閑話 ~『魔王降臨』後の現実にて~
時間軸としては、『魔王降臨』直後の現実世界でのお話です。
『ジ・アナザー』。それはイデア社が出したVRMMOコンテンツだった。
当初、ゲームとして提供されていたそれは、ゲーム内では現実の2倍の速さで時間が経過するという、現在の最先端技術を持ってしてもその仕組みを解明できないオーバーテクノロジーの産物故に、瞬く間にゲーム以外の目的、すなわち勉強であり仕事であり、その他あらゆる時間を使う何かのために使用されるようになっていた。何しろ、勉強であれば同じ時間で2倍の量をこなせるし、仕事なら半分の時間で終わる。そのメリットは計り知れなかった。
その結果、ジ・アナザーは単なるゲームではなく、まさしくもう1つの現実という巨大インフラと化しており、ログイン数は常時億を超えたところで推移していた。
だからこそ、それが起こったときは、まさしく世界が震えた。
「ちっ! 何だってんだ、いきなり!」
粗末なベッドから起き上がり様にそう罵ったのは、まだ若い男だった。とは言え、かなり清潔感には欠けていた。それもそうだろう。暇さえあれば、ジ・アナザーにログインしているのである。現実での身嗜みなど、最低限の外出の時にさえ問題にならなければそれで良い、そんな考え方をしていれば、清潔感などどこかに行ってしまう。
男にとっては傍迷惑な、しかし男のような人間が出てくることが予想されていたが故の幾つかの機能がなければ、この男やその同類達は病気になるか、あるいは死ぬまでジ・アナザーから出てくることもないに違いない。
そんな男の部屋は、当然のように散らかり放題、かと思いきや、微妙な腐臭が漂う他は意外と散らかっていなかった。だが、決して男がまじめに掃除や片付けをしているのではないことは明らかだ。というのも、部屋には家具らしき物すらほとんどなかったからだ。
つまり、散らかす物自体がないから散らかっていないだけなのだ。物さえあれば、目も当てられないほどに散らかっていたのは間違いないだろう。
「くそっ! 入れねぇ!」
男は起き上がった後、BPが映し出している仮想端末を操作してジ・アナザーに戻ろうとしていたが、どうやら入れなくなってしまっているらしい。
ベッドをバンッと叩いた男は、大量に舞い上がった埃を思わず吸い込み、咳き込んでいた。
「げほっ! ごほっ!」
男としてはそれにすら悪態を吐きたかったが、そんなことをすればもう一度埃を吸い込みかねないことくらいは容易に察せられた。
男はベッドから降りると部屋の換気扇を回し、ついでに軽く空腹になっていることを自覚すると、部屋に置かれている数少ない物の1つである冷蔵庫から、ワンプッシュで食べられるカロリーゼリーを取り出して一気に飲み込んだ。そこまでの所要時間、僅かに1分。
だが、それでもあちらではもう何分も経ってしまっているはずだった。
一緒にいたはずの仲間達は数分位は待っていてくれるだろうが、このままログインできないと、そのまま絶縁状でも突きつけられかねない。
故に、これでしばらくはBPに強制ログアウトさせられることもないだけの準備を整えた男は、再びベッドの上でジ・アナザーへのログインを試み、
「くそっ! 何がどうなってんだ!」
やはり、冷たく弾かれ、罵った。
そんな状態の人間が次にやることと言えば、大体決まっている。
「運営に文句言ってやる!」
その他の例に漏れず、運営へと苦情を言うべくBPを使って運営のサイトへと接続した男は、お客様センターに電話をかけ、そこでもう一度罵ることとなった。
「なんでこっちも繋がらない!!」
何度試してみても、「現在、回線が混み合っております。誠に申し訳ございませんが、数分ほどお待ちの上、もう一度お掛け直しください」というアナウンスが流れるのみで、全く繋がる気配がなかった。
感情的になった男が再びベッドを叩き咳き込んでいると、BPに着信があった。相手は、ジ・アナザーで一緒に行動していた仲間の一人である。
『悪いっ! 何でか入れないんだ! もう少し待っててくれ!』
怒られる前に先手を取った男はしかし、そこで予想もしていなかった返事を聞いた。
『おまえもか。なんか、みんないきなり接続が切れたらしいぜ? ってか、ニュース見てねーだろ、おまえ。ちょっと見てみろよ』
『は?』
『いや、だからニュース見てみろって。そーすりゃ分かるからよ』
そう言われた男は、とりあえずBPに指示を出し、自らの視界の隅にニュースの映像を表示させた。
『……繰り返しお伝えします。現在、イデア社の運営しているジ・アナザーにて接続障害が発生しているとの報告がありました。この接続障害により、現在ジ・アナザーへの新規接続が出来なくなっているとのことです。また、接続障害の発生時に……』
淡々と説明する女性アナウンサーの背後には、『ジ・アナザー接続障害!』という見出しがでかでかと表示されていた。
それを見てやっと状況を把握した男は、どうやら自分のせいで仲間を怒らせることはなさそうだと胸を撫で下ろしたのだった。
とは言え、この男のように接続障害だと分かったからといって、それでは済まない人間は少なくなかった。むしろ、ソーシャル・アバターで接続していた者達にとっては、いろいろな意味でジ・アナザーに接続できないことは問題となっていた。
「あー、もうっ! 明日には試験なのに!」
そう言いながらベッドの上でじたばたと暴れているのは、うら若い少女だった。
メトロポリスにある自室。そこで明日の試験に備えた勉強をしていたところ、いきなり真っ暗になったかと思うと、次の瞬間は自分の部屋のベッドの上だったという訳である。
切断直後は慌てて再接続を試みたものの、一向に繋がる気配はなかった。おまけに、イデア社の公式サイトを確認してみても何の情報もない。
むしろ、情報があったのは、無意識のうちに視界の隅に表示させていたニュースからだった。それを見て大規模な接続障害が発生していることを知った少女の行動が先ほどのものという訳である。
とは言え、暴れ続けていても何にもならない。むしろ、こうしている間にも試験の時間は着実に迫っているのだ。
ひとしきり暴れた少女はやっと諦めると、鞄からタブレットPCとノート、筆記具一式を取り出し、もう長いこと使っていなかった勉強机へと向かった。
「これに座るのも久しぶりだけど……やっぱりあっちの方が落ち着くなぁ……」
そんなことを言いながら少女はBPを操作し、イデア社の公式サイトに更新があれば表示するように設定した。
そうして、軽く頬を擦るとタブレットPCに資料を表示させ、さあ、勉強を再開しようとしたところで、視界の片隅にイデア社のサイトがぽんと表示された。
「もうっ!」
出鼻をくじかれた少女だったが、それでも更新されたというのであればイデア社の公式サイトを見ないという選択肢は少女にはなかった。
実際、見てみると、『ジ・アナザーにおける接続障害について』という最新情報が目立つところに追加されていた。
ジ・アナザーご利用のお客様へ
現在、ジ・アナザーにおいて大規模な接続障害が発生しております。これにより、大多数のお客様が切断され、再接続が出来ない状況となっております。また、新規の接続も行うことが出来ません。
切断されなかったお客様につきましては、そのままご利用いただけますが、ログアウトされますと再接続はできません。
接続障害の原因は不明でございますが、判明次第このページにてお知らせいたします。
以上、大変ご迷惑をおかけしておりますが、ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。
「なによ、これ」
最新情報を開いた少女は、バンッと机を叩いてそう言った。
何しろ、そこにあったのは平淡な文章だけだったのだ。いや、少女が切断された時間が障害が発生した時間だとするなら、あまり凝ったデザインのお知らせページが出来ているのもどうかという話ではあるのだが。
問題は、その内容である。少女には人を食った内容にしか見えなかった。
即座にBPを操作し、イデア社のお問い合わせ先を調べると、所謂お客様センターに電話をかけ、思わず舌打ちしてしまっていた。
少し考えてみれば分かることなのだが、ニュースになるほどの大規模障害なのだ。少女が電話をかけるまでもなく、少女よりも気の短い連中が次々と電話やメールで問い合わせを出しているに違いなかった。
尤も、勉強を邪魔されて少々苛立っている少女は、全くそのことに気がつかず、それから数分にわたって何度もかけ直し続けたのだが、勿論、全く繋がる気配はなかったのだった。
大規模接続障害の影響は、勿論こんなものではない。
「イデア社にさっさと回答させろ! 最優先だ! 第三課はこのまま再接続が出来なかった場合のスケジュールの確認! 戦略室は今回の事で発生する損害を計算しておけ!」
電話の音が鳴り続けるオフィスで、一人の男がそう怒鳴り続けていた。ジ・アナザーの接続障害で、男の部署の仕事の予定がまるまる狂ってしまったのだ。
「あっちでの作業結果はどうなってる!? 取り出せるか!?」
「定期保存していた分は問題ありません! その他の分は現在確認中です!」
近くを走っていた社員の一人が立ち止まり、怒鳴るように男に報告した。怒鳴るようになってしまったのは、今の社内のさっきだった雰囲気に影響されてというのもあるが、オフィスの中が電話と怒声であまりに五月蠅く、怒鳴るくらいの大声でなければはっきりと聞き取れないからでもあった。
それはさておき、報告を聞いた男は、
「分かった! 引き続き確認急げ!」
報告してきた社員にそう命じると、鳴りっぱなしの電話の受話器を1つ取り上げた。
「なんだと!? そこは何とかしろ! 何とかならなかった時のことは分かっているだろうが!」
電話の向こうをそう怒鳴りつけると、男は叩き付けるように受話器を電話機に戻した。あまりの勢いに受話器が跳ねたが、男は気にしなかった。というより、そんな余裕はなかったと言うべきか。
そんな男がBPの仮想モニターで幾つもの情報を確認していたときだった。また、1つの電話が着信音を鳴り響かせた。
それに気づいた男は、思わず動きを止めた。それだけではなく、つーっと額から一筋の冷や汗が降りてくる。
殺気だったオフィスの中では誰もそんな男の様子に気づくことはなかったが、確かに男は一瞬、電話の着信音以外、何の音も聞こえなくなっていた。
だが、その電話は取らざるを得ない。
男はゴクリと出てもいない唾を飲み込むと、ゆっくりとその電話機の受話器を取り、
「……もしもし」
そう言ったのだった。
こんな風に混乱しきったオフィスは世界中の会社で見られた。流石に就業時間外の会社はそんなことにはなっていなかったが、就業時間中の会社の大半が多かれ少なかれ混乱していたと言って良い。混乱しなかった会社など、全ての仕事を現実世界で完結させているような所だけだと言って良かった。それほどまでに、あらゆる会社がジ・アナザーを利用していたのだ。
「だから、あそこは国営化すべきだったと言っているんだっ!」
造りもそこに配置された家具も、本来は厳粛な空気を醸し出しているはずのその部屋に怒鳴り声が響き渡っていた。
電話の向こうの相手に怒鳴っているのはこの部屋の主人にして、この国の産業政策のトップでもある一人の男だった。
その男の座る机の上に並べられた幾つものモニターには、様々なニュースと乱高下、と言うよりも急落する一方の株式市場や逆に急騰する各種資源の先物取引のデータが表示されていた。余程の素人でもなければ、どれだけ危険な状態か一目瞭然である。
実際の所、ジ・アナザーは単なる仮想世界に過ぎず、そこで何かが起きたところで現実世界に大きな影響を与えるものではないはずだった。だが、あらゆる社会活動のうち、現実世界でなくとも出来る活動のうち、相当な割合がジ・アナザーにおいて行われている現在、ジ・アナザーのシステムトラブルは世界規模で経済に致命的な影響を与える。
確かに食料の生産などに直接影響を与えることはないだろうが、各種生産計画や取引、流通計画に多大な影響が出る以上、社会そのものが混乱することは確実だった。
そのことが容易に予想できたが故に、この部屋の主は常々イデア社を国営化するか、ジ・アナザーを直接国が管理し、万が一に備えるべきだと言い続けてきていた。にもかかわらず、自由な経済活動やらなんやら理屈をつける者達によって、男の意見は却下され続けてきていた。
そして、現在の状況である。
「くそっ! 話にならん!」
机に拳を振り下ろし電話を切った男は、その勢いのままに立ち上がった。
「大臣、どちらへ?」
「イデア社だ!」
ビクつきながらも確認してきた秘書に、男はそう怒鳴った。この状況である。イデア社に電話をかけても繋がることなど期待できないだろうし、実際に2、3回かけてみた限りでは繋がる気配はなかった。
「しかし、首相は手を出すなと……」
「手を出さなかった結果が今の状況だ! それに、ここにいても状況が分からん。イデア社に直接乗り込んで確認するしかない!」
そう怒鳴った男に秘書はそれ以上口出しするのは止めた。なにより、男の秘書になっただけあって、秘書自身の意見も男のそれに近いのである。止めたのなど、形だけのことだった。
そんな秘書を引き連れた男は、地下駐車場に止めてあったベンツを駆り出し、まっすぐイデア社へと向かった。
幸いと言うべきか、ジ・アナザーは現実のインフラには一切関係が無く、ジ・アナザーを巡る混乱が交通渋滞を引き起こすなどという事態は勿論無かった。
そんなわけで、法定速度を微妙に超過する速度で突っ走ってきた男の車はあっさりとイデア社の本社ビルへと到着した。
「ここで待っていろ」
男は運転手にそう命じると、同行してきていた秘書を連れてイデア社の入り口へと向かった。
そこで男が見たものは、
「なんだ? 記者連中、何してるんだ?」
ビルの入り口で右往左往している数名の記者達だった。
「あっ! 大臣!」
声で男に気づいた記者の一人がそう声を上げると、他の記者達も男に気づき、一斉に駆け寄ってきた。
彼らを制止するために前に出かけたSPを片手で軽く制し、男は記者達が自分の所までやってくるのを待った。
「大臣! ここに来られたということはやはり、ジ・アナザーの件でしょうか!?」
「ご意見を! ご意見を聞かせてください!」
殺到してきた彼らに一瞬苛立ちを感じた男だったが、そんなことはおくびにも出さず、マスコミ向けの笑顔を浮かべた。
「やはり君達もその件か。私もだ。どういうことか直接確認しに来たのだよ」
「しかし、大臣自ら来なくても良かったのでは?」
「他の者達もこのたびの件でやるべき事をやってくれていて、手が空いていないのだ。それに何より、これだけの大事だ。私が直接動いた方がいろいろ早いだろう?」
男の軽率さを咎めようと考えていたのか、その切り返しに質問をした記者は一瞬言葉に詰まると、すぐに愛想笑いを浮かべてそうですねと頷いた。
それを見た男はもう良いだろうと考えた。これ以上、記者の相手をして潰す時間など無い。
故に、まだまだ質問を投げつけてきていた記者達を、
「今の私には先にやらねばならないことがある。済まないが、質問の続きは事が片付いてからにしてくれたまえ」
そう、手をあげて止めた。
記者達もそう言われてしまえば、それ以上男に質問をぶつけるわけにはいかなかった。
すんなりと道を空けた記者達の間を通り、男はイデア社本社ビルの入り口へと立った。
だが、
「……どうしてだ? 開かないじゃないか?」
と、開かない扉に首をかしげた。ついでに僅かながらの苛立ちも感じたが、記者達の手前、それはぐっと押さえ込む。
「ここは開かないのかね?」
振り返って問いかけた男に、記者達は頷いた。
「先ほどからずっと試しているのですけど、全く」
「受付に誰かいれば、開けて貰えるかも知れませんが……」
その言葉にガラス製の自動ドアの向こうを覗き込んだ男は、受付に誰一人いないことを見てとった。
(どういうことだ? まさか……逃げたか?)
これが休日などであれば話は別だが、平日にこれだけのビルの受付に誰もいないなどということは考えづらい。いや、来客の少ない時間帯ならいないかも知れないが、それでも入り口が開かないということと合わせて考えると、分かっていて人がいないのだろうと男は考えた。
そのまま視線をずらし、建物の中の様子を確認した男は、即座にある判断を下した。
「おい。入り口を破れ」
そう命じられたSPは、一瞬惚けたような顔をした。
「聞こえなかったのか? この扉を破れと言っているんだ」
「い、いやしかし、それは犯罪行為になりますが……」
流石に大臣ともあろう者から出てくる発言ではないし、実行すべき事でもないとSPは言いつのったが、男はSPのその言葉には一切耳を貸さなかった。
「非常事態だ。後で説明すれば済む。いいからやれ!」
その言葉に、SPも覚悟を決め、扉の前にしっかと立った。
男とSPのやりとりを息を飲んで見守っていた記者達も、それで何が起きるのか完全に理解した。その瞬間を撮るべく、しっかりとカメラを構えた者がいるのはプロ根性というやつだろう。
「……行きます!」
緊張の中、そう宣言したSPはまずは扉を全力で蹴った。が、大きな音を立てただけで扉は壊れなかった。
それを見ていた男はぼそりと呟いた。
「流石にそう簡単には壊れないか」
安全対策のため、一見脆そうなガラスに見えても相応の強度はあったのだろう。どうやら人の力で破れるような物ではないと、男は即座に判断し、
「おい、車を連れてこい」
と脇に控えていた秘書に命じると、SPには銃を使ってみるようにと命じた。
流石に銃を使うことにはかなりの抵抗感があったSPだったが、男に強く命じられては逆らうことも出来ない。やむを得ないと扉に向かって銃を構え、幾度か引き金を引き、
「これでも駄目か」
ヒビ一つ入った様子のない頑丈極まりない扉を撫でながら、男は思わず溜息を吐いた。良く探せば傷くらいは付いているかも知れないが、そこからこの扉が破壊できるまでにどれだけの時間がかかるか分かったものではなかった。
「……にしても、これだけやっても全く反応なし、か。余程黙りを決め込みたいらしいな」
普通のビルなら、閉まっている入り口を蹴飛ばしたところで警備員が駆けつけてくるものである。ところが、その気配がない。蹴飛ばすどころか発砲までしたというのに、である。
そこから考えられる可能性は2つ。すなわち、反応する気が無いか、反応することが出来ないか、である。
だが、男はそのどちらであるかを考えることはすぐに止めた。どちらであっても、これからやることに変わりはない。
ちらりと振り返ると、男が乗ってきた車は既に秘書に呼び寄せられていた。イデア社の本社ビル正面は車で乗り付けることを想定した構造ではないが、問題なく入ってこれたようだ。
そのことに満足した男は、今度は車をビルに突っ込ませるようにSPに命じた。
「扉さえ破れれば良い。あまり勢いよく突っ込むな」
その指示に、もう諦めきっていたSPは特に抵抗もせずに車へと乗り込んだ。先ほどの銃撃の時点で少し距離を置いていた記者達はというと、更にそそくさと距離を取っている。
「これなら流石にいけるだろう。……無理でも、これだけやればそろそろあっちも来るはずだ」
男はそう呟くと、助走距離を取って軽い加速を始めた車を見つめ、それから思い出したように両耳を手で塞いだ。
その様子を見ていた秘書や記者達が慌てて自らの耳を守った直後、SPが運転していた車がビルの入り口へと突っ込み、無数のガラスが割れる音がした。
「さて、このまま突入したいところだが……」
流石に車の突入には勝てなかったらしく粉々になった正面玄関の扉を見ながら、男は呟いた。
「入らないのですか?」
「まだだ。そろそろ警察が来るはずだから、それを待つ」
秘書にそう答えた男は、正面がぼろぼろになった車を眺め、そこから降りてきたSPに労いの言葉をかけると、少し前の衝突音を聞きつけて集まりつつある野次馬達。その向こうへと視線をやった。
案の定、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
流石に、何が起きているのか分からないところに身一つで乗り込むほど男は無謀ではなかった。だが、あれだけ電話をかけて檄を飛ばしても動かなかった警察が、正面玄関を破壊するだけでこうも容易くやって来たことに、不満と警戒感を抱かざるを得なかったのだった。
「……どうした? 今日のログアウト時間にはまだ早いだろう?」
ヨーロッパのある街の郊外にあるログハウス。
その一室に幾つか並べられたベッドの上で起き上がった若い男に、部屋の片隅で本を読んでいた男が声をかけた。
「いや、ログアウトしたつもりはなかったんですが……」
困惑を隠せない様子で首をかしげている若い男は、隣のベッドの男が身じろぎしたことに気がついた。よく見ると、起きていないのは二人だけで、残りの仲間は全員が起き出しつつあった。
「……予期せぬ事態、というやつらしいな」
本を読んでいた男はそう言うと、パタンと本を閉じ、立ち上がった。
「再接続できるか確認して見ろ。それと、ログアウトになっていない連中に連絡が取れるか確認を。状況が分からん。無理には起こすな」
そう言い残すと、本を読んでいた男はその部屋を出た。想定していない事態だけに、上の者の判断を仰ぐ必要があった。
だが、
「……ログアウトされてない、だと?」
建物に唯一備え付けられた電話で連絡を取って分かったことは、判断を仰ごうとした相手がログアウトしていないということだった。そして、あちらでも何人かがログアウトし、何人かがログアウトしていない状態になっているらしい。
「……ログアウトされたら連絡をくれ。判断を仰ぎたい」
とりあえず、このまま電話をしていても意味が無いことだけは分かった男は、そう言って電話を切った。
「何が起こっている? いや、何を企んでいる?」
そう呟くも、答えなど出ようはずがない。
男は軽く頭を振ると、先ほどの部屋に急いで戻った。知らない間に状況が変わっているかも知れなかったからだ。その男を迎えた報告は、
「連絡が付きません。完全に遮断されてます」
ジ・アナザー内部の様子を知るため、ログアウトしなかった者達と連絡をつけようとしても出来ないという報告だった。
BPを埋め込んだ者同士であれば、ジ・アナザーにログインしていてもしていなくても連絡は取れる。そのはずだった。だが、全く応答がないというのだ。
「再接続はどうだ?」
「それも無理です。現在、サービスは停止しているというメッセージだけですね」
そんな状況に、男はあり得ないだろうと思わず言葉を零していた。
それと同時に、これはまず意図的に引き起こされた事態だろうと確信した。ジ・アナザーに接続できないだけならトラブルの可能性も否定できなかった。だが、一部の人間だけがログインしたままで、しかも彼らと連絡が付かなくなるなど、意図的に引き起こされなければあり得ない状態だと言える。
「あっちはどうでした? 何か命令はありましたか?」
黙り込んだ男に、起き上がってきていた若い男達から質問が飛んだ。
「いや、アルフレッドもログアウトしていない。おかげであっちも混乱中だ」
尤も、言うほど混乱はしていないだろう。すぐに何かしらの方針の元に行動し始めるはずだった。だが、それを待っている必要も無い。
「……とりあえず、あっちはあっちで放っておこう。まずは無理矢理起こせるか、試してみよう」
そう言った男の視線は、未だログアウトせず、眠り続けているように見える仲間の一人へと向かっていたのだった。
突如、室内に鳴り響き始めた警報。それを壁際のコンピュータを操作して止めた男は、再び自らの席へと戻っていた。
「……来たのか?」
そう問うたのは、男の仲間の一人だった。尤も、答えなど欲していないことは明らかだった。何しろ、壁際のコンピュータに備え付けられた巨大モニターには、ビルの入り口で進行している事態が全て映し出されているのだから。
「思ったより早いが……誤差の範囲か」
また別の男の声が上がり、それに何人かの男が次々と頷いた。
室内には十数名の男達が座っていた。だが、彼らの姿は近代的なビルのオフィスには全く似合わない格好だと言えよう。何しろ、大きなフードが付いた灰色のローブに身を包んでいるのだ。はっきり言ってコスプレでなければ、いや、コスプレだったとしても怪しげな集団としか言いようがない。
尤も、この場にそんなことを突っ込む人間は一人としていなかった。ただ、状況を確認するやりとりだけが続けられている。
「あちらへの移動状況はどうじゃ?」
「概ね予定通りじゃ。後はこの部屋におる我らだけじゃな」
「ふむ。何人ほど残ったのじゃ?」
「……やはり、かなり少ないようじゃ。200万もおらぬな」
「1億はおったのにそれか。……まあ、割合は兎に角、数は十分じゃろう」
ローブの中身はどうやら老人ばかりらしく、しゃがれた声でそんなやりとりが繰り返される。
そんな中、モニターを見ていた一人が感心したような声を上げた。
「む、思い切ったことをしよった」
それで全員の視線がモニターへと集まり、何人かからは面白そうな笑い声すら漏れた。いや、あるいは嘲笑か。
「まあ、良い。どうせ、肝心の所に入るまでには一日はかかろう。それまでには全て終わっておる」
そのことには誰一人として反論しなかった。事実、一階に侵入できたところで、他の階へ移動するためにはまた一苦労する。この建物はそんな設計になっていたし、そもそも侵入者が目的とする部屋はそう簡単には見つからない、特定できないようになっている。ミサイルでも撃ち込まれたら別だが、侵入者がこの建物ごと破壊するつもりでなければ何の問題も無かった。
「……とは言え、この格好で見つけられるのは少々如何なものかと思うな」
そう言ったのは比較的若い声だった。どうやら、ローブ姿と言うことを少々気にしている者もいたらしい。
だが、これには妙に反対意見が多かった。
「別に我らに関係はあるまい? 気にすることではなかろう」
「そうじゃ。記念すべきこの日この時に、相応しい正装じゃろう」
「いや、これは別に正装ではなかろうが」
「それこそどうでも良いことではないのか?」
……反対意見と言うより、単なる言い争いだった。
だが、その言い争いは無駄にヒートアップする前に、上座からのわざとらしい咳で止められた。
「つまらぬ言い争いはやめい。我らにはまだやるべき事がある。どうせなら、そちらの事で議論を交わす方が良かろう」
上座からのその言葉に、何人かが恥ずかしそうに俯いたようだった。
「それよりも、予言者の移動は確認できたのか?」
「いや。恐らくはもう移動しておるはずじゃが、特定は出来ておらん」
「……まあ、良かろう。あの方ならどうとでもされよう。事後処理はどうじゃ?」
「後1時間で起動するように設定済みじゃ。それ以降は、我らとて手を出せん」
その報告に上座のローブは頷くと、遮光カーテンが掛けられた窓から外の様子を眺めた。
「……この景色も見納めじゃな」
大いに感傷を含んだその言葉に、何人かから同意の声が漏れた。
「あちらがここまで発展するのは、いつになるじゃろうな」
「メトロポリスがあるではないか」
「あれは最早抜け殻じゃ。近いうちに朽ち果てようて」
「む。それもそうか」
そんな会話をノンビリと交わしつつ、窓の外をゆっくりと眺めていたローブ姿たちだったが、やがて時間が来たのだろう。窓から視線を引きはがし、席から離れていた者も席に戻った。
「準備は良いな?」
上座のローブから声をかけられ、全員がゆっくりと頷いた。
「では……移動せよ」
「「「移動する」」」
一斉に唱和した後、その部屋にいた全ての人影から力が抜けた。
壁際のモニターには、建物に突入してきた警官隊が部屋の捜索をしながら上下階へ移動するための手段を探しているのが映し出されていた。
そのうち、もう少し時間が経過した頃の現実世界の様子も書く予定ですが、いろいろネタバレ発生するので今回はここまでで。いずれ、この後の現実世界の話も書く予定ではあります。この後、何が起きたのかは……現時点では皆様のご想像にお任せします。
次からはまた本編に戻りますが、投稿に少々時間がかかる、と思います。




