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ジ・アナザー  作者: sularis
第十七章 メトロポリスの空
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第十七章 第十話 ~紗耶香1~

「俺の恋人なんだ」

 クライストに見守られながら息を引き取った紗耶香の亡骸を、まだ慌ただしいガバメントの一室に運び込んでから一時間以上が過ぎていた。

 そんな時に、紗耶香の遺体が眠る隣の部屋に仲間を集めたクライストは、重苦しい空気の中、切り出した言葉がそれだった。

 その言葉に仲間達は何かを言うこともできず、しかしクライストも何か言葉を求めていたわけではなかった。



 少なくない人数のプレイヤーの姿がフッと消えた直後、それは現れた。

『我が魂の牢獄に囚われし儚き者どもよ……』

 そんな音声と共に、メトロポリスのあらゆるディスプレイが平面、立体問わずに見るだけでも怖気が走るほどに禍々しい何者かの姿を映し出した。

 魔王と名乗る何者かは淡々と言葉を綴ると、不意にその姿を消していた。

「何だ? なんかのイベントか?」

「いや、メトロポリスだぞ、ここ」

 知らず知らずのうちに止めていたらしい息をほうっと吐いた紗耶香の耳に、そんな呑気な会話が聞こえてきた。

 その姿を見る限り、プライベートアバターで遊んでいるプレイヤーなのだろう。メトロポリスは現実世界の延長として整備されてはいるが、ジ・アナザーをゲームとして楽しんでいるプレイヤーが入ってくることは禁じられてはいなかった。

 尤も、紗耶香の周囲でなされていた会話の大半は、もっと苛立ちに満ちたものだった。

「何なんだよ。折角良いとこだったのに……」

「イベントなら、外でやってくれよな……」

「接続不良なのか?」

「あれ? りょっち? どこ?」

 その中に聞き逃せない言葉が聞こえたような気がして、紗耶香は友達を待っていた広場の様子を見回してみた。

「……目の錯覚じゃ、なかった?」

 直後にあらゆるディスプレイが乗っ取られた事で忘れかけていたが、確かに広場にいた人数が少し減っていた。例えば、離れたところにある噴水の側でいちゃついていたカップルの男の姿が見えなくなっていた。

 尤も、すぐにそのこともどうでも良くなってしまう事態が発覚する。

「あれ? マップが見れない……」

 最初はそんな声から始まった。

 その声にすぐに反応したものはほとんどいなかったが、徐々に同じようにマップが見れないという者が増えてきたことで、全員が状況の異常さを認識し始めていた。

「……ねぇ、音楽がなってなくない?」

 それに気づいたのは、色鮮やかに光っていたイルミネーションの側に屯していた女子高生の集団だった。

「ホントだ……」

「ねぇ、どうなってんの?」

 彼女たちが騒ぐのを耳にして、紗耶香もそれに気がついた。

 いつもなら、騒がしいとは言わないまでも、周辺の店舗や街角スピーカーが流しているBGMでもうちょっと賑やかなはずなのだが、それがなくなっていた。

 それどころか、先ほどまで魔王を名乗る何かを映していたディスプレイが全て消えていた。

「ちょっとこれ……何が起きてるの?」

 誰かがそう言った。

「運営に連絡……あれ?」

「どうした?」

 仮想現実(こちら)での仕事帰りにちょっと遊ぶつもりだったのか、スーツ姿の男が個人端末を手に首を傾げていて、友人らしきもう一人の男に自分の個人端末を見せていた。

「たしか、ここだよな? GMコール」

「そのはずだけど……あれ? 俺のもないぞ。故障か?」

 そんな会話を聞きつけた周囲の人間達も慌てて個人端末を確認し、そして誰かがそのことに気がついた。

「どうなってんだ!? ログアウトがない!」

 その叫び声に、今まで個人端末を取り出していなかった者も含め、その場にいた全ての人間が個人端末を操作し始め、

「どういうことだよ!?」

「この後、現実世界(リアル)で友達と食事の約束してるんだけど!?」

「メールも使えないぞ!? どうなってるんだ!」

 見慣れたログアウトメニューがなくなっていることに気づき、ついでに現実世界(リアル)との連絡手段も絶たれていることが分かって、一斉に騒ぎ始めた。

 勿論、全員が騒いでいたわけではない。だが、騒いでいなかった者達は冷静だったのではなく、

(何、これ? 何が起きたの?)

 紗耶香のように、呆然としていただけだった。

 誰もが冷静さを失って騒ぐか、呆然としていただけの時間はどれほどだっただろうか。

「イデア社、どこか知らないか!?」

 そう叫んだのは、最初にGMコールをしようとしていたスーツ姿の男だった。

「そうか! 直接行けば……!」

「マップは……くそっ! 見れなくなってたんだった!

 スーツ姿の男の声を皮切りに、闇雲に騒ぐだけだった者達の行動に方向性ができた。

 その場にいた全員がイデア社に行こうと考えたわけではなかったが、彼らが行動を開始したことで、闇雲に騒ぐか呆然とするかだけだった他の者達も、少しは落ち着きを取り戻していた。

 紗耶香もまた少しばかりの落ち着きを取り戻し、待ち合わせをしている友人を待ってみることにしたのだった。

 が、いつまで待っても友人が来る気配はなかった。メッセージ機能も死んでいるらしく、連絡も取れない。

 だが、紗耶香はそれほど長く友人を待たずとも済んだ。正確には友人が現れない理由が分かったと言うべきか。

「乗り物、全部止まってるらしいよ」

「えー、帰れないじゃん」

 ステーションの方からやってきた二人組の若い女性達が、そんなことを話していたからだ。

 乗り物が止まったのであれば、離れたところにいたはずの友人が現れないのも無理はない。歩いてここまで来るにはちょっと距離がありすぎた。

 尤も、止まったのは乗り物だけではないこともすぐに知れた。

「まー、ステーションも電気、全部消えてたもんね。故障かな?」

「真っ暗だったもんね! 折角だから、写真撮っといたんだ」

「あ、私も撮っとけば良かった。今からでも間に合うかな?」

「行ってみよ。駄目だったら後であげるし」

 呑気なことを話しながら、ステーションへと戻っていく女性達を見送り、紗耶香はこの後、自分がどうすべきか考え、一度部屋に戻ることにした。

(ミッチがきたら……後で謝れば良いよね)

 見れば、広場はいつの間にか閑散としていた。まだいくつかのグループが残って何事か話をしていたが、さっきまでの人数の2割も残っていなかった。

「部屋に戻る前に直ってくれたら嬉しいんだけどなー」

 そんな台詞が出たのも、まだ紗耶香もどこか状況を楽観的に捉えていたからだろう。

「っ!?」

 直後、広場に用意されていた明かりが一斉に消えてしまった。

「今度は何なんだ!?」

 広場に残っていた者達が、また一斉に騒ぎ出した。

 だが、それもすぐに静かになった。正確には、すぐにひそひそ声に変わっただけと言うべきか。

 無理もない。ただでさえ不安なところに、明かりまで消えたのだ。

 これ以上広場にいる勇気がなくなってきた紗耶香は、さっさと部屋に戻ることにした。

 明かりが悉く消えた通りを心細さを押し殺しながら、部屋がある超高層建築まで戻ってきたところで、もう一苦労待っていた。入り口が開かなかったのだ。

「もう! こんな時に限って!」

 紗耶香はぼやいたが、中には入れないとちゃんと休むこともできない。

 苛立ちかけた気持ちを落ち着けて入り口をよく観察した紗耶香は、すぐにそれに気がついた。

「何でこんなの付いてるのかなって思ってたけど……」

 そう言いながら、扉に付いていた取っ手に手をかけたところで、紗耶香の脳裏をある考えが過ぎった。

 その意味を考えたくなかった紗耶香は軽く頭を振ると、一気に扉を開け、中へと入った。入った後は扉を閉め直すことも忘れない。

 そして、明かりが消えて真っ暗になったエレベーターホールまで辿り着いた紗耶香は、再び愚痴を垂れることになった。

「最悪。エレベーターも止まってるんだ……」

 これで部屋が100階にあるとかなると本当に最悪だったが、幸いなことに紗耶香の部屋は8階だった。

「やっと帰って来れたぁ~」

 例え明かりが付かなくても、やはり自分の部屋というのはそれだけでホッとする。特に、今のように訳が分からない状況だと特にだった。

 そして、一息付けたことで、紗耶香は恋人のことを思いだした。

「優司、どうしてるかな?」

 確か、今日はキングダムで蒼い月の仲間達と遊ぶと言っていた。あっちでも同じ事が起きているとは思いたくないが、同じ仮想現実世界の話である。優司も同じ状況に陥っていたとしてもおかしくはなかった。

 ベッドの上で枕を抱えたまま、しばらく悶々としていた紗耶香だったが、このままこうしていても仕方がない。まずはテレビを付けようとして、

「やっぱり駄目か~」

 どうやら、電気を使う機器は全て全滅らしい。ラジオは動いたのだが、ノイズしか入らなかった。

 ただ、収穫もあった。どうやら、電池のやつはまだ動くらしい。実際、部屋に備え付けられていた懐中電灯はちゃんと点いた。尤も、電池が切れた後はどうなるかは……

「電池、あったかな?」

 階段には明かり取りの窓があったためここまで上って来れたが、この建物の通路とかは真っ暗だった。外の通りだって明かりが消えた今、昼間のはずのさっきですら薄暗かった。

 そんな中、懐中電灯があるのとないのとでは、随分と違う。ちなみに通路で試してみたのだが、個人端末の画面は周囲の明るさにあわせて光量が変わるので、光源としてはまともに使えなかった。

 そんなわけで換えの電池を探してみたのだが、1つも見つからなかった。

「買いに行かなきゃ、だよね」

 ついでにどこか、友達の部屋にでも駆け込めれば良いが、生憎と部屋を知っている友達はほとんどいなかった。

 これはジ・アナザー(こつち)で各個人に割り当てられた部屋は大抵単なる寝床……というか、ログアウトスペースに使うことが多いからだった。結果として、例え仲の良い友人同士だったとしても、互いの部屋に行ったことがないというのは珍しくもないのだった。正確には、そこまで仲が良いなら現実世界(リアル)の家に遊びに行くのが普通と言うべきか。

 そんなわけで、紗耶香も友人の部屋などほとんど知らないし、部屋を知っている数少ない友人の部屋も、乗り物が動いてくれないことにはちょっと遠かった。

 溜息を吐きつつ、電池だけでも買いに行こうとベッドから降りたところで、きゅう、とお腹が鳴った。

 何故仮想現実でお腹が空く仕様になっているのか紗耶香は知らない。それでもお腹が空くと動くのも億劫になるし、気持ちも落ち込みやすい。

 どうやら、食べ物も買ってきておいた方が良さそうだと、紗耶香は戻ってきたばかりの部屋から外に出たのだった。



 あれから数日が経っていた。

 結論から言うと、状況は何も変わっていなかった。あるいは少しだけ悪化したかも知れない。

 イデア社に文句を付けに行った連中がどうなったかは分からない。そもそも、会うことすらできなかったんじゃないかと紗耶香は思っていた。

 個人端末のメニューにはGMコールもログアウトも復活していないし、街角のディスプレイも街灯も交通機関も動かないままだった。勿論、建物の入り口は手で開け閉めしないといけないし、建物の中は真っ暗なままだった。

 それだけならまだ良かったかも知れないと紗耶香は思う。

 一日部屋に閉じこもっていると気が滅入るので、時々部屋を出て周りの様子を見て回っているのだが、まず、お店の棚からめぼしい商品が全て姿を消した。真っ先になくなったのが水と食料で、それから衣類やらの雑貨である。そして、なくなったまま補充される様子もなかった。

 何かを期待してお店にやってきた人たちが肩を落として帰って行く様を、紗耶香は少し離れたところから何度も見ていた。

 あの日、思いついて電池とか食料の他にも、いろいろ買えるだけ買っておいたから良かったが、それでもこのままでは良くないと紗耶香にも分かっていた。常温でも保存が出来そうな物を多めに買ってきてはあるが、全部食べてしまえば後は飢えるだけだ。一週間くらいは余裕で持つはずなのが救いだった。

 あの広場にも良く顔を出した。情報を求めてというより、人恋しさからだった。

 紗耶香が住んでいる部屋の周りにも住人はいたはずなのだが、全く姿を見かけない。広場で知り合った人たちから聞いたのだが、やはりあの時、そこそこの人数が消えた――おそらくは強制ログアウトさせられたらしい。おまけにあの後から誰一人として新しくログインしてきていないとか。ご近所がいないのは、つまりはそういうことなのだろう。

「これだけの事件だ。警察ももう動いていて、すぐに全員ログアウトできるさ」

 そう言ったのは広場で知り合ったうちの一人、紗耶香より少し年上の男性、鈴原だった。

 その言葉に、周りの人たちもうんうんと頷く。

 実際、決して少なくない――鈴原曰く、万単位の人間がログアウトできなくなっているのだ。さらにはログインもできなくなっているとなると、現実世界における影響は計り知れない。

 そうなるとイデア社も本気を出して問題の解決に当たっているだろうし、イデア社以外の例えば、各国の政府機関なども動いているのは間違いなかった。

 そう考えると、確かに数日中には――ジ・アナザーでは倍の速さで時間が流れているが――救出されるはずだった。

 それまでは、多少お腹が空くくらいなら我慢して待っていればいい。そう考えるのも不自然なことではなかった。

 ただ、大半の仕事も娯楽も電子機器に頼っていたため、やることがない。はっきり言って、皆が皆、暇を持て余していた。

 となると、広場に集まった者達がすることなど限られていた。

 そもそも身体を動かすスポーツの類は、お腹が空いている現状では論外なので……まあ、情報交換という名の噂話大会である。

「だからさ、これって実験だと思うんだよ。極限状態に置かれた人間がどうなるかってね」

 そう話すのは自他共に認めるオタクの金川だった。ちなみに、外見はそれっぽくないが、ライトなオタクなら珍しいことでもないので誰も驚かなかった。

 それでもこんな非日常的な体験にはいろいろと刺激されるらしく、妄想全開である。

「きっと政府とかからお金も貰ってさ、やってるんだよ。じゃないと一企業がここまでのことできないって」

 そんな金川の言い分にも一理あるのだが、勿論、いろいろな意味で誰もが納得していなかった。

 金川の妄想が事実だとすれば、イデア社やら政府やらに対して言いたいことが沢山あるし、事実でないなら同じ事を繰り返す金川に一言もの申したい。

 ただ、それでも誰も止めようとしないのは、全員が黙りこくるよりかはマシだからだった。それに、金川は割と空気が読めるというか、人のことをよく見ていて、誰かがしゃべりたそうにしていれば妄想の話はピタッと止めるのだ。なら、少々ウザいBGMだと思うのもアリだろうというわけだった。

 尤も、大半のネタなど疾うに出尽くしていた。だからこそ金川の独壇場となっているわけだが。

 ただ、そろそろ自分でも飽きてきていたのか、いつも通りの妄想を一通り垂れ流した後、金川は新しいネタを持ち出した。

「あるいは、イデア社が何か新技術を開発したのかも知れない」

「新技術って?」

 そう訊いたのは鈴原だった。金川としては別の誰か、若い女性の気でも引きたかったのか、微かに肩を落としたように紗耶香には見えたが、それでも話さないというつもりはなかったらしい。

「例えば、時間の加速倍率のさらなる上昇とか、どう?」

「それなら、予め告知があるだろう?」

「実験用サーバーで実験するつもりが、間違えて本サーバーに適用しちゃったとか」

「まずあり得ないとは思うぞ」

 鈴原がそう言うと、金川自身も同じ事を思っていたらしく「だよねぇ」と頷き、

「本当にそうだったら、ちょっと大変だし、あんまり考えたくはないんだよね」

 そう付け加えた。

「大変って、何が?」

 そこで反応したのがこの春からの新社会人、桐山だった。ちなみに、金川のテンションが目に見えて上がったので分かるように、若い女性である。

「倍率が3倍くらいならいいけど、100倍とかになってると、現実世界(あつち)で問題を半日で解決できても、こっちでは50日も待たされるってこと」

 金川のテンションに引きかけた桐山だったが、その説明を聞いて引くよりも先にげんなりしていた。

 金川自身もそうなることは分かっていたのか、すぐにフォローに入った。

「まあ、多分ないと思うよ。本当にそうなら、研究段階でニュースになってると思うし」

 イデア社が注目されていなかった昔ならいざ知らず、今ならその手の動きがあればどこかのマスコミがドヤ顔で一面トップに飾るだろうと金川は言った。

 そしてこの話は終わるかと紗耶香が思ったとき、意外なことに鈴原が続きを促した。

「ちなみに、他にはどんな可能性があると思う?」

「うーん、SFネタだと異世界譚かな。単なる仮想現実だと思っていたこの世界が実は異世界だったってオチ」

 金川はそう言いつつも、自分でも信じていないのだろう。苦笑しながら、

「イデア社のサーバーがクラッキングされたとかウイルスにやられたって方がまだ信憑性あるけどね」

 そう付け加えたのだった。


 そんな風に広場に集まっては、どうでもいい話で時間を潰す。そんな日がいつまでも続くわけもない。


「レイプ事件が起きているらしい」

 いつものように広場で話をしていると、現れた鈴原がそう言った。

 それを聞いて女性陣が一斉に顔を顰めた。勿論、紗耶香もである。

「詳しく聞かせて」

 紗耶香がそう言うと、当然だと鈴原は頷き、説明を始めた。

 それによると、ここ数日、人通りの少ない道を歩いていた女性が襲われているらしい。らしいというのは、鈴原自身が確認したわけではないからだった。

 犯人は若い男で、ナイフで脅しつけてというありがちなパターンらしい。

「ログアウトした後、どうなるか分かってるのかしら」

 説明を一通り聞いた後にそう言ったのは、桐山の友人の女性、三原だった。

「分かってたら、そんなことしないだろう」

「それはそうだけど……捕まったの?」

「こんな状況だ。捕まえようという声はあるらしいが、実際に動いているかは怪しいな」

 鈴原の言葉に、尤もだと紗耶香は思った。

 自分のことだけで精一杯、とまではいかなくても、今の状況は余計なことをする余裕を奪い去っている。ただ、そうなると気になることがあった。

「……それって、近くの話?」

「少し離れてはいるが……遠くはないな」

 それはつまり、その犯人がこっちに来るかも知れないということだった。

 女性陣が集まって警戒しようと話していると、金川が鈴原に声をかけていた。

「少し訊きたいことがあるんだけど……ちょっといい?」

 そう言って、頷いた鈴原を連れてみんなから少し離れた。

 そのことが気になった紗耶香は耳を澄ませて、なんとか金川と鈴原の話を聞き取ろうとした。

「強制的……行為は……テムで禁止……てた……だけど……どうして……プでき……かな?」

「それは…………フで脅さ……恐怖、……じゃない……?」

「ソーシャル………ターで? 他人を傷つけ……となんて……ないはず……。例えば……ナイフ…………たとして、鈴原さん、怖い……?」

「少しは……が…………れてみれば……しいな」

「…………の保護が切れて……かも。………………、検証…………ってくれ……かな?」

「……確かに必要か」

 結局、完全には聞き取れなかったが、それでも何となく二人が話していた内容は紗耶香にも分かった。

(保護システムが止まってるの? それって……)

 だが、よく考えてみれば、そうでもなければレイプなど成立するはずがない。

 ジ・アナザーのメトロポリスでは、双方の同意なく他人を害するあらゆる行為が禁止されていた。つまり、ナイフで脅すなど何の意味もないはずなのだ。

 それが成立したということは、脅された側が精神的に弱かったか、あるいはナイフで傷つけることができてしまったからに他ならない。

 もしそうだとしたら、助けが来てこの世界からログアウトするまで無難に過ごすだけで良いはずだったのが、一気にひっくり返ってしまう。場合によると、部屋に閉じこもって過ごした方が良いかもしれなかった。

 何しろ、危険はレイプ魔だけではなくなるのだ。

 もうしばらくは大丈夫だろうが、ログアウトが遅れると、食べ物を全部食べてしまった人たちがお腹を空かせ始める。そうなっても、ほとんどの人は大人しくしているだろうが、人から食べ物を奪おうと考える者も出てくるだろう。

 ひょっとしたら、この広場に集まっている人たちの中でも、食べ物を巡って争いが起きるかも知れない。

(近いうちに、ここに来るの止めた方が良いかも)

 そんなことを考えている間に、金川と鈴原は戻ってきていた。

 が、

「ちょっと金川と一緒に、もう少し話を聞いてくるよ。今日はこれで失礼する」

 そう言ってそのまま広場から出ていった。

 その後ろ姿を見送った紗耶香は、もうしばらくは広場に顔を出そうと思ったのだった。


 実際、それから数日もまだ割と平和な状況は続いていた。

 ただ、何も変化がなかったわけではない。


「ちょっと! 今私のこと笑ったでしょ!」

 ヒステリックな声がした方へと紗耶香が顔を向けると、三原が佐藤だったか。中年の男性に詰め寄っているところだった。

 実際には男性は笑ってなどいないだろう。それでも、三原には関係ないのだ。ただ、苛立ちをぶつける相手が欲しかっただけに違いない。

 今は三原がキレているから他は大人しくしているが、同じようにちょっとしたことで怒り出すケースが少しずつだが増えていた。

 理由は言うまでもない。いつまで経ってもログアウトできないことが全ての原因だった。それに加えて、食料が減ってきているのだろう。空腹が苛立ちを加速させているのかも知れなかった。

 かといって、紗耶香にできることなど何もなかった。人より多めに食料を確保できた自信はあるが、それでもこの広場に来ている人たち全員に配ったりできるほどではない。

 だから、紗耶香は怒り出した人を宥めることもできず、ただ早く静かになってくれることを祈るだけだった。

 尤も、全員がそんなわけでもない。

「三原、どうかしたのか?」

 金川と一緒に顔を出した鈴原が、三原の様子に気づいて、そう声をかけた。

「あ、鈴原さん! 聞いてくださいよ~」

 そう言って三原は鈴原にすり寄っていくと、そのままグチグチと佐藤についての文句を言い始めた。

 鈴原はその話を一通り聞くと、頷きながら手に持っていたバッグの中からお菓子をとりだし、三原に渡した。

「みんなお腹が空いておかしくなってるんだ。これで機嫌を直してくれ」

「あ、ありがとうございます!」

 お菓子を受け取った三原は感激した様子で鈴原に頭を下げると、桐山の所に戻っていった。

 その様子に全員がホッとしつつも、お菓子を貰った三原を羨ましそうに見ていると、鈴原が口を開いた。

「少しだがみんなの分もある。配るから取りに来てくれ!」

 何か吹っ切ったような鈴原の様子に違和感を覚えながらも、紗耶香も折角貰えるのだからと鈴原の元に行き、お菓子を受け取った。

「……これ、どこで手に入れたの?」

 全員が受け取ったお菓子を嬉しそうに食べ始めた中、鈴原の近くに留まっていた紗耶香はそう訊いた。

「……倉庫から取ってきた」

 そう答えた鈴原の声が小さかったのは、後ろめたさも感じていたからだろう。

 だが、紗耶香にはそれを責めるつもりはなかった。

 これだけの異常事態である。多少のことであれば、全てイデア社の責任になるのは間違いなかったからだ。

 ただ、これで今までの日常と呼びたくない日常が壊れるのは確実だと、何故かそう強く感じたのだった。

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