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緋の剣士に捧ぐ交響曲【第一番】  作者: 真北理奈
第一楽章:cauchemar Overture
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交響曲第一番:Over ture

 いつも疑問に思っていた。漸く認められたのに、何故、父の顔は暗いのだろうか。ずっとそれが引っ掛かっていたが、幼い自分には父の顔が暗い理由など考えることも出来ず、ただ一言、声を掛けるしか出来なかった。

『お父さん、大丈夫?』

 だって、それしか言えなかったんだ。本当は、どうして認められたのに、漸く援助をしてもらえるところまでたどり着いたのに、どうして?

 分かるはずもない。父の暗い表情の理由も、自分の目の前に何が立ち塞がっているのかも。


****

 簡素な造りの家の中、深緑のスーツを着用しており、眼鏡を掛けた若い男性が扉を開ける。

「ただいま」

 穏やかな声が響いた途端、騒がしい足音を立てて父を出迎える四歳位の銀髪の男の子と、長い銀髪に軽くウェーブが掛かり、赤紫の落ち着いたヴィクトリア風のドレスを着た女性。

「あなた、お帰りなさい」

「お父さん、お帰りなさい!」

「シャール、イザベラ、ただいま」

 男は安堵したように二人を見ながら言った。その様子を見たイザベラも男の名前を呼ぶ。

「アクロイド、今日もお疲れ様です。晩御飯なら用意できていますわ」

 イザベラは微笑んで言うとアクロイドも苦笑混じりに言った。

「ああ、いつも待たせてすまないね」

 その謝罪にシャールは首を横に振って否定した。

「全然寂しくなんかないよ!」

 無邪気に答えるシャールを見ていたアクロイドは寂しそうに笑う。


 ――この子は健気に寂しさを隠す。


 何度この子に寂しい思いをさせているだろうか、父親として何もしてあげられないのに。

「父さん、どうしたの?」

 アクロイドの寂しそうな表情にシャールも訝しげな表情で見上げる。いつも自信に満ちていた父の輝く目が好きな彼は、今の父が浮かべる苦しそうな表情を見るのは耐えられない。

 本当は問い掛けたい。どうしてそんな顔をするのか、と。でも、仮に問いかけたらどうなるか。答えようとする父の表情は益々苦しみに歪むだろう。

 だめだ、それはできない。

 父の苦しむ顔が見たくないシャールはいつも疑問を素直に口に出せずにいた。

「シャール、早く御飯を食べようか。今日はキース様達のところにも行ってきたから、話をしようと思ってね」

「うん、そうだね。母さんがリビングで待ってるよー」

 アクロイドの後ろをついて行くシャールは歯軋りをした。

 

 ――今日も、父に問いかけられなかったと。


 それでもシャールは無邪気な笑顔を浮かべ、父と共にリビングに向かった。父がシャールを見る表情も穏やかだった。


****

 此処にいるのはレイモンド一家。

 父はアクロイド・レイモンド、アルディと呼ばれる絶対的な権力を持つ王国に医者としての技術を認められ、その上誠実な人柄が身分問わず支持され、アルディに仕えるようになった。

 母はイザベラ・レイモンド、彼女は元々アルベルトという同じくアルディの後ろ盾もあってか、莫大な資産を持つ家の令嬢となり、アクロイドとは交流があった。交流を重ねるうちにイザベラはアクロイドの人柄に惹かれ、二十歳になると婚約し、その後直ぐに息子のシャールが生まれた。

 息子であるシャールはイザベラとアクロイドの愛情を受けて育ち、二人もこれからの成長を楽しみにしていたのだ。

「あなた、明日から行くのよね?」

 今日の夕食はステーキだった。机の上でカチャカチャと金属音を響かせながらイザベラはアクロイドに聞いた。するとアクロイドは隣にあったスープを掬っていたスプーンを置いて頷いた。

「そう……」

「命令だからな。本来は本家に待機しないといけないが、とある方に帰るよう強く勧められてな」

 またしてもそんな事を苦笑混じりに言ったアクロイドにイザベラは安堵した。何故ならアクロイドを引き止めようとする幹部達を振り切って強引に此方に帰って来たのではないかと思っていたからだ。

 幹部に逆らえば、命令に背けば、結果は火を見るより明らかである。

「……厚意に甘えたくないと考えたが、いつ此処に帰って来るのか分からないから、厚意に甘えて帰って来た」

 アクロイドの言葉から、誰かが彼を此処まで送ってくれたのだろう。しかし、彼に与えられた休息の時間は少ない。

「でも、明日には戻らないといけないのよね……」

 イザベラの言葉にアクロイドは黙って頷いた。幹部となった以上、此方の事情を向こうに押し通すわけにはいかなかった。


 ――本当はイザベラと一緒にいたい。二人でシャールの成長を見守りたい。


 そう思う事の何がいけないのだろうと思った事もあった。今はもう叶わない願いと半ばあきらめていたが、それでも二人の傍にいたいと思ったアクロイドは寂しそうな表情をイザベラに向ける。

「アクロイド……」

 イザベラがアクロイドに向かって声を掛けようとしたその時だった。

「母さん、父さん、どうしたの?」

 スプーンを置き、二人の様子に首を傾げながら問い掛けるシャールの声。どうしたのだろうという心配そうな声に二人は顔を上げ、シャールを安心させるように微笑んだ。

「大丈夫よ、シャール。心配させてごめんなさいね。何でもないから」

 二人の笑顔にシャールは幾らか安堵し、続けてこう言った。

「ううん、それならよかった! 早く食べないと美味しくなくなるよ。これとっても美味しいんだから!」

 フォークに突き刺したステーキの切り身を頬張りながら言うシャールを見た二人は顔を見合わせて笑った。

「アクロイド、シャールの言うとおりだわ。早く食べましょうよ。今日は仕事の事は忘れて……ね?」

「ああ、それもそうだな」

 シャールによって大事なことに気付かされた二人。

アクロイドが此処にいる時間はもうあと少し、今日はイザベラの作った料理を心行くまで味わいたいと思った彼は置いていたスプーンを持つ。

 その後はカチャカチャという金属音以外は何も聞こえなかった……いつものように幼い少年の声と楽しげに話す母の声はなく、沈黙だけが広がる夕食の風景だった。


****

「ごちそうさま」

 そう言ってアクロイドは立ち上がり、自室へ向かおうとした。

「あ、父さん」

 シャールはアクロイドの後ろをついて行こうと立ち上がろうとしたが、イザベラが彼を止めた。

「シャール、お父さんは忙しくて疲れていて、今日はもう早く寝ないといけないのよ。気持ちは分かるけど、今日はこっちで寝なさいね」

 優しく引き止めたイザベラだが、シャールは納得がいかないと頬を膨らませた。父の隣で話を聞きながら眠るのがシャールの楽しみだった。

 勿論、母の隣も好きだが、父の隣はそれ以上に好きだった。それに彼がアクロイドと会うのは久しぶりなのだから尚更父のそばにいたかった。しかし、幼いながらも彼は父の負担にはなりたくないとも思っていた。

「……父さんも、疲れているから……仕方ないよね」

 これ以上父を困らせてはいけないと、シャールはイザベラに従う事を選び、頷いた。父に甘えたいと言う事を健気に堪えるシャールの姿にイザベラは何とも言えない気持ちになった。

「また、帰ってきたら今度はいっぱいお父さんに甘えたらいいわ。お父さんもシャールと一緒にいられなくて寂しいって言ってたから」

 そう、今度は長期休暇を貰えるだろう。その時はアクロイドに精一杯甘えて欲しい。寂しさを堪える幼い彼を見ていられなくなり、そう言った。

「本当!? じゃあ、今度は父さんと一緒の所で寝てもいい?」

「ええ、勿論よ」

「やったーっ!」

 途端に目を輝かせるシャール。喜びながらイザベラの後ろをついて行く。


****

 一方、普段は広い部屋にいたアクロイドは、古くより慣れ親しんできた狭い自室を見回し、目を細めた。

「イザベラ、シャール、本当にすまない……」

 夫として父として何も出来ないアクロイドは自分自身を責めた。いつも、いつも、彼は自分自身を責め続けた。

「……これが、一番良い方法なのか……」

 そう言って、アクロイドは机の上に白い紙を広げた。

 本当は、アルディに認められたわけではなく、彼らによって強引に連れて行かれただけなのだ。アルディからすれば自分は邪魔な存在である事を、アクロイドは知っていた。知っていながら、未だにイザベラとシャールに隠し続けている。

 近い将来、自分の存在がイザベラとシャールを苦しめるだろうと考えたアクロイドは謝罪の言葉を何度も口にする。

「すまない……」

 悲壮感を露わにしたアクロイドは、机に広げていた紙を綺麗に折って、強く握り締めた。

 父親として何も出来ない事が悔しくて、イザベラを守れないことが悔しくて、何より愛する二人を苦しめる存在でしかないことが悲しかった。

「二人とも、すまない」

 そう言いながらもアクロイドは机の隅に置いた小瓶を取り、ポケットに入れた。

「さあ、もう寝よう……明日も早い……」

 それだけを言ってアクロイドはベッドに向かった。

 彼を覆う深い夜の闇、そこに日が射すまではまだ時間がある。アクロイドを嘲笑うように夜の闇は更に深くなっていった。


****

 朝日が昇ろうとしていた頃、シャールはゆっくりと起き上がった。今日は家庭教師が家にやってくる日だ。早く準備に取り掛からなければいけない。

 両手を精一杯天に向かって伸ばしだ後、シャールはスッと立ち上がり部屋から出た。

 パタパタとフローリングを歩き、リビングに来ると、香ばしいパンと、甘い紅茶や少し苦いコーヒーの香りがした。どうやらキッチンでイザベラが朝食の準備をしているようだ。

「シャール、起きたのね」

 いつものように張り切って料理を作るイザベラの問いにシャールは頷き、母に問い掛ける。

「うん、父さんは?」

「お父さんも起きて準備をしているわ」

「そうなんだ! 実はね、父さんに見せたいものがあるんだ」

「へえ、何かしら?」

 興味深そうな表情を浮かべるイザベラにシャールは得意げに笑いながら言った。

「当ててみてよ」

「えー……もう、シャールったら……」

 悩むイザベラに対してシャールは得意げに笑った。彼はアクロイドに何を見せたいのかと考えると、ふとシャールの衣服が目に入った。よく見ると彼の衣服の様子がいつもと違っていた。

「まあ、いつもはボタンが上手く止められないって言っていたけど、今日は違うみたいね」

 成程と、彼女は頷いた。シャールが得意げに笑う理由もこれなら納得できる。

「お父さんの所に行って来たらどうかしら。きっとお父さんも喜ぶわ」

 そう、シャールはブラウスをよく着用しているのだが普段は一段掛け違えていたり真ん中しかボタンが出来ずいつもイザベラが朝食を作っている合間に手伝ってもらっていたのだ。しかし、今日は違う。

 シャールが自分でブラウスのボタンを掛け、立ったままの襟も綺麗に整えられていた。

「ねえ、凄いでしょ!」

 目を輝かせながら言ったシャールに向かってイザベラも大きく頷く。

「偉いわ、シャール……あ、お父さんが来たわよ」

 父が来るのを楽しみに待つシャールに向かってイザベラはにっこりと笑いながらリビングの扉を指差す。

「おはよう」

 朝の挨拶とともにやって来たのは礼服を着用したアクロイドがリビングへと来たのである。

「父さん!」

 待ちわびていたと言わんばかりの表情をしたシャールはアクロイドの元へ一直線に駆け寄った。

「父さん、父さん、見てみて!」

「お、シャール。どうかしたのか?」

 父に向かって一直線に駆け寄るシャールを可愛らしく思った。そして、彼もふと気が付いた。

「お、今日はちゃんとしているじゃないか?イザベラにやってもらったのか?」

 そう、シャールはいつもブラウスのボタンが止められないと泣きながらイザベラの元に行くのだが、今日はブラウスのボタンも綺麗に止まっており襟も整えられていた。

「違う違う! 自分でやったんだよ」

 アクロイドの問いにシャールは慌てて首を横に振って否定した。

「じゃあ自分でやったのか!?凄いなあ、父さんは嬉しいよ」

 穏やかな声とともにシャールの頭をくしゃりと撫でた。その手が心地良くて彼は父に思い切り甘える。

「えへへ……頑張ったんだよ」

 褒められた事に対する嬉しさから照れる幼い少年。一歩ずつ確実に成長していくシャールの姿に目を細めるアクロイドは誇らしく思った。

「さあ、イザベラの自慢の料理だ。早く食べないとな」

「うん!」

 シャールは頷き、アクロイドとともに椅子に座る。

 焼きたてのパンと甘い苺やブルーベリーのジャム、ブラックコーヒーやストレートティーの香りが食欲を掻き立てる。

「いただきまーす!」

 朝の挨拶とともにシャールはプレートに乗せられたパンを頬張り、イザベラはストレートティーを一口飲んだ。アクロイドも用意されたブラックコーヒーを一口飲んで、隣に座るシャールを見た。

 彼を見て、改めて強く思った事がある。


 ――同じような苦い思いは決してさせない、と。


 二人には見えないようにズボンのポケットに手を当てると昨日こっそりとズボンに入れた小瓶の感触があった。そう、昨日の夜、彼は密かに誓っていた。


 ――何があっても、二人を守ると。


「シャール、どうしたの?」

 イザベラの声がして、アクロイドは我に返る。彼女がシャールを心配そうに呼ぶので一体何事だろうと思いシャールに視線を移す。

「あ、あのさ、父さん、昨日は大丈夫だった……?」

 聞こうかどうしようかと迷った末に、聞くことにしたのだろう。

 アクロイドを気遣い、心配そうな表情を浮かべるシャールに彼は胸を痛めた。しかし、自分の胸の内をシャールに悟られてはいけないと思い、微笑んで答えた。

「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」


 ――この子は鋭い。


 シャールの無邪気な笑顔と煌めく瞳に罪悪感を募らせるアクロイド。先程も確かめた筈なのに無意識にズボンのポケットの中にある小瓶の感触を確かめる。


 ――この小瓶に入っている少しの粉が、愛する二人を更に苦しめる事になる。


 しかし、アルディに二人が関わるよりはずっと良い。アルディは何時か二人を追い詰めようと狙って来るに違いない。このような手段でしか二人を守れない事にアクロイドは己の無力さを責めずにはいられなかった。

「父さん?」

 再びアクロイドを心配しているシャールの声が響き、アクロイドは内心慌てつつも平然とした様子でシャールに話題を振る。

「シャール、今日はレディシアに会いに行くのか?」

 レディシアとは、村一番の資産家であるジェイソン・キースとヘレン・キースの一人息子で昨年生まれたと言う。キース家と交流があるアクロイドやイザベラもレディシアの成長を楽しみにしていた。

 誰よりもレディシアの成長を楽しみにしているのは親友が得られそうだと喜ぶシャールだった。

「うん! かわいい子なんだって」

 そう言ってシャールは強く頷いた。ジェイソンやヘレンがシャールにレディシアの事を話したのだろう。シャールは一刻も早くレディシアに会いたいと言わんばかりの勢いでパンを食べ終える。

「……そうか、仲良くするんだよ。シャールはお兄ちゃんだからね」

 彼の様子を見て密かに安堵したアクロイドはシャールにこう言った。

 まるで、彼の行く末を案じるかのように。

 父の言葉にシャールは強く頷いた。

「うん、勿論だよ!」

 彼の明るい声と強い眼差し。それを見たアクロイドとイザベラは顔を合わせて微笑み合う。昨日とは打って変わり金属音の音をかき消すほど明るい笑い声が聞こえる。しかし、いつまでも楽しい時間は続くはずもなくアクロイドとの別れが迫ってくる。

「もうそろそろ行かなければ」

 時計を見て、約束の時間が来た事を知ったアクロイドは立ち上がり、椅子の下に置いてあった鞄を持って玄関まで向かう。

「父さん」

 玄関へ行くアクロイドの後ろに続くイザベラとシャール。普段は朝が苦手なシャールが今日に限って珍しく早起きをした理由は唯一つ、出発する父を見送りたかったからなのだ。

 玄関まで来るとアクロイドは靴を履き、シャールの頭をもう一度ぐしゃりと撫でる。

「シャール、元気でな」

 穏やかで優しい笑顔を見たシャールは頷いた。

「うん! 父さんも無理しないでね!」

 アクロイドは目を細め、シャールの頭から手を放し、鞄を持って立ち上がった。そして玄関の扉を開いた。

「行って来ます」

 アクロイドの声に答えるように二人は言う。

「行ってらっしゃい」

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