと望む、か」
アルフレッドの望みは、自らの肉体と魂の完全なる消滅だった。だが、普通に死ねばその魂は浄化され、いつか改めて何らかの生物として生まれ出てしまう。
アルフレッドはそれを望まなかった。だから、自らの魂をも完全に消滅させられるという青年と契約したのだ。
青年はその時のことを思い出しながら、近くの夜空に1つの気配を感じていた。
「さて、そろそろ僕の待ち人がここに来るはずだけど……。いや、僕が直接相手をするのは止めておこうか」
青年は壁の向こうに視線をやりながらそう言うと、先ほどの女性を呼び出した。
「マスター、お呼びですか?」
「そろそろここにクライストがやってくる。彼に必要な説明を。僕はもう戻るから」
女性が頭を下げる間もなく、青年は姿を消し、そして、その数秒後。
勢いよく扉が蹴り開けられた。