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緋の剣士に捧ぐ交響曲【第一番】  作者: 真北理奈
第一楽章:cauchemar Overture
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第三節:S'effond peid

 君は知っているだろうか? 俺は知っているよ。

 まだ幼い君達には、こうなるのではないかと伝えるなんて残酷だから。

『でも、よく見てごらん?』

 君たちの目の前に広がる世界は、名も無き人々が流した真紅の血で形成されている。

『――彼らの持つ無垢な瞳が、この世界の全てを否定するだろう……』


****

 アエタイトの商店街セイント・ブリッジ。カツカツと革靴の音を立てながら歩くのはアーサー・トールスと弟のラルク・トールスである。彼らは此処に留まっているリデル・オージリアス・マクレーンがいるであろう宿屋へ向かっている途中だった。

 アーサーが何に焦っているのか、何故リデルの元に向かっているのか。

 その理由自体は彼の様子から何となく把握できる。恐らく、アルディの重役でありながらライハードの出身でもあるハロルド・ブルネーゼのことだろう。

 そこでアーサーは、リデルがハロルドを何れ始末するのではないかと思っていると考えているのだと予想できる。

それなら、ハロルドとリデルがどう繋がるのだろうか。

 ラルクにはアーサーがどうしてそう考えるのかがまだはっきりと分からないでいた。

 理由はリデルが必要な事以外何も話さないからといったものだが、彼は己の災いになる存在を排除する際、先ず己自身の足場を固めてから、排除しなければならない存在を周りから切り離し、孤立無援にしたところを徹底的に追い詰めて消すという手段をとる。

 ハロルドはライハードの出身だが、今や彼はアルディには必要な存在となりつつある。加えて、身分差別が顕著であるアルディ内で、彼は身分関係なく誰に対しても誠実に振る舞っている。

 そんな彼の姿に心打たれ、彼を慕っている者は数多い。

 人望の厚い者を抹殺すれば、少なからずアルディに対して不満を持つ者達が反逆の意志を示すかもしれない。

 敗北の危険(リスク)が少しでも発生する賭けにリデルが挑むだろうかと考えると、答えは否。

 敗北を恥とし、最も恐れている彼が邪魔という理由だけでハロルドを始末するという短絡的な行動に出るとは思えない。

 思考の限りを尽くした結果、ラルクが出した答えは一つだった。

 リデルにハロルドのことを問うことが無駄であり、逆にアーサーの考えをリデルに知られてしまうという危険が出て来る。何としても、それだけは避けるべきだ。

「――兄さん!」

 ラルクは思わずアーサーを呼んだ。

 自滅してはならないという強い意志を込めて彼の名を呼んだ。しかし此処はセイント・ブリッジ。

 賑わう人々の声と焦りから革靴の音を響かせて歩くアーサーによってラルクの声は掻き消された。

 己の背後に潜む危険を顧みず、取り憑かれたように一直線に突き進むアーサーを危惧するラルク。

 活気ある街の商店街を歩く二人にあるのは不吉な空気に、暗い未来への憂い。


 ――ハロルドを慕うが故に、彼らは多くを失うだろう。


****

 深緑の木々が覆う村。いつものどかな空気が流れ、心地良い風が吹くこの村に相応しくない物騒とした空気が紛れていた。

 自室にいたシャール・レイモンドも例外なくその空気に呑まれ、不安げな面持ちで座っていた。

 物騒とした空気は彼だけでなく彼と母の拠り所である家全体を呑み込んでいた。


 ――この空気は何だろう。


 考えを馳せると、父であるアクロイド・レイモンドが自殺した事を知った時と同じようなものと、子供ながら察知した。


 ――必死に取り戻そうとしていたのに。


 父の死を知った時に流れ出した空気によって、今まで築き上げ、流れていた心地良くて温かな空気を壊していく。


 ――重厚な空気が全てを掻き消していく。


 立ち上がってもどこか気怠い体に鞭を打ってシャールはリビングにいるであろう母、イザベラ・レイモンドのところへ向かった。

 パタパタと小さな足がフローリングを踏む音を響かせリビングに向かって一直線に走る。

「ちょっと待って……」

 突如弱々しい声がして、シャールは立ち止まった。

 リビングの近くを右往左往する弟分レディシア・キースが彼に声をかける。

 疑問に思った彼はレディシアに聞いてみた。「レディシア、どうしてここにいるんだ」

 何時の間に来ていたのだろう。シャールが考えた限りでは気配を感じる事が出来なかったからだ。


 ――何故?


 そう考える前にレディシアは俯き加減でシャールに言った。

「君を、アルディに行かせようとしてるみたいだね」

 幼い彼にはとても似合わない言葉。きっと彼の両親が彼に言わせようとしたのだろう。

 言葉の意味さえ理解出来ないままシャールに告げる彼の痛々しい姿を見ていられなかった。

「ごめんね、レディシア」


 ――何も、出来なくて。


 シャールは悲しそうな笑みを浮かべて幼いレディシアの頭を撫でた。

「……母さん」

 リビングの前にある木製の厚い引き戸の向こうに母たちがいる。

 シャールは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

(……分かっているよ、母さん)

 ある決意を固め、ゆっくりと目を開けたシャールはレディシアを庇うようにして戸を引いた。


****

 シャールが自室から出る数時間前、イザベラ・レイモンドは村一番の資産家でありアルディ内でも強大な権力を持つキース家の当主、ジェイソン・キースとヘレン・キースをリビングへと招き入れた。

「……イザベラ、何の用?」

 眉間に皺を寄せ、不機嫌な様子を露わにしているヘレンに対してイザベラは「ジェイソン様、ヘレン様、突然御呼び立てして申し訳ありません」と一言付け加える。

 終始丁寧な口調で振る舞いつつも、イザベラの瞳はヘレンに対する敵意を剥き出しにしていた。

 ヘレンに連れてこられたジェイソンは興味がないといった様子で、退屈しのぎに辺りを見回していた。

「直ぐに話は済みますから、早く席についてください」

 ピシャリと言い放ったイザベラに対して今度はヘレンが敵意を剥き出しにしてイザベラを睨みつける。

「あなた、誰に向かってそんな台詞を吐いているのかしら?」

 その台詞に対してイザベラはヘレンに向かって言い放った。

「ヘレン様、此処は私の家です。それともあなたがお力を貸して頂かなければ、直接リデル様に申請を願い出るまで。アルディは今、フレア・ハーバード様がいなくなって人手不足ですものね?」

「……イザベラめ」

 ここまで言われてはヘレンは何も言えない。隣に居たジェイソンも観念し、イザベラに事情を話し始めた。

「……流石は旧アルベルト家のご令嬢、イザベラ・アルベルト。今、アルディではアクロイド・レイモンド殿の死に続き、ハロルド・ブルネーゼ、フレア・ハーバードまで行方知れずとなり、暇を取る者もあれば上記二人と同じように行方を眩ます者まで出る始末。人を集めれば報酬がアルディより頂ける。貴女は、シャールをアルディに入れるつもりだろう」

 ヘレンと違い、全く表情を露わにしないジェイソンは淡々と言う。

「ジェイソン様は分かって頂けるのね」

 微かに笑みを浮かべるイザベラに対して、ヘレンはすかさず彼女に向かって言い放つ。

「あなたは残酷ね、イザベラ。

自分の欲望の為にシャール君を利用し、潰すつもりかしら。

シャール君はそんなこと、望んでいないと思うけど」

 全て言い終えると不敵に笑い、沈黙するイザベラを見据えるヘレン。しかし、イザベラは直ぐに沈黙を打ち破り、ヘレンを睨み付けて言い放った。

「……冷酷と言われても構わない。しかし、あなたと一緒にしないでください。セイシェル様を隔離するよう仕向けたあなたと一緒にしないで……!」

 怒りに燃えるイザベラの口から出たのはアルディの長男であるセイシェル・ハイブライトの名前である。

 風もないのに、銀色に輝く淡い髪が微かに動いたのを見たヘレンは再び眉間に皺を寄せた。

「……まあ良いわ。そんなこと、ずっと前からセイシェル様が知っているからね。しかし、そんなことを持ち出して私を脅迫しようとは、冷酷ね」

 深い緋色の口紅を塗った艶やかな唇がイザベラに対する侮蔑の言葉を紡ぐ。

「……あら、シャール君じゃない。イザベラ、シャール君がいるわよ」

 イザベラから視線を外し引き戸の方へ移すと、険しい顔でヘレンを見るシャールと怯えたような表情で彼に縋るレディシアが待っていた。

「シャール君、丁度良かったわ。此方に来てくれるかしら」

 シャールに向かって手招きをする。それに従い、彼はゆっくりと歩く。

 ヘレンは何も言えないでいるイザベラを睨みつけ、母の隣についたシャールに向かって問いかける。

「……シャール君、貴方のお母様は息子をアルディに行かせたいと希望しているのだけど、貴方はどう思う?」

「……えっ」

 ヘレンの言葉にシャールの頭は真っ白になってしまった。

 その瞬間、今まで流れていた空気の流れが全て止まったように感じた。

 シャールは目を見開き、本当なのかと問うようにイザベラを見るが、彼女は何も言わなかった。

 答えが欲しいのに、何も言わないイザベラに対してシャールは戸惑いを隠せず、不安げな面持ちで立っていた。

「――シャール君」

 迷いを見せた心に入り込むように、ヘレンは更に質問を続ける。

「君はどう思う?」

 シャールの耳に響いてきたのは少し高く気取った女の声。

 時折見える白い手には蒼玉を中心とした宝石が散りばめられている指輪。

 豪華の限りを尽くした装飾と彼女の声に本能的な嫌悪感がわき上がり、これ以上不快なものを見るまいと、母の方に視線を向ける。

(母さん……)

 癒えぬ悲しみを隠し、シャールのためにと日々(せわ)しく動くイザベラの後ろ姿が健気で痛々しい。

 愛する父を失いながら、自分が存在しているが為に悲しみを露わに出来ず、何があっても耐え抜かなければならない。

 シャールは拳を握り締め、唇を噛み締めた。

(――いつか)

 優しい母が、自分を授かったという事に喜び、誇れるようになるならば、どんなに良いだろうか。

 愛する母の足枷としかならないこの身の愚かさと無力さを何度責めただろう。

 きっと父は自分の為に死んだのだ。

 今、母は息子である自分を利用しなければ何も出来ないという事を思い知り、苦しんでいるに違いない。

(父さん、母さん。いつか俺を授かったことを大いなる喜びと感じるならば)

 迷うことをやめたシャールは、母と同じようにヘレンを睨みつける。

「母が言うのであれば、それは俺自身の意志でもある。だから、俺はアルディに行きたい」


 ――我が身を殺すと決めた。


 もう迷わない。迷うことも母に甘えることも許されない。

「俺を、アルディに連れて行って下さい」

 凛とした姿で立つシャールを見たヘレンは眉間に皺を寄せる。よくみると彼女は不快感を露わにし、イザベラとシャールを睨んで居た。

 何も言葉を発することをしないヘレンを差し置き、満足そうに頷いたジェイソンはシャールに向かって言った。

「うむ、君が決意したら話は早い。明日にでもリデル・オージリアス・マクレーンを迎えに寄越す。君も覚えているだろう、アクロイド殿の死を知らせに来たのだから」

 あくまでも、事務的な態度を崩さないジェイソンと、憎々しいと言わんばかりにイザベラを睨むヘレン。

 一方、何も言わずリビングに入って直ぐの引き戸の隣に待機しているレディシアは凛と立つシャールを寂しそうに見ていた。

 アクロイドを失ったあの日から、シャールは徐々に歪み始めていた。

 頼れる兄という印象が緩やかに、しかし確実に崩れていく。

 心優しいシャールの心を歪ませてしまったものは、誰も抗うことの出来ぬ死というもの。

(――シャール、君は変わってしまうんだね……)

 憂うレディシアの方を見ることなくシャールは黙ってヘレン達を見ていた。

 彼の表情は見えないが、その後ろ姿からは剥き出しの敵意と底無しの深い憎悪が滲み出ていた。

(僕は、君を止められない)

 父という憧れの存在を失い、徐々に歪み始めていたシャールを止めることなど出来る筈がない。

 自分の小さな手を見て、レディシアは憂いの表情を浮かべ、寂しそうにシャールを見ていた。

「レディシア、帰るわよ!」

 ヘレンの怒号にも、微かに頷くだけで他には何の反応もなかった。

 シャールを止められない自分の無力さを責めるレディシアには、母の言葉が届かなかった。

「レディシア……」

 彼の隣にいたジェイソンがレディシアに歩くよう促す。そして、黙ったまま立っているイザベラとシャールに向かって言った。

「後日、リデルがそちらに来るだろう。それまでにアルディへ行けるよう準備しておいて頂きたい」

「……分かりました」

 イザベラは抑揚のない声で返答すると、ジェイソンは頷きレディシアとヘレンを連れてリビングを出て行った。

 彼らが出て行った後も、重たい沈黙がシャール達を包み込んだ。


****

 アエタイトのセイント・ブリッジ商店街。

 長く連なっている小さな店を通り越した先にある大きな宿屋。

 東西南北に分かれるアルディの領地の中心地に位置するだけあって交通機関が発達しており、各地から旅人や商人がやってくる。

 そんな事から宿屋には多数の部屋が設けられており、季節によっては満員になることもある。

 その宿屋の中でも高級クラスと言われる部屋にいるのは、リデル・オージリアス・マクレーンを始めとするアルディに仕える者達だった。

「ルディアス、ルキリス。説明してもらおう」

 腕を組み、鋭い声を発したリデルに対して二人は俯き、その声を受け止めていた。

 リデルが怒っている理由はラルク・トールスの単独行動についてである。

 アエタイトに入るなりラルク・トールスは何処かへ行ってしまい、それにリデルが気付いたのだ。

 彼は早速ルディアス達を呼び、ラルクの行方を問い詰めるところから始まり、今に至る。

「ラルク・トールスはまだ十三歳だ。アエタイトに帰っているたった一人の肉親であるアーサー・トールスに会いたいと思うのは至極当然のこと。それに今は身内に会うことは制限していない。だが、アーサー・トールスがハロルド・ブルネーゼの手先であるという事実があるならば話は別だ」

 まくし立てるように責めるリデルの声は容赦なく二人に突き刺さる。

 ルキリスは目を伏せ、ルディアスは唇を噛み締めて黙っている。

 リデルの言っていることは当たり前といった内容であり、ラルクの兄であるアーサーの立場を知りながら彼を行かせてしまったことを二人は強く後悔した。

 こうなった以上、どんな罰も甘んじて受ける覚悟を決めた二人はリデルの次の言葉を待っている。しかし、次の彼の言葉は二人の予想を大きく逸れたものだった。

「……まあ、いいだろう。二人とも、顔を上げろ」

「……?」

 先程とは違い、鋭さが消え失せた柔らかな声がし、二人はゆっくりと顔を上げた。

「お前たちにはやって貰わなければならないことがあるからな」

「……」

 柔らかな口調とは裏腹に冷酷な視線が二人を捉える。

 今のリデルの表情からは感情が上手く読み取れない。先程よりも彼の怖さが増していると感じたのは杞憂ではない。

「分かっているだろう? アーサー・トールスもラルク・トールスも元はライハード出身者であることは」

 歌うような優しい声は逆に二人を恐怖のどん底に落とした。

「……リデル様」

 二人の強張った表情。ルキリスは絞り出すような声でリデルを呼ぶ。


 ――地を這うような獣の低く唸るような声が響き渡る。


「ラルク・トールスを連行しろ。どんな手段を使っても、奴をアルディに連れて行け……」

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