第六節:Bonheur de cartes
懺悔と、嘆きと、悲しみと、疲労が鬱積する。
何十年経とうとも、どんな懺悔も刻まれた憎しみが変わることはないだろう。
だが、憎しみは憎しみを生み、輪のように回って何度も繰り返す。
一度は見てみよう。
一度は聞いてみよう。
――そして、変わりゆく世界と思考。
知ってしまえば、理解してしまえば二度とそこにはいられないとも知らずに。
『まだ見ぬ世界に焦がれ、板挟みに苦悶する。なんて愚かだろうか』
****
ハイブライト家のとある一室。そこは本棚と机とタンスとベッドが敷き詰められている。
ワインレッドのソファに腰掛けるシリウス・ノアシェラン、その隣に座るセイシェル・ハイブライト。
セイシェルは少し困惑していた。
無理もないだろう。彼の隣には憎むべきシリウスが鼻歌を歌いながら腰掛けているのだ。
「セイシェル君、もうすぐイリアが来るそうだね」
そもそも、どうしてシリウスは此処にいるのだろうか。
どうしてラサーニャはシリウスを連れて来たのだろうか。
母、ソフィア・ノアシェランはラサーニャによって撃ち殺された。シリウスがそのことを知らない筈がないだろうに。
(報復でもするつもりか?)
しかし、ラサーニャはシリウスのことを知っているから不可能だろう。
理解の範疇を越えていて首を傾げるばかりだ。
そんなセイシェルの困惑を余所にシリウスは気楽に過ごしている。
目の前の男が、よく分からない。
「イリアが来る頃になったら僕は一人かあ。寂しいよ、セイシェル君」
はにかむように笑う顔が子どものようで呆気にとられる。父の弟と聞くが全然似ていない。まるで、別人のようだ。
「冗談だよ、居候の立場で我儘言ってはいけないね。ごめんごめん。君のこと、つい困らせたくなるんだ。かわいいから」
「わ、悪いだなんて、これっぽっちも思っていないでしょうに……」
セイシェルはそこで漸く喋ることができた。シリウスはエネルギーに満ち溢れている。一言口に出すだけで疲れてしまうほどに。
きらきらと輝いているから、眩しい。
こんな瞳は知らない。寂しいと言ってくれる人も知らない。
「そうそう、困ってる君はかわいいね。純粋で強がっていて」
「はいはい」
これが、父の弟か。
幸せだと妬み、母を奪った不届き者。
セイシェルの心にはシリウスは冷酷だという認識が染み付いている。
こんなにも馴れ馴れしく話しかけてくるなんて。無邪気に話しかけてくるなんて。
ここまで積極的だと付き合わざるを得ない。シリウスは拒絶できない距離にいるのだから。
「ああ、やっぱり寂しいね。セイシェル君、今日はここにいてほしいな」
セイシェルは気づかないでいた。ハッとした時にはシリウスに腕を掴まれ、懐に飛び込む形になる。
「……君はやさしいね。僕を憎んでいるから、罵られると思って覚悟していた」
物思いに耽りながら独り呟いたように聞こえた台詞はセイシェルにも小さな疑問を残す。
彼の声は至って穏やかだ。
「君はカインをどんな風に見るんだろう。哀れだと思うのか、憎むしかできないのか。あの時の僕は兄しか見ていなかった。ソフィアを兄から引き離さねばと思っていた。彼女を苦しめる兄から引き離さねばと思っていた。引き離すつもりなんかなかったけど、やっぱり僕も浅はかなんだろうか。ソフィアは兄に威圧され、行動を抑制されることに悩んでいた。そして僕は兄にソフィアのことを考えるよう言った。それが正義感だと信じていた。でも、僕のせいで苦しむ人が一人でもいるなら、それは失格なんだろうね」
自己満足だと、シリウスは笑っていた。
「私は貴方みたいにはならない」
ぴしゃりと答えるとシリウスはそうだねと言うように、綺麗に笑っていた。
ここに縛られてはいけないと伝えに来たのだろうか。もう気付くには遅すぎた、ハイブライトに蔓延する愛憎。
知りたくなかった。ノアシェランのことには触れたくなかった。
触れてしまえば悲しくなり、羨ましくなり、憎らしく思うだろうから。
でも、知るべきだと思ってしまった。
ゆっくりと顔をあげるとシリウスが優しく笑ってセイシェルを見ている。
これが、父なら、よかったのに。
「私、用事があるので」
緩くもがくとシリウスは漸く解放し、いってらっしゃいと見送る。
一層カインが羨ましくなり、自分の惨めさを思い知らされたような気がして気分は最悪だった。
しかし、シリウスに対する怒りはないのは何故だろうかとセイシェルはずっと首を傾げていた。
****
部屋から出て本館に向かおうと歩き出したところでリデルと鉢合わせした。
そうか、リデルがイリアをここまで連れてきたのかとセイシェルは悟る。ある意味で他人にそこまで関わらないリデルは父としてもやり易いに違いなかった。
性別以外、どこか無関心なラサーニャにそっくりだと思ったのは伏せておこう。
「セイシェル様、随分遅かったのですね」
「そ、そうかな?」
「まあ、いいですけど。勉強ですか?」
「う、うむ、そうかもしれない」
勉強、なのだろうか。勉強も鍛練に違いなかったので多分そうだろう。
そこで彼はリデルをもう一度見た。
母はトールス家に働きに出掛け、父は女性に弱い。二人とも亡くなったがリデルは家族の不満やらを言わなかったため、何だかんだ仲は良かったのだろう。
男女ともに貞淑さを求めてくるハイブライトには理解されず、穢らわしいと末代まで罵られる有り様だ。
「あ、そうそう。ラルクに会ってきましたよ。典型的なハイブライトの思考を持つトールスの末弟です」
相変わらず気だるげな声でリデルはイリアを迎えに行った時のことを話し出した。
「アーサーとは対立気味だったが」
「典型的なハイブライトですからね。慣習とかに縛られるのはね。でも、ハイブライトに苦い歴史を刻ませたシリウスの息子と親友だとか」
リデルは相変わらず気だるげな様子だったが先程よりも声は弾んで聞こえた。
「アーサーとは似ていないな」
身分や噂や親の肩書きで人を判断しないところが純粋というべきだろうか。ハイブライトはどうしても噂などで判断してしまう。
「些か惜しいと、思いませんか? カインは触れるなって言われているぐらいなのに」
その言葉を聞いてセイシェルは無意識に胸を押さえた。少しだけ痛みを感じたのは気のせいではない。
「困っている人や頼まれごとには弱い奴でしてね、やはり勿体ないと私は思うのですよ」
「そ、それはお前の意見に過ぎないだろう」
詰まりながらもセイシェルはリデルに返答する。
彼らは兄弟だ、それも仲睦まじい。ラルクはアーサーを信頼し、アーサーはラルクを大切に思っている。
尤も、リデルに言っても無駄なのは知っているからこれ以上何も言わないことにした。
「ああ、イリア様をお連れしましたよ」
「そうか」
セイシェルは素っ気なく返した。リデルも見通していたのか、顔を曇らせて受け止める。
「善処しますよ」
これには絶対とは言い切れない。セイシェルもそれは分かっている。
「セイシェル様、一緒に行きましょう」
リデルは気を取り直してセイシェルの隣について歩き出す。彼も心強さを感じていた。
「リデルがいると助かる」
この、無口さがかえってセイシェルを安心させるのだ。
「それは嬉しい限りですね」
少しだけ、はにかむように笑ったリデルに少しだけ寂しさを覚える。
置いていかれたような感じを受けたのだ。自分だけが狭い空間に取り残されたようで。
こんな時に思うのは、にこやかな笑顔で出迎えるシリウスだった。
彼なら、待ってくれるだろうか。変わるのを受け入れてくれただろうか。
考えても仕方ないと通路を黙々と歩き出した。
****
「アルディ様、お初にお目に掛かります。私、イリアと申します。お会いできて嬉しいですわ」
イリア・ハーバードはアルディの元に来て、彼の前に現れた。ここまで連れてきたのは勿論ラサーニャ・ハイブライトである。
アルディの座る広間は豪華とは言えないが静かに存在感を示す物に目を奪われながらもきちんと言えた。
アルディはソフィアが再び現れたのだろうかと思いながら彼女を見つめていた。
「初めまして、イリア様。私、アイシアと申します。父上、せっかくですし、イリア様にハイブライト家を案内したいと考えておりますがいいですか?」
「ああ、そうしようか。色々と知りたいと思っているだろうからね。イリア」
一見、淡々と言っているだけに見えるアルディの瞳に狂気を垣間見たアイシアは内心怯えていた。
ラサーニャも同じらしく、泣いているのか笑っているのかよく分からない表情で見つめている。
狂気を見たくないのだろうか。
「イリア、ところで君はセイシェルを知っているかな? 僕の息子なんだ」
二人の心境にはお構い無く、アルディは微笑みながらイリアに尋ねる。彼女を見る瞳がぎらついているのをアイシアは直視し、ラサーニャに視線を向けた。
「あら、セイシェルなら友人と一緒ではないですか? イリアも退屈でしょうし、案内しましょう」
セイシェルの到着は遅そうだとラサーニャは直感で察した。イリア、またはアルディに会いたくないのだろう。
「そうかあ、じゃあ、イリアに退屈させても悪いからアイシア、案内頼めるかな?」
「あ、はい、畏まりました」
ラサーニャのおかげで助かったとアイシアは母に感謝した。どこか冷たい印象を受ける彼女だが、セイシェルを思っているのは間違いない。
「丁重にお願いね」
そこでアルディは本に目を通した。たった一言だけなのに震え上がるのはどうしてだろう。
とにかく此処に長くいれば崩れ落ちそうな気がしたのだ。
「大丈夫? 先程から手が震えていたわ。ちょっと気になっていたの」
アイシアが気が付いた時にはイリアが心配そうに彼の背を擦る。
「お気遣い、ありがとうございます」
「あら、とても丁寧なのねアイシアは。私のことはイリアでいいわ。様付けってだめね、聞き慣れない」
彼女の笑顔にアイシアは安心する。
聞いた話、イリアはソフィアとは違い、とても活発で明るいとラサーニャから聞いた。
彼女がいれば居心地の悪いハイブライトの雰囲気もこれでよくなるだろうか。
そんな大役を彼女に任せるようなことはしないのだが。
「アイシア、気になったことがあるんだけどいいかしら?」
イリアは幾らか顔色のよくなったアイシアに尋ねたいことがあった。
「お兄様ってどんな方? 優しい?」
彼女は先程のアルディの『一番大事な息子』のことが気になるのだろう。しかし、兄を知るアイシアにはどう話せばよいか分からなかった。
ノアシェランに複雑な心情を抱える兄のことをイリアにどう伝えようか。考えるうちに疲れが出てきたのに気付いたアイシアは立ち止まる。
「この辺りで待ちましょうか。兄上はもうじき来るでしょうから」
果たしてどんな反応を示すのか。アイシアには予測できないでいる。
「悪いわね、アイシアに気を遣わせて。それにしてもあなたは曖昧なのね」
イリアは気になっていた。アイシアが目を逸らしながら話していたことに。語尾が弱々しいことに。
「何か後ろめたいことでもあるのかしら?」
イリアは隠し事が嫌いなのだろうか。はっきりしたい性格なのだろう。
それでもアイシアは兄の心情を言うことは出来なかった。うまく言えたらいいのだろうが。
「あ、えっ、えっと、ごめんなさい。言い過ぎたわ」
アイシアが固く口を閉ざしたことで走る緊張感に彼女は耐えきれず謝罪の言葉を洩らす。
「い、いえ、こちらこそ」
アイシアも謝罪の言葉を発する瞬間にリデルとセイシェルの姿が見えた。
「兄上、リデル殿、お待ちしておりました」
正直助かった。この空気も然り、女性と二人きりというのは気恥ずかしい。ハイブライトの血を引く女性なら尚更だ。
パッと明るくなるアイシアの表情を見たリデルは直ぐ様助け船を出した。
「アイシア様を困らせるなんてことしていませんよね? かなり参ってらっしゃいますが」
リデルの笑みには明らかに彼女をからかおうとする色が浮かんでいる。
「困らせてなんかいないわ」
慌てて訂正を入れるイリアにリデルはまたしても反撃をし、セイシェルも加わった。
こんな兄を見たことがない。それよりもおかしくてたまらない。
「アイシア、笑ってないで止めなさい!」
「まあそうムキになるな」
「お兄様!」
笑うアイシアを睨み付けるイリアにセイシェルが追い討ちをかける。
「リデルのせいでお兄様にもアイシアにも笑われたじゃない」
「まあイリア様、リデル殿をそう責めないでくださいな」
止めに入るアイシアの表情がイリアをからかうもので彼女は顔を真っ赤にしながら反論した。
とても楽しかった、この時だけは兄弟だった。
間違いなく、この時だけは兄弟でいられたのだ。
****
「イリア、楽しかったか?」
アイシアはラサーニャに呼ばれ、リデルも自室に向かうと言って離れた。残された二人の間には微妙な空気になる。
「ええ、とても楽しかったわ。毎日がこうだといいけど、勉強とか待ってるんでしょうね」
「嫌いか? 勉強は」
「あら、好きな人っているのかしら?」
「少なくとも、楽しいと感じさせるものもあるぞ」
「そうかもね。お兄様は勉強が好きそうね」
「歴史を除いては、それほど苦痛ではない」
歩きながらの会話が続いたが、そこでセイシェルは振り向き、イリアを見据える。
一方のイリアもセイシェルの視線を黙って受け止めた。
「まあ、知っていることもあるけど、もっと知りたいことがあるわ」
先程の兄とは違う雰囲気。射るような視線と身に纏う毒々しい空気。
イリアは敢えてそれを受け止めた。
「知って得することでもあるのか。分からないな」
そう言ってセイシェルはまた前を向いて歩き出す。イリアはその後ろ姿を見ながら歩を合わせて歩き出した。
掴み所のない兄に戸惑いを覚えたのは確かだ。
それからは比較的和やかに話が進められていく。
ハイブライトは広大な土地を利用し、権力を示すために巨大な城を築き上げた。
しかし、急激に発展し過ぎて貧富の差が一気に広がる。
一般的には六歳から十六歳までハイブライト家で礼儀作法や歴史、武術を中心に学ぶ。
それができない者は役員の部下について従うか……その先は伏せた。
「難しいのね」
イリアもあまり気分が良くないようだ。不意に時計を見て彼女は話を変えることにした。
「あ、そろそろ戻った方がいいわね。部屋は真っ直ぐかしら?」
戻ろうとして部屋をまだ知らされていなかったことに気付く。
「そうだな、真っ直ぐ行って最初の角を右に曲がる」
「ありがとう。お話できて良かった」
助かったとイリアは笑顔を浮かべ歩き出した。
そんな彼女の後ろ姿を見送るセイシェルの瞳には悲しみが滲んでいる。
母を思い出す。
否が応でも。
父も同じかもしれない。
好きでこうなりたいわけではなかったのに。
セイシェルは苦々しく思いながら自室に向かって歩き出した。
****
ゆっくりと歩きながら戻るとシリウスが笑顔でセイシェルを出迎える。
この人は自分の思いも知っていて接するのだからたちが悪い。
尚且つ人懐こい性格が拒絶できない原因なのだから厄介だ。
「イリアに会えた? どうも彼女は僕に似てるらしいね」
それはそうだ、何故なら自分の子どもなのだから。
でも、容姿は母に似ていた。なお、性格は完全にシリウス寄りだろうが。
「イリアもカインも兄がほしいと思っていたんだろうね。特にカインは。あ、そうそう。イリアは十の時にフレア・ハーバード殿とハイブライト家に行ったんだ。そうなるとアエタイト内にいる子どもたちの中でカインが最年長になるわけだ。十三や四にもなれば出稼ぎかハイブライトに行くかの二つしか残されていないわけだから」
シリウスは悲しそうに話しながら手近な場所に本を置いた。
開いたままにして置くものだから傷みやすくなるとセイシェルは溜め息をついた。本は綺麗にして保管したいと何となく思うから溜め息をついてしまうのだろう。
そんな、どうでもよいことを考え、カインに同情めいた感情を持ったことからはひたすら目を背けた。
頼られるのは嬉しいと考えたが彼の安らぐ場所は果たしてあったのか。
一方の自分には消極的だがまあまあしっかりしてした義弟がいる。話は苦手らしいが誠実なので信頼を寄せていた。
父の狂気や周りの高すぎる自尊心と妬みがハイブライトを歪ませた。歪むべくして歪んだ。
ただ、それだけだろうか。
「それにしてもセイシェル君。一つ気になっていたことがあるんだけどいいかな?」
セイシェルは頷き、シリウスの顔を見る。彼の瞳を見て、声を耳で受け止めたのはこの時が初めてかも知れない。
困惑を交えながら話を聞く体勢にある彼をシリウスは穏やかに笑って話し始めた。
「ソフィアから君のことを聞いた時、君や兄はきっと僕もカインも、いや、ハイブライトを滅茶苦茶にしたノアシェランを憎んでいるだろうと彼女は言っていた。僕もそう思っていたんだ。君がいつ僕にナイフを振り上げるかも知れないなんて、考えたりもした。正直ね。事実、ラサーニャはソフィアを撃った」
そこでシリウスは一息置き、セイシェルも肩の力を抜いた。
ただ、アウト・ダ・フェでのラサーニャの行動は憎しみという強い感情に依るものなのかについては疑問を抱いたが訂正は面倒なのでやめた。
セイシェルが再びシリウスの方へ視線を向けると彼はまた話し始めた。
今度は真剣な表情で。
「どうしてだろう。君からは憎悪を感じない。僕が救いようのないぐらい鈍いのか、君が隠すのが上手いのか。それとも、兄を思ってカインを憎む振りをしているのか」
静寂が広がる部屋で、シリウスの鋭い質問が真っ直ぐとセイシェルの全身に突き刺さる。
程よく気持ちよい風が入る筈なのに背中から汗が吹き出すのを感じていた。
時が止まったように思え、目を見開いたまま微動だにしない彼にシリウスはまたしても無邪気な声で促した。
「そう言えば中級生に会いに行くんじゃなかった?」
重たい静寂を切り裂くように軽快なリズムを奏でるシリウスの声が入る。
あの、一瞬の厳かな空気をいとも簡単に変えられる声に憧れる反面、動きを止めた張本人に急かされるのは何だか納得いかない。
しかし、時計を見ると時間が迫っているからどうしようもなかった。
「行ってらっしゃい、セイシェル君」
のほほんとした声がセイシェルを見送る。
こんな風なら、もっと楽だったに違いないのにと、もしもの可能性を考えずにはいられなかった。
****
部屋を出て、絨毯で敷き詰められた床を歩きながらセイシェルは理由のない苛立ちに悩まされていた。
父を狂わせたノアシェランが憎い。何も知らないカインが憎い。
カインが酷い目に遭うのは当然だ、父を狂わせた奴等の子供だから。
「そうでしょう? 父上」
既に誰かに問わなければ憎しみを維持できないでいることにセイシェルは気付かなかった。
仮に彼がその事実に気付いていても認めたくなかったのだろうか。
別の感情を受け入れてしまえば、ノアシェランに対する怒りは何だったのかと、最終的に自分で自分を否定しなければならないからだ。
羨ましいと、そうなりたいと思ってしまうぐらい、ノアシェランは幸せだったのだ。自分の望むものが近くにあるのだ。
ソフィアはシリウスと再会して、今度こそ自分の描く幸せを手に入れようと、諦めたくないと考えたのだろうか。
強い意思は時として人から善悪の判断を狂わせる。ソフィアも、そうだったのだろうか。
どういう事情であれ倫理観を無くすほどの感情を噴き出してしまったのだろうか。
そうだとしたら、知りたい。その感情を知りたい。
「……遅かったか」
考えながら歩くと時間の感覚が麻痺するようで中級生はもう殆ど教室にはいない。
それでも寄ろうとしたところ。
「早くやれよ!」
「もたもたするな!」
見下すように命令している声が耳に入る。
「やらなかったら俺たちが叱られるんだ」
中級生からハイブライトの意識が染み込んでいて、聞くに耐えなかったセイシェルは彼らを威嚇するように扉を乱暴に開く。
「君たちは振り分けられた仕事の半分も満足にこなせないのかな?」
「……せ、セイシェル様!」
まさか見られているとは思っていなかったのか、みるみるうちに顔色が青くなっていく。
「まあいい、私がやっておくから早く帰りなさい。やるべきことがあるんだろう? 振り分けられた仕事も人に押し付けたいぐらいだから」
セイシェルは中級生を手早く追い払い、机を磨く青年の元へ歩く。
「なかなかやるな。一人で掃除は大変じゃないか?」
感心したように青年の元へ近付き、机を動かそうとしたところだった。
自分の気配に気づき、顔を上げた青年。女性の色気と成長期に差し掛かった男子の両方を併せ持ち、艶のある黒い髪を後で束ねている。
何より、透明で輝く黒い瞳が、緩くカーブする睫毛が彼の正体を明かしてくれる。
(カイン・ノアシェラン!)
出来れば、会いたくなかったのだが中級生だから仕方ないという部分もある。それでも会わずに済むなら会いたくなかったのだ。
カイン・ノアシェランもまさかハイブライト家の長男が来るとは思っておらず、驚いている。
「セイシェル様……ですね……本当に。ずっと掃除していたから……お恥ずかしい姿をお見せしてしまって」
慌てふためき、顔を真っ赤にしながら話しかけるカインに距離が近いことを知って焦るセイシェル。
「か、カイン君……早く掃除しないか?」
何をドキドキする必要があるのか。戸惑いながらカインを見ると彼は照れながら笑う。
何故かは知らないが、この笑顔を見てはいけないと本能が警告している。
「私も手伝うから早く拭き掃除終わらせようか」
そばにあった台拭を取って表面を綺麗に磨いた。カインはかなり綺麗好きなのか零れているインクが無くなるまで拭き取っていた。
「熱心だな」
「机をピカピカにしたら気持ちが引き締まって勉強が捗るから。そう思いませんか? 何となく汚いと思っていたものが綺麗になる過程が好きなんです」
彼は何でも徹底的にこなさなければ気がすまない性格であることはこの言葉で全てを表している。
ソフィアも、そんな感じだったと朧気な記憶を辿りながら結論付けた。
シリウスは本を開いたまま置いて寝るので少しは見習って欲しいと考える。
「話は変わりますけど、俺、ハイブライトに来てまだそんなに経ってなくて」
一旦区切って黙っていたところをカインが切り出し、セイシェルは耳を澄ませる。
「でも、セイシェル様に会ってみたいなあってずっと思っていたんです。だから」
彼は手を止め、セイシェルの顔をじっと見る。そうなるとセイシェルもカインを見ざるを得なかった。
「会えて嬉しい。あなたに会えて嬉しいです」
セイシェルはカインが理解できなかった。
知っているだろうに、そこまで真っ直ぐ此方を見て、嬉しいと言う彼が。
「その為に剣の腕を磨いていたのか」
思わず出てしまった本音。
「あなたの目に留まるには誰よりも秀でたものが必要だから」
恥じらいもなく歯に浮くような台詞を言ってのけるとは。
「……妬まれることを知っていてもか?」
「そんなの、どうでもいい。あなたに会えるなら……ううん、あなたの耳に俺の名前が入るなら」
その告白と片時も目を逸らさないカイン。
セイシェルは情けなくも俯きながら掃除を再開するしかなかった。
* * * *
「ああーっ、早く終わりましたね! やはり一緒にやると早く終わるものですね。手伝ってくれて嬉しい」
どこか前来たよりも綺麗になってる机や床を見ながら達成感に浸る。
「セイシェル様、いつもこちらに来ていらっしゃるのですか?」
「いつもじゃないな。たまに来る」
「じゃあこうやって出会ったのも偶然ですね。何だか、益々嬉しくなってしまいました!」
無邪気に笑うカインにセイシェルは何とも言えなくなり、話下手であることを後悔した。
こんなことならリデルにでも教えてもらえば良かった。
「……両親は優しかったか?」
思わず、口からついて出た言葉にセイシェルはいよいよ顔を覆いたくなるがカインはしっかりと頷いたため少し助かった。
鎮静された怒りは噴き出しそうになったが、カインの「寂しかったかな」という呟きにセイシェルは思わず彼を睨む。
烏滸がましいという叫びを込めて、だ。
その視線はカインには届かなかったようで彼は「自分と同い年の子は皆出稼ぎに行くから」と、返した。
ちらりと彼の横顔を見ると少しだけ陰りが見える。
だから、答えに窮した。
彼の心の中にある闇を垣間見た気がしたからだろうか、胸が痛む。
自分にこんな感情があったのかと胸を押さえながらカインを見た。
何度も目は合った筈だが彼が意識して見たのはこれが初めてだったような気がするのだ。
「兄弟とかはいるのか? 私には気が強いが何考えているのかよく分からない叔母と消極的そうに見えてしっかりしている義弟がいるかな」
「そうなんですか、羨ましい……弟さん……。俺、男兄弟いなくて、でもしっかりした妹がいて、いつも我慢ばかりさせるなあと申し訳無く思ったり」
そして彼は再びセイシェルを見つめる。
自分は未だ慣れないのにカインは平然としているから、もうお手上げだった。
「本当に羨ましいな……。俺、セイシェル様が兄なら幸せだろうなあ、毎日」
カインの呟きに真綿で首を絞められるような感覚に顔を歪めた。こんな苦しみは知らなくていいのに。
しかし、もう遅い。耳に入ってきた言葉は二度と忘れることができないほど深く刻まれ、染み込む。
カインとの出会いは色々なものを奪い、与えられた。
「また会ってくれますか?」
時間が来て、館に帰らなければならなかったらしく立ち上がったカインが甘えるように聞いてくる。
別に構わなかったが、それ以上に首が操られたように縦に振った。
自分の意思とは無関係に、カインばかりを見るようになり、恐ろしくなったのだ。
****
カインと別れ、来た道を歩くが足取りはどこか安定していない。
「あ、セイシェル様、お帰りですか?」
前方から軽快な足取りでやって来たのはリデルだ。後ろには見たからに快活な青年と、彼を盾に隠れている少年。
「あ、初めまして、セイシェル様! ラルク・トールスと申します!」
リデルを押し退けるようにして前に出たラルクと後に続くようにゆっくりと歩く少年。
「初めまして、セイシェル様。シャール・レイモンドと申します。会えて光栄です、よろしくお願いいたします」
セイシェルに臆することなく、堂々と自己紹介をするシャールに彼が何度か目か分からない衝撃を受けた。
「二人とも、早く館に行くぞ。間に合わなかったらどうするんだ……。セイシェル様、すみません……お休みなさい、まあ明日」
そう言ってリデルは二人の背中を押しながら歩いていった。
「……なかなか大変だな」
他人事のように呟き、通路を歩く。
不思議なことに、いつもはどこか重たい足取りも今日は軽い。
ふわふわと浮いたままの気持ちで自室に戻るとシリウスがにこやかに出迎える。
「シリウス」
「お帰り、セイシェル。遅かったね、でも何か嬉しいことでもあった?」
直ぐにシリウスは自分の変化に気付き、セイシェルは理由もなく嬉しくなった。
「ただいま。カインに会った、それだけだ」
棘のない丸みを帯びた穏やかな声にシリウスは感嘆の声をあげる。
「カインったら、君のことを知ってからセイシェルのことしか話してなくてね。形振り構わず行ったんじゃないかなと思って」
「……でも、楽しかった」
即座に返答をし、セイシェルはまたしても首を傾げる。そして我にかえって顔を歪めた。
「可笑しいな、カインのことを憎んでいた筈なのにな……。カインと会って、また会いたいと思ってしまった」
「……セイシェル」
「ノアシェランは憎まなくては、ならないのに」
後から後から勝手に言葉が出る。まるで、吐き出すように。
「セイシェル」
初めて、シリウスの手にすがる。彼なら許してくれると思ってしまった。
自身の感情とハイブライトの間で葛藤するセイシェルにシリウスは語りかける。
「……ねえ、セイシェル。君が何を思おうが誰も咎めないし、況してこうでなきゃ、と、縛られることなんてない。君が僕らのことを憎いというならそれが正解だし、簡単には変わらないだろう。だから、カインのことを思っても、誰も咎めたりしない……ごめんね、セイシェル」
上手く言えなくて、と、シリウスは返した。
反射的に顔を上げると彼が、それは綺麗な笑顔を見せたのでセイシェルはゆっくりと目を閉じた。
とても眠い。
このままで眠りたい。
少しだけでいい。
「……お休み、シリウス」
セイシェルは彼に初めて笑顔を見せた。何の曇りもない、純粋な。
『もう、誰にも曝すことはあるまい』
誰かの声が聞こえたが、果たしてそれは何だったのか。
****
「起きて、セイシェル」
人によっては可愛らしいソプラノ声。だが、セイシェルにとっては耳につく甲高いものでしかなく、嫌々目を開けた。
「何だ……ラサーニャか」
ゆっくりと起き上がり、視界の端に入る窓から見るとまだ夜は明けてない。
そこで彼は気付いた。
「シリウスは?」
シリウスの姿がない。部屋を見渡しても彼の気配はない。
彼は何処に行ったのか。
ラサーニャに視線を向けると彼女は淡々と「来てほしいの」とだけ言った。
手近なところにあった羽織を投げつけられ、抗議をしようとするが相手が相手だけに諦めて羽織を着る。
するとラサーニャはふわりと笑って歩き出し、セイシェルも後に続いた。
誰もいない通路と無人のエントランスを抜け、あっという間に本館の外に出る。誰もいないから早足で移動出来たのだ。
どういうことだと問うが回答は来れば分かるの一言だったので諦めた。
こういう時は絶対に答えないと長年の付き合いから得たものだ。
ハイブライト駅を反対側に歩き、街からは離れていく。人は疎らだった。
やがて、整えられていない山道に差し掛かり、段々と息を荒くする。
それはラサーニャも同じようで、肩で息をしながら歩いていた。こんなところを歩く理由は知りたいのだが聞く余裕はない。
いつしかセイシェルがラサーニャをリードするようになり、彼女の手を掴んで歩く手助けをするようになる。
男女の違いを見たラサーニャは複雑だがセイシェルは特に気にしなかった。
険しい山道を無言で歩き続け、視界が徐々に広がる。
「もう少しね」
漸く声を発したラサーニャにセイシェルは頷いて更に歩を進める。
何時間歩いたのだろうか、もしかしたらそれほど経っていないかもしれない。
「ふーう、絶景ね。山なんて久々に登ったわ」
頂上に辿り着いたラサーニャは両手を思い切り伸ばし、ハイブライトを見下ろす。
神様にでもなった気分だ。
「シリウスと話せてどうだった?」
「……ああ、楽しかった」
「そうね、セイシェルならきっとそう言うと思っていたわ」
そこで彼は何となく全てを悟った。あの、シリウスの笑顔からして自身の末路を知っていたに違いない。
兄を恐れていたのかと考えたが、多分彼は遠い所に旅立ったのだ。ソフィアのいるところに。
それか、何処か遠く、平和な地へ。
「ただ、それだけだ」
今、彼は空からハイブライトを見下ろしているだろう。どんな風に見えているのか。
「何か、嘘みたい。此処にいると何もかもどうでもよくなるわね」
「……ああ、そうだな」
静かな声だった。
それから二人は何も言わず、前を見ていた。
沈んでいた太陽が昇り、空が明るくなってハイブライト全体を照らし出す。
いつの間にか、朝になっていた。
毎日、沈むように寝ていたからか、こんな光を見たことがなかったからなのか。
『カイン、お前は、見ているだろうか』
不意にカインに会いたくなった。会って、話がしたくなった。
そんなセイシェルにラサーニャは、彼には見えないように微笑んだ。
ある日の朝、何ら変化のないだろう日常の始まりの中。
見えないところで、今まで見ていた世界が、少しずつ変わろうとしていたのだった。