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ジ・アナザー  作者: sularis
第十七章 メトロポリスの空
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第十六章 第五話 ~襲撃前夜~

 その日も、紗耶香の気分は最悪だった。

 珍しくヒュームから直接命令が来た。途中にリカードなどを挟むと碌でもない目に遭うから、それはそれでいい。

 だが、命令の内容が問題だった。

(大体、近いうちに騒動が起きるから、その時を狙えって……)

 あまりに具体性に欠けていた。

 騒動が起きること自体はあまり疑っていなかった。昨日くらいから、他の街区からぞろぞろと人間が流れ込んできているのだ。何らかの動きがあったのは間違いない。

 ただ、騒動が起きるのが分かっているなら、もう少し情報があっても良いはずだ。それがないということは、ヒュームにとっての紗耶香の価値は、もはやその程度でしかないということだろう。

 溜息を付きながら、指と同じくらいの太さしかない空を見上げる。

 今日も青く澄み渡っていた空は、しかし紗耶香が望む場所には繋がっていなかった。超高層建築に圧迫されているからではない。物理的に繋がっていないのだ。

 それでも空を見上げる紗耶香はふと思った。

(このまま……どこか遠くに行けたら良いのに……)

 尤も、簡単なことではない。

 この世界に切り取られたローエングリスという組織を束ねるヒュームの手は長い。紗耶香はそのことをよく知っていた。もし、逃げ切るつもりなら、最低でもこの大陸からは出なくてはならないだろう。

 いや、そもそもそういう形で遠くに行きたいのかどうかすら怪しかった。

 そんな考えに意味はないことに気づいた紗耶香は、目の端の湿り気を指で拭いながら、ヒュームが伝えてきたその時を静かに待つことにしたのだった。



 その夜。

 メトロポリスの緯度はどちらかというと低い。その上、6月と言えば暦の上では既に初夏である。

 それでも、夜の気温は決して高くはないし、ましてやそれが千mもの上空となると寒いと言い切っても良い程度の気温だった。

 昼間は吹いていなかった風がびゅおびゅおと鳴る音を聞きながら、レックは一人リーフに跨がり、アーノルドの元へと向かっていた。

 前はグランスを失って間もなかったこともあって感情を抑えることが出来ず、そこにグランスの死を確実にするような話を聞かされて、何も聞けずに終わっていたが、いろいろと聞いておくべき事があったのだ。

 そのことに気づいたレックは、なんとか気を取り直して今日、仲間達が寝静まったこの時間にわざわざリーフを駆り出したのだ。

 少々遅い時間になってしまったが、アーノルドはまだ起きているだろう。――既に寝ていても、叩き起こすつもりだが。

 だが、その心配は無用のものだった。

「やはり来たか」

 月明かりの中、小屋の横手に直接降りてきたリーフをそう出迎えたのは、アーノルド本人だった。

 その姿を見たレックは、知らず知らずのうちに手に力が入り、

「キュウ!」

 羽を引っ張られたことに抗議するリーフの鳴き声で、ハッと力を緩めた。

「流石に夜はこの高さでは寒い。中に入ると良い」

 アーノルドはそう言って、レックがリーフから降りるのも待たずに小屋へと戻っていった。レックもすぐにリーフから飛び降り、その後について小屋へと入った。

「さて、改めて訊きたいことがあってきたのだろう? 知らないことは答えられぬし、魔術師として契約により答えられぬ事もあるが、その他のことであればいくらかは答えよう」

 さっさと粗末な椅子に腰を下ろしたアーノルドの言葉に、レックはふと引っかかりを覚え、

「……っ!」

 その正体に気づいた瞬間、その手を剣の柄へとかけていた。

「僕のことをどこまで知ってる!?」

「どこまで、か。知っていることは僅かだな」

 レックの様子に動じることもなくアーノルドが指を鳴らすと、机の上にあったマグカップが急に湯気を立て始めた。

「まずはそれでも飲むが良い。……心配するな、余計な物は入っていない。ただのココアだ」

 そう言われて素直に信じるようなレックではなく、ただ漂ってきた匂いは、確かにマグカップの中身が温かいココアであることを伝えてきた。

 そんなレックの様子にアーノルドはやはり動じず、

「……まあ、自由にすると良い」

 そう言いながらもう一度指を鳴らし、自らの前にあったマグカップにも温かい飲み物を用意し、それを一口啜った。

「私が君について知っていることはほとんど無い。敢えて言うならば、魔術師の記憶を持っているとは聞かされているな」

 アーノルドのその一言に、レックの警戒心は限界に達した。いや、限界を超えて警戒したと言うべきか。

「どうやって知ったかと言われても、人づてに聞いただけとしか答えられぬ。ただ、知っておけば説明もしやすいだろうと教えられただけだ」

 そう話すアーノルドの様子を必死に観察するレックだったが、残念ながら真実を話しているかどうか、見極めることはできなかった。

 ただ、アーノルドに本当のことを話す気がないのであれば、どうやっても自分ではそれを聞き出すことは出来ないこともレックは理解していた。最近サビエルの記憶がすっかりなじんだせいか、なんとなくそういうことも分かるようになっていた。

 だから、アーノルドの話が本当かどうかの判断はさておき、聞くべき事を聞いてしまうことにした。訊いておくべき事があったからこそ一人でやってきたが、グランスを殺したと言っても良いイデア社の人間と同じ部屋にいることは不愉快以外の何物でもなかったからだ。

「聞きたいことは元々幾つかあったけど……さっき1つ増えたよ」

「構わないさ」

 訊くだけならタダということだろう。

 無表情にそう答えたアーノルドに、レックは深呼吸をしてから質問をぶつけ始めた。

「まず1つ。イデア社は何を考えて、こんなことをしてる?」

「予想通りだが、答えにくい質問だな。……少なくとも、人という種族に対しては良かれと確信して行ったことだ」

「こんなことが?」

「いかにも。万人に理解されないことは分かっているし、知るべき者にも時が来るまで理由は伝えられないがな」

 苛立ちながらも、その理由とやらを聞き出したいレックだったが、それはあっさり諦めた。そんな魔術は知らないし、拷問とかできる自信もなかった。話術でも……無理だろう。

 一方で、アーノルドが言ったようなことをイデア社が本気で考えているのであればと考えて、レックは軽い寒気を感じた。

 イデア社が本物の狂人の集団であるのならまだいい。

 問題は、アーノルドの言葉が正しかった場合である。この世界は何なのか。何のためにあるのか。そして、こうしなければならなかった理由とは何なのか。

(……まともな答えが返ってきそうにないね)

 そう考えたレックは、元々考えていた質問を後に回すことにして、さっき新しく出てきた疑問をぶつけることにした。

「じゃあ2つめ。僕がこの時間に来ることが分かっていたみたいだけど、どうして?」

「予め知っていたからだ」

「それも誰かに?」

「…………予言者、と名乗る男にな」

 その答えは考えてからのものだったのか、少し間を開けてアーノルドは答えた。

 尤も、レックはアーノルドの答えの方が気になって、そんな間のことは気づきもしなかったが。

「予言者?」

 いぶかしげに聞き返したレックだったが、アーノルドの言葉を頭から否定することは出来なかった。


 古来より、魔術師達には幾つか大きな目標があった。

 1つは不老不死。

 様々な魔術が考案されたが、その全てが失敗に終わっている。正確には、それなりの成果を出したものもあるのだが、理想的な成果は得られなかったと言うべきか。

 1つは全知。

 アカシックレコードという概念が生み出されたのも、その研究の過程からだった。だが、こちらは不老不死と異なり、それらしき成果すら上げることが出来ていないと言われている。せいぜいが、高次存在との交信が限界だった。

 そして1つが時間と空間の掌握。

 空間の拡張やちょっとした亜空間、あるいは異なる二点を結ぶ転移などはある程度の成果が上がったとされる。だが、時間については、ちょっと早くしたり遅くしたりが限界だった。今に連なる過去を知るだけならいざ知らず、未来を知ることは結局魔術として成立しなかったのだ。

 だが、ごく稀に、先天的な能力として未来を知ることが出来る人間が現れることは、魔術師達の間では既知の事実だった。

 故に、レックは予言者という存在をすぐには否定できなかったのだ。


 しかし、

「ここ百年は予言者は確認されてないはずだけど……」

 そう、レックは首を傾げた。サビエルの記憶を丁寧にさらってみても、そのことに間違いは無かった。

 尤も、

「全ての予言者が知られているわけでもないだろう? 身を隠したり、一部の人間にのみその力を明かさなかった予言者がいても、驚くことではない」

 そう言われてしまえば、頷くしかなかった。というか、そうしておきたかった。そうでないと、蒼い月の誰かがアーノルドに連絡を取ったということになってしまうからだ。それが一番説明しやすいのだから。

 レックがそう考えていると、「そう言えば」とアーノルドが口を開いた。

「1つ、言われていたことがあった。ここに来る者が仲間を疑うようなことにならないようにと」

 そう言いながらアーノルドが懐から取り出したのは、赤と青、色違いの2つのサイコロだった。

 レックは自分が考えていたことを読まれたような気がして、それに気づいたのは少し遅れてからだった。

「それで何をするつもり?」

「君が来た時に出る目は聞いている。それを持って、証とせよと」

 その説明で、アーノルドが考えていることをレックも理解した。

 受け取ったサイコロに一切の細工がないことをレックが確認すると、

「私から見えないように、その手の中で転がすといい。私が何かしないか注意しながら」

 そんなアーノルドからの指示に従い、2つのサイコロを手の中で転がした。

(赤が4で青が2)

 そうレックが確認した直後、

「赤が4で、青が2か」

 いつの間にか取り出した手元の紙を眺めながら、アーノルドがそう言った。

(え……?)

 自分が聞いた事が信じられず、レックはもう一度サイコロを振った。

(青が1、赤が3)

「赤が3で、青が1だな」

 今度も、アーノルドがサイコロに何かした気配はなかった。

(じゃあ、本物?)

 予言者であれば良いと思っていた。だが、実際に予言者がいて、自分に関わることを予言していたとなると、流石に動揺せざるを得なかった。

 そして、レックはあることに気がついた。

(なら……グランスが死ぬことも知っていたんじゃ……!?)

 だが、それをレックが口にする前に、

「……死人が出ることは分かっていた。だが、誰が死ぬかまでは伝えられていない」

 眉を顰めたアーノルドが、そう言った。

「……っ」

 事ここに至って、レックはアーノルドが口にした予言者を信じざるを得なかった。それと同時に、アーノルドへ抱きかけていた害意も吹き散らされていた。

 それでも、さっき浮かんだ考えは消えなかった。そして、それは確かに予言者に対する憎悪の種になり得るものだった。

 そんなレックの葛藤を見て取ったのか、アーノルドはメモを懐にしまうと、一言だけ、助言をすることにしたのだった。



 さて、レック自身は仲間達に気づかれていないと思っていたが、

「レック、どこに行ったと思う?」

「やっぱアーノルドんとこやろなぁ」

 レックがこっそりと抜け出したことは、同じ部屋で寝ていた二人にしっかり気づかれていた。

「……それ、止めなくて良かったのか?」

「まー、大丈夫やろ。一発くらい殴ってくるかもしれへんけど」

 それはそれで大惨事だと思いつつも、場合によっては自分もやりかねないという自覚があったクライストは、暗闇の中、ベッドの上で起き上がることもなく苦笑するにとどめた。

「んで、殴る以外に何かしてくると思うか?」

「そら、あれこれ聞いてくるんちゃうか?」

「それで素直に教えて貰えると思うか?」

「まー、1つか2つくらいは聞き出せるんちゃう? それ以上は無理やろうけど。そんなんやったら、ロイドもあれこれ教えてくれとったやろうし」

「ロイドか……」

「クライスト、いきなり殴りかかっとったよなぁ」

「言うな」

 少しばかり感じた懐かしさが思わず声に乗ってしまったのを、マージンに聞きとがめられたのだろう。余計なことを言い出したマージンにクライストはピシッと言った。

「まあ、それはそれとして、や。レックの今の状態、どない思う?」

「……微妙だよな。大丈夫だとは思うんだが、まだちょっと怖いな」

 レックがいないのをこれ幸いと、レックのことを話し出したマージンに、クライストはそう答えた。

 グランスが死んだ直後は、見ていて心配になるくらいに落ち込んでいたレックも、ここ数日はそれなりに元気に見えた。だが、それが見せかけだけの可能性もまだあると、クライストも考えていたのだ。

「そう考えると、ちょっと一人で出かけるのを見逃したの、まずかったか?」

「それは大丈夫やと思うで。まあ、まっすぐ立ち直るかどうかは気になるとこやけどな」

「まっすぐじゃないって……例えば?」

「マンガとかやと、一人で重荷を背負い込んだりとか?」

「マンガって、おまえ……」

 そう言えば、マージンは日本のマンガやライトノベルもそこそこ読んでいたんだったと思い出しながら、クライストは溜息を吐きたくなった。

 とは言え、マージンが言うような可能性も否定は出来なかった。だが、そんなときにどうすれば良いか、クライストには分からなかった。

「ここ、カウンセラーとかいると思うか?」

「キングダムやったら、まずおらんやろって答えるとこやけどな。メトロポリスやし、探せばおるかもしれへん」

「風間か……ベルザにでも訊いてみるか?」

「その辺りならまあ大丈夫やろ。ヒュームはあかんけど」

 そのマージンの言葉に、クライストは確かにと苦笑するのだった。



 一方、その隣の部屋ではリリーとアカリが寝ていた。と言うか、こちらも横になっているだけで、まだ寝てはいなかった。

「なんとなく……寝付けない感じ、かな~?」

 どうして寝ないのかとアカリに訊かれたリリーの答えがそれである。

「たまにそんなことない? 寝坊したとか昼にちょっと寝ちゃったって訳じゃないのに、なんか寝れない日って」

 リリーがもぞもぞとベッドの上で向きを変える音を聞きながら、アカリは頷いた。……どうせ、リリーには見えないが。

「そうですね。時々ありましたね」

 アカリが思い出していたのは、『魔王降臨』以前のことだった。『魔王降臨』以降はそもそも生活が激変した上に、やっと落ち着いた頃に住んでいた村が略奪にあって壊滅したのだ。そのせいで、今でも時々悪夢にうなされることがあった。

「でしょ? アカリって、そんな時どうしてた?」

「本を読んだり、友達と電話でお話ししたり……ですね」

「それで、次の日寝坊するんだよね!」

「えっと……ちゃんと起きてましたよ?」

 アカリがそう答えると、リリーは不満そうに頬を膨らませた。勿論、真っ暗なので誰にも見えないが。

「えー……アカリって意外に真面目?」

「学生でも社会人でも、平日ならそうじゃないと駄目じゃないですか」

「そ~だけどね~……」

 そんな反応から、リリーはどうやら普通に寝坊したことがあるらしいと察したアカリは、ついつい頬が緩んでしまった。

 が、

「……今、笑ったでしょ?」

 見えないはずだが、何故かリリーにばれていた。

 尤も、アカリにはそこで素直に認めるつもりもなかった。

「いいえ? っていうか、見えてないですよね?」

「見えないけど、何かそんな感じがしたよ?」

 気配で察したらしいと、アカリはちょっと感心してしまった。身体強化が使えないせいか、リリーは蒼い月の中で一番頼りなく見えるのだが、それでも歴戦の冒険者ということなのだろう。

 それでもなんとなく楽しくなったアカリが追求を上手に躱していると、ふとリリーが話題を変えてきた。

「そう言えばさ。アカリって、レックのこと、好きでしょ?」

「っ!?」

 いきなり何を言い出すのかとアカリが動揺していると、

「やっぱり、あれかな? あの村でレックに助けて貰ったのが切欠なの?」

 そうリリーは続けた。その言葉に、妙な真摯さを感じ取ったアカリは、少し悩んでから、真面目に答えることにした。

「そうですね。それだけが全てじゃないけど、それが切欠です」

 最初は助けられたから、それで気になってずっと見ていただけだった。それがいつの間にか、好意を抱くようになっていた。そのせいか、レックのどこを好きになったのか訊かれても困るのだが。

 だが、身構えていたアカリに飛んできた質問は、予想とはちょっと違うものだった。

「どれくらい好きなの? 振り向いて貰えなくても、諦められないくらい?」

 そのリリーの言葉に、アカリはなんとなく気がついた。

 リリーが聞きたいのはアカリのことじゃない。全然相手にして貰えない不安で、何かに縋りたいのだろうと。

 実際、アカリから見てもリリーは頑張っていた。

 口にこそ出さないが、マージンに少しでも近寄ろうとアピールを頑張っていた。隙があればマージンの腕に抱きつくくらいはやるのは、正直、見習いたいくらいだった。――異性の気を引くアピールとしては微妙な気もしないではないが。

 ただ、それでもマージンはビクともしないのだ。『魔王降臨』前ならそれなりに照れたはずだとはディアナの言だが、今のマージンはリリーを振り払いもしないが、照れたり嬉しそうにしたりしない。流石にリリーに悪いので口にはしないが、子供を相手にしてるような感じだった。

(確かにリリーは……子供っぽいんですけど……)

 リリーとレック以外の蒼い月の仲間達曰く、レックはこの3年で大きくなったが、リリーはほとんど大きくなってないとのこと。

 そのせいか、身長も低めだし、体付きも子供っぽい。言い換えると、胸のサイズが控えめで、腰から太ももにかけてのラインもスレンダーと言えば聞こえは良いが……といった按配だった。

 と、そこまで考えたところで、思考が逸れていることに気がついたアカリは、質問に答えることにした。

「振り向いて貰えなくても、レックが笑ってくれてるならそれでいいんです」

 そう答えて、アカリは胸が痛んだ。

 ここ数日のレックは見ていてだいぶ元気になったが、それでも笑顔がぎこちなかった。まだ、グランスのことを引きずっているのは明らかだった。

 でも、何も出来ないのだ。いや、出来ることはあらかたやり尽くしたと言うべきか。

 それでも立ち直れなかった分は、あとは時間がなんとかしてくれるのを待つしかなかった。

 そんな風にアカリが沈んだのを、リリーはやっぱり察したらしい。

「あ、なんか変なこと聞いちゃって、ごめんね?」

 そう言ったリリーがごそごそと布団の中に潜り込む音を聞きながら、アカリはレックのために出来ることが本当にないのか、今夜も考えてみるのだった。



「大切な物を失いたくなければ、憎しみに飲まれるな」

「え?」

 不意にアーノルドが口にしたその言葉に、レックはあっけにとられた。

 何を言われているのか理解できず、しかし、すぐに理解した。

「……そんな顔、してた?」

「していたな」

 アーノルドの言葉を否定できなかったのは、グランスが死ぬことを分かっていても助けてくれなかったのではないかと、予言者に疑いを持ち、憎悪を抱きかけた自覚があったからだった。

 とは言え、よく知らない人間に何かを憎むなと言われたところではいそうですかとなるわけもない。

 ましてや、レックがここに来ることをアーノルドに伝えていたというなら、その予言者はグランスのことも知っていた可能性は確かにあるのだ。

 一方で、心の冷静な部分が、予言者は知らなかったか、知っていても何も出来なかったのかも知れないとも囁く。

 実際、予言者本人が悪い予言を避けようとした結果、最終的に予言よりも悪い結果になった事例も幾つかサビエルの記憶にあった。そこまで分かっているのであれば、誰かにとっての悪い結果であっても予言者はそれを助けようとはしないだろう。

 ただ、そう考えてみたところで、あまり予言者に対する疑念を抑える役には立たなかった。

 だが、アーノルドはそこまで見通していたらしい。

「憎しみに飲まれて行動したなら、その果てにあるのは後悔でしかない。そんな知識も、あるのだろう?」

「っ……」

 確かに、サビエルの記憶にはそんな事例が幾つかあった。サビエル自身の経験としても、あった。

「まずは最後まで見極めると良い。それを決めるのは、それからでも遅くはないだろう」

 そう言われたレックは、目を閉じて一つ深呼吸をすると、わき上がってきていた感情をゆっくりと飲み込んだ。

 憎しみのあまり、事実が見えなくなっては意味がない。

 感情のままに行動して、大切な物を守れなくては意味がない。

 レック自身の経験だけなら、頭で分かっていても、納得は出来なかっただろうそれも、サビエルの経験が納得させた。

 レックはゆっくりと目を開けると、アーノルドに告げた。

「……もう、大丈夫だと思う」

 憎しみの種が消えたわけではなかったが、それでも今は大丈夫だとレックは思えた。

「そうか」

 アーノルドは終始無表情のまま頷くと、他に質問はないのかとレックに訊いた。

「あるよ。それも増えた」

 レックは質問をあと2つほど用意してきていたが、その前に今の会話で出てきてしまった新しい疑問を確認することにした。

「……予言者って、僕たちでも会える?」

 予言者の正体を聞いても、まず答えて貰えないだろうし、そもそも、どこの誰かも分からない人間の名前を聞かされたところで、意味がない。

 予言者の目的については、おそらくイデア社の目的とも関係があるどころか、イデア社そのものが予言者の指示で動いている可能性が高い以上、余計に答えなど貰えないだろう。

 そう考えての質問だった。

 尤も、駄目で元々だったし、案の定、

「それは分からない。彼がその気になれば、会えるだろうがな」

 予想通りの答えしか得られなかったが。

「……念のために訊くけど、ちゃんと答えてくれるつもりはあるんだよね?」

「つもりはある。答えられないことは答えられないだけだ」

 アーノルドの答えに、レックはこっそり溜息を吐いた。

 実際、答えられないような質問ばかりだということは分かっていたのだ。最悪、何の情報も得られないことも覚悟していた。

 それが、イデア社が少なくとも善意のつもりで今の状況を作り出していることや、予言者が生まれていたという情報は得られた。そして、イデア社がジ・アナザーに100万を超える人間を閉じ込めたことと、予言者の存在は、おそらく無関係ではない。

 それだけで、十分な収穫と言えた。

 ただ、折角の機会である以上、出来るだけの質問はしておくに限る。

「じゃあ、次の質問。この世界の魔術が現実世界のそれと全く同じなのはどうして?」

 これに関しては、まず答えて貰えないだろうという確信がレックにはあった。可能性は幾つかあるが、多分、次にしようとしている質問の答えになるだろうからだ。

 だが、アーノルドの答えはレックの予想とは少し違うものだった。

「他の結社の魔術師達の魔術を収集したかったから、というのはどうだ?」

 レイゲンフォルテの予想では、イデア社の上層部は全て魔術師のはずだった。そうでなければ、仮想現実とはいえ、現実世界での魔術をここまで再現できるはずがない。

 魔術に関する知識もだが、ここまでの再現を魔術師達が許すはずがなかった。イデア社が魔術師と全く関係ない組織なら、こんな仮想現実を作った時点で、どこかの結社に会社ごと潰されているはずなのだ。

 そうなってないということは、魔術師達に抵抗するだけの力がイデア社にあるということで、それはつまり、イデア社は魔術師達が作った会社だということだった。

 だから、アーノルドの答えは必ずしも間違いとは言い切れない。

 だが、レックはその答えを信じることが出来なかった。レックの推測と違うというのもそうだが、それ以上にアーノルド自身がさっき口にした台詞と矛盾していたからだ。

 実際、レックが信じる様子を見せなかったことに、アーノルドはつまらなさそうにフンと息を吐いた。

「流石にこんな答えでは納得しないか。必ずしも嘘ではないのだが……まあ、本当の目的は答えることは出来ない。それで納得するといい」

 そのアーノルドの言葉にレックは頷かざるを得なかった。どうせ、アーノルドがその気にならない限り、正しい答えを教えて貰うことなど出来ないのだ。

 それでも、レックには得るものがあった。まだ確信できたとは言い難い。だが、アーノルドが嘘を吐いてさえいなければ、アーノルドの台詞はレックがずっと抱いていた予想を裏付けるものだった。

 だから、レックは最後の質問をアーノルドにぶつけることにしたのだった。

「じゃあ、最後の質問だよ……この世界は、本当に仮想現実なの?」



 あるオフィスビルの一室で、今日の仕事を終えた男はふと自分のPCの画面に映っているそれに気がついた。

「なんか、この数値、高すぎやしないか?」

 その質問に、男と同じように帰ろうとしていた同僚達がやってきて、画面を確認する。

「本当だ。何かの間違いじゃないのか?」

「これだと、ちょっとまずいよな……?」

 いつもなら、今回のケースではその数値は0.1%にも満たないはずだった。それが2%。やたらと高かった。

 だが、その疑問はまだ残っていた彼らの上司によってすぐに解消された。

「今回はそれでいいんだ。そもそもあそこはそれほど多くの人が住める場所じゃないんだ。それを解決するためってことらしい。……まあ、少々どころじゃなく過激だがな」

 その説明に男達は納得した。

 確かにかなり過激なことになるだろうが、その方が都合が良いことも確かなのだ。

 ただ、

「まあ……その場面はできれば見たくはないな」

 上司が零したそんな言葉にも、全員が素直に頷いたが。



 月と星々が地上を照らす中、メトロポリスから南東に数十kmほどにある森は、急速に騒がしくなっていた。

 その騒がしさは当初、森から逃げ出そうとする動物や鳥たちの鳴き声や足音、羽音だったが、それが一段落して一度森は静かになった。

 そして、その後に動物たちが逃げ出した理由がやってきた。

 最初は生臭い風が森の木々の間を駆け巡った。

 その風は森の中を一巡すると、急速に激しさを増し、木々の枝葉を引きちぎり、空高く舞い上がらせた。

 そうして、丸裸になった木々の間を、それらはやってきた。

 最初に現れたのは無数の赤い光だった。

 硬質に輝くそれらは、怪しく揺らめきながら蠢きながら、木々の間を進んでいた。それらの足に踏まれ、木々はへし折れ、地面には鋭い無数の穴が空く。

 やがて雲の隙間から顔を覗かせた月が、それらの正体を照らし出した。

 その正体はどこから現れたのか、巨大なアリの千を遙かに超え、万に達しようかという群れだった。

 体高1m、体長2mに達するアリの大群は、50cmもある巨大な大顎をガチガチと鳴らしながら、ひたすら北西へと向かう。

 その進路に町や村がなかったのは、幸いだろう。

 例え外壁があったところで、中途半端な物ではあっという間によじ登られ、侵入を許すのは確実だった。

 しかも、北西へと向かっているのは地を行くアリの群れだけではなかった。

 群れの上空には激しい風が渦巻き、その中を無数の黒い鳥が飛んでいた。

 勿論、カラスなどではない。カラスは嘴の中に鋭い牙など生やしたりはしていないし、涎を垂らしながら飛んだりもしない。

 それは明らかにエネミーに分類される鳥だった。

 そんな赤い目を持つエネミーの大群は、逃げ遅れたらしい動物や鳥をその大顎で、その牙で粉々に噛み砕きながら、ひたすら北西へと向かう。

 その進路の先にあるのは、言うまでもなくメトロポリスだった。

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