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緋の剣士に捧ぐ交響曲【第一番】  作者: 真北理奈
第一楽章:cauchemar Overture
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第五節:Melange

 交わりゆく線。最初は小さな点があっただけの空間に点と点が交わって一つの線となる。それは、良いことなのか悪いことなのか。

 成り行きに任せた者ではそのような判断もままならぬ。

 理由も分からぬまま、渦に呑まれていく――……。


****


 セイシェルがシリウスとの対面に呆然としていた頃、リデル達はアエイト駅で列車を待っている。行き先はウィラーだ。

「ウィラーでイリア様が待っていると言う……フン、どうせならアグナルまで行けばいいものを……ジェイソン殿の手前、そういうわけにもいかぬ」

「……ジェイソン様はウィラーがお好きなのね、あそこに一体何があると言うの……リデル様の言う通り、フレアのいるアグナルに行けばいいのに」

 ジェイソンと聞いてラルクは胸が騒ぐのを覚えた。恐らくアエタイトでは不都合なことでもあるのだろうと彼は考える。アルディの息のかかった者達も多いアエタイト、逆にフレアがいるアグナル――彼にしては謎の多い、慎重を極めた行動だ。

(ジェイソン様、大丈夫か? 少し心配かも……特に奥方であるヘレン様は怖いからな……尋問されてそうだなあ)

 心配する割には少し呑気に考えている。そのうちに列車が此方に向かってやってくる音が聞こえる。

「ウィラーに停車するものが来たか……行くぞ」

 リデルは冷たい口調で言うと、開いた列車の入り口に向かって歩いてゆく。

「お、おい、リデルっ……歩くの早いぜ」

 ラルクは慌ててリデルを追い、ルディアスとルキリスがその後を追った。

 しかし、アーサーだけは彼らから離れようと歩くのを止めており、偶々振り返ったルディアスがそれに気付き、彼の元へ来た。

「アーサー・トールス、今のお前に自由はないからな」

 淡々とした口調で言い放ったルディアスだが、アーサーを見る瞳は穏やかだった。

 本来ならば兄弟水入らずで休日を過ごす予定の時間がなくなったのだ。彼が不満なのは最もである。

 ルディアスに宥められ、高ぶった感情を何とか抑え切れたアーサーは力なく微笑んだ。

「……こんなところで意地を張るつもりはないよ。ただ、ちょっと考えていただけだ」

 アーサーが乗ったのを確認したルディアスも乗ったのであった。

「アーサー・トールス……」

 今ではリデルの方が上なのだ。彼はアルディに仕える学者の一人でリデルは幹部なのだ。部下を束ねる地位にあるリデルが絶対なのだ、ここは。

 ハロルドのことと自分自身のことで、どうすることもできず悔しそうな表情をするアーサーをルディアスは黙って見ていた。

「ルディアス……?」

 いつもと違うルディアスの様子に気付いたのは彼の相棒であるルキリスで、彼女は小さな声で彼の名前を呼んだ。

 こんな時間に列車に乗っている人は少なく、五人が一両目を独占している状態だったので小さな声でも距離が近ければ聞こえるのだ。 振り返ったルディアスに向かって彼女は心配そうな面持ちで声を掛ける。

「ルディアス、顔色が悪いわよ、大丈夫なの? ねえ、ラルク」

「えっ……あ、ああ、大丈夫か?」

 いきなり振られてラルクは困惑しながらも取り敢えず無難な声掛けをしたのである。

 そんな二人にルディアスは苦笑しながら「そんなに酷かったかい?」と返した。

 それに対しルキリスはおかしいと言わんばかりに笑い出し、ラルクはただただ困惑している様子だった。

 そんな二人の様子を見たルディアスは苦笑しながらルキリスに言い返す。

「へえ、どんな風に酷かったんだ? 生憎、ここには鏡がないから分からなかったんだ。ちゃんと詳細を説明してくれないと」

 コロコロと表情を変えるルキリスと彼女のペースに振り回されるラルクを見る度に明るくさせてくれる。

 チラリとアーサーを見ると、彼も穏やかな表情で二人を見ており、先ほどの敗北に絶望したような表情は窺えなかった。

(リデル様の方は見ないよう努めているんだろうな、あれは)

 わざとリデルを無視しているとしか思えないほど、アーサーは全神経を此方に向けている。

 リデルを嫌っているのだろうが彼らは多くを語らないため、ルディアスは首を傾げた。

 ただ、リデル自身もアーサーに反発するような素振りは時折見て取れるのだが。

「ルディアス、俺、リデルのところに行ってくる」

 そう言い出したのはラルクだった。彼もリデルのことが気になるらしく、先ほどから落ち着つかない様子で辺りを見回していた。

「粗相のないようにね」

 彼の無邪気な性格がリデルの癇に障るかも知れないと心配したルキリスが一言付け加えた。

「大丈夫だよ、ルキリス」

 無邪気な性格そのままに彼は眩しい笑顔を見せた。

 少年らしい活発さと無邪気さは二人を否応なく惹きつけた。多数の人間の醜い思惑が入り乱れる中でラルクの存在は癒やしとなっていたのだ。

 しかし、アーサーだけはリデルに歩み寄るラルクを不安げに見つめていたことに彼は気付かず、二人は敢えて何も言わなかった。


****


「リデル、どうかしたのか?」

 幼さを残すその声がリデルの耳を刺激する。アエタイトで威圧的に接し、怯えていた筈のラルクが話しかけている。

 それはとても新鮮そのものだった。

「相変わらず、お前は五月蝿いな。本当に頑固者レガーウィ・トールスの息子か? それにお前の兄はあまりよく思っていないのではないかな?」

「リデルに話し掛けることが、か?」

「そうとも。最も、こうなったのはお前たちの父親のせいだがな。お前たちは覚えてないかも知れないか。レガーウィ・トールスの下についていた私の母のことは」

 父の名前が出た途端、ラルクの顔が曇った。

 父は昔、小さな洋菓子店を経営していたのだが病に倒れた後は店を閉めた。

「母の話では自分に賛同してくれる者しか欲しくなかったそうだな。疲れ果てた母が話してくれたよ。ククク……」

 喉から絞り出すような声でリデルは自分のことを簡単に話した。

 確かに父は自分の思い通りにならないと気が済まない性格で、それに母が困らされていた様子を覚えているラルクだが、同時に自分たちの行く末を案じていた厳しくも優しい父であったと認識していた。

 不自由なく過ごせているのも父のおかげなのだが、リデルにとっては許し難い存在であったことを彼は初めて知った。

「……そ、そうか、リデル……」

 リデルの話を聞いて悲しげな表情をしているラルクが目に入った瞬間、何か勘違いしていると思った彼は直ぐに続きを話した。

「勘違いしないで欲しいが私は彼を恨んでいるわけではない。ただ、あの性格は問題があると思っているだけだ。まあ、父を盲目的に慕うアーサーからすればこの話は不快なのかな? 相変わらず弱い奴だな」

 挑発するようなリデルの発言を聞いたラルクはルディアス達の隣にいるアーサーをチラリと見た。

 確かに彼は眉間に皺を寄せ、リデルを睨みつけている。

「父親が好きなのも決して良いことではないらしい。ラルク、お前はどう思うかな?」

 ラルクが返答に困っていると耐えきれなくなったのか、アーサーがリデルの元まで歩いてきた。

「リデル、ラルクに余計なことを吹き込むのはやめてくれないか。見ろよ、ラルクが困っているだろ。それにそもそもこれはジェイソン様が指揮しているみたいだからな」

「兄さん……」

「ラルク、構うな。行くぞ」

「で、でも、俺」

「いいから来いよ」

「……」

 リデルの元から離れるのを何となく躊躇したラルクだが、アーサーに強く言われると逆らうことが出来ない彼は渋々兄の後ろをついていく。

 今までリデルのことも含めてアーサーが正しいと信じて疑わなかったが、リデルに対する彼の態度は納得いかない。そもそも彼がリデルの元へ向かったのが原因であることを忘れているのではないか。

「ラルク」

 兄に対する不満が脳裏に掠めたのを見計らうようにしてリデルは静かにラルクの名前を呼んだ。

 彼が弟に接近していることさえも不快なアーサーは顔をしかめるが、ラルクはリデルの呼び掛けに心の中で応じた。

 ラルクがこちらに傾きつつあるのを感じたリデルは微笑し「夜にお前の部屋に行く」と言ったのだった。

「ラルク、行こう」

 これ以上立ち止まるのも嫌だったらしく、アーサーはラルクの手を引っ張って行く。

 兄の手前、はっきりと意思表示ができないラルクだが心の中で「必ず行く」と返答した。

 多分、兄に対して不満を見せたのは生まれて初めてではないかとラルクが考えたところ、ふと頭の中に浮かんできたのはカインの顔だった。

 同期に虐げられ、憎悪と悲しみで顔を歪ませながらも剣技を極め、今やハイブライト内でも指折りの剣士として名を馳せる青年。そんな彼の本当の姿は生き別れの兄を慕い、会いたいと願う健気な弟。

(知っていた……兄さんならセイシェル様と繋がっているから、俺と行動を共にすれば会えるということは)

 そして、ラルクは力を貸すつもりだった。

 兄に認められたいがために頑張るカインの健気さに心打たれ、兄に言ったのだ。

 すると、セイシェルの境遇に心痛めているアーサーは激怒した。

(セイシェル様がありながら他の男と逃げた女の息子だろう! 俺は絶対に協力しないし、あの穢らわしい裏切り者の子の顔も見たくない!)

 多分、そこからラルクには分からなかったのだ。

(それは両親の話であってカインには関係ないと思うんだ)

 そんなラルクの思いとは裏腹にハイブライト内にはそうやって両親の過ちを子どもであるカインに向ける者は多い。

 ――どうして、そこまで過ちを責めるのか。

 カインのことと兄のことを考えているとルキリス達が立ち上がるのが見えた。

「ウィラーにつくわ。早く行きましょうよ」

 ウィラーに行くのが楽しみだったのか、彼女はルディアスの腕を引っ張って降りていく。

 ラルクは相変わらずアーサーの後ろを追うのだが、首を横に向けるとリデルが会釈をした二人を追い抜くようにして列車を降りていく。

「何なんだ、あいつは」

 当然アーサーは怒るのだがラルクはどうもリデルが態とアーサーの気を引こうとしているように見えてならなかった。

(リデルの態度は寧ろアーサーがああやって反応するのを面白がっているように見えるな……それにしても)

 夜に部屋に行くと言ったリデルだが、どんな目的があるのだろうか。

 終始、本当に何となくリデルに翻弄されたまま一行はウィラーの街に向かって歩いて行くのだった。


****


「ジェイソン様はウィラーが拠点だから落ち合うのには此処が都合が良いと考えたのだろうが、その本人が来られるのは明日の朝だからな。今日はゆっくり出来るぞ」

 ウィラーの宿に向かう一行の先頭を歩くリデルがこの後のことについて簡潔に説明した。

 今は黄昏時、かなり時間があることを知ったアーサーはラルクを誘ってウィラーの街を見て回ろうと思った。

「ラルク、ウィラーに来たし、折角だから見て回らないか?」

 少しの時間だけでも弟と過ごしたいと思っていたアーサーだが、ラルクは申し訳なさそうな視線を彼に向け、首を横に振った。

「兄さんの誘いは嬉しいけど、今日はゆっくりしたいんだ……ごめんなさい」

 そう言ったラルクの顔には疲労感が全面に表れており、アーサーもこれ以上強制はしなかった。

「そうか、じゃあゆっくり休めよ。俺は見て回るからさ」

 特に怪しむ様子もなく、アーサーは部屋に入ったラルクを見送ってからウィラーの街に向かって歩き出した。

 そして、一人になったラルクはベッドに身を投げ、ぼんやりと天井を見上げた。

「……別に嘘じゃない」

 疲れているのは本当だった。

 それにリデルの物言いにも傲慢な態度にも腹立たしく思え、疲労感も積もっていく。

 アーサーがリデルを気に入らない理由も納得いくはずなのに、どうして引っ掛かるものがあるのだろう。

「……あの時、何故、兄さんはリデルのところに行こうとしたんだ?」

 てっきりハロルドを探す目的で会いに行ったと思っていたが、どうやら違うらしい。

 そもそもアーサーがそこまでリデルを嫌悪する理由がラルクには思い浮かばない。

 確かに、腹立たしく思うときはあるがアーサーほど嫌悪することはない。

(……分からないことだらけ、だ)

 何故、列車に乗っていた時、アーサーに対して不信を抱いたのか。 もう何もかも分からなかった。

 ベッドの布団に身を沈めるラルクは自分では決して出せない答えを徒然と考えていた。

 ぐるぐると脳内で回り続ける思考。

 カインのこともアーサーのこともリデルのことも、結論など自分では出せないと分かっているのに止めることができない。

「……兄さん」

 知らず知らずのうちに兄を呼ぶラルクの耳に軽く扉を叩く音と低い声が響いた。

「ラルク、寝ているのか?」

 決して望んでいた声ではないが、そんなことはどうでも良かった。

 今は、この思考を止めたかった。

「リデル……?」

 ラルクは急いで起き上がると扉を開けてリデルを迎え入れた。

 てっきり困惑された表情を向けるのだろうと思っていたリデルだが、彼の訪問をすんなりと受け入れるラルクに少しだけ戸惑ってしまったのだ。

 例え、夜に行くと言っておいたとしても。

「珍しいこともあるのだな。アーサーの言い付けを素直に守るのかと思っていたぞ? あいつはお前を大層可愛がっているからな。傍から見れば変だと思うぐらいに、な」

「兄さんの言い付けは絶対だからな」

 アーサーを馬鹿にしたようなリデルの言葉に対し反論するラルクだが、どこか活気のない声にリデルは珍しい物でも見るかのようにラルクを見た。

「ほう、もっと自信満々に返答するのかと思っていたが……アーサーの過保護を疎ましく思うこともあるのだな。そうか、お前は普通の人間だというわけか」

 度々ぶつけられるリデルの言葉には人を馬鹿にするような雰囲気がありありと伝わり、アーサーのように毛嫌いする程ではないが気分はよくなかった。

 しかし、眉間に皺を寄せるラルクを後目にリデルは更に話を続ける。

「ハロルドも、模範的な人間だった。どこまでも温厚で平凡で……だからハイブライトを知らない幼い者たちは彼を慕うが、ハイブライトの空気に慣らされた奴はハロルドを妬み、疎ましく思うようになる」

「……何が言いたいんだ?」

 いきなりハロルドの名前を出されたラルクは更に困惑した。

 威圧こそすれど決して教えようとはしなかったのに。

 何故なのか、どうしてなのか。

 その疑問に答えるようにリデルは話を続ける。

「カイン・ノアシェラン。ハイブライト家当主の奥方でありながら他の男と駆け落ちした女の子ども。侮蔑しか向けないハイブライト内の中でお前だけはあの者に対して何の躊躇いもなく手を差し伸べた。だから話してもいいかと思っただけだ」

「……じゃあ、あのやり取りは」

 威圧しているようにしか見えない乱暴なやり取りはいったい何だったのか。

 リデルの言動に戸惑うラルクに対し、彼はさらりと答えた。「アーサーは兎も角、お前は私の部下だ。そのことを自覚してもらいたいと思っただけだよ、ラルク君?」

 傲慢とも言えるその態度に腹が立つ。

「勝手に決め……」

 しかし、その言葉は途中で飲み込まなければならなかった。

 リデルが、鋭い目でラルクを睨んでいる。

 ――アエタイトの時と同じ目で、こちらを見ている。

「……俺ではお前の思うように動けない気がするけどな」

 反論することを諦め、投げ遣りな言葉を放ったラルクにリデルは呆れたような表情を彼に向けた。

「私は他の奴らみたいに『主の命令には絶対』などという極端な考えは持ち合わせていないし、そんなことを言えるほど大した人間でもない。ただ、誰かさんみたいに自由極まりない行動を良しとはしないがな」

「……あ、ああ……」

 ラルクが思っていた以上にリデルは規律に厳しい。それも、極端なまでに。

 あの行動はそういうことで怒っていたのかと納得したラルクにリデルは溜め息をついた。

「もういい……。ハロルド様はハイブライト内にいらっしゃる。ただ、それは自らの意思で、だ」

 当たり前のような口調でハロルドの所在を告げたリデルにラルクは胸騒ぎを覚えた。

 果たしてアーサーがこのことを聞いていないだろうかと不安になったのだ。

 怯えたような視線を向けるラルクにリデルは更に話を続ける。

「ハイブライトにいる理由など、見ず知らずのシャールが父の死に泣いている姿を見た時のお前と同じではないかな」

「り、リデル……」

「お前は考えているようで考えていないみたいだな」

 ラルクにはもう何も分からなかった。

 彼がどんな意図を以てこんなことを言っているのかも、どうして教えてくれるのかも。

 困惑するラルクを後目にリデルは「まあ、ゆっくり考えてみろ」とだけ言い残し、部屋を出て行った。

 駅でのやり取りに引き続き、何となくリデルに振り回されたまま時間だけが過ぎていくのを感じたが、ラルクは未だ呆然としていた。


****


 一方、ウィラーの街を見て回っているアーサー・トールスは目に付く洒落た店にも入らず、街道をぼんやりと歩いていただけだった。

 ラルクが疲れていた様子を見て強引に誘うわけにもいかず一人で見て回っていたのだが、やはり寂しさだけは拭えない。

 思えば列車に乗っていた辺りから彼の顔色が少し悪かったような気もしたが、どうしてなのかと考えても皆目見当がつかなかったのだが。

(ラルクは煩わしいと思っているのかもしれない)

 今はもう昔だが、彼が十三の時にもハイブライトの不条理さに対して納得いかないと思っていたのだが、年齢を重ねる毎にハイブライトに呑まれていき、何時しか納得させられる。

 従わなければ、そこにはいられなくなる。

 ある時、ラルクがカイン・ノアシェランを親友だと言った時、アーサーはラルクを思い、胸を痛めたものだ。

 今は良くても、カインと関わっていると周りが感じたら、何れ彼も疎まれるだろう。

(俺は、ラルクが心配なんだ)

 無邪気な弟が、ただ心配なだけだった。

 ――それ故に、周りを無意識に跳ね除け、見える世界を狭めていることにも気づかぬまま。

 弟のことを考えながらアーサーが空を見上げると、陽が落ちていく空が目に入る。

「……陽が、沈んでいる。早く戻ってやらないと」

 宵闇の中、仕事を終えて酒場に向かったり、帰路を歩く人々の中に紛れながらラルクのいる宿に向かって歩いていたその時だった。

「おーい、アーサー」

 ラルクとは違うけれど、活気さを感じる若い青年の声。

「あ、ルディアス」

 アーサーが気がついて振り向くと、彼の元へ一直線に走ってくるルディアス達の姿が見えた。

 ルディアスの隣にはいつもルキリスがいて、少しだけ寂しい気持ちを紛らわすことができたが、完全には拭い切れなかった。

 アーサーの心情に気付いたルキリスは「ラルクを心底愛しているのね」と、微笑みながら言ったのだ。

 彼女に言われて初めて自覚したのかもしれない。

 ハイブライトに身を置いていた彼からすれば、ラルクと父だけが心の拠り所だったのだが、父がハイブライトに身を置いてから人が変わったように理不尽に厳しくなっていくのを見て、逆に心を痛めていたのかもしれない。

 戸惑うアーサーを見て、ルキリスは優しく微笑みながら言ったのだ。

「傍から見れば溺愛しているようにしか見えないのに、自覚がないのよね」

「ルキリス、それは……」

「別におかしいことでもないわよ。あら、もしかして照れているのかしら? 別にいいことじゃない。ラルクもアーサーを慕っているみたいだし、微笑ましいわ」

 アーサーの戸惑う姿を見てルキリスは微笑んだ。仲睦まじい兄弟の姿は彼女の心を弾ませるのかも知れない。

「それに、あなたがリデルに対して過剰に反応する理由も何となく理解できるわ。だって、あなたから見たら『リデルはラルクを連れ去っていくように見える』もの」

 相変わらず穏やかな、それでいて弾んだような声とは裏腹に、アーサーと話す彼女の表情は真剣だった。

「ルキリス……?」

 隣にいたルディアスも何となく彼女の表情から言いたいことを察したのだろうが、アーサーの方は彼女の言動をまだよく理解出来ていなかった。

 しかし、アーサーが理解出来ていようが無かろうが、これは言わなければならないとルキリスは思う。

「……盲目的な愛情は、何れ貴方だけでなく他人を不幸にしてしまう」

 それは、レイモンド一家にも、今のハイブライト家にも言えることだ。

 いつか、この言葉が届けばいい。

 ルキリスは心からそう願っていた。

 自身の感情や考えを固執し、それが如何に不安定であるかを知る二人は、今のアーサーには伝わらないことも知っていた。

 空も薄暗くなり、夜が近付こうとしている時間。

 そろそろリデル達の待つ宿に向かって歩き始めた三人だが、誰一人として口を開くことはなかった。


****


 一方、宿屋に待機しているラルク・トールス。

 彼は気分を変えるために小一時間の睡眠を取ろうと思い、ベッドに身を投げたまま天井を見上げるが、目が冴えてしまって眠れないでいたのだ。

 そろそろアーサーたちが帰って来るだろうと考えたものの、出迎える気にはなれない。

 彼の気分を重くしているのはリデルから聞いた『ハロルドは自らハイブライトに行った』という一文である。

 今でこそアエタイトの住人、ライハードからの人間も受け入れるようになったハイブライト家だが、昔は有り得なかった。

 昔と言っても二、三年前までは閉鎖国家だったハイブライト。ライハードから人々が出入りするようになったのは最近の出来事だ。

 しかし、まだハイブライト本家は開放されておらず、ハロルドが入れるような場所でもない。

「どうして、ハロルドさんは自分からハイブライトに行ったんだ……」

 ハイブライト内にはライハードを受け入れない者たちもまだ多いはず、それなのにどうして向かうのか。

「最初は、連れて行かれたと思った。その理由を知りたくて、兄さんだってリデルに会いに行っただろうし……」

 考えば考える程、分からなくなる周囲のこと。

 そこでラルクは首を横に振る。

「考えても仕方ないことを考えるだけ無駄だ……せっかくの誘いを断ったんだ、休もう。それに、明日になれば、答えも、見えてくる筈……」

 答えの見えないことを考えたところで何になるのかと、ラルクは自分をきつく叱りつけて瞼を閉じた。

「……ぐー……」

 余程疲れていたのか、瞼を閉じた直後、彼は眠りに落ちた。

 だから気づかない。

 コンコンと、扉を軽く叩く音も、「ラルク、寝ているのか?」と問う、アーサーの声にも。

 眠っていても思い起こされるのはリデルのことともう一つ。

 遠目から、母とリデルの会話を聞いていた幼い少年、シャールの姿だった。

(どうして、こうなった?)

 あの目は正に理由を問うような視線。

 答えるわけにもいかず、下手な慰めをするわけにもいかず、途方に暮れてしまった情けない自分を思い出す。

(今、あの子はどうしているだろう)

 シャールたちに真実を真実を告げた時のことを脳内で起こしたと同時に「ラルク」と、短く彼の名前が聞こえた。

 呼び掛けに応じようと、ラルクはゆっくりと目を開け始める。

「あ、あれ……兄さん、帰って、……リデル」

 彼を起こしていたのはアーサーだったが、隣にはリデルがいた。

「少し用事がある。それにお前も連れて行くから早く支度しろ」

 相変わらずぶっきらぼうな物言いに呆れ、チラリとアーサーを見たが、彼は険しい表情をしたまま黙っている。

 恐らくリデルやルディアスたちに言いくるめられたのだろう。特に反論する様子はない。

「分かった、すぐに準備する」

 密かに安堵しつつも、リデルを待たせるわけにはいかないと、ベッドを降りて椅子に放り投げていた羽織りをとった。

 出かけ着で寝ていたので準備まではそんなに時間はかからない。

 扉への通路の横に備え付けられている等身大鏡で身嗜みを整えた。

「さあ、できたできた。リデル、早く行こうぜ」

 あっという間に準備を終わらせて手招きをするラルクにリデルは半ば呆れながら一緒に部屋を出た。

 階段を降り、外に出ると明かりが窓越しから見え、今頃はハロルドも交えて三人で過ごしているのに、と思うと少しだけ寂しくなった

 僅かな胸の痛みを感じ、冷たい風を避けるように俯きながら歩いていたその時。

「悪かったな、ラルク」

 ぽつりと、リデルの口から謝罪の言葉が漏れ、ラルクは驚きのあまり顔を上げた。

 いつものリデルからは考えられないほど意外で、どう返せばいいのか分からなかったのだ。

「ふう……」

 ひと息吐いたリデルはもうラルクの方を向かず、自嘲気味に笑いながら呟いた。

「ふと、分からなくなるときがある。私が他人に対して何を望んでいるのか……だから、人を容易く振り回せるのかもな。それこそ何も考えずに」

 彼は何でそんなことを言うのだろうかと首を傾げるラルクだが、不意にリデルを抱き締めたくなった。

 彼の発言は抽象的で、はっきりと意図を読み取りにくい。

 しかし、独白を漏らすリデルが何となく痛々しく見え、ラルクは悲しくなった。

(なあ、どうしたんだよ?)

 駆け寄りたかった。その言葉にある、彼の思いを聞きたかった。

「さあ、ついたぞ」

 リデルの言葉からラルクは漸く我に返った。

 どの位歩いていたのだろう。時間が進むのがとても早く感じたのだ。

 戸惑いを隠せない彼にリデルは微笑んだ。

「入るよ、ラルク」

 彼の微笑など見たことがないラルクは更に困惑したが、どうにかして頷いた。

 視界に入る小さな家。落ち着いたコルク色が困惑したラルクを何とか冷静にさせていたのかもしれない。

 ハイブライト家とは全く違う、豪華な装飾もない金属がむき出しになった取っ手。

 リデルはもう一度ラルクを見て、彼が落ち着いているのを確認できたところで前を向き、取っ手を持った。

 彼の手はゆっくりと、取っ手を引き、ジェイソンが待つであろう家の中へ、靴音一つ立てず静かに入ったのだった。


****


「リデル、来てくれましたか」

 少し経ってから玄関で二人を出迎えたジェイソン・キース。ラルクから見れば紳士的だと思わずにはいられない。

「おや、ラルク君も来て下さったのですか。君のことはリデルから伺っていますが、実際に会うのは初めてです」

 ジェイソンの話からどうやらリデルを通してではあるがトールス一家のことも知っているに違いない。

 そう思うとラルクは少しだけ気恥ずかしさを覚えたのだが、名前を覚えてもらったのは嬉しいことなので素直に喜ぶことにした。

「そ、そうなのですか……! 俺の名前を覚えてくださるなんて嬉しいです……えっと、ラルク・トールスです。よろしくお願い、します」

 ジェイソンの紳士的な振る舞いに戸惑いながらも自己紹介を終えたラルクは焦点の合わない目で壁を見つめていた。

「ふふふ、あまり緊張しないてくださいな。私の名前はハイブライトにいたら大抵耳に入ると思うので割愛しますね。ささ、立ち話も何ですから上がって下さい。案内しますよ」

 にこやかなジェイソンとは対照的にラルクはぎこちない動きで二人について行く。

 ベタベタと、床を歩く音とともにジェイソンはリデルを見て笑いながら話し出した。

「ラルク君がここまで来たということはアーサー君も一緒。つまり、リデルが強引に君たちを連れてきたのでしょう。容易に想像がつきます。やたら強引に従わせようとするくせに内容を話さないので困りものですねえ」

「それは確かに……とてもとても困ります」

「そうでしょう? リデル、ラルク君にはもう少し優しく接したらどうですか?」

「ジェイソン殿……」

 双方から突っ込まれ、返しに困ったリデルはそっぽを向いたのでラルクは今にも笑いたくなった。

 しかし、リデルが強引な手に出るのは自分にも非がある。今ではそう考えているラルクは更に付け加えた。

「でも、俺が勝手に行動してしまって……だからリデルはあんなことをするんだと思います」

「それで、アーサー君がリデルに突っかかったというわけですか?」

「……え?」

 どうして、ジェイソンには分かるのだろう。少し状況を話しただけなのに。

 何度も瞬きをするラルクにジェイソンは苦笑混じりで彼の疑問に答えた。

「アーサー君は大分前からリデルがラルク君を連れてここに来ることを知っていたのでしょう。せっかくの休暇を弟と過ごすはずだったのにということを伝えようとしたのでしょうが、リデルが強引に連れて行くからこうなるんです。でも、アーサー君も少し固執しすぎるところがあると、私は思うのですけどね」

 やはりそういうことだったのかとラルクは頷いたが、兄の性格には昔から首を傾げる時もあった。考えてみればそうだった。無論、自分も頑なに譲らない部分もあるので良し悪しは決められないが。

 ここでラルクへの話を終え、ジェイソンはリデルを見て釘を差す。

「でも、威圧的に見下す理由にはなりませんがね」

「ジェイソン殿!」

 咄嗟に叫んだリデルにラルクはとうとう堪えきれず笑い出した。

「リデルは意外と短気なんだな」

 例えるならジェイソンとリデルは親子だろうか。二人が顔を合わせてからのやり取りは父親に諭される子どものようだった。

 案の定リデルは耐え兼ねると言わんばかりに顔を伏せているのだ。

(実は、リデルってとても可愛かったりするんじゃないか?)

 そう考えると何だかおかしくてクスリと笑ってしまったラルクをリデルは鋭い視線を向ける。

 今の彼は敏感になっていると思い、何とか堪えようと努めるが結局クスリと笑ってしまう。

 何を言っても無駄だと諦めたリデルは無視することにしたようだ。

「ああ、長話をしてしまいました。さて、イリア様がお待ちかねのようなので行きましょう」

 ――イリア・ハーバード。ラルクも何となくではあるが幾度となく聞いた名前。この名前無くしてハイブライトは語れないほど重要なのだ。

「ラルク、何故私がカインの話題を出したかわかるな?」

 リデルの問いにラルクは頷いた。

 ――否、そこで気付いてしまったのだ。

 イリアとは、ソフィアとシリウスの娘。

 彼女がこの世に生を受けたのはソフィアがハイブライトから出て行ってから一年後のことだと話題になったとアーサーから聞いた。

 そんな彼女をわざわざ出迎えに行くのは、喪失感を一時的に満たすためのものだ。

(こんなことは間違っている……失ったものは二度と戻らないのに。それとも、手に入らないから彼女を利用するのか? それで、どうなるんだ?)

 ――ハイブライトに蔓延する深い傷は徐々に膿となって表れる。

「イリア様、失礼します」

 憂う彼には気付かないジェイソンがイリアの部屋に入って行くのが見え、彼も機械的に足を動かし、後に続いた。


****


「ジェイソン様、お待ちしていましたわ。あんまりにも遅いから待ちくたびれちゃった!」

 室内に入ると、眩しい程の金髪を靡かせ飛び出してきた少女――イリア・ハーバードが出迎える。

「ハイブライト家に行くまで大人しくしてて、なんて言われて、仕方ないからずっと待ってたんだけど退屈していたところなのよ。ジェイソンは忙しいし。うん? 一番後ろにいる子、可愛いわね! 何て名前?」

「イリア様、落ち着いてください……ラルク君が困惑しているから、もう少しゆっくり話して下さい……」

 本当に退屈していたのだろう、イリアは矢継ぎ早に話している。

 ジェイソンがイリアを宥めていたが彼女はもっと話したいらしい。

(……でも、正直安心したかも。もっと気高い人かと思っていたから)

 人目につかないようラルクが安堵するとイリアがジェイソンの制止を振り切って彼のところまで来ていた。

「ジェイソン様がさっき言ってましたよね……ラルク君って。私の名前はイリアよ、よろしくね」

「あ、ええ、よろしくお願いします、イリア様」

「あら、様付けなんかしなくてもいいのよ。私もラルクって呼ぶからラルクもイリアって呼んで」

 目を輝かせながらラルクに向かってそう言ったイリアにすかさず間に入ったのはリデルだった。

「イリア様、こいつはイリア様の御命令とあれば喜んで従うので何なりと申し付けてやって下さい」

「り、リデル、てめえ……」

「おや、私にそんな口を聞いていいのか?」

 得意げに笑うリデルに突っかかろうとしたラルクだが、彼女の反応を窺おうと振り返ってみた。

「まあ、二人とも仲がいいのね」

 と、イリアが可笑しいと言わんばかりに笑っていた。

 ラルクの知っているハイブライト家の面々とはまるで結びつかない、明るくて賑やかな少女。

 いつもは淡々と、時に威圧的なリデルでさえ彼女のペースに呑まれている。

(……ソフィア様も、こんな風に明るかったのかな。そうだとしたら、何となく――)

 しかし、ラルクは考えるのをやめた。

 せっかくイリアと話しているのだ。今だけは何もかも忘れて、この時間を楽しもう。

 ほんの少しだけ許された、穏やかな時間を。

 止まることを知らず話し続けるイリアと彼をからかうリデルに挟まれながらも、彼はこの時間を精一杯楽しんだ。


****


 夜が更け、イリアはもう眠たくなったと言ってベッドに潜った。

 その最後の言葉が『ハイブライト家に行くのが楽しみ』である。

 イリアは何も知らないのだと三人は胸を痛めた。

 恐らく、育ての親であるフレアが彼女にハイブライトのことを言わなかったのだろうが。

「イリア様は本当によく喋りますねえ……ふふ、君たちのやり取りは見てて飽きませんねえ。それから、ラルク君にはここに残っていただきたいのですがよろしいでしょうか?」

 何気ない雑談の中で唐突に残ってほしいと言われたが、彼には断る理由などなかった。

 もう深夜を越えており、部屋に戻るのは迷惑だろう。

「もう夜も遅いですし、ここで寝ようかと考えていました。それで、えっと……」

「畏まらなくても大丈夫だよ、ラルク君。君には少し頼まれてほしいから残ってもらっただけなんだ。リデルと違って君は可愛いからね」

 イリアと同じようなことをジェイソンに、しかもにこやかな笑顔で言われるとラルクはどう反応すればいいか分からなかった。

「何の躊躇いも考えもなく、ただ純粋にカインに手を差し伸べた君なら、シャールやレディシアにとってきっと頼もしい兄貴分になってくれるに違いない」

「は、はあ……でも、話したことなんて一度もないですし」

「君なら大丈夫ですよ、ラルク君」

「は、はあ……」

 どうしてジェイソンがここまで自分を高く評価するのか分からない。少なくとも、成績はお世辞にも良いとは言えないのだが。

 何故、ジェイソンやリデルがここまで好意的なのだろう。その理由がまだ見出せないでいるラルクへ、ジェイソンは微笑んだ。

「もっと自信を持ちなさい、ラルク君。カインにとって君は一番の相談役であるし、困った者には手を差し伸べる。その優しさは素晴らしいと思いますよ。私は、ですが」

「……え、ええ」

 まだ、ラルクは自分がよく掴めない。

 でも、これからも彼にとって親友でありたいとい思いに何ら変わりはない。セイシェルに引き合わせる協力は出来そうにないが、アーサーを頼らなくても良いだろう。

 そう思ったら楽になった。

「さて、明日はアエタイトへ向かいます。朝は早いですよ? 早起きが得意なら構いませんが苦手であればお休みしたほうがいい。あなたの部屋は一階に用意してありますから」

 またしても硬直するラルクにジェイソンは笑みを崩さない。

 少しでも長く休みたいラルクは矢継ぎ早に「お休みなさい」と言って、一階を駆け下りた。

「とても楽しい一日でした」

 笑い声の絶えない日々は久々である。

 ふと思い浮かべたのは口五月蝿くて厚かましいが、何だかんだ言って息子を自分も早くヘレンの元へ戻りたいと、ジェイソンは思った。


****


 次の日、ラルクは結局ジェイソンのところに泊まった。

 お休みとは言われたものの、ラルクはカインやシャールのことをジェイソンから聞き回り、何時の間にか寝たようだ。

 リデルに無理矢理連れて行かれてから数日――まだ、数日しか経っていないことに彼は驚いた。

 自分でもよく分からないが、リデルとは何年も前から親友だったような気がするのだ。父を知っていたから、ある意味繋がりは深いのかも知れないが。

 父が店をやっていたのは数年前、もう今ではその面影もなく権利も何もかも他人に渡っている。

 その頃からリデルとは間接的に付き合いがあったのだろうが、アーサーとリデルは何時までも分かり合えそうにはない。

(俺は、どうなんだろう。ムッとしたことはあっても、嫌いではないかなあ……)

 確かに理解不能なところもあるが、不思議なことに嫌いだとは思わない。

「リデル、大丈夫だよな……」

 何時の間にかリデルを心配するようになった自分にラルクは笑みを禁じ得なかった。

 そんな風に、取り留めもなく徒然と考えていた彼を薄明るい光が照らし出す。

「さて、まだ早いかもしれないが起きるか。ジェイソン様のことだ、起きてるに違いないぞ」

 とても心地良く朝を向かえられると、得意気に笑ったその時だった。

「ラルク! いつまで寝ているの? 早く起きてくださいな!」

 扉を開けるなり元気の良い声でラルクを起こしに来たイリア。彼からすれば衝撃的である。

「い、イリア様!? びっくりしたじゃないですか……あと、俺、一応……」

 どんなにイリアが気さくでも彼女は女性なのだとラルクは言おうとしたが彼女は聞いていなかった。

「ジェイソン様もリデル様もお連れの方も皆さんも集まっているの。あとはラルクだけなのよ? 早く起きて支度してね!」

「そ、そんなあ……」

 イリアに叩き起こされ、心地良いからは程遠い一日の始まりを向かえたラルクであった。


****


 どうにかして準備を終え、広間に向かったラルクとイリア。

 二人が来る頃にはリデル達も既に集合していたので彼は疑問に思った。

(時間的にはまだ早い気もするんだけど……普通なのかな)

 思いつく限りの理由を考えてみたがどうも納得いかず、首を傾げているとアーサーがラルクの隣に並んだ。

「おはよう、ラルク。昨日は眠れたか?」

 相変わらず優しいとラルクは思ったが、彼の言葉に対して自分の受け取り方が変わったような気がした。

「おはよう、兄さん。ジェイソン様が気を使ってくれたから眠れたよ」

 無難には返したがアーサーに対する違和感が消えたわけではなかった。

 僅かな違和感の中に含まれていたのは先程のアーサーの表情だ。

 彼はラルクに何か他に言いたいことがあったかも知れないが、何となく聞くのを躊躇った。

「さて、ラルク君」

 彼の複雑な心境を知ってか知らずか、ジェイソンが話し掛けてきた。

「早くアエタイト行きの列車乗り場まで行きましょう。後少ししたらアエタイトに向かう人が一気に押し寄せて来ますから」

 そこでラルクは早朝から出発した理由を漸く把握できたのである。

「ああ……だからあんな時間から……」

「そういうことです。では行きましょう」

 ジェイソンの言葉を合図にリデル達も歩くスピードを上げた。

 楽しそうに雑談を面々の声を聞くと別れるのが惜しくなった。

 最初は嫌だったのに、何時の間にか楽しいと思うようになり、訪れる別れを悲しく感じてしまう。

 数日前の彼なら穏やかな日常に戻れると清々しただろう。

(でも――悲しい。どうして……?)

 ほんの少しの悲しみに耐えようと無意識に胸に手を当てるラルクを見たジェイソンだが、敢えてに声は掛けなかった。

 ラルクも終始首を傾げつつも、徐々に普段の調子を取り戻し、リデルやイリアと会話をすることで気分を紛らわせたが、完全に紛らわせることは出来なかった。

 心に悲しさを残したまま歩くこと数十分。

 とうとう、彼らと別れる時が来たのだ。

 半ば無理矢理かき消した悲しみと、言い知れぬ不安がこみ上げてきた。

(また、会えるさ。会えるだろ? それなのにどうしてなんだ? どうして、こんなにも――)

 眉間に皺を寄せ、立ち止まったラルクに駆け寄ったのは――。

「ラルク、どうかしたか? 大丈夫か?」

 彼の元に駆け寄って、彼を心配して声をかけたのは――。

「……リデル、あ、うん、大丈夫」

 珍しく表情を露わにしたリデルだった。

 初めて見る彼の不安げな顔にラルクは戸惑いつつも安心感を覚えた。

 表面上は嫌な奴の典型例とも言えるリデルを彼は頼もしい親友だと思っていた。ふとした時に、こんな優しさを垣間見てしまうからだろうか。

「あ、あのさ、リデル」

 もう直ぐアエタイト行きの列車がやって来る。

 リデルとも、ここでお別れだ。

 リデルが連れてきてくれなかったら何も得るものはなかっただろう。幼い彼には言い表す術を持たないが、何か大切なことに気付き、得たのは確かだ。

「ありがとな、リデル。また会おうぜ」

 無邪気な笑顔で叫び、大きく手を振った後、ジェイソンの元へ走って行くラルク。

「――ラルク、お前が――……」

 そう言いかけたリデルだが、ハイブライト家に送迎する列車も来る頃だ。

 リデルはラルクに別れを告げ、ゆっくりと前を見て歩き出した。


****


 専用列車があるホームは無人だった。ハイブライトに勤める者はまだ家から出る頃だ。

 ルディアス達とは距離を取り、やってくるリデルを待ち構えていたのはアーサーだった。

「どうしてなんだ。ラルクをレイモンド少年に関わらせるなんて……無責任だろう」

 アーサーは我慢ならないといった様子でリデルに突っかかるが、彼はことも無げに言い放った。

「ラルクと会って気が変わった。私は『お前たち』が憎くて仕方ない。一人では何も出来ない腰抜けのくせに偉そうに振る舞ったり、見下しているくせに良い人振る舞いをする奴がな。無論、お前とて同じ。ラルクを思っているように見せ掛けて実際は何も考えていないところも気に入らん。しかし、少なくともあいつはお前よりずっと立派な奴だよ」

 憎悪を剥き出しにしつつもアーサーを嘲るリデル。

「さて、私はイリア様のところへ行こう。お前もハイブライトに戻る必要があるだろうからこれに乗るといい。あとは好きにしてくれて構わない」

 ラルクに見せていた穏やかさは欠片もなく、立ち尽くすアーサーには見向きもせず列車に向かって行った。

 ――昔のことを思い出す。

 何の地位もなく、トールス一家の家来だと小馬鹿にされても泣き言一つ言わず耐えてきた日々。

 ハイブライトは昔から身分の低い人間を差別視する文化がある。

 無論、トールス一家に雇われた両親も例外なく差別されてきた。

 身分を楯に威張り散らす奴らを陥れる日を今か今かと待ちわびていたある日。

 ――トールス一家がライハードの者と知り合っていることを聞いた。

 今でこそハイブライトはライハードを受け入れるようになったが、活性化しつつあるライハードを快く思わない人間は数多い。

 だから、陥れて、奴らも冷たい視線を向けられたら良かった。それを精一杯笑ってやろうと思っていたのだが。

 彼の考えを変えたのはアーサーの弟ラルク。

 リデルと同じ憎しみを持つルディアスたちに協力を仰ぎ、ラルクを無理矢理連れて行ってから変わった。

 たった数日間、一緒にいるだけだったのに妙な奴だと思った。

 純粋。何の考えもなく、ただしなければならないからと当たり前のように手を差し伸べるラルク。

 恐れを知らず、ただそれが当たり前だと信じて疑っていないラルク。

(良く言えばお人好し、悪く言えば阿呆か)

 ただ、その純粋さはリデルには眩しかった。だから、彼はアーサーから離れなければならなかった。

 アーサーの元にいて腐っていくには些か惜しい。あの純粋さは貴重だ。

 帰ってもラルクに会いに行こうと考えながら歩いてゆくリデル。

『……返せ』

 引く唸る、憎悪の声が。


****


 一方、ラルクはジェイソンとともにアエタイト行きの列車に乗っていた。

 ガタンゴトンと、線路の上を走る軽やかな音と揺れ。それは思いの外心地良く、乗客も殆どいないので伸び伸びと手を伸ばしていた。

「その様子だと、随分お疲れのようですね、ラルク君」

「あ……そう言われるとそうかも。だって慣れないことをしたような気がして……」

「リデルの相手は大変なものです。でも、ラルク君なら大丈夫ですよ」

 決してリデルの側が嫌なわけではないが、やはり気疲れを感じるのも事実。

 羽を伸ばしていた彼に不意打ちとばかりに声をかけたジェイソンに慌てて座り直すラルクに、ジェイソンは笑顔を見せる。

「ジェイソン様、笑わないでくださいよ……」

 居たたまれなくなって恥ずかしそうに俯くラルクにジェイソンは訂正を入れる。

「別におかしいところはありませんが、素直だなあと思って。よほど緊張していたのでしょうね……そうそう、自然は目にいいのです。窓を見てご覧」

「そうなんですか? そう言えば景色なんて見たことなかったや……普段はハイブライトにいるから……」

「では尚更見るといいですよ、ラルク君」

 ジェイソンに促されて窓を見ると、そこには白桃色の花が野原一面に広がっている。

 花の名前は知らないが、大都会とハイブライトを機械的に行き来していた彼にとっては大きな発見だった。

 いつから忘れてしまったのだろう。こんな景色を見なくなったのはいつからだろう。

 小さく見える街並みと野原が織り成す世界は癒しでもあり、ちょっとした感動をもたらすに相応しいものだった。

 日常に埋もれてしまったから見向きさえしなかったのだが。

(シャールたちと今度散歩なんてどうだろう。今すぐはだめだけど、いずれは――)

 少し先のことを考えるだけでラルクは楽しくなった。

 できればカインともゆっくり話がしたい。話すなら己の身の上話ではなく、他愛のない雑談がいいだろうか。

 シャールたちなら――きっと息を切らすまで走らされるだろうか。

 叶うかどうか分からない幸福な時間を思い浮かべていると、ジェイソンがラルクの肩を叩く。

「楽しそうなところすみませんが、アエタイトに着きましたよ。皆さん待っていらっしゃる……早く降りましょう」

 幸いにも駅からすぐ街に行けるので助かったと思い、走ろうとしたラルクにジェイソンは釘を差す。

「駆け下りはいけませんよ、ラルク君。焦らず落ち着いて急ぐのです。あと、リデルと違って退屈はさせませんからはぐれないでくださいね」

 その台詞から、ラルクは頭を掻くばかりだった。


****


 列車も港も有する大都市アエタイト。

 様々な物が買える市場や寛げるお店が立ち並ぶセイント・ブリッジ商店街に行くには、駅から長い距離を歩かなければならない。

「イザベラ殿を待たせるのはよくないですな。ラルク君、行きましょう」

 そこで、ラルクはもう一つ気付いたことがある。

「あ、あの……俺、結構重要なことを任されたような気がするんですが、どうなんでしょう?」

「おや? 気付きましたか。そうなのです。でも、君なら大丈夫ですよ」

 重要な役割を任せられ、やや怯んだラルクに対してジェイソンはウインクを送る。

 彼もリデル自身も恐らく気付いていないが、リデルを手懐けられたラルクならできると考えた上でアエタイトに連れて来たのだ。

「おお、見えてきました。さあ、ラルク君、少し走りましょう」

「は、はい……」

 ジェイソンの言葉からラルクにはまだ姿を捉えていないが、彼にはイザベラたちが見えたのだろう。

 走馬灯のように過ぎて行く街並みを視界に捉えながら歩いていると、ラルクにも漸くこちらに向かって走って来る三人が見えた。

「ジェイソン様……! 遅れてしまい申し訳ありません……」

 シャールとレディシアの手を引きながら走って来た彼女は息を切らせながら遅刻したことを詫びていた。

 確かに、ジェイソンの言う通りイザベラは厳しい人なのかも知れない。

「気にすることはありませんぞ、イザベラ殿。寧ろいつもレディシアを連れて来て下さっていることに、こちらが礼を言わなければなりません」

「いえ……ヘレンの頼みとあれば尚更……何だかんだ彼女にも迷惑掛けてばかりだから……。シャール、ジェイソン様がいらっしゃるわよ、挨拶は?」

 後ろで様子を窺っているシャールにイザベラが前に出るよう促すと彼はスッと前に出て、ジェイソンに一礼する。

「えっと、後ろにいらっしゃるのがラルクさんでしたよね……ヘレンから伺っております。シャールのこと、何卒よろしくお願いします」

「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします!」

 イザベラの丁寧な挨拶に対し、ラルクは首を傾げるばかりだった。最も、こんな場面に滅多に遭遇しないからであろうか。

「ラルク様、でしたよね」

 途端に話し掛けたのはシャールである。そこでラルクはまたしても首を傾げる羽目になる。

「お初にお目にかかりますラルク様、シャール・レイモンドと申します。以後、よろしくお願いします」

 立ち振る舞いからとても十にも満たない子どもとは思えなかった。

 それ以前に、シャール自身からなのだろうか。

 どこか歪んだような空気を身に纏っていた。

「では、ジェイソン様、行きましょう。僕、初めてハイブライト家に行くので、どんなところかはまだよく知らないのですよ。あ、母さん、行ってきます」

「行ってらっしゃい、シャール。迷惑掛けちゃだめよ」

「分かってるよ。では、行きましょう」

 このやり取り自体、まるで遠い世界の出来事のように見えたラルク。

 焦点を合わせていなかったからか、彼は気付かないでいた。


 シャールが、ラルクを睨みつけていることに。


『随分幸せそうだね?』


 ――それは正に、他者の幸福を妬ましく思っているに相応しい形相であった。

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