第一節:Le gacon question
確かに生きようとしていたのに、自分自身に誇りを持っていたのに、生きることさえ思い通りにならない。
命の儚さを、傲慢で身勝手な大人の存在を知るには、あまりにも幼すぎた。そこから生まれた嫌悪さえ知らず、それを汚いと言って否定する。
幼い少年達は、生み出され、成長していく黒い心を持て余していた。
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あれから六年後、父に憧れていた無邪気な男の子だったシャール・レイモンドは九歳となり、隣に住んでいた村一番の資産家の一人息子であるレディシア・キースも六歳となる。彼らは兄弟のように育ち、いつでも共に行動していた。そして、今日も彼らは朝早くから外に飛び出し、走り回っていた。
「レディシア、いくよ!」
「うん!」
彼らは何も知らない。無知故に浮かべる笑顔が、歪んだものに変わるなど想像できない。幼い少年達は如何に幸せが尊い存在であるかを知らないでいた。
「早くしろよ、日が暮れちゃうよ」
「はあ……はあ……わかってるよ……」
シャールとは対照的に息を切らせ、途切れ途切れに言葉を発するレディシア。それを見たシャールは立ち止まった。
「仕方ないなあ、此処で待ってるから」
するとレディシアは息を切らしながらも笑って言った。
「ありがとう」
レディシアの笑顔を見たシャールは、素直だなと感じた。此処まで素直な彼を見ると放っておけなくなる。
「全くー……」
頭を掻きながらシャールはレディシアの元へ駆けつけた。
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その頃、レイモンド家には珍しい来客があった。黒服を身に付けた数人の若い男女が待つのはイザベラ・レイモンドである。
「はい……」
警戒したような返事とともに彼女は扉を開けた。すると、先頭にいた黒服の男がイザベラに挨拶をする。
「イザベラ殿、ですね? 私はリデル・オージリアス・マクレーンと申します」
そう名乗った男にイザベラは眉間を寄せて、彼らを睨みつける。
「用件は何でしょうか」
淡々とした声にリデルは肩を竦めた後、再び姿勢を正して言った。
「あなたに、大切なお話があります」
リデルの真剣な表情に彼女は身構え、問い掛ける。
「アクロイドのことね」
震えながらも気丈に言葉を紡ぐ彼女に、リデルと後ろにいた部下達はゆっくりと頷いた。その重苦しい表情に、黒い服を身に付けている男女を見て、彼女は何となく察した。しかし、察しながらも信じられないと言わんばかりの表情で再び問いかける。
「何か、あったのですね」
リデルはゆっくりと頷いた後、一段と低い声で告げた。
「彼は、此処から離れた小屋に、倒れていました……調べたところ、こんなものがありました」
そう言って彼はイザベラに手渡した。受け取った彼女が見たものは白い紙と小瓶だった。白い紙は遺書、小瓶は薬が入っていたと思われる。
「アクロイド……っ!」
イザベラは泣き崩れ、その後リデルに向かって持っていた小瓶を投げつける。暴れる彼女を宥めながらも、どうしたらよいのか分からないでいる。
仕方のないことで、当然のことだ。アクロイドの死を突然告げられたら、泣き叫び暴れる方が普通だ。
「アクロイドを返して!」
無言を貫くリデル達も、彼女にどう声を掛けたら良いのか分からなかった。
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「あれ? どうしたのかな」
日も暮れ始め、家に戻ろうとしたシャール・レイモンドとレディシア・キースは違和感を覚えた。
静かな村に訪れた重苦しい空気に疑問を抱く。いつも、この村は長閑で穏やかな空気が流れるのに。
異様だと感じた二人は走る。
(何があったんだ、いやな予感がする)
母に、父に、何かが起こった。
シャールは胸に渦巻く不安を振り払いたくて、足を速める。先程まで息を切らしながら歩いていたレディシアも後に続く。シャールが心配で堪らなかったのだ。何もなければいい、そう考えたら自然と足は速くなる。
(僕は、君に)
押しつぶされそうなほど重苦しい空気が広がる中、遠くから見えてきたのは。
「母さん……?」
シャールの家だ。家の前ではイザベラが黒服を着た人に向かって腕を振り上げている光景。遠くにいても聞こえる悲鳴のような声。
“アクロイドを返せ!”
腕を何度も振り上げ、飛びかかろうとするイザベラの姿など今まで見たことがない。シャールは急いで走り、レディシアも後に続いた。
「母さん、母さん」
何度も叫びながらシャールは母に駆け寄る。レディシアも後に続いた。
「母さん!」
母のところまで辿り着いた二人は黒服を着た数人の男女を睨む。
「君がシャールか」
先頭に立つ男、リデルがシャールの目の前に立つ。シャールもイザベラの前に立ち、何も言わず彼の次の言葉を待つ。
二人の様子に硬直するレディシアと、シャールの腕を掴むイザベラ。イザベラはリデルを睨みつけるシャールに向かって言う。
「シャール、この人達は何もしないの……だから心配しなくていいのよ……」
今にもリデルに飛びかかろうとするシャールをイザベラは宥め、横にいたレディシアもシャールの肩に手を置く。
「あ、シャール君!」
リデルの後ろにいたもう一人の男が崩れ落ちたシャールに駆け寄る。
……信じたくない。
イザベラの弱々しい姿を見たシャールは一瞬で全てを察した。
父さんが死んだなんて、嘘。これは悪い冗談だ。明日には帰って来るでしょう?ねえ、何か言ってよ。言いたいことは沢山あるのに言葉にはならず、代わりに涙が流れる。
『どうしていなくなったのか』
シャールが顔を上げた時、日は既に沈みかけていた。
*****
「大丈夫なのか?」
リデル・オージリアス・マクレーンの後ろを歩く男は彼に問う。返事はすぐにきた。
「ラルク・トールス、我々に出来ることなどないのだ、ここは引き下がるより他はない。余計な真似をするな」
「分かっていますよ……しかし、九歳ですよ?」
赤と茶色が混じった短髪の男、ラルク・トールスは理解できないと言った様子でリデルに言う。しかし、リデルは直ぐにラルクの方を見て、はっきりと言い放つ。
「アクロイドの息子なら、いずれ脅威となる。お前もいい加減立場を弁えろ。情に溺れるな」
「……まあ、それは分かっていますけど……」
ラルクは渋々頷き、リデルについて行く。
アクロイドという偉大な人物が自殺という選択をしたのに、どこか淡々としたリデルの態度が理解出来なかった。更に、幼いシャールを敵だと言い放つ彼の台詞が許せないとも思った。
彼の表情が終始曇っているのは、リデルが言う“立場を弁えろ”と“余計な事はするな”に含まれている意味を知ったからだ。
(ごめんだ……兄貴、アーサー兄がいるからといって……我慢できない)
拳を握り締め、空を見上げた。
高く聳え立つ深緑の木々が光を遮っている。それはまるで、アルディウスという王国に支配された自分達のようだった。王国には光が届いているのに、自分達には届かない。所詮、自分達は闇に追いやられる存在なのだと思わずにはいられなかった。
リデル達に気付かれないようにラルクは溜め息をついた。
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家の中に入り、リビングのソファに腰掛けるシャール・レイモンドは、未だアクロイドの死が信じられず落ち着かない様子でいた。
母は出て行った為、付き添っていたレディシア・キースと二人で待っている。母はきっと父のいるところに行ったのだろうとシャールは思った。
傍で見ていてもわかる、母は父を心から愛していたのだろう。彼自身も父に憧れ、父を愛していた。憧れだった父に聞きたい事は沢山あった。
『母と、どこで出会ったの?』
聞きたいことも教えてほしいことも沢山あったのに、全く聞くこともなく父は二度と帰って来なくなった。
でも、それは本当なの?本当はまだいるのではないか。そんな期待が心に渦巻いたまま、母を待っていた。
「……シャール」
玄関の向こうから扉を叩く音と弱々しい声が聞こえてきた。シャールは立ち上がり、玄関まで向かう。
――ガチャリ。
扉を開けると母が入って来た。
「明日、此処に帰って来るのよ……お父さんが」
そう言った後、イザベラは崩れ落ち、シャールが慌てて駆け寄る。
嗚咽と熱を帯びた身体が、突然やってきた悲しみに耐えてきたことを証明する。それを受け止めることしかできず、この幼い手ではどうすることもできない。悔しくてたまらなかった。父を失った悲しみは父を奪い去った人間に対する憎悪に変わるまで時間はかからなかった。
母を受け止める手に力を込め、シャールは強く誓った。
『絶対に許さない』
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アルディの領地でも大聖堂があるアルディウスまでかなりの距離があると考えたリデル・オージリアス・マクレーンは、馬車と船と蒸気機関車が走る港町アエタイトに留まることになった。
「ラルク・トールス、ルディアス、ルキリス、ご苦労だった」
先程、レイモンド一家に訪れていた黒服を着ていた数人の男女、ラルク・トールスとルディアスとルキリスである。
暗めの赤の髪色をしている青年ルディアスと水色の髪色をしたルキリスはリデルの後に続き歩いていく。しかし、ラルク・トールスはすぐに進路を変え、一人別の場所へ向かう。
目的はアルディに仕え、兄でもあるアーサー・トールスの家である。アルディに仕えるアーサーもアクロイドの事もあり長期休暇を取ってアエタイトに戻っていたのだ。
「兄さんは大丈夫か、問題なのはハロルドさんだ」
ラルクは一人呟き、足を早める。
ハロルドとはアーサーの家の隣に住むハロルド・ブルネーゼの事である。彼はアルディと敵対するライハードの出身である。アルディはライハード出身者を取り締まっており、ライハードの出身者である者はアルディに入ることは出来ない。
その為、彼がどうやってハロルドがアルディに入れたのかも分からない。
リデルがラルクに対して冷たく接するのは、ライハード出身者であるハロルドと繋がりがあるからだ。そして、ラルクがリデルに対して怒りの感情を抱いているのはハロルドと深く繋がっているからだ。
ライハードをどう思っているのかは知らないが、彼のおかげで一部の人間からはありもしない噂を流され、アルディにいることが辛くなっていた。
「畜生、リデルめ……」
悪態をついてみたものの、今の自分が置かれた状況が覆る筈もなく悪態は虚しく周りに広がって消えるだけだった。
はあ、とまた一つ溜め息をつきながら言う。
「せっかく兄さんに会いに来たんだ。こんな暗い表情をしていたら兄さんに心配かけるよな」
ラルクは大きく首を振り、再び走り始めた。
*****
港町アエタイトの住宅街を歩いていると、一際目立つ大きな家が見える。そう、その家こそがトールス家であった。普段は家にいるアーサー・トールスだが、今日は外に出ていた。彼は必死に通りゆく人にあることを聞いていた。
「あら、アーサーじゃない。そんなに焦って、何かあったの?」
あまりに必死な様子だった彼を訝しく思ったのか、花束を抱える女性がアーサーに話し掛けて来た。すると彼は声を掛けた女性の肩を掴み、捲くし立てる様にして問い掛ける。
「ハロルドさんを見なかった!?」
一体何があったのだろうと益々不安になるが、アーサーの勢いに完全に押されてしまった女性は左方向を指差して言った。
「本を二冊ほど抱えて、走っていったわ……」
それを聞いたアーサーは女性をそのままにして左方向を真っ直ぐ走る。突然のことに目を丸くした女性は首を傾げる。
「まあ、忙しいわね。アーサーは」
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一方、形振り構わず走るアーサー・トールスは中央広場に辿り着いた。
「……もう、アエタイトにはいないのかな」
呟きながら辺りを見回すアーサーの目に、広場をゆっくり歩く人物を見つけた。そう、彼にとって唯一とも呼べる家族の姿を見つけたからだ。
「ラルク!」
叫ぶようにして呼ぶアーサーの声にラルクは顔を上げた。
「アーサー兄さん……」
先程の暗い表情に笑顔が戻る。彼はアーサーを見たことで緊張が緩み、安心感を覚えた。アーサーのところに駆け寄ったラルクだが、駆け寄る弟の手首を掴み、そのまま走る。
「リデルに会うぞ」
焦りからくるのか、顔を真っ赤にしたアーサーにラルクは戸惑いつつ頷いた。頷くより他はなかったとも言うべきだった。
何をそんなに急いでいるのか、それがよく分からないと戸惑うラルクにアーサーはある事を呟いた。
「あの村に、ハロルドさんが向かったかもしれない」
「えっ……」
アーサーの話にラルクは目を見開いた。あの村とは、シャール・レイモンドがいる村の事であろうと彼は考えた。
ハロルドに一体何があったのか、ラルクはまた不安を覚えた。