第四節:L'enfant ne de calamite Ⅱ
深緑に現れた一人の男。
焦点の定まらぬ濁った瞳はまるで際限なき闇のようだ。
鬱積した感情を止めるのは掌に食い込む爪の痛みだけだった。この痛みがなければ、この心は直ちに崩壊するだろうという予測ができる。
唯一、この感情を食い止められるのは己の爪の痛みのみ。
それぞれ全く違う世界で過ごす少年達が、今、同じ世界に集まろうとしている。
――荒んでいく心は、鳴き叫ぶ。
****
アルディが所有する城は本館と旧館と聖堂の二つに分かれている。
そこに所属したら、必ず大聖堂に通わなければならない。それは、彼も例外ではなかった。
アルディの次男にして、当主の僕として忠実に動くアイシア・ハイブライト。
彼は大聖堂の最上階にある部屋に座り、ずっと頭を抱えていた。
「父上は何を考えておられるのだ」
よく見ると、彼の手元には書簡が置かれていた。
それは父のもので、そこに書かれた内容がアイシアを悩ませていた原因となった。
「……イリアをアルディに戻す? 確か父上は御自身の弟であるシリウスを酷く嫌悪しておられた……その子どもであるイリアもカインも例外ではないのに、何故?」
アイシアの口から出て来たカインとイリアの名前。
この名は彼の伯父であるシリウス・ハイブライトの子どもだった。
そのイリアを引き取ると言っている父にアイシアにはどうしても理解できない。
それどころか、アイシアには薄気味悪さを覚えさせる要因ともなった。
「……父上、貴方は兄をも追い詰めるお積もりか? それとも……」
アイシアは何度も書簡を確認して、やはり記載されていたことが間違いでないと分かり、愕然とした。
こんな時、自分の母親であるラサーニャ・ハイブライトさえいればよいのだが、ラサーニャの姿は此処にはなかった。彼女だけでなく、兄セイシェルの姿もない。
(私にとって、セイシェルは兄だ。例え、半分しか血が繋がっていなくとも)
アイシアはセイシェルを本当の兄のように慕ってきた。
それは半分しか血が繋がっていなくとも同じだった。ゆえに、彼の後ろ姿を何度も見てきたアイシアは自分を責めた。
不器用ながら、セイシェルは懸命に自分自身の存在を示そうと必死だった。
何故、そこまでして自分の存在を示そうとするのか。そんなことは彼には分からなかったが、父の目に止まろうと必死だったのは知っている。
アイシアは物心ついた時からずっと戸惑っていた。
どうすれば兄と接することができるのか。
――どうすれば、兄は心を開いてくれるのか。
「……兄上、私は無力だ……何も出来ないなんて」
セイシェルは歪んでいく。それが分かっているのに、歪みを止める術がない。
アイシアの顔には、深い悲しみがはっきりと浮かび上がっていた。
――自分達の知らぬ間に、無情にも事は進められる。
****
深緑の森に囲まれた名もなき村。
若くして残酷な最期を迎えた母の葬儀も終え、シスターの身形をしていた女性や幼い少女と共に歩くのはカイン・ノアシェランであった。
彼は荷物を持ち、何も言わずに歩いている。
暫く黙ったまま歩いていた三人だったが、村から離れると彼は立ち止まった。
「……カイン様」
立ち止まったカインに不安を覚えた女性は彼の名前を呼んだ。
すると、彼は振り返って女性に言った。
「俺の勝手を許してください、フレア・ハーバード」
どこか暗い表情で俯くカインにフレアは首を横に振った後、彼を励ますように言った。
「レイちゃんのことは任せてください。必ずアルディから守ります」
彼女の言葉にかえってカインは申し訳なく思った。
フレアの厚意に甘えなければ何も出来ない。それが堪らなく悔しくて、自分が改めて無力な存在であることを知る。
「カイン様、どうかご自分を責めないでください。あとは私に任せて下さい」
カインの表情から察したフレアは彼にアエタイトへ行くよう促す。
「もう、ラルク様も来ていらっしゃるでしょうから……」
あまりラルクを待たせるなとフレアの表情がそれを訴えており、カインは苦笑しながら荷物を持つ。
今、彼は馴染み深い村から再び混沌の地へ戻ろうとしている。
そんな彼を見送るフレアとレイ。特にレイは兄がいなくなることに多大な不安を抱いている。
「……お姉ちゃん」と、か細い声が彼女の名前を呼んだ。
それに気付いたフレアはできるだけレイを安心させようと優しく微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫よ」
彼女には咄嗟の嘘や一時的な励ましを言うことも出来なかった。今はよくても、いつかその言葉が彼女の心を大きく傷つけると思うからだ。
「……お姉ちゃん」
フレアの大きな手がしっかりと自分の手を包み込んでいる。子どもながら、彼女の優しさを感じ、何とも言えない気持ちになった。
(この人を困らせちゃだめだ)
こんなにも自分を思い、苦しんでいるフレアをこれ以上困らせてはいけないと思ったレイは彼女に向かって微笑んだ。
「ありがとう」
精一杯の感謝を込めて。それが、少しでも彼女に伝わるように。
****
アエタイトのセイントブリッジ商店街。そこを歩くラルク・トールスの様子は先程と少し違っていた。そんな彼の様子を一言で表すと言うならば『耐え忍んでいる』といったところだろう。
そんな彼の後ろにはルディアスとルキリスの二人が歩いている。
「ルディアス、ルキリス」
ラルクは驚きを隠せず、何度も二人の名前を呼び、どうしてこうなったのかと説明を求めるが、二人は「リデル様の命令」と言ってそれ以上答えようとしない。
そもそも何故こうなったのかというと、話は数分前に遡ることになる。
ラルクは兄であるアーサー・トールスに会うためにアエタイトへ来た。兄と再会した彼はリデル・オージリアス・マクレーンのところへ向かおうとしたところ、ルディアスとルキリスに会った。そこでラルクが二人に話しかけようとしたところ、二人はいきなりアーサーに刃を向ける。
驚いたラルクが間に入ったが、彼も二人に捕まり、無理矢理歩かされた。
「悪かった……勝手に行動したのは」
彼の主であるリデルは規律に対してはとても厳しく柔軟性がないと思っていたが、少し外れたぐらいでどうしてこんなことになるのか。
そもそも、休みを貰ったからアエタイトへ戻って来たのに、何故リデル達と行動しなければならないのか。
何が何だか分からないと言う戸惑いは徐々に苛立ちへと変わる頃、商店街の出口にて腕を組んで立っているリデルの姿が視界に入る。
「連れて来たか」
淡々とした声でそう言った彼はアーサーとラルクを交互に見て口角を上げる。
「……ハロルドを慕うが故に、お前たちは苦しみ続ける」
不敵に笑うリデルの言葉が二人に重く圧し掛かる。特にアーサーはリデルから目を逸らし、何一つ言葉を発しない。
そんな兄を不安げな表情を浮かべて見るラルクと、いつまでも笑ったまま彼らを見下ろすリデル。
相変わらず二人を交互に見る彼の口から不意に言葉が出た。
「そんなに怖い顔をしないでくれないか? ただ、お前たちにあることを話そうと思って連れて来ただけなのだから」
強張った表情でリデルを睨む二人とは対照的に笑みを崩さない彼は傍から見ても異様であった。
事実、ルディアスとルキリスは周りに流れる空気に馴染めず、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「なあ、お前たち。イリア・ハーバードという少女を知っているだろう?」
辺りを気にすることなく、歌うような声で問いかけるリデル。その内容は二人を追い詰めるものでしかなかった。
苦々しい表情でリデルを見るアーサーと俯いているラルクに彼は更なる追撃を行う。
「カイン・ノアシェランの姉でシリウスとソフィアの娘だ。その娘がアルディに戻ってくるのだよ。そうそう、彼女自らアルディに行きたいと言って、それを当主様は了承したのだよ」
――それはどういうことだ。
ラルクはポカンとした様子でリデルを見た。
一方のアーサーはうなだれたまま何一つ言わなかった。
意図が読めないのはラルクだけではなく、二人を見下ろすルディアスとルキリスも同じだったようだ。
彼らは驚愕に目を見開いてリデルを見たが、リデルやラルクたちの手前、動揺した様子を見せるわけにはいかないらしく、すぐに表情を戻した。
周囲の人々の反応を見たリデルは僅かに口角を上げ、憐れむように告げる。
「まあ、そんなに怯えないでくれ。多数の人間に支持されているハロルドが溺愛しているお前たちをとって食おうなんてこれっぽっちも思っていないさ。しかし、今後のお前たちの出方次第ではこちらにも考えがあるがな」
穏やかな物言いの中に脅迫めいた意味を含む言葉があり、二人は完膚無きまでに崩された。
一方、リデルに刃向かうとこうなるということを見せつけられたルディアスたちも強張った表情をしている。
「聞いてくれるな?」
念のためという確認も兼ねてもう一度彼は聞いてくる。
悪魔のような男に従えばこの先どうなるかと考えるだけで身震いがする。
しかし、今は下手に刺激するべきでないと、彼らの脳内に警告の声が響く。
「何を難しい顔をしているのだ? 私の言っている内容はとても簡単だ。お前たちは私について来ればよい。イリア様をお迎えに行くという任務について来ればよいだけなのだ」
リデルの不敵な笑みとともに放たれた命令のような言葉は周囲に疑問と不安を与える。
「ルディアス、ルキリス、そういうわけでこの二人を連れて行くように」
これ以上何も言うことはないと釘を差し、ルディアス達に二人を連れて行くよう命じたリデルはゆっくりと歩いていった。
****
アイシア・ハイブライトを大聖堂に残し、大都市アエタイトから北東の地アウト・ダ・フェに来たセイシェル・ハイブライトとアイシアの母であり彼の伯母であるラサーニャ。
かなり歩いた場所にあるこの地はアルディに背いた者たちを火刑した場でもある。
「最も、今は亡くなった人が安らかに眠る場所でもあるのだけれど。そうそう、アウト・ダ・フェと呼ばれる場所は此処ともう一つある。セイシェルは勿論知っているだろうけど」
ラサーニャの説明にセイシェルは眉間に皺を寄せつつも頷いた。
彼女が何を言いたいのか、セイシェルには一瞬で分かったからだ。
「あら、随分物分かりがいいのね……。まあ、当たり前か」
どこか自嘲するように笑いながら彼女は前を向いて言った。
「ソフィア・ノアシェランをここに眠らせる」
まるで彼女自身に言い聞かせているかのような呟き。最も、セイシェルはこの言葉に言い表せないほど強い不快感を抱いたが何も言わなかった。
彼の双眼は目の前に広がる夥しい数の墓碑を見つめるだけだった。
最後までアルディに縛られ無惨な形で死んだ母はその後も不幸なままで、彼女がアルディから逃れた意味はあるのかと考えさせられる。
どこへ行ってもアルディの呪縛から逃れられないことを思うとセイシェルは悲しくなった。
(……母上)
幸せならそれで良かったのに。
アルディにいる頃の母はどこか悲しそうだったから子どもながらに母を思い、彼女が幸せになるならそれでいいと考えていた。でも、それは昔から無意識に言い聞かせていたに過ぎない。
本当はどう思っているのかなんて、自分がよく分かっている。
――それを言ったら壊れる。
正気を保っていられるのは母の幸せを願っているからであり、自分の心を晒してしまうともう正気ではいられなくなる。
(最低だ、あなたは)
自分をここまで追い詰めた母は死して尚苦しめ続ける。
それが許せなくて悲しくて苦しくて悔しいと、徐々に深みにはまっていく負の感情を彼は抑えきれないでいた。
「セイシェル、もういいのよ。何も考えないでいいのよ、もう」
彼の叔母であるラサーニャはセイシェルの肩を優しく抱いて何度も彼に訴える。
「何も考えないで。あなたが言いたいことはたくさんあると思うけれど」
こんなことを言うべきでないのはラサーニャも分かっていたがセイシェルの顔にはおよそ青年らしからぬ悲壮感と疲労が浮き彫りになっていたからである。
「ラサーニャ、お前は」
アルディにとっては大罪とも言える反逆を志し、阻まれ、挙げ句の果てに罪人として裁かれる。
幾多の人間がアウト・ダ・フェで消え、愚かな罪人の一人として語られ続ける。そんな血塗られた場所に母を葬ると平然として言い放ったラサーニャとは別人のように思い、セイシェルは訝しんだ。
「私の甥としてあなたを心配しているだけよ。勘違いしないで」
戸惑いを見せるセイシェルにラサーニャは我に返ったように言い放つ。
ただ、彼にとって先ほどの抱擁は甥を心配してのものだとは到底受け止められないでいた。もっと強い感情を向けられたような気もするが上手く説明できない。
それでも一瞬だけ、彼女を叔母ではない別の女性のように思えたのだ。
「もう忘れなさい、それより」
セイシェルが混乱しているのを知ってか知らずか、ラサーニャは研ぎ澄まされた刃のような鋭さをもった声で彼を我に返らせる。
これは魔法なのかと思わずにはいられないぐらい、バラバラになった思考は一瞬で一つの形に戻る。
まるで彼女に操られているようで不快さが増していくのだが傍若無人な彼女に通じるわけもない。
「何だ、ラサーニャ」
中途半端に途切れた話の続きを促すと彼女は笑いながら話し続ける。
「ディアルト様はまだソフィアを愛しているみたいね。その証拠に彼は憎むべきシリウスの娘をアルディに戻そうとしているんだもの」
「……何だと」
絞り出すような声を発したセイシェル。少なくとも彼にとっては予想もつかないことには違いなかった。
しかし、考えてみれば少女であった彼女もいつかは成長し、大きくなれば美しくなるだろう。未だに母を愛憎の対象としている父が娘に愛憎を向けるのは分かりきったことだ。
それでもセイシェルにとっては驚かずにはいられない。
「その娘、イリアっていうのだけど、リデルたちに連れて来るよう言っておいたの。アイシアには伝えたけれど一応セイシェルにも言っておこうと思ってね」
これには傍若無人にも程があるとセイシェルは怒りを隠せずにいたが、憤りの言葉もラサーニャにぶつけたところで何にもならないのは彼自身がよく分かっていた。どう足掻いたところで彼女に勝てるはずがない。その証拠に彼女は優雅に微笑んで身を翻した。
口を開きかけたセイシェルはそんな彼女を不快そうに見つめながら歩き出す。いつだって彼女は持ち前の優雅さで相手を圧倒してしまう。
そう、自分も彼女に圧倒されてしまった。
「さあ行くわよ……あなたにとって一番大切な場所に、ね」
そう言って微笑む彼女はやはり美しくて不快だった。
****
アウト・ダ・フェから何百メートル歩いていると、母に連れられ歩く幼い少女や楽しそうに歩くうら若き青年たち。彼らはそれぞれの家に向かっていた。
「アグナルやアシーエルに帰るのかしらね」
アグナルやアシーエルはハイブライト家とともに成長してきた町である。規模は小さなものだが、ハイブライト家に寵愛されたアグナルやアシーエルは急激に発展し、大都市アエタイトまで気軽に行けるようになった。
アウト・ダ・フェが見えなくなった途端に店が立ち並び、路面列車が走る。
そこにはやはり親子連れや思い思いに買い物を楽しんだ人々が路面電車へ乗っていく。
「セイシェル、私たちもアエタイトへ行くわよ」
ラサーニャに促され、セイシェルは路面電車へと歩を進めた。
ガタン、ガタン、と、列車が線路を走る音を聞きながら小さな溜め息を一つこぼした。
自分と同じ年の青年が楽しそうに会話をしているところを見てしまい、沸々と湧き上がる羨望。
皆は王家が羨ましいと言うが果たしてそうだろうか。
異常なほどの高い期待をされ、賞賛される度に増していくのは苦しみ。
――果たして羨ましいのか?
セイシェルは青年達の会話を耳に挟む度に問うてきた。
あんな風になりたい、外に出て友達と遊びたい、自由になりたいと何度思ったか。
もう気にするまいとそこから視線を外そうと試みたが一度暴走した心は抑えられなかった。
自覚はなくとも悲しみをはっきりと表したセイシェルにラサーニャは何も言わなかった――正しくは何も言えなかったのだ。
彼の純真な心を踏みにじったのは自分たちだとラサーニャはずっと思ってきたからだ。
(ソフィア、あなたにはわからなかったかもしれない。でも、私たちは罪を犯したのよ)
掛け替えのない大切な恋愛が実を結んだ。しかし、その代償は罪もないうら若い青年の根底を歪ませるものだった――だが、彼女自身も気付かない。
自分たちの願いの犠牲となったのはセイシェルだけではなく、彼に関わる全ての存在が犠牲となっていくことを。
(私たちは愚かだったのよ。恋愛を語る資格なんて、私たちにはなかったのよ、きっと)
窓越しから見える景色を見ながらラサーニャは懺悔し続けた――目の前にいる虚無を抱える青年を見つめながら。
アエタイトへと向かう路面列車は、彼女たちの思いを乗せてゆっくりと進む。
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大都市アエタイト。アルディ内で最も栄える街であるが、隣国ライハード側からも沢山の人物が来る。
善人ハロルドもその一人であるが、彼がアルディにきたのは別の理由ではないかと、セイシェルはふと考えた。
そう考えるのは彼の直感からくるものでしかないのだが、偶々見かけたので話していた時、ふと「大切なものを守るためには手段を選ぶ余裕はない」という台詞を彼から聞いた時は何らかの事情があってアルディにいるのだろうと考えていただけだった。
そもそも何故ハロルドのことを知っているのかと言われたら彼が初めてアルディに来た時、セイシェルの元へ訪れたのだ。恐らくは挨拶がてらということだろうと考え、他愛のない世間話をしていた。
セイシェルはあまり人と話すのが好きではないが、目の前にいる礼儀正しい紳士ともいえるハロルドに興味を抱いた。人に興味を抱けばもっともっと知りたくなるのが性なのか、思い切ってどこから来たのかと聞いてみた。セイシェルにとってはそれすらも世間話のうちだと思っていたが、質問に答えるハロルドの声がやけに重々しく響いたのは分かった。そして「大切なものを守るためには手段を選ぶ余裕はない」という言葉。いったい彼は何のために――と、思っていたところでふとラサーニャに目を向けると、彼女は柔らかな笑みを返す。彼女の笑みはどこか胡散臭くてハラハラする時がある。きっとこの女は自分の考えていることなど全て分かっているのだろう。
セイシェルは本能的にラサーニャから目を逸らした。
ハロルドのことなどどうして考えたのか、どうでもいいことだと思い、再び歩き出した。
アエタイトは大都市というだけあって平日だろうが休日だろうが人々が集まり、どこもかしこも賑わっていた。アルディそのものと違って他国からも観光客が押し寄せる――例えばライハードがいい例。自由が保証され、潤っているからとラサーニャが言っていたのを思い出した。
「セイシェル、ところで一つ聞いてみようと思ったのよ」
またしてもラサーニャの突然の質問にセイシェルは少なからず驚いた。彼女が質問する時は決まってセイシェルを追い詰める意思を見せるからだ。
「アエタイトに行くとハロルドのことを思い出すの――あなたもそうなのかしら?」
やはり彼女は笑っていた。セイシェルが一切答えないことを知ると彼女はハキハキとした口調で話し始めた。
「ハロルドはとても紳士的な人だったわ。アルディに何故来たのか分からないぐらいよ。でもね、彼と話すうちにアルディへ来た理由を察したの。恐らく、彼は『覚悟を以て』此処へ来たんだと思うわ。もともとは善良かつ正直で平和主義な男が『あるものを守るためなら命だって惜しくはない』と思わせるほどの大きな理由があるんだわ。例えば――大切なものを奪われたとか、大切なものを失う危機がある時とかね!」
人々が賑わう声もセイシェルには聞こえず、ただ、ラサーニャの艶やかな声だけが耳に残り、脳裏に刻みつけられる。
美しい女の透き通るような凛とした声に感覚を奪われ、石像のように固まっているセイシェルに向かって彼女は言う。
「セイシェル、シャールに会いに行ってみたらどうかしたら? アクロイドの息子でいたいけな少年に。此処から少し離れた人気のない場所に彼はいる。私も行きたいけれどそれはしてはいけないことだから……ね?」
此処から少し離れたと言うだけでどこにいるかも分からない場所にセイシェルに行くよう促すのはラサーニャだった。それに対して普通は不安をぶつけたり、自分が分かるまで道を徹底的に聞くと思うが、ラサーニャは何のヒントも出さず、手助けもしない。要件だけ淡々と言ってあとはそのままにしておくような女だった。そんな彼女に聞いたところで教えてはくれないことをセイシェルは分かっていた。
しかし、不思議なもので、どこかも分からない場所に足は迷うことなく目的地に向かって動いていた。
脳が、体が、心が、シャールに会えと言っている。セイシェルはそんな気がした。
****
そんなわけでラサーニャと別れ、一人歩いていたセイシェル。
ふと、彼は振り返って大都市を見た。そこで彼はまたしても目を見開くことになる。
建物がずらりと並び、交通手段も完備され、船を出す港まである大都市は少し歩くだけで完全に遠ざかっていた。ハイブライト城にいるだけでは決して気付かないだろう発見を彼はしたのだ。
アエタイトは元々小さな場所でひしめき合うように色々なものがある。息苦しさは人口密度によるものだろうと彼は思い、また歩き出した。
少し離れると緑が目に入ってきて、張り詰めていた神経が緩くなっていくのを全身で感じた。緑は目にいいと言うが、その通りだと思う。
普段なら絶対に行えない大冒険を思いの外楽しみ、機会を与えてくれたラサーニャには感謝している。きっと明日には忘れてしまうだろうが。
数百メートルぐらい歩いただろうか。木々が連なり、小さい家が立ち並び、アエタイトとは比べものにならないぐらい小規模ではあるが生活必需品を売っている店もある。何本かある木々でアエタイトとこの場所を区切っているのか、見た限りここで暮らす者も少数だ。
普段見ている豪華の限りを尽くした王家とは全く違う雰囲気の街並みをゆったりと眺めていた。此処は気持ちが落ち着く。
「……おかしいな、こんなところに安らぎを覚えるとは……」
前に来た時は、少しの悲しみと多くの憎悪を抱えた時だった。
ラサーニャが突然ソフィアに会うと言ってどこかへ飛び出した時のことを彼は今でも忘れられないでいた。
そして、彼女はソフィアを見つけ出した末に射殺したことを知ったのである。
「あら、いたの? セイシェル」と、歌うような声で問いかけるラサーニャに、何故か混乱することもなく静かに立っていたままだったことを覚えている。
何も言うことはなかった。ソフィアとラサーニャにしか分からないものがあるのだろうと考え、敢えて追求はしなかったが、母によって背負わされた虚しさは紛れず、セイシェルはその場にいたラサーニャを睨み、追い払った。
「解放などさせない、させてたまるものか、ずっと永遠に苦しみ続けてくれ」
それは許されない。しかし、セイシェルは彼女をそのままにした。腐敗し、肉塊と化すことを望み、選んだ。
母は綺麗な女で、誰からも聖女と慕われていたことを彼は知っていた。
しかし、綺麗な女にとって母親としての使命は重すぎたのか、それともシリウスを愛しすぎたのか、彼女は微笑んでいなくなったのだ。
せめてもの復讐のつもりだった、これは。
彼女に対する憎しみを以って、ちっぽけな自分ができる唯一の手段だった。
(迷ってはいけない、惑ってはいけない、あいつに心を動かされるなど……あってはならない!)
戒めるように、縛りつけるように言い聞かせ、また歩き出す。地面を踏みしめる高級な革靴の音が周りを振り向かせる。彼が放つオーラがそうさせるのか、人々は畏怖感を露わにしていた。いつでも閉ざされている場所には似つかわしくない存在が、しかもアルディの人間ともなれば畏怖感を抱くのも、好奇の目で見るのも当然ではある。ただし、彼がその目を無視することが苦手であることを誰も知らなかった。
戒めた心に好奇の目はきつい。まるで真綿で締め付けられるかのように。
どんなことに対しても過剰なまでに反応するようになった彼はとうとう背中を丸めて歩く。高級な革靴の音がどこか情けなく響くだけであった。
****
暫く歩いたところでまた立ち止まると、簡素な住宅街がぽつぽつと並んでいた。
緑の割合が少しずつ多くなってきて、人気は徐々に消えていく。
そこで気がついたのは周りからすれば本当に些細なことだった。しかし、一日の殆どをハイブライトで過ごすセイシェルにはアエタイトと他の場所が繋がっていることに感動した。
恐らく、アエタイトを一つのものだと考えていたから、自然があることも少し歩けば別の村になることも知らずにいたのだろう。
名前のない(或いはあまり知られていない)村の存在をハイブライトの人間は知っているのか。
自分でも笑ってしまう程下らない思考と感動に浸っていると、前方から何人かの人影が見える。
(……あ、あれは……)
吸い寄せられるように、そこに向かって足を動かしてみた。
「ちょっと待ってよー!」
「足遅いよ、もう少し速く歩こうよ」
幼い少年少女の声だった。あどけなく、まだ自分達が男或いは女であることを意識していない無垢な彼らたちの声。
(……かわいいな。外で遊んでいるのか)
何も知らない子ども達が戯れる様子は見ていて心が和む。その光景を見るうちに、厳しさを持って歩いている彼の鋭さが消えたような気がした。暫く温かい気持ちでそれを聞いていたところ、とある人物の登場で雰囲気が一変する。
「皆、そんなに急ぐこともないじゃないか。まだ太陽が高いところにあるっていうのにさ」
「あ、シャール兄ちゃん! でもでも早く帰ってさ……」
「おやつが楽しみなのか。でもゆっくり歩かないと危ないよ」
騒ぎながら歩く少年たちをたしなめるのは輝く銀髪が印象的な、そばにいる少年少女よりも少し大人びた少年。
途端に足は少年たちに向かって動いた。自分の意思とは関係なく、まるで引きつけられているかのように。
「シャール兄ちゃんって心配性だよね、大丈夫だって言うのにさ」
「そんなこと言ってる間に……ほら、しっかり歩かないと」
そう言ってシャールは少年の手を引いた。不安定な歩行を見ていられなくなり、思わず手を出したのだろう。
「ご、ごめん……」
少年も反省したらしく、シャールの後ろをゆっくり歩くことにした。そんなシャールとは反対の方向を歩くセイシェル。
互いの存在を知らぬ赤の他人がすれ違う。
視線を交えることなく、ましてや会話をすることもない。ただ単にすれ違っただけの一瞬の出来事だった。
(……九歳の少年なのか? やけに大人びているな、九歳にしては)
先程のシャールの振る舞いや声を何度も脳内で再生してもピンと来ない。
ラサーニャが会いにいけと言った理由が何となく分かったような気がした。
****
シャール・レイモンド。アクロイド・(ルノーア)・レイモンドの一人息子。
父親のことを何一つ知らないであろう哀れな少年。
最も、今となっては思い出したくもない昔のことだと考えているイザベラ・レイモンドが話すことはなさそうであるが。
先ほど、すれ違った時が初対面であるのだが哀れな境遇はどこか自分と似ていると思った。
そう、まるで親たちの自我を押し付けられた自分と。そんな風に考えるとセイシェルは思わず笑ってしまった。
(アクロイドの身勝手さを、もうあの子は気付いているだろうか)
他人のために自己犠牲を選び、それが美徳だと信じて疑わない彼ら。
確かにそうかもしれない。事実、どこの物語でも美しいものとされる。だが、セイシェルにはどうしても許せなかった。
(果たして誰が救われるだろうか――なあ、カイン?)
両親を信じたカインが突然独りになる。こんな形で両親を失うことになろうとは微塵も思わなかったに違いない。
そう考えると少しだけ救ってやろうと思いたくなる。
「……私を捨てた親の子を、弟とも思わなかった子を……おかしな話だな」
それとも、少しは弟だと思っているのだろうか。カインの名前を聞いただけで怒りやら悔しさやらが湧き出るというのに。十年以上経っても許したことなどなかったのに。
セイシェルにとっては母も許せないが、母の軽率な行為を加速させた伯父とカインはもっと許せない存在だった。それなのにどうしてだろう。
「早くラサーニャに会って帰ろう。こんな場所にいたらおかしくなりそうだ」
これ以上『そのこと』を考えるのはよくないと思考を打ち切り、彼はラサーニャのもとへ向かった。
駆り立てられるように早く歩くとき、革靴の音がいっそう高く鳴り響いた。
****
ラサーニャと別れたのはアエタイトだった。そう考えると彼女はアエタイトにいる可能性が高いのだがセイシェルはどうも疑問が拭えないままでいた。とりあえず、アエタイトに戻ってみようと彼は真っ直ぐと歩き出した。
アエタイトからそれほど離れていないというのに変わりすぎる景色に首を傾げてしまうが、今はゆっくりと歩いている場合ではない。
「全く、気紛れな……」
あっちへ行ったりこっちへ行ったりと彼女の行動は読めない。勿論、何を考えているのかも分からない。
ラサーニャのことを考えながら歩いていると人々が行き交う大都市に戻ってきた。
「ラサーニャのことだ、どうせ自由気ままに歩き回ってるに決まってる」
誰も知らないような噂を小耳に入れては語り出す。そこまでは世間話が好きな者たちの共通点である。
ただ、ラサーニャは明らかにそれらとは一線を画していた。
その噂の内容を考察し、深く掘り下げて答えを出す。それなのに言葉にも出さず表にも出さない。厄介な存在である。
「……何であいつあんなにも突拍子もないことを言い出すんだ……」
――何か、何かを予見しているかのように。
「……? あ、あれは、確か……」
深緑に身を包む男が前方より歩いてくる。そう、いつも見慣れている姿。
「何故、ハイブライトの者が……」
何かとんでもない事情があるに違いないとセイシェルも歩く。
「あ、セイシェル様。セイシェル様らしき姿をお見かけ致しましたのでもしやと思い……。それより私とお越し下さいますか? ラサーニャ様がセイシェル様をお連れしろという命を受けており……」
苦々しく告げる使いの者を目の前にしてセイシェルは首を傾げつつ頷いた。
「セイント・ブリッジを真っ直ぐと歩き、住宅街を歩くとハイブライト家が所有する土地があり、居宅を建築したそうですが……ラサーニャ様はそこにおられるのです」
そう言いながらセイシェルを案内する。
ハイブライト家が所有する居宅、謂わば隠れ家なのだが滅多に使われることはない。ましてラサーニャが隠れ家を使うのは初めてではないか。
「相変わらずセイント・ブリッジは凄いですね……いやはや、この活気に呑まれそうだ……。ああ、失礼致しました。ここを抜けたらすぐなのですよ」
がやがやと賑わう人々の群れに圧倒されながらラサーニャの行動を訝しんだ。本当に彼女は何を考えているのだろう。
(ハロルドのことをいきなり持ち出したりアエタイトに行こうなどと言うとは……あの女の行動は奇怪だ)
悩めば悩むほど深みにはまるとはよく言ったもので、セイシェルも例に漏れずそうなった。
「セイシェル様?」
案の定、使者が不安そうにセイシェルを呼んでいる。
「あ、ああ、すまない……」
人に心配をかけるのは彼自身あまり良いことだと思っていなかった。まして考えて解決しないようなことで悩むのは以ての外だ。
「セイシェル様……」
何かを言おうとして、しかし何も言えなかった。
「……さあ、行きましょう……ラサーニャ様はこちらにおりますので……」
使者の言葉から隠れ家にはもう直ぐ着くらしい。いつもは耳障りな群集の声もラサーニャを訝しむばかりで全く耳に入っていなかったようで、セイシェルは思わず苦笑した後、使者の後をついて行った。
****
セイント・ブリッジから少し離れ、曲がり角を右に進むと隣を歩いている使者と同じような色の服装しか見かけなくなった。
「役員ですね。隠れ家もここにあるのですが、役員の主な仕事はセイント・ブリッジの秩序を守ることです。無論、ここを維持するのも彼らの大事な仕事ですが。役所はここからセイント・ブリッジを歩き、更に右へ曲がってマンションやカフェが並ぶ通りを歩けば駅に行けます。近くにも町があるらしくセイント・ブリッジを離れると更に人は多くなりますよ。エタイト港の近くですし。エタイト町、アエイト区に行くだけでも相当の距離があるので路面列車が走っているのです」
そう言われたら確かに納得がいく。エタイト港はアエタイトから行くよりも大聖堂から少し歩いた先にあるロンカから路面列車で行った方が早い。
アウト・ダ・フェの近くにあるウィラーからロンカまで行き、エタイトまで歩くのが普通である。エタイト港自体はアエタイト内にあるはずなのに違う町のように感じられた。
「そういやロンカから殆ど無意識に歩いていたからな……すごいな」
「そうですね。大聖堂から駅まで行くのも大変です。ロンカやウィラーが精一杯ですよ。いずれエタイトまで行きたいものです」
そう言って二人はまた歩き出した。
――それから少し経ったのだろうか。
役員の姿すら見当たらなくなり、小さな家が見えてきた。
思いもよらず少し怯んでしまったが、この先にラサーニャがいる。何を怯んでいるのか。
「ラサーニャ様、セイシェル様をお連れしました」
それを言うのは使者にとっては当然のことであり、驚くのがおかしいのだが、それでもセイシェルは思わず身を引いてしまった。
そんな彼の思いを無視したかのようにドア越しから声が響いた。
「ご苦労様、もういいわ、下がりなさい」
刺々しい声が更にセイシェルを怯ませる。こんなラサーニャの声を自分は知らない。
「は、畏まりました」
恭しく頭を下げ、使者は足早に去っていく。
せめて何か言ってほしかったのだがラサーニャの今の声を聞いた後では仕方ないとも思っていた。
彼女はいったいどうしたのか、何故呼びつけたのか。
それを考えていると「早く入りなさい」と、ラサーニャが苛立ったように言った。
これ以上彼女を苛立たせるのはよくないと考え、セイシェルは意を決してドアを開けた――。
(…………?)
建物の中は家具も何も置いていない。それなのに人がいる気配がある。
普通の家なのに不安になる。
「セイシェル、来たようね」
「……! ラサーニャ……」
足音一つ立てず登場したラサーニャの声にセイシェルは目を見開き、体を硬直させた。
そんな彼の様子を見た彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「……私が登場しただけで驚くなんて。このままじゃ身が持たないわよ? ねえ、そう思わないかしら?」
ラサーニャはまるで人を呼ぶように振り返る。
すると、誰かが歩いてくる音がした。
「……姉さん、セイシェル君は僕と会っても喜ばないよ……」
その声とともに奥からゆっくりと現れた人物――自分の弟と、そっくりな黒い髪。
「……君は僕を憎んでいる。そうだろう? セイシェル君」
疲れたような顔をした、父の弟が目の前に現れ、セイシェルは呆然とその場に立ち尽くしたのだった。