1話 退屈な日常ほど素晴らしいものはない
「あっちぃー」
七月に入り、夏が本気を出してきている。
今日の最高気温は35℃を超えると朝のニュースで言っていた。
額から垂れてくる汗を半袖で拭いつつ、自転車を高校へと走らせる。
信号を待っていると、前の方にカップルが見えた。
手をつなぎ、腕を組んで肩を寄せ合っている。
制服のシャツは汗で透け、腕に伝う汗が太陽光を弾いていた。
猛暑日だというのに、あんなにくっついて暑苦しくはないのだろうか。
俺なら無理にでも引きはがしてしまうだろう。
信号が青に変わると、俺は勢いよくペダルを漕ぎ、カップルたちを追い越した。
***
教室のドアを開けるとムワっとした熱気と一緒に体臭が鼻を刺激した。
節電のため、うちの高校は朝のホームルームが終わるまでエアコンをつけてもらえない。
こんな気温の日にも律儀に節電をしているとは見上げたものだ。
生徒の健康よりも体裁の方が大事らしい。
俺は席に着くや否やカバンからタオルを取り出し、汗を拭いた。
タオルを首にかけて、課題用の薄い問題集をうちわ代わりにして扇ぐ。
「ふぅー、あつすぎだろ」
思わず声に出てしまった。
生徒にこんな思いをさせておいて、自分たちは冷房ガンガンの職員室でゆったりしているのだと想像するとムカついてくる。
「ねー、ほんと暑すぎ!」
口をついて出た俺の言葉に、前の席に座っている小森星羅が共感の声を上げた。
彼女はクラスの一軍だというのに、俺みたいな人間にも分け隔てなく話しかけてくれる。
目を逸らすと壁掛けの温度計は30℃近くを示しているのが見えた。
俺は話題を広げてみることにした。
「さすがにエアコンつければいいのにね。熱中症になるよ」
我ながら会話が下手くそすぎる。
もう少し面白いことが言えないものか。
「今日、35℃超えるらしいよぉー」
椅子に座りながら振り向いた彼女は夏仕様なのか、髪がポニーテールに結われている。
小森さんは眉間にしわを寄せながらハンディファンを口元にあてていた。
額に汗をにじませ、熊手のような前髪が張り付いている。
「らしいね」
俺は視線を逸らし、問題集で扇ぎながら答えた。
そして、小森さんは近くにいた女子と会話を始め、完全に俺から意識を離した。
最近、席替えをしてから会話をする機会が幾度となくあったが、このコミュ障ぶりからして仲を深めることができてはいない。
「はぁ…」
女子から話しかけられただけなのに一喜一憂しているのが、いかにも童貞って感じで情けなくなる。
そんなことを考えつつ俺は一時間目の授業準備をして、ホームルームが始まるまでの時間をつぶすために俺は本を開いた。
――ガラガラ
「はーい、もうすぐチャイム鳴るから座れよー」
10分もしないうちに、担任が教室に入ってきた。
クラスメイトたちは、もうそんな時間かと各々席に着き始めた。
***
「――文理選択の用紙を出してない奴はすぐに出せよ? 締め切り今週の金曜までだからなー」
――どっちにした?
――えー、まだ決めてなーい
周囲から話し声が聞こええる。
「はい、ホームルーム中は静かにして」
担任の八木先生はまだ20代後半と若く、生徒に舐められがちだ。
クラスの人からはヤギとあだ名をつけられている。
八木先生の注意も空しく話し声はなくならなかった。
いつもの光景にまた今日も退屈な日常が始まったのだと実感する。
俺の中にどうしようもないストレスが湧き上がった。
***
一時間目の授業は英語だ。
前任の教師が産休に入ったため二週間ほど前から新しい教師に変わった。
40代後半くらいの、ぽっちゃりとしたふくよかな体形をした女性の先生だ。
見た目からの印象通り優しく穏やかな性格をしている。
それは良いのだが、授業が退屈でつまらないので、俺はいつも授業が始まって15分もしないうちに腕を枕に眠りにつく。
***
「――くね?」
なんだか教室が騒がしくて目を覚ました。
周囲を見回すと誰も席に着いていなかった。
俺は勢いよく体を起こした。
どうやら皆は窓際に集まって何やら見ているみたいだ。
学級崩壊でもしたのかと思ったが、中山先生も一緒になって窓に顔を出しているのでそういうわけでもないらしい。
1人だけ席に着いているのも変な感じだな。
何が起きているのか気になるし、俺も見行くことにした。
「おぉ、起きたのか貝原」
俺が近づくと友人の立川壮太が声を掛けてきた。
寝ていることに気が付いていたのなら、1人になる前に起こしてほしかった。
「うん。皆なに見てんの?」
俺が聞くと、立川は「やばいんだよ」と俺の腕を掴み、強引に窓の近くに引き寄せた。
「あれ見ろよ」
「え?」
言われて窓から顔を出し、外を見渡してみるが特にこれと言って何があるでもない。
いつも通り平日の大通りにはトラックや一般の車が行き来している。
学校の隣にある定食屋さんが火事になっている、なんてこともない。
「あれって言われても…別に何もないけど…」
「だから、あれだって!」
あれってなんだよ。
俺は間違い探しでもしているみたいに町を凝視した。
「いや、どれ?」
「あーもうっ! 空だよ!!」
しびれを切らした立川が怒ったように声を張り上げてそう言った。
言われるがまま俺は空を見上げて息を飲んだ。
「っは…え…?」
なぜこれに気が付かなかったのかと、立川の怒りにも納得する。
空が割れていた。
そう形容するしかない見た目だった。
雲一つない夏の晴天。
青く澄み切った空に大きな黒い亀裂のようなものがあった。
大気が割れて宇宙空間が直接見えているかのような漆黒と所々に紫や緑っぽいモヤモヤとグラデーションが見える。
「やっべぇ…」
隣にいた立川はスマホを取り出しパシャパシャと写真を撮り始めた。
「っおい、スマホはマズいって。授業中だぞ」
俺は小声で立川に注意した。
「大丈夫だって、見ろよ。先生、それどころじゃないから」
そう言って立川はスマホを空に向けて撮影を続けた。
俺は先生に目を向ける。
確かに周囲を気にかけている感じはしない。
というか、近くの椅子に座ってぼーっとしている。
俺は立川の隣でもう一度空を見上げる。
なんだか不安だ。
どす黒い雨雲を見た時や、陸の見えない沖に行った時みたいな、自然に命を握られているような感覚だろうか。
圧倒的な無力感に襲われた。
***
ガタガタ――
教室の窓が音を立てる。
「ん…?」
――ドンっ
唐突に突き上げるような衝撃を受けた。
「痛ってぇ!」
窓から顔を出していた俺は衝撃で窓枠に頭をぶつけた。
「…っ! 窓から離れて!!」
中山先生が叫んだ。
ジンジンと痛む頭を押さえつつも声に反応して窓から離れる。
そして、足元が揺れていることに気が付いた。
地震だ。
俺が気づいたころには既に皆が近くの机の下に潜り始めていた。
手近な机はすぐに取られ、教室中央へと人が流れる。
慌てた人たちが机や椅子にぶつかり、教室には物音と悲鳴が行き交う。
はやく隠れないと。
でも、既に机が取り合いになっていて空いている席が見つからない。
俺があたふたして棒立ちしていると、揺れはさらに強くなった。
じっと立っていることができなかった。
電車の揺れを強くしたみたいな感じだ。
震度5…いや、6はあるんじゃないのか。
動きが一瞬遅れた俺は結局窓際から一番遠い、教室の出入り口付近にある自分の机の下に隠れた。
窓がガタガタ音を立て、クラスメイトの悲鳴が心臓の鼓動を早くする。
揺れは数十秒続いた。
収まったのか…?
俺は机の下から狭い視界で周囲の様子を探った。
近くの女子は泣いていて、友達に手を握られ「大丈夫だよ」と背中をさすられている。
他にも近くの人と話しているのが何人か見えた。
「まだ机の下に入ってて!」
いきなり中山先生が大きな声を上げた。
誰かが出ようとしたのだろう。
地震が起きてすぐは落下物の危険や再度揺れが来る可能性を考えて、すぐには机の下からでないように避難訓練の時に教わったのを思い出した。
――ガンっ!
扉が開く音がした。
スライド式の教室のドアは勢いよく開くと途中で浮いて大きな音が出る。
廊下に出たのだろうか。
そういえば災害時に流れる校内放送が鳴っていない。
確か避難訓練の時は津波の心配があるかどうか、どこに避難するかなど指示が放送で流れていたはずだ。
もしかすると地震で機材が壊れてしまったのかもしれない。
さっきのドアの音も先生が直接確認しに行ったということなのだろうか。
如何せん机の下からでは状況がよくわからない。
一体どうなっているんだ。
そんなことを考えつつ俺たちは数分間机の下で待機をし続けた。
***
幾ら待っても先生からの次の指示は来なかった。
するとクラスメイト達はしびれを切らして机から体を出し始めた。
俺も腰が痛くなってきたので外に出ることにした。
なんとなくわかってはいたが、教室は酷いありさまだった。
床に教科書やノートが散らばり、黒板の上に飾ってあった優勝トロフィーが床に落ちていた。
綺麗に並べられていたはずの机や椅子もぐちゃぐちゃだった。
これまで地震は何度か経験したことあるが、今回は一番大きかった。
「あれ、先生いなくない?」
「ほんとだ、どこ行ったんだよ先生」
「廊下にも誰もいないよー」
皆が口々に報告する。
「ちょっと俺、先生探しに行ってくるよ」
そう言ったのは榊徹だ。
普段から率先して動いてくれる彼は、この非常時にも変わらないらしかった。
「まって、勝手に動くのはやめた方がいいよ。戻ってくるまで待ってようよ」
クラスの女子が止めに入る。
確かにこの非常時に先生がいない状況で独断行動はマズいかもしれない。
しかし、かなり大きな地震が起きたというのに校内にとどまるのも危険だ。
速やかに屋外に出た方がいいとも思う。
「何かあったらどうすんだよ。こんな時に生徒を置いてどっか行くなんて絶対おかしいって。何するにも俺たちに一言くらい言うだろ」
「…っ」
榊の反論に女子は黙ってしまった。
言われてみればそうだ。
教室を出るにしても俺たちに何も言わずに放置するなんておかしい。
続く言葉はなく、榊が教室を出ようとドアに向かった。
「っも、もし行くなら、全員での方がいいと…思う」
俺が言うとクラスメイト達が驚いた顔をしてこっちを見てきた。
榊も足を止めてこちらを見ている。
それもそうだ、普段クラスの隅っこで縮こまっている俺が発言するなんて誰も考えていなかっただろう。
こういう目立つのは苦手なんだけどなぁ。
クラスメイト達の視線が痛い。
柄にもなくこんなことをしてしまって大丈夫なのか。
不安が止まらないが、声を発した以上は取り返しがつかない。
このまま突っ走ることにした。
「っせ、先生が戻ってこない理由はわからないけど、地震が起きた後だし早く外に出た方がいいと思う。それに先生が戻ってきても結局は避難することになるだろうし、外に出る途中で先生を探せばいいんじゃないかな」
俺はさっきまで思っていたことをクラスメイト達に話した。
実際、避難の最中に先生を探すかどうかはわからないけど俺は早く外に出たかった。
一瞬の間の後、クラスの皆は互いの顔を探った。
誰もが次の発言者にはなりたくないといった様子だ。
そんな中、1人が声を上げた。
「それでいいんじゃなぁい? もし先生が無事なら問題ないし、何かあったとしても私たちで何とかできるとも限らないからね。巻き込まれでもしたらそれこそダメじゃん? 黒板に伝言でも書いてればいいっしょ」
水野輝星さんが俺に賛同してくれた。
いつも気だるげで掴みどころのない印象だったが、意外にも論理的な話し方をするんだなと驚いた。
俺もそうだが非常時には普段見せない一面が浮き彫りになるのかもしれない。
「あぁ…そうだな。とりあえず黒板に伝言だけ残して皆で避難しよう」
それからの俺たちの行動は早かった。
水野さんが殴り書きで『そとにいまーす』と黒板に書いて、その間に各々が自分のカバンから必要なものを取って急いで廊下に出た。
「委員長、点呼した方がいいんじゃないか?」
「っえ、あ、うん」
榊に言われて委員長の市川さんと原田が点呼を始めた。
「16人、そっちは?」
「15人、大丈夫全員いる」
慣れた感じで素早く点呼を終えた二人は榊に報告した。
「よしっ行こう」
榊の声で俺たちは避難を開始した。
***
俺たちは校内の様子を探りつつ避難した。
他のクラスは窓やドアが閉まりきっていたので、開けて中の様子を見たけど誰もいなかった。
俺たち同様、既に避難をしているのだろう。
しかし、一つ不思議だったのは異常なくらい教室が荒れていたことだ。
俺たちの教室と違って他クラスの教室は壁にヒビが入ったり窓が割れたり、天井が崩れかかっていた。
よく見ると廊下にもいくつか亀裂が入っている。
俺たちの教室だけ被害が少ないというのは妙な感じだった。
「なんか人少ないね」
隣にいた小森さんが話しかけてきた。
廊下に並ぶ時にたまたま近くになったのだが、よくよく縁があるなと思う。
「そうだね、皆無事に逃げてればいいんだけど」
おそらく俺たち以外に人が見当たらないのは、既に避難が完了しているからだろう。
俺たちは中山先生の指示で机の下に数分間待機していたし、それからも話し合いでそれなりに時間を使ってしまっている。
つまりは単に俺たちが逃げ遅れただけだろう。
「へー、貝原君って優しいとこあるんだ」
小森さんはニヤニヤと笑いながらそう言った。
「え? どういうこと?」
今のどこに優しい要素があったのだろうか。
「こんな状況なのにみんなのこと考えられてすごいなーって。さっきも皆で逃げること提案してたし、今も皆逃げられてたらって。いつも一人でいるから人のこと興味ないのかと思ってた」
そんな風に思われていたのか。
別に俺は好き好んで1人でいたわけではないんだけど。
「別に…そんなことないよ」
「そっか」
あぁ、もう!
どうして俺は小森さんがせっかく話しかけてくれたのにこんな返ししかできないんだ。
もっとユーモアのある返しができるだろう。
「まぁね、俺優しいから」とか「あぁよく言われるんだよねー」とかちょっとくらいボケれば良かった。
いや、これはこれでキモイか?
などと俺が1人反省会を始めたころ、前方で何やら騒がしくなっているのに気づいた。
俺は逃げるように前の方へと移動した。
「どうしたの?」
「ちょっと見てくれ」
榊がそう言って前を指差す。
「っえ。血?」
それは血痕だった。
廊下の左側の壁から床の中心くらいまで広がっている。
既に乾きかけていて足で触ると、かすかに伸びた。
しかし、血痕の大きさからしてかなりの出血量だろう。
これを作った人は無事なのだろうか。
「いや、死んでてもおかしくない」
思わず声に出ていた。
「あぁ、でもここに死体がないってことは自力で歩いたか誰かに助けられたんだろうな。それにこれ…」
榊が指をさしたあたりを見ると、血の跡が先へと続いていた。
「移動してる…?」
「多分な。でも何があったらこんな出血するんだ?」
榊はボソボソと何かを言いながら周囲の様子を探っている。
確かにこの廊下はヒビこそ入っているが窓ガラスは割れていないし、瓦礫なども落ちていない。
出血の原因らしきものが見当たらなかった。
「おーい、どうしたんだ?」
「あっ」
気づくとクラスメイト達が狭い廊下に列を乱して集まっていた。
後ろの方に居る人は様子が見えなくて、困惑している。
「さ、榊君…確かに気になるけど、今は避難を優先しよう」
俺は何かを探している様子の榊に声を掛けた。
「あ、あぁ。そうだな。ごめんみんな! 行こう」
そうして俺たちは再び列を作って歩き始めた。
***
「ねぇ、なんかすごい匂いしない?」
俺たちは異様な匂いを感じた。
下水のような、金属っぽいようなよくわからない匂いだ。
ただその匂いは強烈で不快だった。
今にも吐きそうになる。
俺たちは教室のある廊下を突き当りまで進み、右に曲がり職員室のある棟へと移る大きな廊下へと入った。
その瞬間、再び前に居た榊たちが足を止めた。
今度は何を見つけたのだろうか。
この強烈な匂いの元凶だろうか。
俺は前へ行き様子を確かめようとした。
今回は広い廊下のため、小森さんや他の後ろにいた人たちも前へと集まった。
「うぅおぇ…」
「いやっ、うそでしょ」
前方からは今までの匂いに紛れて吐しゃ物の匂いがした。
すすり泣く声も聞こえる。
一体何があったんだ。
俺は速足で前にいた人たちを押しのけて先頭に出た。
そして、俺の目に入ってきたのはおおよそ現実とは思えないものだった。
血だまりの中には人が倒れていた。
そして、その人には腰から上が無かった。
血だまりのさらに奥にその人の上半身らしきものが見えた。
俺たちは顔を確認するために恐る恐る近づく。
――え、うそでしょ
――なんでだよ
――いや、先生!
死んでいたのは――
「…中山…先生…?」




