第七節:Le sommeil, sourire
セイシェル・ハイブライトの不在のため、彼の元へ行けないリデル・オージリアス・マクレーンは自分の机の上に積み上げられた本を無造作に手にとって流し読みをしていた。
単なる退屈しのぎであるが、外から流れる話し声からラサーニャ・ハイブライトと出掛けたらしい。
セイシェル以外に会いに行く人物があまりいない彼はぼんやりと本を読むことにしたが、トールス一家のことを一人になると思い出してしまう。きっと一種のフラッシュバックだろうか。
リデルは振りきるように本を乱暴に閉じ、バンと音を立てて机に置いた。
「リデル、入るよー」
コンコンと、やや大きめな音と暢気な声に溜め息をつく。
「……開いているから入れ」
この声は間違いなくラルク・トールスだ。きっとルディアス達もいるのだろう。
「じゃあ入るねー」
明るい声とともにドアを開き、ぞろぞろとリデルの部屋に入ってくる。
後ろから見慣れぬ銀が目に入る。
「初めまして、リデル様。ラルク様から伺いました。シャール・レイモンドです」
にこやかにリデルに挨拶をし、また後ろに下がった。
見知らぬ地なのに堂々としているのがリデルに首を傾げさせたが、直後にラルクの感嘆声が耳に入るので考える隙すら与えられなかった。
「へえ、勉強熱心だな。俺、一分で死にそうだよ」
「せめて五分にしろよ」
呆れて気だるげに返すとラルクは「頭が痛いからやだ」と言って顔を歪める。
言うだけ無駄で、何よりラルクだから勉強しなくてもいいかとも思って黙る。
その間、シャールはずっと笑みを崩さずに会話を聞いている。
彼の様子から九歳にしては物分かりがよく、判断力にも富むであろう少年。
一般的な九歳に当て嵌めるからおかしいと考えてしまうのだがラルクのほうが年相応の『らしさ』を残しているような気がした。
これは武器になるかもしれないが、どうしても歪だと感じずにはいられない。
そして、もうひとつ。
信用できない香りがシャールの纏う雰囲気から発せられる。
直感が判断しただけなのだが、深く入り込むのは危険だと脳内の警鐘がガンガンと鳴り響く。
「あ、そうそうリデル。今日歓迎会だろ? ジェイソンさんらも来るみたいだし、行こうぜ」
ラルクが割り入って話し掛ける。正直言って助かったと思う。
「きっと豪華なんでしょうね。お、いえ、私には想像つきません。こういう場には慣れてないから緊張す、しますね」
ラルクに同調するように話し掛けたシャールにおっと目を見張る。
一瞬だけ垣間見た九歳らしき片鱗。
しかし、それはすぐに引っ込んでしまい、リデルは隣にいるラルクと比べた。
間抜けな表情が目に入り、思わず年齢を逆転したらよいのではという本音が浮かんだが、それは胃の中にでも入れておこう。
「リデル様、そう言えばラサーニャ様とセイシェル様が御出掛けになられたとお聞きしましたがどこに行ったのでしょう。朝からお出掛けしているようですが」
そう言えば気になっていた。ラルクの後ろにいたルディアスも、彼らの更に後方にいたルキリスから放たれた話によってリデルに注目する。
「まあ、セイシェル様だからラサーニャ様の無茶振りにでも付き合っているんじゃないか? 女性に弱いからな」
「へえ、押しに弱いのですか。意外ですねえ」
あの無表情なセイシェル様が、と、ルディアスは目を丸くしながら頷く。率直な意見にリデルも思わず笑みを浮かべた。
ソフィアの一件以来、女性に対して懐疑的なセイシェルにも諦めず接してきたラサーニャだ。何だかんだ彼女には信頼も寄せているらしい。
「でも、ラサーニャ様は気の強そうな感じがしますが、セイシェル様ってそういうの、苦手なイメージがありますね」
またしてもルディアスの率直な意見。
「ルディアスは本当に素直なのね、羨ましいわ」
ルキリスは彼の素直な受け止め方に感心すらしたのだ。思っていることをそのまま口に出すのは意外と難しい。
人の顔もあり、周りの立場も考えなければならないのだ。
だから、ありのままを受けとめてもらえるラルクやルディアスのことをリデルはルキリスと同じような感想を持った。
不意にそこへシャールが視界に入る。
彼はにこやかに、落ち着いた様子で話を聞いている。それがどうしても歪に感じたが、ルディアスはそうではないらしい。
「ラルク、シャール君を見習えよ。さっき迎えに行ったら先生の話を熱心に聞いていてさ、もうハイブライトの慣習を覚え始めているぞ」
「シャール君、熱心だなあ」
「いやいや、そんなことありません。でも、嬉しいです。ありがとうございます」
ルディアスの褒め言葉にシャールは照れながらも黙って受け止める。
このやり取りを見たリデルは少し微妙な気持ちになったのだが、呑み込んだ。
恐らく、振る舞いがセイシェルとよく似通っているのだろう。どこか攻撃的で、誰にも剥げない仮面を被っていると思うのだ。
しかし、終始にこやかに話し掛けるシャールの様子を見て、こんな風に感じるのはおかしいとも考えた。
(まあ、深く考えるのはやめておこう)
今日は楽しいパーティだ。
今から考えたところでどうしようもない。それよりも、せっかく並ぶ豪華な食を味わいたかった。
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歓迎会の前準備。
ラサーニャ・ハイブライトはクローゼットからドレスを取り出し、じっと眺めていた。
「ここまで帰ってくるのに時間がかかってしまったわ。遠出はよくないわね」
一人ぼやくと、ばさりと服を脱ぎ捨てる。
「おい、少しは私のことも考えてくれないか」
まるで空気のように扱われるセイシェル・ハイブライトの悲鳴が部屋に響くがラサーニャはお構いなしである。
「家族だし、いいでしょ?」
この返しに彼は反論を諦めた。
そこへ、彼女が着替え始めたのは予想通り燃えるような赤のドレス。
体のラインが強調されるそれはセイシェルの目にはいささか刺激が強すぎたようだ。
これも、特に気にしないのがラサーニャなのだが。
「私、ドレスって嫌いなのよね。きついし、息が苦しくなる」
そう言ってラサーニャは微笑んだ。
この意味深な笑顔が、どうも苦手だ。
今のは特に意味がないとは思うのだが、胸がざわめく。
「あら、セイシェル。ぼーっとして、どうかしたの?」
「……ああ、いや、何でもない」
我にかえってラサーニャに心配されていたことに気付いたセイシェルは恥ずかしさやら怒りやらで部屋から飛び出した。
どうしてこうもラサーニャにはやられてばかりなのか。少し理解に窮する。
「しまったなあ、迷っちゃった」
幼い声が耳に入り、セイシェルは気を落ち着けて辺りを見回す。
前方にいたのは礼服と銀髪が似合う少年、シャールである。
彼は目敏くセイシェルを見つけると、ゆっくりとした足取りで駆け寄ってきた。
「あ、セイシェル様!」
その表情は、とても子どもらしいとは思えなかった。
「初めまして、シャール・レイモンドです。そうそう、皆さん探しておられましたよ? お噂は予々伺っておりましたが人気なんですねえ」
挑発的とも受け取れる言動を何の躊躇いもなくしている彼から敵意と闘志を感じたセイシェルは目を細める。
「一つ知ったことがあるんですが父とソフィア様とシリウス様は幼馴染みでよく二人の相談に乗っていたんだとか、ご存知でした?」
直接問いかけるシャールからは怒りと憎しみをはっきりと感じて、胸が痛くなる。
昔の自分を見ているようだ。
隠そうともしない言葉の刃と責めるような視線。
「あ、誰かやって参りましたね……そろそろ戻ろうかな……スピーチ、セイシェル様が行うんでしょう? 楽しみにしていますね」
にこやかな笑顔は崩さず、一礼して去っていった。
罰せられるべきだと言わんばかりのシャールの敵意にまたズキリと胸がいたんだ。
「セイシェル、遅くなってごめんね。でも何かあった?」
ラサーニャが心配そうに様子を窺うがセイシェルは持ち前の取り繕いで返した。
「少し、気分が悪くなっただけだ……」
丸腰で喪失を受け止めなければならないシャールに嘗ての自分を思い起こされる。
「セイシェルもあんな感じだった。どこか危うくて」
不意打ちとも言える彼女の言葉にセイシェルはハッとして彼女の顔を見た。
あの山。シリウスがやって来た山。
お礼を言いそびれてしまった。
「行きましょうか、セイシェル」
彼女に促され、セイシェルはパーティ会場に向かった。
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まだ、ハイブライトの長男によるスピーチもなく、用意された食事を少しずつ、真っ白な皿に盛っていく。
レディシア・キースは慣れないスーツを着て、汚さないよう神経を張り巡らせていたため、なかなか楽しめないでいた。
開始当初はシャールと一緒にいたのだが、彼は外に出てくると言って離れた。
両親の到着はいつも遅く、リデル・オージリアス・マクレーンたちも何処かへ行ったきりだ。
「さみしいなあ……」
心の声を思わず出してしまうレディシアの元へ、シャールは「ごめん」と、笑顔で戻って来た。
途端に晴れやかな気持ちになるレディシアだが、彼の体調が心配になる。
慣れないことがたくさんあって疲れているだろうと考えたのだ。
「あ、遅かったね。シャール、もう大丈夫なの?」
パーティー会場に戻って来たシャールを心配するレディシアに彼は「大丈夫」と答えた。
「そう、それならいいんだけど。でも、シャール」
「あらー、レディシア!」
シャールに話しかけようとしたところへ、彼の名前を呼ぶのはヘレン・キースだ。シャールはレディシアの母親でもある彼女を少し苦手にしていた。
「シャール君とも一緒だったのかしら?」
「あ、うん。お母さん、遅いよ」
レディシアは拗ねたように口を尖らせるが、ヘレンは豪快に笑って「明日ご飯にいきましょ」と言うだけだった。
「やれやれ、ヘレンにはいつも待たされるよ。それよりシャール君、ハイブライトには慣れたかい? イザベラ様のことなら心配しなくていい。ハロルドさんに依頼してある」
「あ、ありがとうございます」
「気にしたらいけない。ブルネーゼ君たちもシャール君のためならと協力してくれてるから」
ジェイソン・キースは穏やかな笑顔でシャールがいなくなった後のことを報告し、彼を安心させた。
イザベラ・レイモンドもハイブライトに行くシャールを内心かなり不安に思っていたに違いない。
「あ、レディシア君を付き合わせてしまってすみません……私、もう一度外に出てきます」
突然、彼は目眩を覚えた。三人が並んでから急に起こったのだ。
「だ、大丈夫?」
付き添おうとするレディシアにシャールは引き吊った笑みで大丈夫だと頷いて再び会場から離れた。
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扉をそっと引いて外に飛び出した彼は近くの壁に凭れるようにしてしゃがみこんだ。
彼から生気さえ奪おうとしている目眩がそうさせているのだが、この正体は判明していた。
嫉妬、恨み、怒り、悲しみ、絶望。
壁越しに耳を寄せると「ようこそ、皆様」と、爽やかな声が聞こえる。
セイシェル・ハイブライトの声だと、シャールは直ぐ様認識した。
シリウスとソフィアの恋物語に付き合わされた哀れな父。ハイブライトに責められたに違いない。直接的ではないにしても。
此処に来た瞬間、皆が口を揃えて言うのはハイブライトを裏切った男女と促した人間たちのこと。
(そんなに他人が大切なの?)
沸き上がる怒り。でも、父はいない。
皆は両親に囲まれて幸せそうなのに、自分はレディシアがいなければ独りだ。
レディシアに寄りかかっていた部分もあるが、彼は両親が来た途端、嬉しそうな顔で甘えに行っていた。
父がいれば、家族三人ずっと一緒だったのに。
許せない、赦せない。
間違いだと分かっていてもシャールは自分のそばにいてくれるレディシアに負の感情を向けてしまいそうだった。
(どうして? ねえどうして? 皆何で見せつけるの? 人の気も知らないで!)
衝動を抑えるにはまだ幼すぎた。
自身の前髪を掴むようにして顔を覆って静かに泣く。
消えてしまえ、何もかも。
非現実かつ無慈悲な願いを唱えてしまう。
「シャール……? シャール!」
レディシアはずっとシャールが戻って来ないのを心配して駆け付けたのだが、彼が蹲って泣いているのが見えた。
「……シャール」
しかし、何も言えない。
自分が思い付く言葉でシャールを励ますことはできないとレディシアは歯噛みした。
もっと言葉を知っていたなら、彼の悲しみを拭えるかもしれないのに。
「……ごめん」
涙に濡れた声でシャールがレディシアに謝罪の言葉を漏らした。
「ごめん、ごめん、レディシア」
ただただ懺悔するだけ。
「シャール……どうしたの?」
レディシアは恐る恐るシャールの前に移動し、両手を背中に回した。
短すぎて届かない。それでも彼は必死に両手を伸ばした。
「シャール、シャール、泣かないで」
肩を震わせて泣くシャールに必死に伝える。
「僕、ずっとそばにいる。そばにいるよ」
何があっても、絶対に。
自分だけは彼のそばにいると、レディシアは堅く決意する。
どんなことがあっても、そばにいて、彼の悲しみを受け止めたいとレディシアはずっと思っていた。
「ごめん、ごめんね、レディシア。そばにいてくれる? ひとりにしないで、お願い」
「うん、そばにいるよ」
直ぐに妬んでしまってどうしようもない。
レディシアに寄りかかるのは駄目だと、彼の兄でいなければならないのにと戒めるが、もうどうにもならなかった。
シャールはレディシアの胸に顔を寄せ、彼にすがるようにして泣いていた。