第十七章 第十二話 ~紗耶香3~
「…………」
ベッドが揺れるのを感じて、紗耶香は目を覚ました。
外はもう明るいのか、紗耶香が寝ていた部屋も窓から光が漏れてきていた。
視線を移すと、昨夜、紗耶香の身体を征服していた男、ヒュームが簡単な身支度を調えているところだった。
紗耶香が無言のまま見ている前でさっさと身支度を調えたヒュームは、紗耶香の方を一瞥することもなく部屋を出ていった。
ここ数日、ずっとこんな感じである。
紗耶香を引き取ったヒュームは、毎晩のように紗耶香を弄び、朝になると紗耶香に一瞥を与えることもなく部屋を出て行く。それを見送った後、紗耶香もベッドから出て、身支度を調えるのが常だった。
サイラスを撃ってからか、それより前からか。そんな生活にも紗耶香はもう何も感じなくなっていた。ただ、そんなものだと受け入れるだけだった。
ヒュームが自分に向けている感情についてもそうである。
あれは明らかに紗耶香のことを人として見ていない。欲望の捌け口だとしか思っていないのがよく分かった。それでもある程度丁寧に扱われているのは、ボロボロの外見の女を抱くよりは小綺麗な方が良いというだけなのだろう。
だが、それでも構わない。
とりあえず、身支度を調え終わった紗耶香が部屋を出ると、そこで待っていた若い男が紗耶香に朝食の缶詰を渡してきた。
どうやらここも保存食以外は手に入らないのか、缶詰やら良く乾燥させられた干物やら、兎に角賞味期限が長い食料ばかりが配られる。勿論、温かい食事など論外だった。
『なにか?』
いつもならそれを紗耶香に渡した後、さっさと部屋を出て行くその男がすぐに出て行かないことに気づき、そう訊ねると、
『今日から昼間は訓練を受けてもらう。さっさと食べてついてこい』
どうやら、昼間何もせずに呆然と過ごす日々は終わりらしかった。
紗耶香は数分ほどで朝食を終えると、男に案内されて建物を出て裏手へと回った。そこで待っていたのは、サイラス達が殺されたあの日、ヒュームと一緒にいた年配の男だった。
紗耶香を案内してきた若い男がその場を去ると、年配の男は紗耶香をまじまじと観察し始めた。
『やはり、鍛えた様子はないな。まあ、この世界で見かけがどれだけ当てになるか、怪しいものだが……』
そう言いながら紗耶香の観察を終えた男は、『リカードだ』と短く名乗り、そのまま黙り込んだ。
そのことに疑問も持たず、紗耶香がリカードを観察していると、不意に左頬に衝撃を感じた。
結構痛かったはずだが、紗耶香の口から苦鳴は漏れなかった。ただ、少しバランスを崩しただけである。
そんな紗耶香の様子を見たリカードは、片眉を歪めると紗耶香に命じた。
『……名乗れ』
『紗耶香、です』
それでやっと何を求められていたのか理解した紗耶香が名乗ると、今度は反対側の頬に衝撃が走った。
『もっと早く反応しろ』
『……はい』
もう一度頬に衝撃。今のでも遅かったらしい。
痛みに対する反応がない紗耶香の様子に、リカードは再び片眉をしかめた。
『ちょっと壊れすぎてるか? 多少は壊れてた方が仕込みやすいのは確かだが……』
リカードはしばしブツブツと独り言を並べた後で、改めて紗耶香に声をかけた。
『おまえ、死ぬのは怖いか?』
『……はい』
紗耶香は即答したつもりだったが、リカードは僅かな間が気になったらしい。微かに溜息を吐くと、
『まあ、なんとかなる、か』
紗耶香にも聞こえない声でそう言って、改めて紗耶香に言った。
『今日からおまえにちょっとしたスキルを仕込んでやる。サイラスを殺った手際を見込んで、な。無事にスキルを身につけて役に立てば、1つくらい望みを叶えてやる』
そのリカードの言葉に、紗耶香は心が微かに動いたのを感じた。それが顔にも出たのだろう。
リカードは口の端を僅かに持ち上げて笑うと、
『しっかりとついてこい』
そう言って、訓練を開始したのだった。
リカードによる訓練は、まずは体力作りから始まった。
一周1kmはある区画を何周も何周も走らせられる。ペースが極端に落ちたりすると、頬を叩かれるのだが……これは紗耶香にはあまり効果がなかった。が、夜になるとヒュームの夜伽がある紗耶香にあまり傷を付けるわけにもいかないのか、あるいは多少なりとも効果はあるからか、リカードが他の方法をとることはなかった。
それが終わると、超高層建築を10階まで階段で上ってまた降りての繰り返しだった。
その後も腕立て伏せのような基本的な運動を繰り返してひたすらに基礎体力を付ける。
リカードは他にもやることがあるのかしょっちゅう顔を見せないことがあったが、そんな時は誰かしら代わりの者が紗耶香を見張っていた。
そんな日々が半月も続くと、碌な運動もしていない一般人に過ぎなかった紗耶香も、それなりの体力がついていた。ただ、見た感じあまり筋肉が増えたような様子もなく、それを確認したリカードが、
『やはり仮想現実ということか。それにしてはトレーニングの効果があるのは何故だ……?』
と頭をひねっていたが、紗耶香にはどうでも良いことだった。
大事なのは、如何にリカードの暴力を避けるかだった。
この頃には夜にヒュームの相手をする回数も減っていて、その代わりにリカードの手加減がなくなってきていた。最初の頃であれば頬を叩かれるだけで済んでいたのが、腹を蹴られる、倒れたところを頭を踏まれるというのも珍しくなくなっていた。
一方で、今の状況にそれなりに慣れてきたためか、多少は精神状態が正常に戻ってきていた。そのせいで、当初は何も感じなかった暴力や理不尽を少しでも避けられるなら避けたいと思うようになってきていたのだった。
一方で紗耶香にそれなりの体力がついたことを確認したリカードは、順番にナイフ、銃、その他諸々の武器の扱いを叩き込んでいった。気配の消し方た素手での格闘術まで叩き込まれた紗耶香がちょっとした軍人並みの戦闘技術を身につけるまで半年もかからなかった。
そんな現実世界では考えることすらできなかった日々のある日、昨日まで仕事でどこかに行っていたリカードは帰って来るなり紗耶香をいつもの訓練場代わりの通りに呼び出していた。
『今日は簡単な訓練だ』
そう言ったリカードの後ろには目隠しをされ、後ろ手に縛られた数人の男女が転がされていた。猿ぐつわを噛ませられた口からうなり声が漏れてくるということは、生きているのだろう。
その時点で、既に紗耶香には嫌な予感しかしなかった。
(あれって……そういうことだよね……?)
そんな紗耶香の考えを肯定するように、リカードはすぐ終わる説明を続けた。
『こいつらは敵だ。生かしておいても意味がない。こいつらを……』
その次の言葉は妙に大きく紗耶香の耳に響いた。
『殺せ』
そのリカードの言葉が分かったのか、地面に転がされていた男女達が一斉に暴れ始めた。中には泣き出している者までいたが、リカードがそれを気にかける様子はまったくなかった。紗耶香も予想はできていたが、彼らの様子に注意を払うどころではなかった。
サイラスを殺した時の記憶はしっかりと残っている。今思い返しても気分が悪くこともない。それだけだけに、今更自分の手が綺麗だと主張する気は紗耶香にはさらさらなかった。
それでも恨みもない、無抵抗な相手を殺すのは別だった。
そんなことを考えた次の瞬間、右頬に灼熱が走った。
『使えなければ、おまえも同じ運命になるぞ』
そう言いながら再び拳を握り固めているリカードの様子に、紗耶香は反射的に『はい』と答えていた。
『まずはナイフだ』
リカードの指示通りにナイフを取り出すと、指し示された男の元へ向かった。
その様子を見ていた男が涙を流しながら、うーうーと唸るのが紗耶香の足を鈍らせ、
『止まるな』
リカードの言葉に再び足を動かした。
『馬乗りになって動きを封じろ。頭は左手で押さえつけろ』
この後の事が容易く予想できるだけに、激しく暴れ始めた男だったが、まともに身動きがとれないほどに縛られていたために、簡単に紗耶香に動きを封じられた。
それで紗耶香が震えていることに気づき、僅かな望みを込めて紗耶香を見てきたが、
『首を斬れ。目は閉じても構わん』
リカードの命令に改めて暴れ始めた。その必死さに、押さえつけたところから伝わる体温に躊躇していた紗耶香の耳にリカードの言葉が聞こえた。
『やはり手本が必要か?』
その直後、サクッという音がした。
それだけで何が起きたか理解できた。だが、そちらを見ないという選択肢は紗耶香には与えられなかった。
『見ろ』
ただ、その一言に逆らうこともできず、音がした方へと紗耶香が視線を向けると首から血を流しつつ、今まさに絶命しつつある男の姿があった。
『初めてじゃないんだ。簡単なことだろう?』
その冷え切ったリカードの視線に、紗耶香は頷かざるを得なかった。そうしないとリカードのナイフが自分を切り裂きそうな気がしたのだ。
サイラスにいた頃やここに来た直後なら兎に角、今となってはここで死ぬのは嫌だった。
だから、紗耶香は目を閉じてナイフをすっと動かした。直後、男の首から吹き出した生暖かい液体が紗耶香の手を濡らす。
だが、紗耶香が怯えていた程のことは起こらなかった。
(ああ、これだけのことなんだ……)
紗耶香が感じたのは男の首から吹き出た血の生暖かさと、男の身体から急速に力が抜けたことだけだった。
目を開けて飛び込んできた恨めしそうな男の眼差しなど、大したことではなかった。
そして、一度そのことを知ってしまえば、後は躊躇などなかった。
リカードの指示のままに、ある男はナイフで、別の女は銃で、心臓を貫き、額を打ち抜き、あるいは首の骨を折って殺した。
その様子を見ていたリカードが満足げに笑っていたのだけが、紗耶香の記憶に残った。
紗耶香が最初の仕事に駆り出されたのは、訓練を始めてから半年後のことだった。
『ちょっとその身体で引っかけて、ベッドの上でやるだけだ』
そう言われたときは、とうとうその時が来たとしか、紗耶香は思わなかった。
2ヶ月程前からヒュームの相手をする回数が露骨に減り、代わりにリカードや他の男達の相手をさせられるようになっていた。その際に、如何に男を悦ばせ警戒を解かせるか。同時に自らは快楽に堕とされることなく相手の命を奪えるか。そんな訓練を強制されていたからだ。時には、リカード達が捕まえてきた男達を相手に実践すらさせられた。
そのせいか、少し元に戻りつつあった紗耶香の心は再び壊れ始めていた。
だから、
「あの……食べ物を少し、分けて貰えませんか?」
リカードに指示された場所で、敢えてボロボロの格好で地面に座り込んだまま待ち構え、
「日本人、ですよね? 大丈夫ですか?」
予定通りの時間にそこを通りかかった青年に声をかけ、
「大丈夫、です。でも、もう三日も何も食べていなくて……」
同情を引いて、その懐に潜り込む。
そんなことも簡単にできた。
その晩、
「な、なにを……」
「お礼……です」
その青年の部屋に夜這いをかけ、
「き、君は……」
一通り楽しませた後に、用意していたナイフで彼の頸動脈を掻ききっても、何も感じなかった。
いや、平和そうなその顔が苦しみに歪んだのを見た瞬間、心のどこかが満足するのを感じてしまった。
「私、変なのかな?」
あっさりと力を失い、後は冷えていくだけとなった青年の身体を見下ろしながら、紗耶香はぽつりと呟いた。
ただ、待ってみても答えが得られるわけではない。
夜は長いとはいえ、そのうち誰かが紗耶香の不在に気がついて、青年に報告に来るだろう。その前にやるべき事を片付ける必要があった。
青年の血を拭い取り、いろいろと見えるように敢えて着崩した形で服を身に纏うと、そのまま青年をリーダーとする一団が根城にしていた超高層建築の出口へと向かう。
途中ですれ違った男達は、紗耶香の無防備な姿に鼻の下を伸ばしてしまい、紗耶香のことを疑うことをしなかった。
それが彼らの失敗で。
「あ、おい、待て!?」
中から施錠されていた出入り口を開け放とうとした紗耶香を誰かが止めようとした時には既に手遅れだった。
「何をしてる!」
流石にメトロポリスで今まで生き残ってきた集団だけあって、青年が率いていた一団は、夜中でも見張りを立てることは忘れていなかった。だが、それだけでは不十分だった。それだけだ。
見張りは、出入り口を開け放った紗耶香を捕らえることよりも、早く閉め直すことを優先すべきだったのに、そうしなかった。あまつさえ、紗耶香を捕まえようと外に出てしまった。
だから、一発の銃声と共に見張りの男性が地面に崩れ落ちたのは当然で。
その後、リカード率いる一団によって、青年が率いていた日本人の集団が皆殺しにされたのも自然な流れなのだった。
『思ったより簡単にいったな』
抵抗する男達を鼻歌交じりに射殺していくリカード。その言葉に、後に続く紗耶香も頷いた。
ふと振り返ったリカードは、その紗耶香の表情に何を思ったのか、手に持っていた銃を渡した。
『これは?』
リカードの意図を図りかねた紗耶香がそう訊ねると、リカードは奥の方を顎で指し、
『殺りたいんだろう?』
そう許可を出した。
それは違うと紗耶香は言いたかったが、今それを言えばきっと殴られる。
だから、通路の奥からこちらを覗いていた顔を平然と撃ち抜いた。
その様子を満足げに見ていたリカードは、紗耶香から銃を回収すると、そのまま奥へと歩いて行ったのだった。
それから、時々紗耶香はリカードの仕事を手伝うようになっていた。
この頃には流石に、ヒュームがローエングリスの重役であることも知っていた。ただ、仮想現実とは言えこんなことをして大丈夫なのかとか、どうするつもりなのかとかは一切訊こうとは思わなかった。
訊けば、今までにない程酷い目に遭わされる。そう確信できたからだ。
ただ、どうしてこんなことをするのか。その理由の一端は理解していた。
ローエングリスが居座っている街区。そこにはそれなりの数の住人がいた。だが、生産能力は皆無なのだ。
彼らを見捨てるのは容易い。だが、今ここで彼らを見捨ててしまうと、全てが解決した後に現実世界でローエングリスの評判ががた落ちになるのは確実だった。
だから、彼らを養うために、ローエングリスとしてあらゆる手段を講じねばならなかった。
その中には現実世界では即死刑が決まるような犯罪も含まれていて、そんな時は、ローエングリスの仕業であることが知られないように、注意が払われていた。
例えば、リカード達の顔を知っている人間がいるような所は襲わないし、生き残りは一人も出さない。
そうすれば、今のメトロポリスでローエングリスの悪行が広まることはないし、仮に死んだ人間達が現実世界に戻ったとしても、人種と顔だけで、どこの誰か調べる方法などないのだ。
だが、紗耶香はある頃からその考えに疑問を抱くようになっていた。何というか、現実世界に戻ったときのことを考えていないように思えるのだ。
尤も、紗耶香はすぐにそのことを考えるのを止めた。
正直、どうでも良かったのだ。
ローエングリスが破滅しようが、ローエングリスに虐げられる連中が増えようが。
はっきり言って、この世界は嫌なことばっかりだ。
そんな中、人を殺す瞬間だけは違った。より正確に言うならば、そこそこでも平和に生きている、それも黒髪の人間を殺す瞬間だった。
元々苦しんでるような人間を殺しても、何も感じなかった。
どこか平和で、明日にでも自分が死ぬかも知れないとは全く想像もしていないような人間に銃をあるいはナイフを突きつけ、今から死ぬのだと見せつけて殺すのが一番良かった。
ただ、時々優司の顔が脳裏を過ぎっては、紗耶香を苦しめたが。
やがて、メトロポリスの中での略奪だけでは食料が足りなくなり始めると、ローエングリスは、ヒュームはメトロポリスの外にも目を向けた。
ただ、メトロポリスの近くの街での略奪は考えなかったらしい。なんでも、ある程度近い町や村なら、ちゃんと農作業をやらせて、できた作物を回収するようにした方が効率が良いかららしい。
紗耶香がメトロポリスの外に出るように言われた時には、既に近隣の町や村への対応は決まってから随分と経っていて、下手するとメトロポリスよりも活気がある町や村の様子に、心の中で黒いモノが蠢くのを紗耶香は感じていた。
『思った以上の仕上がりだな』
初めてメトロポリスの外に出る前の晩、久しぶりに紗耶香を呼びつけたヒュームは紗耶香の眼を覗き込んでそう言った。
『それなら良かったです』
ヒュームに抱かれながら、紗耶香はもう何も考えずにそう答えたのだった。
紗耶香が最初に彼らのことを耳にしたのは、メトロポリスから遠く離れた地でのことだった。
『略奪の邪魔をしてる冒険者達がいるらしい』
紗耶香の心をざわつかせたそれはちょっとした噂程度で、噂をしていた略奪部隊の下っ端達を問い詰めても、詳しいことは何も分からなかった。
ただ、半月と経たずにクラフランジェで彼らの話を再び聞くことになった時には、流石に耳を疑った。
「銃で撃たれても怪我1つしなかった?」
思わず日本語で呟いてしまう程に。
だが、その話を紗耶香にしたロバーシュのその時の表情は真剣だった。
『ああ、残念ながらマジだぜ。俺が引き金を引いたんだからな。それに、あんたも冒険者って連中の規格外っぷりはきいてんだろ?』
日本語は分からないまでも、紗耶香が何を言ったのかは何となく察したらしいロバーシュの言葉に、紗耶香は頷かざるを得なかった。
紗耶香が今回、メトロポリスから出る少し前に、ローエングリスも冒険者を確保したという話は紗耶香も聞いていた。その能力もである。
紗耶香が日本人に憎悪を抱いているらしいと察しているのか、リカードが会わせようとはしなかったが、それでもその能力の一端は耳にしていた。
なんでも、常人の倍以上の力で暴れ回るとかなんとか。
以前、優司からジ・アナザーの冒険仲間に片手で50kgもあるような武器を振り回すのがいると聞いたことがあるからすんなり信じることができたが。
それならば、銃が効かないというのもその延長上にあるのかも知れないと紗耶香は自らを納得させた。
尤も、その納得は続くロバーシュからの報告であっさり吹き飛んだ。
『そういや連中、年端もいかない子供を連れてたな。どう思う?』
銃で撃たれても平気だったという話以上に、それは理解に時間を要した。
『ここ、仮想現実だったと思うのだけど?』
『そうだな』
『メトロポリスには子供なんていないわよね?』
『見たことねぇな』
それで、自分の耳とロバーシュの正気を確認した紗耶香は、改めてロバーシュに訊ねた。
『子供がいたの?』
『ちらっとしか見てねぇけどな。多分そうだぜ』
『何歳くらいか分かる?』
『上で3~4歳ってとこだろうよ。あのサイズでそれより上ってことはないはずだ』
どうやら本当にロバーシュは子供を見たらしい。
もう何年も小さい子供など見ていない紗耶香は、子供を想像しようとして、すぐに断念した。
全く想像できなかったのだ。昔はあれほど、優司との子供を願っていたのに。
そこまで考えが及びかけて、紗耶香は軽く唇を噛んで思考を切り替えた。
『上に報告することが増えたわね』
おそらく、報告すべき事を全て報告すれば、ヒュームは今回の冒険者に強い関心を示すだろう。……いや、あるいはそうではないかも知れない。
何しろ、冒険者の中身はほとんどが日本人なのだ。白人至上主義に染まりきったヒュームのことだ。歪んだ思考回路で予想もできない結論を出す可能性は十分あった。
だが、それは紗耶香には関係のないことだった。
紗耶香がメトロポリスから出されるときは、情報収集が目的だった。多少、各地の略奪部隊の手伝いをすることもあるが、生きて情報を持って帰るように命じられていたからだ。
そんな紗耶香が持って帰るべき冒険者に関する情報は、すぐに増えた。
曰く、魔法でこっちの部隊を焼き払った。
曰く、剣を投げつけて、十数人をまとめて殺した。
などなどである。
正直、微妙に人間業には思えなかったが、ここがジ・アナザーの中であることを考えれば、あり得るのだと自分を納得させたのだった。
メトロポリスに戻ってきた紗耶香は、空気が変わっているのを何となく察していた。空気がと言うよりは、ヒュームが自分に向ける関心が、と言うべきだろうか。
元々あまり関心を向けられても嬉しくなどなかったが、関心が全くなくなった場合、どうなるかは何となく分かっていた。
だが、紗耶香が特にそのことを気にすることはなかった。
もう、殺すのも飽きていた。
確かに死ぬのはイヤ、なのだろうが、別に死んでしまってもいいんじゃないかと思ってる自分がいたのだ。
そんな中、ヒュームから直接命令されたのが、とうとうメトロポリスまでやってきた例の冒険者達の監視だった。
その冒険者達の外見は確かに日本人とはかけ離れている。というか、現実世界ではあり得ない類の美形ばかりで、レックと呼ばれていた唯一黒髪黒目の青年ですら、日本人には見えなかった。だからこそ、その中身が日本人であるはずだということを――マージンと呼ばれている青い服装の冒険者だけは中身が日本人ではないらしいが――紗耶香は強く意識していた。
久しぶりに憎悪が燃え上がり、しかしそれは以前程大きくなることはなかった。
彼らが仲間と引き離されていたからだろうか。
あるいは別の理由かも知れない。
ただ、命令のまま彼らを監視し続け、彼らがワッツハイムに逃げた後も監視し続けた。
そして、彼らを殺す命令を受けた時に感じた終わりの予感は、確かに紗耶香の命を奪った。
リカードが放ったレーザーが紗耶香を貫いた瞬間に紗耶香が思ったのは、
(やっと、やっぱり、こうなった……)
ただ、それだけだった。
右肺を貫く激痛がまともな思考を阻害する。
それでも、懐かしい声だけは聞こえた。
聞き間違いようのない、愛しいあの声が紗耶香の名前を呼ぶ。
出血のせいか、意識は既に朦朧とし始め、いつの間にか閉じてしまっていたまぶたを開けるのも苦労した。
それでも、辛うじて開けた視界の中に、金色が映った。
それは優司ではあり得ない色。
でも、それはきっと早々に紗耶香が忘れようとしてしまったあの人で。
だから、紗耶香は最後に言い残したのだ。
「優くん、ごめんね」
と。
そんな紗耶香が辿ってきた最後を優司――クライスト達は知る由もなかった。
だから、クライストが仲間達に語ったのは優司と紗耶香の出会いといつまでも続くと思っていた日常だった。紗耶香への想いだった。
しかし、それは二度と戻ってこないことが確実で。
全てを語り終えたクライストは、それまでの疲れが祟ったのか、そのまま意識を失うように寝入ってしまった。
「マージン、どう思う?」
「やばいやろ。ほっとけへんで、これ」
レックにクライストをベッドにまで運ばせながら、ディアナとマージンがぼそぼそと話し合っていた。
「えっと、何がやばいんですか?」
「クライストの目やな。あれ、絶対何かやらかすで?」
アカリはそんなマージンに答えに、絶句しつつもどこか納得していた。
「どう考えても、紗耶香さん、誰かに殺されたんだもんね」
クライストをベッドに寝かせたレックが、歯を食いしばるようにそう言った。
「あたしは気づかなかったけど……つまり、復讐ってこと……?」
リリーの言葉に、ディアナとマージンが頷いた。
「ふくしゅー?」
「エイジは……まだ知らなくて……いいんですよ」
重たい空気を読んでか、今まで大人しくしていたエイジの疑問に、ミネアがそう答えた。
「……この話はまた今度やな? 今はクライストを寝かせといたろうや」
確かにエイジの教育に良くなさそうだと気づいたマージンが、そう言ったことで、とりあえずこの場はお開きということになった。
そして、全員が順番に部屋を出て行き、最後に扉を閉めたマージンが、その直前、部屋の中で眠るクライストに何か声をかけ。
その言葉はクライストにすら聞き取られることなく、部屋の空気に消えた。




