第十六章 第三話 ~出発前日の出来事~
カンパニーユニオンを構成する企業はローエングリスとワッツハイムだけではない。他にも幾つかの巨大企業――厳密にはそのメンバーのうち、ジ・アナザー内部に取り残された者達――で構成されている。ただ、あまり馴れ合いすぎると後々問題になると考えたため、原則、それらの企業は別々の街区を支配している。
ただ、メトロポリスには元々街区同士を分断するような壁の類いは一切ない。そのため、各々の街区を支配している企業は、自前の私兵団を使い、街区およびその周辺の見回りを定期的に行っていた。
ただ、見回りというのは大抵暇なものである。
ほんの数日前にワッツハイム街区に夜襲を仕掛けた武装集団――壊滅したとは思えないため、カンパニーユニオンはマーダーズと呼称することにした――のような例があるため、気を抜くことは出来ないのだが、それでも代わり映えのしない超高層建築の間の道をひたすら歩き続けるのである。見回りをする者達が退屈を持て余すのは避けられなかった。
そんな時の退屈しのぎは、基本的に雑談がメインとなる。
今、マージナル街区周辺部の見回りをしている者達も、実際に雑談をしながら歩いていた。
「おい、あの噂、聞いたか?」
「あの噂? なんのことだ?」
見回りをしていた男の一人が仲間の言葉に首を傾げると、声をかけた仲間とは別の仲間がにやりと笑った。
「なんだ。おまえ、まだ知らなかったのか。惨殺死体の噂だよ」
「ちょっ! 俺の台詞をとるなよ」
最初に男に声をかけた仲間が非難の声を上げたが、台詞をとった男はけろりとしていた。こういう暇つぶしのネタは、早い者勝ちなのだ。
実際、非難の声を上げた仲間も真面目に追及するつもりなどなく、
「惨殺死体? そんな話、初めて聞いたぞ」
という男の台詞にそそくさと説明を始めた。
「なんでも、ここ数日、あっちこっちでバラバラ死体が見つかってるって話なんだ」
「バラバラって……マーダーズの仕業じゃないのか?」
宗教狂いの連中ならやりかねないと言った男の言葉に、しかし仲間達は首を振った。
「連中がやらかしたんなら、何というか……見せびらかそうとするだろう?」
「いや……例えば、仲間内での処刑とかじゃないのか?」
それにも仲間達は首を振り、それから声を潜めて男に言った。
「……死体が食い荒らされたようになっていてもそう思うか?」
「っ!?」
流石に、そこまで聞かされて、それが人間の仕業だと思うのは難しかった。
確かに、メトロポリスは恒常的に食糧不足の状態にある。
それでも、街の各所にある食料品店に残された保存食や周辺の街から調達される食料、超高層建築の間にある僅かな緑地に作られた畑からの収穫のおかげで、少なくとも今現在は人肉食いが発生するような状況ではないはずだった。
ちなみに、野良犬の類いの仕業というのも考えづらかった。
メトロポリスでは少なくないペットが飼われていたが、それらはとうの昔に餌をもらえずに餓死するか、飼い主以外の飢えた住人の胃袋に収まってしまったからである。
そこまで考えて、男はふっと息を吐いた。
「それ、流石に冗談だろ?」
笑みを浮かべながら、自分をからかおうとした仲間達にそう確認すると、仲間達もあっさり頷いた。
「まあな。ちょっと俺達もこのネタでからかわれたからさ。まだ知らないなら教えてやろうと思ったのさ」
そう笑いながらあっさりばらした。
ただ、この男達は知らなかった。
それが冗談でも何でもなく実際に起きているということを。
そんな感じで見回りの男達が雑談をしていたのとほぼ同時刻。
マージナル街区の中央にあるマージナル社が占有している超高層建築の7階。そこにあるマージナル社広報部長のホルスト・カーフェンの執務室に二人の男がいた。
一人はホルスト・カーフェン。この部屋の主であり、ジ・アナザーに取り残されたマージナル社の社員の中で最も地位が高く、マージナル社を代表してカンパニーユニオンにも参加している男である。
今は先ほど届いたばかりの報告書を読み終え、軽いウェーブがかかった濃いブラウンの頭を両手で抱えていた。
もう一人は、デニス・ジーゲル。元々ホルストとは互いに名前を知っているかどうか程度だったが、『魔王降臨』以降、ジ・アナザーに取り残されたマージナル社の社員をかき集め、組織としてとりまとめ直す過程でホルストに見いだされ、今では荒事担当の右腕として活躍している男だった。
くすんだブロンドの髪は後ろで束ね、髭は無精髭と大差ない程度に伸びた、よく言えば野性味溢れる、悪く言えばどこかだらしない外見である。その服装も薄汚れたコートとジーパンで、顔から受ける印象を後押ししていた。その明るい青い瞳には、普段であればその立場相応の鋭い光が宿っているのだが、今は困惑に揺れていた。
「見回りの部隊が1つまるまる行方不明の所に、虐殺現場の発見とか、もうやめてくれよ」
そう零したホルストの顔には疲労が色濃く浮かんでいた。一昨日の夕方、マージナル街区周辺部の見回りをしていたマージナル社の私兵団の部隊の1つが行方不明になってから、まともに眠れていないのだ。
マージナル社の幹部と言っても良い立場のホルストだが、その経歴は至極まっとうで、いわゆる裏の世界に関わったことなど一度もない。交渉などの経験は豊富なのでタヌキやキツネの相手は慣れたものだが、表沙汰に出来ないやり方など、せいぜいが弱みを握って相手を軽く脅す程度。間違っても、人の命に対する責任を負ったことなど今まで一度もなかった。
勿論、『魔王降臨』以降の混乱の中で助けられない人間を見捨てる類いの決断はしてきたが、それもどちらかというと助けられる人間を助けるための命令を出してきた傍ら、その手から零れた人間が結果として助からなかったというだけで、助けられなかったことを悔いることはあっても、死に追いやった責任を感じるようなものではなかった。
それが今回は、予期していなかった事態とはいえ、間違いなくホルストが出した命令で動いていた人間が何人か死んだかも知れない状態なのである。その手の強さを持っていないホルストが参るのも無理もなかった。
ただ、まだ救いもある。
「虐殺現場の被害者は十中八九、うちの連中じゃないぞ」
そのデニスの言葉は十分な根拠があった。
虐殺現場の調査を行った者達の報告書では、被害者の装備は明らかに行方不明になった見回り部隊と異なっていた。それに加えて、被害者の数は少なく見積もっても十人は下らない。だが、行方不明になった部隊の人数は4人。人数の上でも一致しなかった。
尤も、だからといってホルストにとっては十分な救いになることはなかった。
「それはそうなんだが……それでも、部隊が行方不明になっているのは事実だろう? 被害者じゃなくても、彼らは今どうなってるんだ?」
そう、結局部隊が行方不明になっていることは変わらないからである。ギルドチャットを使っても彼らと連絡が取れないという事実は、どうしてもよろしくない想像をホルストにさせた。
「連絡が付かないなんて、もう……」
そう言って落ち込むホルストを見ながら、デニスは密かに溜息を吐いた。
ホルストとの付き合いは『魔王降臨』の後からだが、それでも2年は超える。その間で、ホルストがこういうことに耐性がなさそうだとは分かっていたが、思っていた以上だったのだ。
だが、ホルストが立ち直るのを待つわけにはいかなかった。まっとうな警察機構が存在しないこのメトロポリスでは、行方不明になっている部隊の件であれ、虐殺事件の件であれ、自分達が動かないと新しい被害が出かねなかった。
「とりあえず、虐殺現場の調査は改めて人を遣って進めておく。行方不明になった部隊の捜索も、こっちで進めておくがかまわないな?」
デニスがそう言うと、ホルストはゆっくりと頷いた。
ホルストの執務室を出たデニスが真っ先にしたことは、行方不明になった部隊の捜索をこれからどう進めていくか考えることだった。昨日の時点で、既に行方不明になった部隊が予定していた見回りコース周りはざっとだが捜索し終わっていた。
「全く手がかりがないとなると逃げた可能性もあるが……」
自分の部屋に戻りながら、ぶつぶつと考えをまとめていく。
途中、何人もの職員とすれ違うが、デニスがぶつぶつ言いながら歩いているのはいつものことなので、誰一人として気にかけなかった。
「だが……ギルドチャットのこの色は……」
そう言いながら、デニスが見ていた個人端末のギルドチャットのメンバーリスト。そこに表示された行方不明になった部隊の隊員達の名前は、周りと違う、灰色で表示されていたのだった。
さて、マージナル社でそんな話がされている頃、同じ情報がローエングリスのヒュームの元にも届いていた。
「……面倒ごとの予感しかしないな」
マージナル社に潜り込ませたスパイからの報告書を一読したヒュームは報告書を会議机の上に投げると、言葉を続けた。
「だが、うまく利用すればチャンスにもなる」
こういう時、いつも口にしているその言葉を改めて口に出すと、やはりいつものように気力が湧いてくるのを感じたヒュームは軽く頷くと、まずは虐殺死体の件について、会議のために集めた部下の認識を確認することにした。
「それで、おまえ達は何が起きたと考えている?」
最初に口を開いたのは、レック達と一緒にワッツハイム街区まで行った一人、フレデリックだった。
「人間を食べるとか、まともな人間の仕業じゃないですね。マーダーズの連中の仕業かどうかも怪しいと思います」
いくらマーダーズが宗教系の過激派と言え、少なくともその宗教に人食いを推奨したり容認するような内容はない。限られた地域でしか信仰されないような宗教ならいざ知らず、世界規模で信者がいる宗教でそれはないと、フレデリックは断言した。
これには、他の部下達にも異論はなかった。
ただ、本当に人間の仕業でないのかと言われると、そこまで断定できる者はこの場にはいなかった。
「メトロポリスでも、一時、人食いが横行しかけた事があるくらいだからな」
ヒュームの言葉に、その場にいた会議の参加者全員が頷いた。流石にこの場にいる者でそれをやらかした者はいないのだが、現場を見た者はいるのだ。
「あと、殺したその場で食べるというのは、少なくともまともな知性は感じられません」
そう言ったのはリカードだった。ローエングリスの裏の仕事をこなすリカードは、メトロポリスで人食いが横行しかけた時、人食いに走った者達を処分して回っていた。その時の経験も踏まえての発言に、またもやその場にいた者達は頷くしかなかった。
「一方で、相当な量の部位が現場から消えています。その場で食べたにしろ、どこかに運んだにしろ、一人や二人の仕業ではないかと」
「つまり、人食いの集団が存在すると?」
リカードの言いたいことを要約したヒュームの言葉に、会議の参加者達は動揺を隠せなかった。
「まさか……」
「あんな連中の集団があると?」
恐怖すらこもった声を漏らした部下達の脆さにヒュームは心の中で舌打ちすると、動揺していなかった一人に声をかけた。
「エフ。おまえはどう考える?」
その呼びかけに答えたのは、左半分は黒髪なのに、右半分が見事な白髪になっている青年だった。その容姿ははっきり言って、現実ではそう簡単にはお目にかかれないレベルである。言い換えれば、どこか人工的な美形だった。
「エネミーでも紛れ込んだんじゃないですか?」
ヒュームに意見を求められたエフは、少し考えた後そう答えた。
その内容に、一瞬呆然とした空気が流れた後、怒号が響いた。
「馬鹿な!」
「メトロポリスにエネミーが侵入できるなど、聞いたことがない!」
「冒険者風情が、知ったような口を抜かすな!」
次々と飛び出す、エフの発言への否定。中にはエフという個人に対する否定まで紛れる有様だった。
ヒュームとしては、エフを否定するのは構わないが、その意見まで否定する気はなかった。故に、会議机をバンと叩き、全員を黙らせた。
「エフ、どうしてそう考えた?」
「エネミーの中には人を食うやつも多い。それに、キングダムでは街の中にエネミーが入ってくることだってあった。なら、メトロポリスでもあり得るんじゃないかって思っただけです」
その言葉に、会議の参加者の中には露骨に青ざめる者達もいた。
「そんな馬鹿な……エネミーは街には入って来れないだろう?」
「少なくとも、時折ある街への……イベントと言うのが適切か分かりませんが、エネミーの襲撃では、普通に入ってきていましたよ」
エフのその証言に、さらに何人かの顔が真っ青になった。
それを見たヒュームは再び口を開いた。これ以上、役立たずを増やされても困る。
「とりあえず、エフの意見は分かった。それで、仮にエネミーだとして、対処できるのか?」
そのヒュームの確認に、エフは少し考え込んだ。
「メトロポリス周辺程度のエネミーなら問題ありません。ただ、この辺のエネミーに十人もの人間をまとめて食い荒らすようなエネミーはいなかったはずなので……確実を期すなら、姿形くらいの情報は欲しいところです」
少し考えてからのその答えに、ヒュームはもっともだと頷き、囮を少し用意するかと考えた。レック達をベルザに貸しっぱなしにしたことをちょっと失敗したかとも考えたが、今更急に返せとも言い出せない。
(とりあえず、適当なのがいれば、囮にするか)
正直、エフがいきなりエネミーなどと言い出した時は驚いたが、実のところ、ヒュームとしてはその可能性は低いだろうと考えていた。ただ、余裕があるならその可能性に対しても準備しておく。そうとだけ決め、引き続き、他の意見を確認することにした。
その結果決まったのは、少人数の探索チームを幾つか編成し、ローエングリス街区からマージナル街区までの距離にして20km近くあるエリアを広く探索することだった。
ただ、ヒュームはその際1つの事を厳命した。
「探索チームには余計な情報は与えるな」
その意図を正確に理解した会議の参加者達は無言で頷いたのだった。
メトロポリスでそんなことが起きていると知っている者は限られている。当然、レックやグランス達が知る由もなく。
「やっと明日出発だね!」
うきうきとした様子でそう言ったのはリリーだった。
風間達と共にワッツハイム街区に赴き、そこで噂の冒険者達と会う以上のことは確定していないのだが、リリーの頭の中ではその冒険者達がレック達であることが既に確定してしまっているようだった。
そんなリリーの様子を見ていた周りの年長者達は、正直、不安な気持ちの方が強くなりつつあった。勿論、件の冒険者達がレック達であれば嬉しいし、そうであって欲しいという期待も勿論持っているのだが、そうでなかった時にどれだけリリーが落ち込むのかというのが怖かったのだ。
そうならないように、予めリリーにあまり期待しないように伝えようとしたのだが、
「頷きはするのじゃが、耳に入っておらぬと言うか……」
「そんなことはないと……信じ切ってしまってますね……」
「何の役にも立てなくてすみません……」
ディアナとミネア、アカリが困り果てたように話しているように、その試みは完全に失敗してしまっていた。
ちなみに、最近歩き始めたエイジの遊び相手を務めながらその三人の様子を眺めているグランスは、この件では初っぱなから戦力外通告を受けていた。これは、マージンほどではないが、微妙な乙女心を理解できないだろうという理由による。
「正直、この状態で違っておった時が怖いのじゃが……」
「その辺りのフォローも……ディアナにお願いするしかありません」
「……こうなると、あと一人くらい、同行して欲しいところじゃがのう」
ディアナはそう言うが、実際にはディアナとリリーの二人しか、風間に同行することは出来ないのは分かっていた。
エイジは論外であるし、その母親であるミネアも丸一日以上エイジと離れて行動するのは不安があった。グランスも言わずもがなである。残るアカリはというと、エイジに次いで戦闘能力が低いため、何かあった時にディアナはリリーのフォローで手一杯になるであろうという理由で同行させるわけにはいかなかった。
そう頭を悩ませているディアナ達に、リリーが声をかけた。
「みんな、何、そんなに悩んでるの?」
「いや……」
即答できずに言葉に詰まったディアナだったが、一呼吸おいて、改めてリリーに注意しておこうと覚悟を決めた。
「リリーよ。明日会いに行く冒険者達がマージン達とは別人じゃったらどうするのじゃ?」
「え? だいじょーぶだよ。絶対マージン達だよ~」
「じゃが、証拠があるまい? 確かに可能性は低くはないが、別人の可能性も十分あるのじゃぞ?」
案の定、確信すらしている様子のリリーに、これは難しいと頭を痛めつつ、ディアナはさらに説得を試みた。
だが、
「……ん~、やっぱり大丈夫だよ。うん」
少し何か考えるかのように黙った後、再びリリーはそう言った。
だが、ディアナとしてもここで引き下がるわけにはいかなかった。マージンと離れてしまった時のリリーの様子を考えれば、期待が裏切られた時にリリーがどうなるか、怖かったのだ。
「どうして大丈夫だと言い切れるのじゃ? 根拠があるなら教えてくれぬか?」
「ん~と、説明するのは難しいかな~……」
ディアナの言葉に、リリーはあごに人差し指を当てて、困ったような顔をした。
一方、ディアナ達もてっきり根拠なく大丈夫だとリリーが言い張ると思っていただけに、その様子に違和感を覚えた。
「説明するのが難しいってことは、何かあるんですか?」
どう言葉をかけるべきか悩んでいたディアナの代わりにリリーに声をかけたのは、アカリだった。その様子にどこか必死さが混じっていたのは、仲間達の気のせいではないだろう。
一方、リリーはアカリの確認にあっさりと頷いた。
「うん。なんて言うか、こう、何かが大丈夫だよって教えてくれてる感じがするの。言葉になってないんだけど、そんな感じがするの」
そのリリーの言葉に、仲間達は一斉に不安げな顔になった。
単なる勘ではないらしい。だが、言っていることがいわゆる電波と区別が付かないのだ。ディアナ達はお互いに顔を見合わせるものの、流石に本人がいる前で相談も出来ない。
「えっと、その何かってどこから教えてくれてるんですか?」
アカリが取り合えずと言わんばかりに訊いてみると、リリーは難しそうな顔になった。
それから一拍おいて、答えを返す。
「う~ん。ごめん。ちょっとよく分からない」
「分からないって……えっと、今も聞こえてる、んですか?」
その質問には、リリーは即答した。
「うん。それ、妙に安心感があって、大丈夫だって信じられるの」
ディアナ達はその答えに今度こそ絶句し、本格的にリリーの精神が心配になってきた。
「……すまぬ。用事を思い出した。少し出てくる」
そう言って部屋を出ていきざまに、グランスに視線で合図を送るディアナ。
それに気づいたグランスも、ディアナが出て行って少し待った後、少し用事があるからと部屋を出た。
「もう少し早く出てくると思っておったのじゃがな」
部屋を出てすぐの通路でグランスを待っていたディアナは、やっと出てきたグランスに軽く文句を言った。尤も、どうでもいい愚痴以外の何物でもないので、グランスがスルーしたのに何か言うつもりもなかったが。
「それで、リリーのことじゃが……おぬしはどう思う?」
昼間でもかなり暗い通路で、ディアナはグランスにそう訊ねた。
だが、グランスはすぐには答えを返さなかった。それだけで、ディアナはグランスがどう考えているか察した。
「……正直、かなり精神的にやばいと思っている。ディアナはどうだ?」
「私もじゃな。出来れば、今からでも明日一緒に行くのはアカリと交代させるべきと思っておるのじゃが……」
「無理、だろうな。本当に精神的にやばいなら、今更行くのを禁じると、暴走してもおかしくないだろうしな」
リリーの精神状態にもう少し早く気づいていればと二人とも思ったものの、他の面では全く普通だったこともあり、正直気づくのは難しかったことも理解できていた。
「兎に角、なんとかして最悪の事態を回避する必要があるじゃろうな。リリーより先に件の冒険者の確認できればよいのじゃが……」
そうすれば、違っていたら違っていたで、急用が入ったとでも理由を付けて先方の冒険者とリリーが会うことを回避する事も出来るとディアナは言った。
グランスもディアナの考えに頷いた。というか、今更他の手段がない。ただ、それでも全てが丸く収まるとは思えなかった。
「会えなかったら会えなかったで、リリーの機嫌が悪くなりそうだが……その辺は大丈夫か?」
「別人だと分かるよりはマシじゃろう。……まあ、なんとかフォローは頑張るとするよ」
ディアナは不安げにそう言うと、風間にも協力を頼みに行かねばのと言って、風間の執務室へと歩いて行ったのだった。
一方、グランス達がそんな風に悩んでいるとは全く知らないレック達はというと、今日もワッツハイム街区外縁部の見回りに出ていた。
尤も、ただ見回りをしているだけでもない。人目がないことを利用して、ワッツハイム街区の中では出来ない訓練をしていた。
そもそも、レック達の訓練には魔術の練習や身体強化を使いながらの模擬戦まで含まれる。そんな訓練でレック達の戦闘能力を下手に知られたくないという理由で、レック達は外縁部の見回りついでに訓練をしているのだった。
今も、マージンを警戒役に当てて、レックとクライストが組み手をしていた。
レックが横薙ぎに払った鉄棒に、クライストが下から左肘を軽く当てながら身体を屈めて躱す。
そのクライストの頭を狙ってレックが鉄棒を持っていない右手で突きを繰り出すと、クライストはそれも躱しながらレックの足を刈りにかかる。
それを軽く後ろにはねることでレックが躱すと、そこで二人とも一息入れた。
「やっぱ、肉弾戦じゃレックにはちょっと勝てねぇな。もうちょっと身体強化を下げてくれってのは駄目か?」
「あんまり下げたら、今度はクライストの訓練にならないと思うんだけど」
「そうなんだけどな。こうも、一方的に追い込まれてる感じってのもなぁ」
「それなら、マージンとやるってのもアリだと思うんだけど」
「マージンは大剣メインで危ないからって、俺との時は素手だろ? ちょっと微妙なんだよな」
そう言いながら見てくるクライストに、
「そりゃ、こっちも勝手が違うんやし、どうにもならへんで」
マージンはそう答えると、不意に辺りをきょろきょろと見回した。
その様子に思い当たることがあったレックとクライストは、ふうと溜息を吐いた。
「また?」
「またや。誰かがこっちに近づいとるな」
「ベルザの監視かな?」
「ヒュームの方かも知れねぇな」
訓練のために周りを良く警戒するようになって気づいたのだが、見回りに出たレック達を誰かが付けてきているのだ。そのおかげで訓練がこうしてちょくちょく中断してしまうのは面倒なのだが、その正体を迂闊に暴けないのも少々面倒に感じられるところだった。
「流石に気づいているってのをわざわざ教えるってのもあれだしな」
「ま、とっとと見回り再開や。さくっと撒こうや」
マージンはそう言ったものの、実際には監視らしき気配がなんとか付いてこれる程度の速度しか出さないことも多いので、そう頻繁に撒くのもあれかと思っていたレックとクライストは特に何も言わなかった。
「それよりも、明後日だったか?」
「そうだね。どんな用事か知らないけど」
歩きながら、レックがそう言うと、
「まあ、折角やし、コネが増えるやろうし、楽しみにしといたらええやろ」
マージンが気楽にそう答えた。実際、レック達がガバメントの人間に会うことにしたのは、ベルザへの配慮の他にそれも理由だったりする。クリスタルタワーの情報もだが、生きていることだけしか分からないグランス達の情報を得るためにも、コネを増やす必要は確かにあった。
ちなみに、こんな話をしながらも、レック達は後を付けてくる気配への警戒は怠っていなかった。適当な雑談をしている時ならいいが、あまり聞かれたくない話の時にうっかり近づかれると困ったことになるからである。
尤も、大抵はどうでもいい話ばかりしているのだが。
それはさておき、訊かれたくない類いの話を早々に終わらせたレック達は、あっさり見回りついでの雑談モードに入った。
そのまま、相も変わらず日向などどこにもないメトロポリスの道路を歩き続け、ふと、マージンが足を止めた。
「どうした?」
足を止めたマージンに気づいたクライストがそう声をかけるも、厳しい顔になったマージンは周囲をきょろきょろと見回すばかりで答えようとしなかった。
その様子に異常を感じ取ったクライストがレックにも声をかけようとして、レックの表情もマージンと同じように厳しくなっていることに気がついた。
「血の臭いがする」
そのレックの言葉に、クライストの警戒心も一気にマックスにまで引き上げられた。
「どっからだ?」
「薄くてちょっと分からないけど……」
「いや、多分こっちや」
そう言って歩き出したマージンの後ろについて、レックとクライストも歩き出した。既に、後を付けてきている気配のことなど、頭から追い出した後である。
そうして、数分ほど歩き続けたレック達は、1つの超高層建築の前へと辿り着いていた。ここまで来ると、流石にクライストにも血の臭いが分かった。
「……結構な臭いだな」
「正直、あんま確認しとうないな」
入り口から漏れ出てくる血の臭いは、あまりに強烈だった。それこそ、人一人分の血が全部流れ出てるくらいでなければ、これほどまでに強烈な臭いになるはずがない。そう、レック達には断言できた。
ただ、まだ確定していないこともあった。それは、
「これって、人の血の臭いだと思うか?」
ということである。
レック達はエネミーだの動物だのをそれなりに狩ってきているだけに、血の臭いそのものは嗅ぎ慣れていた。ただ、血の臭いだけでどんな動物か、あるいはエネミーかというのを当てられるほどでもなかった。
それでも、メトロポリスにこれだけの血を流すことが出来る動物は人間の他には極めて限られていた。少なくとも、人間の管理下を除けば存在しないと断定しても問題ない程度である。
そこまで考えた時点で、クライストにはもう答えが分かっていたようなものだが、それでも仲間に確認したかったのだ。
実際、レックとマージンから返ってきた答えも、
「あんまり言いたくないね……」
「そやな。楽観的に考えん方がええと思うで」
どうにも暗かった。
「で、どうする? ちゃんと確認する?」
レックの言葉に、クライストは一瞬躊躇った。
これが人間の血の臭いでなければいいのだが、誰もがそうではないと感じていた。となると、この中には相当酷いことになってる場所があるわけだが、それを確認せずに戻るというのも、後々問題があるような気がしたのだ。
「……確認するしかないだろ。十分用心して、な」
どうやら、レックとマージンも同じ意見だったらしく、二人ともゆっくりと頷いた。
そして、三人はレックを先頭に慎重に建物の入り口へと踏み込み、そこで絶句した。
「なんだ、こりゃ……」
いきなり吐いたりせず、そんな台詞が出てきたのは、ある意味、そこは思っていたよりきれいだったからだった。
正確には、思っていたより散らかっていなかったと言うべきだろう。何しろ、エントランスの床は大量に流れ出た血で真っ赤に染まっていたのだから。
余程大量の血が流れたのか、まだ床に流れた血は乾ききっていなかった。そのせいで、余計に臭いが酷くなっていた。
「……さっさと出た方がええで。こんなとこの調査、わいらの手に余るわ」
マージンの言葉に、クライストは無言で頷いた。調査できるかどうか以前に、そもそもこんな所にいたくない。
ゆっくりと後ずさりながら出口へ向かっていたクライストは、ふと床の上に落ちていた塊の1つへと視線を遣ってしまっていた。
それは。
何本か指が欠けていたが、確かに人の手だった。




