終わらない受難と楽しい毎日
「見つけた」
猫又が立ち上がる。
「見つけたって……あれ?」
うんと猫又は頷きながら俺を見た。
いや、できない。ふつうできないだろう。あいつ、今霊を喰ったんだぞ。そいつを俺が呼び止める? できるはずない。
だって話が違う。優しいおまえの飼い主って人間じゃなかったのか?
「な、なんて言って呼びとめるんだよ……って、無理だから」
「しなきゃ全部喰われてしまう。注意をこっちに向けるだけでいい。後は俺サマに任せろ」
って、どういうことだ? おまえのやりたいことって?
「おまえの目的って優しい飼い主にもう一度会いたいっていうことだったんじゃないのかよ」
「違うっ、俺サマの目的は悪霊と化した飼い主の粛清だ」
粛清? って……。
「ぎりぎりまで待てよ。祠の間際まで来たら何でもいいから声をかけろ」
ターゲットの方から目を離さず、猫又はじりじりと祠に近づく。尻尾がぴんと立ち上がって細かく震えている。
「それでいいのか?」
「俺サマが妖怪になったのはこの枷があったからだ。飼い主の怨念の血に浸り、飼い主に殺された。悪霊となった飼い主を粛清して俺サマの役割は終る」
うそ……。こんな大変な役目だったの? いよいよ先に帰ったナスビが羨ましくなる。
「俺サマが合い図したら行けよ、悠斗」
「お、おう?」
声が半分裏返ってしまう。仕方ないよな、俺はただの中学生なんだから。冠をつければ『受験生』。母親は人に会うたびに「家の子が受験生で大変なのよぉ」と愚痴り、相手は『あら大変ですね』と返すこの頃。
大変なのはあんたじゃなくて俺なんだけど――そんな事を言ったら瞬殺されそうで言えない。この世で最強最悪なのは母親じゃないかとこっそり思っていた俺だが。
『母さんごめん。最悪で最強は今目の前にいます』
次々と前をいく霊を飲み込んで大きくなりながら悪霊は祠に近づいて行った。
そして――その瞬間はやってきた。
「今だ、行けっ」猫又の声がした。
最悪な時間の始まりだ。
萎えそうになる足を叱咤しながら走る。祠に触手を伸ばした悪霊に向かって声を張り上げる。
「す、すみませ~ん」
間抜けだ、何言ってるんだと自分でも思う。だけど、他に何て言うのか咄嗟に言葉が浮かばない。結果、気の抜けた炭酸水みたいな俺の呼びかけは当然無視されるはずが、幸か不幸か悪霊は動きを止めた。
そしてそれは振り返ったように見えた。
もこもこと体が蠢いてこちらに進路を変えるのを見て総毛立つ。唾を飲むのって今までどうやってた? そう思うくらい意識して口に溜まった唾を飲み込んだ。
逃げなきゃと思うのに膝から下に力が入らない。まるで操り人形のように膝が笑う。
「くそっ、動け。動けよ、足」
見た目はのっそり動いて見えるくせにそいつは案外早い。気が付くと俺との距離はぐっと縮んでいた。ぐわっとそいつは口を開ける。たちまち魚が腐ったような匂いが広がり、「うげっ」と口を押えてしゃがみ込んだ。
この場合、しゃがみ込むなんて最悪の行動パターンだろう。俺だって映画やマンガを見ていたら「こいつばっかじゃねえ?」とポテチを齧りながら言ったと思う。
だけど所詮過保護に育った都会っ子だ。臭い匂いなんて我慢できない。命の危険よりまず匂いに反応するあたり、日本人は平和ボケしているという指摘は当たっている。
もうダメ。早々と観念した頭がどかっと踏まれた。こんな酷い目は小学六年の時の運動会で組体操のピラミッドの土台になった時以来だ。
「痛ててっ」
見上げた見た物は……猫又のパンツだった。どうやら俺の頭を踏み台に使ったらしい。
「靈寶天尊・安慰身形・弟子魂魄・五臓玄明・青龍白虎・隊仗紛紜・朱雀玄武・侍衛我身・急急如律令、我の手により滅失せよ。消えやがれ、くそがっ」
耳がきんとなるほどの大声が響き、猫又が腕を刀のように振りあげると上段から一気に降り下ろした。
実体の無い闇に見えていた悪霊の肉を断ちきる音が生々しく聞こえる。ずぶずぶと切りこむほどに筋や腱が断ち切れるぶちんという音が大きく響き、「おおおおおう……」というおぞましい悪霊の断末魔が俺の耳を支配した。
この先何年もこの音を繰り返し夢で聞いてしまうだろう。
「ありがとう。これで俺サマも成仏できる」
突然消えた悪霊に唖然とする俺に猫又がゆっくりとほほ笑んだ。
「え? これで終わり?」
良かったよな、うん。普通の猫みたいに成仏できるんなら。だけどさ、だけど。
「猫又行くなよっ」
「何言ってんだ。ここでさよならするのが一番いいに決まってる。ほら、身体も薄くなっているだろう?」
そうなのかと思いながら猫又を見つめた。結構長いこと。
「あのさ、全然変わってないぞ」
「なんだとっ、嘘つくな」
慌てて自分を見下ろした猫又は「げっ」と唸った。
「なんかどこかで失敗したみたいだ」
あの呪文の後の方が悪かったんじゃないかと思うけど懸命にも口にしない。頭をがりがりと掻きながら猫又は口をひん曲げた。
「えっと、一件落着で俺は家に帰るけど……猫又はどうする?」
んんん……と一応考えるフリをしてから猫又は俺を見た。何か企んでいそうで怖い。
「ペットいらないか悠斗。俺サマ猫の姿になると超絶可愛いぞ」
「ええええええ~?」
「行くなとかおまえが言うから失敗したんだ。責任取れ、責任」
足元で体を擦りつけてくる尻尾が二本ある黒猫を見ながら俺は盛大にため息をついた。
家に帰り、「ご飯の面倒も下の世話も全部俺がします」という悲しい決意表明の元、猫又は今俺の家の猫になっている。
ベッドを占領して丸まっている姿はどこの家猫とも変わらない。尻尾が二本あるのが不気味だが親は「そこが可愛いのよねぇ、チョコちゃんは」とか言ってる。
黒猫だからチョコ。まったく似合わない名前を付けられたもんだ。しかし猫又ときたら「チョコちゃ~ん」と呼ばれると「にゃああ」とどっから声出してんだというほど可愛い声で鳴いてみせている。
そしてやつはなんと雄猫だったことが猫の姿になった途端分かった。
「何で女の恰好してたんだよ、嘘つき、俺の純情返せ妖怪」
「煩い、前の飼い主が雌扱いして名前も女の名前にしてたんだよ。それに似合ってただろ。男だろうが女だろうが大した差は無い」
いや、ちょっと可愛いと思っていた俺の気持ちはどうなるんだ。まあペットとして猫のままならどっちでもいいというのはそうなんだけれども。
「普通の猫らしく大人しくしているんならな」
そう口にすると猫又は「ふん」と鼻を鳴らした。
俺の部屋に帰るとベッドの上にぴょんと跳び乗り居場所を確保し「悠斗っ」苛ついた声で俺を呼ぶ。
「おまえの母親、遠慮なく俺サマに触り過ぎだ、禿げになったらどうする。注意しとけよ。それとカリカリもいいが時には猫缶にしろ」
偉そうな態度に豹変する。
おまけにこいつがいるせいで厄介事に巻き込まれるはめになることばかりだ。
――もうこんな生活やだ。
と、思うこともないではないが、恐ろしくて楽しいペットのいる生活もまんざら悪くないと思っている。
その厄介ごと話は長くなるのでまたの機会に――。
終わり