第十七節:D'orientation de l'écarlate
一瞬で、跡形もなく消えてしまった絆。
それは、兄弟という証しだった。
私は、何一つ守れない。
ああ、出来るなら、私を恨め。
願わくば、お前が私に罰を下してくれたなら。
……でも、贅沢な願いだろう。
さようなら、私の全て。
聳え立つ、穢れなき白亜の城を、一人の人物が訪れ、見上げていた。
「まるで監獄のようだ」
純粋が故に止まらない凶行を彼は目の当たりにしている。
自分には何ができるだろうか、自分は何をすればいいのだろうか。
「私は唯命を大切にして欲しいだけなんだ」
そして彼は白亜の地に足を踏み入れた。
使命と信念の双方を併せ持つ形で。
****
時が流れるのを感じた。
最初に訪れた時、こんな年だと思われるかもしれないが情けなくも身震いした感覚は鮮明に記憶に刻まれている。
ここに来た目的はアレンの悲願を果たすためだった。
ライハードがよりよい国になる為にもハイブライトの存在は必要だった。繋がらなければ進まない。
だが、アレン――アレン・フォン・ライハードは戦いではなく、対話でこの国と繋がりたいと願っていた。
一国の運命すら左右される事柄にどうして自分を選んだのか。
当初、アレンの意図を理解できなかったが、今では言葉にならない領域で「分かる」のだ。
そんな切欠を作ったのが、今は亡きアクロイドだろう。
『君は、どうして治せるのか』
慟哭するアクロイドを前にハロルドは戸惑いながらも答えた。
あれは確か、役人の一人が病に伏し、治そうとした時だ。
アクロイドは治療薬と称して毒薬を混ぜ、次々と命を奪っていった。
息をするように。
例えるなら、白い悪魔。
悪魔から嘲笑われても、自分もまた息を吸うように答えた。
「理由なんて必要ない」
助かる可能性のある命なら救うのが使命ではないのか。
当然ではないのだろうか。
アクロイドは暫し白衣を翻し、背を見せたが、突然笑った。
『くっくっく、あははは……はは、そうか、そうなのか』
「……アクロイド様?」
『同じか、同じなのか。私と奴は!』
壊れたように笑う彼に、自分は何を言えば良かったのか、間違っていたのだろうか。
やがて、気が済んだのか、アクロイドは一転して静かに言った。
『助けてやれ』
「はい……」
その後の手当と服薬で倒れた男は息を吹き返し、アクロイドと自分に涙を流し、礼を言っていた。
アクロイドは繕ったままの笑顔で。
――悪魔になったままの笑顔で。
せめて、息子であるシャール・レイモンドには何も言わないでいようと考えた矢先だった。
『アクロイドは死んだ』
これで、良かったのだろうか。
疑問は止まらない。
答えも返ってこない。
ただ、今の自分にできること。
「イリア様を、お守りすることだ」
再び、ハイブライトに入城する、自分の意思で。
アクロイドのような結末には持っていかせたくないという彼――ハロルド・ブルネーゼの決意を胸に、心に、手に。
****
「イリア様、お帰りなさいませ!」
「ええ、ただいま」
「シーツを整えておきましたから、いつでもお休みになれますよ! 休暇はどうでした?」
無邪気で何も考えずに問うティアに疲労を覚え、苛立ちに変わっていくのを感じたイリアは最小限の言葉にとどめ、ベッドで寝ることにした。
ティアは、彼女は羨ましい。
いつだって笑顔だから。
――痛い。
慰め合うだけの行為に心には深い傷を残し、何度もがいても消せない痕を刻んでいた。
こんなことなら、本当にロンカで朽ちて骨になっていればよかった。
「もう、寝るわ」
「分かりました、おやすみなさい」
だが、相手がどんな風になっていようとも笑顔を忘れない彼女にイリアは尊敬の念を抱きながら、自分の意のままになる夢の中へ身を預けた。
「――イリア様」
寝息が聞こえたのを見計らって、ティアは掛け布団を掛ける。
「ごめんなさい。でも、もう、今日しかないの」
アーサー・トールスから聞いた『警備隊の休暇』の話を思い出す。
講義を受ける子らと同じように警備隊にも休みがあり、全体での休暇は昨日から今日。
つまり、今日の夜に彼らは帰還する。
準備にも時間が必要となるため、最も無防備となる日が今日なのだ。
彼女の抱く恋心と、傍目から見ても深い繋がりがあるように思える二人の会話は、絶好の機会でもある。
脱穀しないよう見張らなければならず、牢屋に戦力が集中する。
加えて彼女がアルディの元へ行くとなれば少ない警備隊から更に人を回さなければならない。
手薄な今が、チャンスだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
思い出すのは、リデルの涙と、セイシェルの苦悩。
ティアにはどちらか一人なんて選べない。
なら、後々のことも考えて、リデルと一緒に行くことを決めたのだ。
(でも、大丈夫)
ティアは扉を見て、目を開いた。
待ち遠しく、惨劇の幕開けとなる合図を得るために彼女は外へ飛び出した。
****
リデルはアエタイトを中心に暴動を起こすことを決めているようで、エレザ・クラヴィアとは途中まで一緒だったが大聖堂に差し掛かる途中で別れた。
エレザは予め、ティアと一緒にイリアを連れてくる部屋を決めるためだ。
そして、最後は自分が一人でハイブライトに帰ってきたというわけだ。
「お帰りなさいませ、兄上」
彼を手厚く迎えていたのは、アイシア・ハイブライト。
「……どうやら私さえ疑われているわけか」
父は自分を信じていない。それどころか、敵か味方かを審査するようにアイシアをつけた。
行き場のない怒りがぐるぐると廻る。
アイシアに一瞥し、さっと行こうとしたところ、彼が突然「――兄上!」と、声を張り上げた。
「分かっている」
だから、言わないでくれ。
アイシアの言葉など聞きたくないと言わんばかりに悲しみに顔を歪ませ、拒絶していたが。
「何を……何を分かっていらっしゃると……?」
「アイシア……?」
よく見ればアイシアは泣いていた。
セイシェルの肩を掴み、揺さ振り、縋る。
「貴方を敵と看做さなければならない私の何が分かると言うのですか!」
咄嗟に振り払おうとした手は行き場をなくし、だらしなくぶら下がる。
弱々しい力で肩を叩くアイシアに、どう声をかけていいのかセイシェルには分からなかった。
「……私はこのようなことをするためにハイブライトに来たわけじゃない、地位なんて要らない……でも!」
『貴方がハイブライトを嫌だと言ったから』
事情なんてまだ幼いアイシアには分からない。だが、嫌だと言う兄の顔が泣きそうで、見ていられなくなったから彼の代わりに務めを果たそうと決めたのに。
――喜んでくれると、思っていたのに。
「……どうして、どうして」
ああ、どうして。
どうしてこうも上手くいかない。
ただ、笑ってくれたらそれで良かったのに。
埋まることのない溝は、アイシアに疎外感を与えるだけだった。
一人寂しく、他と一線を敷いた役目を負うアイシアに親しくする者は出ず。
セイシェルでさえ遠ざかっていった。
「……アイシャ」
ああ。
ずっと、思い出せないでいた。
初めて出会った時、自分はどれほど喜んでいただろう……。
『セイシェルに、弟が出来るんだ。僕の妹の子でね、アイシア・エルヴィ・ノールって言うんだけど、一人っ子だから』
『弟……?』
カインのように自分を犠牲にして生まれた子でもなく、本当に此処へやってくる子。
期待に胸を膨らませていた自分が、そこにいた。
だが、アイシアにも母がいる。
家族に愛された記憶がある。
接する度に見せられ、思い知らされ、終には彼の優しさを上手い具合に利用して逃げた。
アイシアは、初めて来たときからずっと変わっていなかったのだろうか?
地位を得てもアイシアは自分のことを『兄上』と呼ぶのをやめなかった。
もう自分より上なのにと諭した時も頑として「いいえ」と答え、兄と呼ぶことをやめなかった。
――変わり果てていたのは、自分か。
「アイシャ」
名前を呼び間違えて『アイシャ』と呼んでいたが、アイシアは喜んで頷いていたため、アルディの方針が決まるまでずっと一緒だった。
「……後のことは、任せたよ」
アイシアの手に、ある物を握らせる。
開けてはならない不幸の箱の鍵。
「父上に伝えてくるよ」
セイシェルは名残惜しく思いながらもアイシアから離れ、父の元へ行く。
背を向けたセイシェルにアイシアはどうすることもできないまま、鍵を握りしめて静かに泣く。
「どうしてこうなるの……」
ただ、傍にいてほしかっただけなのに。
****
王間の扉を開き、中に入ると優雅に座る父、アルディの姿を真正面で捉える。
煌く装飾品は父の心を紛らわす象徴のようで、セイシェルはこの空間を嫌っていた。
彼も思えば当主以前に一人の『人』でしかなかったことを思ったのはいつだろう。
それまでは強くて格好いい父を純粋に尊敬していたはずなのだが。
アクロイドの不穏な動きは随分前から噂されていたが、自分はどこかでそれを希望に変えられないかと、ずっと考えていた。
父がハイブライトにしがみつくのは、そこに在るからだ。
安定の場として君臨しているからだ。
父は、いつしか自分で築き上げた純白に、自分が支配されていたことを知らないでいる。
『壊してしまえば、無くなってしまえば』
純白が無くなれば、父は戻ってきてくれるだろうか?
また、自分を愛してくれるだろうか?
表面だけを語れば愛する父のためと、いい話になるが根底は全て自分のエゴだ、欲求だ。
結局、自分を一番に考えずにはいられないらしい。
「父上」
「セイシェル、どうしたんだい。この休暇、僕に顔も見せないで」
「申し訳ありません。でも父上が与えて下さった監視役の仕事を通じて沢山の者と通じる機会を得れまして……本当に感謝しています」
堅苦しい言葉だが全部本心からだった。
リデルやエレザ、ティアやイリア、そしてカイン……気がつけば多くの人に支えられて生きて来れた。
そのことを教えてくれたのは、紛れもなく父なのだ、例え、不可抗力であっても。
「それはよかった。うん、前より活き活きとしている」
アルディはセイシェルを見て、笑顔を見せる。
最早原型を留めない、偽りの笑みを。
彼は、自分が以前どうやって笑っていたのかも、もう思い出せないのだろうか。
どこか歪な笑みにセイシェルは泣きたくなったが必死に堪えた。
「父上、イリアのことについて一つご報告が御座います」
未だ疼く罪悪感は消えないが、他に良い方法もなく。
「カイン・ノアシェランはご存知でしょうか?」
自分の願いをかなえるための切り札を使うことにした。
「ああ、知っているよ。最近、イリアとよく歩いているね」
アルディの声が明らかに低くなったことを感じ、汗を流しながらもセイシェルは続ける。
「ええ、これは噂なのですが」
「――二人は恋人じゃないか、ということかい?」
セイシェルが切り出す前にアルディが切り出し、彼は一転して窮地に立たされる。
「セイシェル、僕はね、ずっと前から考えていたんだ」
胸がざわめく。
「イリアを早いうちに大聖堂に移してしまおうってねえ」
そうじゃない。
「実の姉弟が結ばれるなんてあってはならないことなんだよ」
どうして。
「セイシェル、カインを捕らえるんだ」
どうして、こうなってしまうのか。
セイシェルは自分の無力さを知り、力なく立っていた。
どんなに思っても頑張っても、所詮自分ではどうすることもできないらしい。
「イリアのことは、アーサー君に任せて」
「……!」
アーサー……アーサー・トールス。
よりによって、警備隊の総指揮者がイリアを連れに来るなんて。
「もう一度言うよ――カインを捕えろ」
絶望に崩れるセイシェルには見向きもせず命令を下す。
(――所詮、そんなものだ……)
諦めにも似た心の独白を最後に、セイシェルは背を向けて歩いた。
どうせ、思い通りに等、何一ついかせてくれない。
****
セイシェルより先に呼ばれ、イリアを連れて来るように命じられたアーサー・トールスは易々と彼女の部屋の前まで辿り着き、念のため数人の警備兵を連れて待ち構えていた。
できるだけ丁重にと、アルディには言われたがアーサーには彼女に対して微塵の配慮もしていなかった。
多少手荒な真似をしてでも連れていくだろう――相手がイリアなら、尚更。
(だって、ラルクが離れた原因を作りだしたのは貴女でしょう?)
中庭でラルクが手を振り上げ、別れの言葉を告げて離れていった。
あれ以来、ラルクとは本当に何も会話ができていない。
自分が彼を見る時、大抵はリデルかイリアとカインと並んで歩いている。
全員を消してしまえば、またラルクは戻ってきてくれるだろうか。
「イリア様、いらっしゃいますか?」
盲目的なラルクへの愛情と依存を胸に、扉越しからイリアを呼んだ。
何も知らないと言うことは呑気で愉快なものだ。
できたら手荒な真似は避けたいと思っていた。
――それが、彼の、たった一つの理性。
彼女の様子を窺っていると、いとも簡単に扉を開いてくれた。
「失礼します」
予想通り、彼女は純粋だった。
人を疑うことすら、きっと一切してこなかったのだろう。
可哀想にと憐れむ反面、そのようなことをする必要のなかった彼女の人生が輝いていたのだろうか。
それならば、アルディが手元に置きたくなるのはよく分かる。
アーサーが中に入るや否や、警戒心を露にしながらも努めて平静に話す彼女の何という健気さ。
「その衣装、警備隊の人ですね?」
感情は不思議なもので、声と仕草に如実に表れる。
特に、警戒することに慣れていない彼女は普通以上に感情が外に反映されていた。
どこかが鈍い痛みを訴えているのを振り切り、彼は続けた。
「そうです、私の名前はアーサー。警備隊の総括です。まあ、貴方には本来関係のない仕事でしょうが、今回はそうはいきません」
「……何のご用でしょう」
みるみるうちに厳しい表情を浮かべ、睨む彼女に流石に遠回りな表現はよくないと考えた。
「では、単刀直入に申し上げましょう、イリア様――今からアルディ様のところへ行って頂きます」
アーサーの予想通り、イリアの表情は理不尽に対する怒りで歪めていくが知ったことではない。
当然の報いだと嘲笑い、続ける。
「今後はアルディ様と一緒にお過ごしください……さあ!」
バタンと扉を乱暴に開き、待機していた数人の警備隊がイリアを捕らえに動き出す。
「イリア様、よろしいでしょうか? このまま彼らの餌にしても構いませんが何せ貴女はアルディ様に愛されたお方だ。傷はできればつけたくない」
「……!」
「カインのことも見逃しましょう――貴女が従えば。ふふ、我々が知らないとでも? 貴女とカインのことは随分前から城内で噂されていたのですよ、愚かですね」
最初からアルディの掌で踊らされているだけだと知ったイリアの顔はこれ以上ない位の悔恨に塗れていたが、アーサーの歪んだ支配欲を煽るだけで無意味だった。
「アルディ様は待ち切れないでいる。お連れしてください」
警備隊に支えられ、連れて行かれるイリアを見届けて彼は笑う。
「これで、いい」
彼の凶行はまだまだ留まる事を知らない。
****
使用人たちが次々と走っていくのを見て、イリアが大聖堂に連れていかれたことを何となく感じ取ったセイシェルは舌打ちをした。
恐らく直ぐにでもアルディの空いた心の慰みとしてイリアを使うのだろう――彼女が母に似ているから。
そして、この動きは直ぐに、カインを追撃するものに変化する。
――カイン。
ずっと、母を奪った子どもだと憎んでいた。
彼さえいなければ、母は自分を愛してくれたのに、全部全部カインが根こそぎ持っていった。
母とシリウスに囲まれ、何ものにも縛られない伸び伸びとした生活を送っていると思うと、何故自分だけがと彼を羨むこともあった。
だが、その感情はシリウスを通じて、カインと話して、リデルやティア、エレザという親友を得て気付いた。
カインにも、欲しいと思うことはあって、自分にもあって。
結局は無いもの強請りで、カインが自分に多大な信頼を寄せていることに気付いてからは、嘘みたいに憎しみが消えていった。
自分がカインに向けていたものは薄っぺらい、取るに足らない感情であった。
勿論、完全に消えたわけではない。
だが、容易く超えられる『何か』を、手に入れた。
(この動きを、彼は気付いているだろうか?)
気付いていればいいが、この広大なハイブライトを駆け抜けることはきっと出来ないだろう。
どうすればいいかも分からず、セイシェルは自室に戻って窓に映る夕暮れの空を映す。
シリウスと会話したときも、こんな夕暮れ時だった気がすると、突然シリウスの声と顔を思い出し始めた。
本を読んだら読みっぱなしで背表紙と表紙が反れていたのを見た時は恨めしくなったが、楽しそうに読むものだからどうでもよくなった。
あと、気まぐれでお喋り。
話し出したら止まらず、跳びっきりの笑顔を見せてくるものだから強い姿勢に出れず、結局付き合う羽目になる。
突然話の内容が変わるのも特徴だった。
気がつけば自分からシリウスに話しかけていて、拙い悩みにもきちんと答えてくれた彼を自分はいつしか第二の父として思うようになった、矢先。
――彼はどこにもいなくなってしまった。
シリウスがソフィアと結ばれたのも仕方ない、巡り合わせだ。
だが、シリウスは父を恨んでいたわけでは、決してない。
変わり果てる父を憂いていたに違いない、きっと、ソフィアも。
もう、何が間違いで何が正しかったのかも分からない。
眠気が襲いかかってきて、瞼が重くなる。
「セイシェル!」
「……カイン」
だが、逃れることを許しては、くれない。
「……どうした」
この先に続く言葉を分かっていながら言わせようとする。
「イリアが大聖堂に連れていかれたと聞いた……アルディの元へ行っている、と」
彼はどこか傷ついた表情でセイシェルに問う。
「イリアがアルディを嫌っていたのは、知っているだろう?」
(……羨ましいよ)
迷いなく、自分の思うがままに行動を起こせるカインが。
イリアを、迷いなく思えるカインが。
愛情を知っているカインが、羨ましい。
「それを、私に問うか」
「……!」
みるみるうちにカインはセイシェルに対する怒りを露にする。
「どうして!」
カインは叫んだ、力の限り。
「信じていたのに、理解していると思っていたのに!」
「私に、イリアの何を分かれと言うんだ」
では、彼らに話せば何か変わっていたのだろうか。
そんなことはない、何も変わらない。
まして、カインには一生理解できない。
「仕方のない、ことだろう」
それが、決まっていたことなのだから。
投げやりに答えるセイシェルに、カインは近づいて。
「裏切り者!」
中級生が訓練時に持っていた小型のナイフを振りかざした。
「……」
咄嗟に腕で刃を受け止めたが、焼けつくような痛みと、脈打つ鼓動が止まらない。
袖を濡らす、鮮血。
「……あ、」
金属音を立ててナイフが落ち、茫然と立ち尽くす。
――セイシェルを刺した、刺した……この手で……。
「セイシェルさ、セイシェル様!」
乱暴に扉が開かれ、女性の悲鳴が上がる。
「……エレザ」
「セイシェル様、腕が! お、お前は……」
茫然と立っているカインを見上げて、エレザはカインを連れていく。
「もしかして……来なさい!」
「……ま、待て、エレザ」
痛みに顔を歪めながらもエレザを制そうとするが彼女はカインを連れていく。
「待ってくれ……エレザ……カイン」
混沌は混沌を呼び、カインはエレザによって連れて行かれてしまった。
「……こんなもの、どうってことない」
血はいつか止まってくれるだろう。
深く突き刺したわけでもなく、何よりこの痛みが夢だと思わせない。
二人を追いかけるべく、セイシェルは一心不乱に走り出した。
****
カイン・ノアシェランは直ぐに牢屋に入れられた。
幸い、セイシェルの命に別条はなかったため、刑は免れたが危険人物と警備隊から看做され、解放されても監視の対象になってしまうだろう。
この知らせを聞いたアルディは勝利に震え、歓喜の雄叫びをあげて笑っていた。
「僕の、僕の勝利だよ……シリウス、シリウス、見ているかい。お前の陰に隠れた時代も終わった。可愛くて優秀だったけど僕には君が一番危険だった」
「……アルディ様」
「ラサーニャ、どうしたんだ。冴えない顔をして」
今まで沈黙を貫いてきたラサーニャ・ハイブライトが此処で初めて口を開き、悲しげにアルディを見つめる。
「どうしてですか? どうしてそこまでして……」
もう、私には、貴方が理解できない。
「当然だろう、僕に逆らったんだから」
このような人ではなかったのに。
劣等感は、嫉妬心は罪深い。
人を人ならざるものに変えてしまう。
「……私は、できることをしたいのです……兄さん」
兄から離れたら、兄は独りになってしまう。
だから、離れられなかったが、アイシアやセイシェル、兄を思えば、逆に離れる方が正解だと彼女は漸く気付く。
「そう、ラサーニャ」
淡々と答えた声色に仄かな悲しみを感じたが、ここで引き返せば益々兄の凶行は止まない。
きっと、自分を一番に認めてほしかったのだろう。
今はもう、この世にいない人に。
兄の凶行にイリアを巻き込んではいけない。
彼女にも、意思があるのだから。
断腸の思いで兄を振り切り、イリアの待つ大聖堂に向かうラサーニャの後ろ姿をアルディは見送った。
「何をしても、無駄なのに」
****
広い広い、彷徨う子を陥れる城内もラサーニャには通用せず、難なく大聖堂の前まで辿り着いた。
アルディとの婚姻儀式前は特別な人間以外立ち入り禁止だが警備隊もラサーニャを見た瞬間、あっさりと通してくれた。
(……私も、この者たちと変わらない)
イリアがいるのは数ある聖堂の中でも聖母の小さな銅像を頂点にあしらった建物の中だ。
ソフィアの時も、彼女は此処にいたと思う。
ソフィアの時のことは朧気にしか思い出せないのが物悲しい。
当然、一室にも軽々と入ることができて、沈んでいたイリアの顔に生気が戻る。
「ラサーニャ様」
「イリア……カインのことは知っているの?」
遠回しな優しい言葉を作る術を彼女は持っていない。
投げかけられた直接的な問はイリアの心をズタズタにするのには十分だったが、彼女は苦笑した。
気使いのできる細やかで繊細なラサーニャなど想像も出来ない。
青年と呼べる時期に差し掛かったセイシェルの前で平気で裸を見せられる彼女だ。
「ええ、知っていますわ。助けに行きたいけれど……」
「そうね、見張りがいて、外に出ても連れ戻されるだけだわ」
恐らくは外にいる警備隊に丸め込まれるだけだ。
時間だけが過ぎていくのに、此処を抜け出す案も出ず、苛立ちを募らせながら成り行きを見守っていた時だった。
「大変だ、外が、外が……!」
「どうした、イリア様がおられるのだぞ! 静かにせよ!」
「ですが、大聖堂が、大聖堂が! 兵たちも次々と倒されて……!」
「何!?」
豪快な足音を響かせ、降りていく警備隊たちに二人は顔を見合わせる。
「ラサーニャ様、外で何が起こっているのかしら……ラサーニャ様!?」
不安げなイリアの腕を突然引っ張り、ラサーニャは外へ飛び出した。
「急ぐわよ、カインを助け出せるのは今しかないわ!」
「え、ええ!」
部屋を抜け、階段を降りると警備隊達も慌ただしく装備を整えて階段を降りていくところだったらしい。
「こっちよ、本館まで来たら牢獄までは直ぐよ」
「わ、分かったわ!」
大聖堂の外に出ると警備隊と――青の正装を身につけた人々が剣を交えている。
もう片方は成す術なく斬られ、倒れていく。
「皆、今度は本館南だ、心してかかれ!」
「はっ、リデル様!」
大聖堂で戦闘をする組と、リデルによって本館へ向かう組に分かれ、ハイブライトへ入っていく。
「リデル……!」
「リデル……リデル・オージリアス・マクレーン……彼がこんな大がかりな反乱を?」
「ああ……命だけ、は……」
「!?」
「五月蠅いんだよ、お前と同じように懇願してきたやつを、お前たちは容赦なく殺してきたじゃないか!」
迷いなく八つ裂きにされて息絶えていく。
「イリア!」
「分かってる!」
なるべく生々しい戦闘を見ないようハイブライト本館に向かって走る。
「行け! 全員倒すのだ、一人残らず!」
剣を掲げ、発砲し始める。
「こっちよ!」
本館へ入る門は既に反乱軍によって殆ど制圧されていた。
ラサーニャは牢獄から一番近い本館北から城内に入り、牢獄を目指すことにした。
****
「!? これは」
警備隊達の死骸が、血が、壁にも、床にもこびりついている。
「始まったか!」
このままではカインも巻き込まれてしまう。
血にも怯まずに牢獄へ向かって走り出すが、ここでも警備隊――何と、警備隊同士が戦闘を繰り広げていた。
「図ったな!」
「この程度の策も見抜けないのか!」
甲高い金属音が激しくぶつかり、戦闘が始まった。
殺し合いは嫌いだ。
だが、こうしなければ何も変わらないこともセイシェルには分かっていた。
「頼む……ラサーニャ!」
通路を走り抜き、エントランスへ出たところで彼は紫の――返り血を浴びたエレザと合流する。
「セイシェル様!」
「エレザ……」
「リデル達の頼みで私はここに残ったの」
「リデル……リデルは!」
「本館南――アーサーのところです!」
彼は本館南へ続く階段を上ろうとしたところ、エレザがそれを阻む。
「ダメです、貴方を戦いに巻き込むわけにはいきません!」
「何故!」
「いたぞー、反乱軍だ!」
警備隊三人が通路を走っていくのが見えた。
「こちらです!」
エレザはセイシェルを強引にハイブライトの出口まで誘導する。
エントランスにまでは差し掛かっておらず、損傷は少ない。
エントランスを少し走ると緻密な薔薇の彫刻を施した扉まで難なく来れたが警備隊が距離を一気に詰めてきた。
「セイシェル様、行ってください」
「エレザ……!?」
「行って、生きてください……セイシェル!」
剣を取り出し、エレザは彼に背を向ける。
「貴方に、返り血は似合わない」
「……エレザ」
「……会えて良かったです」
覚悟を決めたように告げると、彼女は警備隊に向かって走り出した。
止めたい、止めたいが。
今、自分がいってもエレザは……。
「……」
セイシェルはサッと背を向けて、扉を開き、外へ飛び出した。
彼女の、恐らくは最期の言葉を心に焼きつけながら。
****
「よくぞここまで!」
アーサーは鉄砲を放ち、リデルを威嚇する。
対するリデルも隙を見てアーサーに迫り、斬りつけようとするが易々と交わされる。
「だが、嘗めてもらっては困る……しかし、いい案ですね。こんなに緻密な計画を練れたのはお前とアクロイドだけじゃない」
「一々五月蠅い奴だ」
リデルが剣を凪ぎ、アーサーの肩に命中する。
「……よくも」
「お喋りに集中するからだ」
「でも、甘いね!」
「!?」
後ろに忍ばせていた警備隊が素早く銃の引き金を引いた。
「……ティア」
リデルの胸に命中した銃弾、彼はティアの名前を呼んで倒れた。
「分かるかい、リデル。君は少し優しいんだ。手緩い」
「待って!」
「……ティア」
銃を持っていた警備隊を銃で倒し、ティアはアーサーの目の前に立つ。
「リデルの敵は私が討つ」
「……まさか、君が警備隊のことを?」
信じられないと言った顔でアーサーは言うが、目は楽しそうに笑っていた。
「そうか、そうでなきゃ部隊がここまで駄目になるとは思わないからね。でも、ティア、リデルはもうどこにもいない」
「貴方がリデルを殺したから」
「そう! そうなんだよ、リデルが死ねば求心力は一気に失う。ティア、無駄なことはしないほうがいいよ」
「そんなの関係ないわ、私は――例え死んでもリデルと一緒よ。貴方の思い通りにはならない!」
「そうか……じゃあ、仕方ない」
アーサーは銃を取り出し、彼女に向ける。
「悩ましい人生に、別れを告げるがいい!」
「……甘いぞ、アーサー!」
リデルが起き上がり、机の陰に隠れていた警備兵に斬りかかる。
「おお、流石リデル……丁度良い、邪魔者と、裏切り者、まとめて葬って差し上げよう!」
****
「レディシア君、港まではもうすぐだ」
「は、はい!」
最も激しい戦闘を繰り広げていた大都市アエタイトでは町人も火をつけ暴動を起こしていた。
「げほっ……」
「煙を吸い過ぎてはいけない……レディシア君、掴まれ」
アレンは軽々とレディシアを抱き上げ、死骸の転がる道をひたすら走り出した。
最も手薄だった大都市は反乱軍によって殆ど占拠され、駆け付けた警備隊も成す術なく呆気なく倒れていく。
普段は見捨てられた場所と言われる下流地区に住む者達も加わり、瓦礫や岩を上手く利用した作戦で警備隊はまた一人と倒れていく。
怒号と火瓶が投げつけられる音と、銃声。
銃弾が命中し、戦闘していた町人の一人が死亡するが、放った警備隊も背後から斬られ、息絶えた。
「見ちゃダメだ、レディシア君」
「は、はい……」
夥しい血の匂いで咽込みそうになるが、アレンの胸に顔を押しつけて何とか堪えた。
どこに行っても流血、死骸、戦闘、銃声。
どれも悪夢と呼ぶには相応しい。
それでも港までは比較的すんなりと行くことができたが、ここでも警備隊と――今まで見てきた中で明らかに若い者がたった一人で戦っている。
「此処から先へは行かせない!」
「脱国する気か!」
「喰らえ!」
港を守るように戦っていたのは――中級生ということで避難させられていたラルク・トールスだ。
ラルクは何とかして彼らを無事ライハードへ送り届けるべく、必死に守っていた、そして。
「……はあ、はあ、何とか」
がむしゃらに振った剣が胸に深く刺さり、兵士はその場で倒れた。
「ラルクさん!」
レディシアとアレンが、肩で荒々しく息を整えるラルクの元へ駆け付けた。
「レディンか、シャールなら船内だ。早く行くんだ!」
「ラルクさんは!」
「俺か? 俺は船が出るまで食い止める」
「無茶だ!」
レディシアが声を荒げるがラルクはにこっと笑ってまた迫る警備隊を見据えた。
「アレン様、この子のことは頼みましたよ!」
「……ああ、ラルク君」
「よっし、行くぜ!」
剣を構え、彼は警備隊に向かって突撃する。
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「撃て、殺せ、焼き尽くせ!」
指示と共に銃声が轟き、火をつけ、剣を交わす。
本館北も戦火が回っていた。
「イリア……ここも、危険よ」
「ええ」
しかし、彼女は走ることをやめなかった。
「私はカインのところへ行くわ!」
「……分かった」
彼女の覚悟を聞き取り、ラサーニャはイリアを守るように駆け抜けた。
「狙え、撃ち殺せ」
醜い罵声とともに銃声がまた放たれ、応戦する警備隊に止めを刺した。
だが、反乱軍の勢いは徐々に弱まっていたのをラサーニャは感じ取った。
警備隊が次々と参戦し出し、北に留まっていた反乱軍をまた一人と討取っていく。
予想以上に立て直しが早かったのだろう。
圧倒的な攻撃力を誇る警備隊に武器を振るしか知らない反乱軍は次々と圧倒されていった。
激しい戦闘の中を切り抜け、手折られた羽の印が刻まれた――牢獄の前へとたどり着いた。
「イリア、これを渡すわ」
「……牢獄の」
「私は先に行けない」
カインにとって自分は敵だ。
彼に会う資格はない。
それをイリアに敢えて言わなかったが彼女の心理を察したイリアは頷き、牢獄の扉を開けた。
「……必ず、生きて」
真っ直ぐと走るイリアの後ろ姿を脳裏に刻みつけて、祈る。
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牢屋に入ると直ぐにカインが佇んでいるのが見えた。
「カイン!」
駆け寄り、急いで錠前を開く。
「イリア様……どうしてここが」
「詳しいことはいいの、それより逃げるのよ!」
いとも簡単にカインを閉じ込めていた監獄の扉は開き、イリアは彼を連れだした。
「カイン、私、貴方に聞きたいことがあるの」
牢獄を走りながら、彼女は静かに聞く。
「セイシェルのこと、好きなの?」
「えっ」
どうして、そんなことをいきなり聞くのか。
足を動かしながらも動揺するカインにイリアは笑って、壁に向かって突進するとくるりと一回転した。
彼女の真似をしてカインも壁に体当たりすると裏側――隠し通路を走る。
「ここも一直線になってる……多分、アウト・ダ・フェに繋がるんだと思う」
「アウト・ダ・フェ……」
カインにとっては忘れ難い、母の死に場所の名前だ。
罪人ではないのに、まるで罪人のように殺された忌まわしき場所。
「私、本当は知ってたの。カインがセイシェルのことを好きだっていうこと……だって、セイシェルを見る時のカインの目、綺麗だったわ。私のことなんて全然見えてなくて」
「……イリア」
「だから、ちゃんとセイシェルに会って」
信じて、彼を。
決して貴方を裏切ったわけでも見捨てたわけでも、まして憎んでいたわけでもない。
「私、セイシェルもカインも好きなの。だから、二人に生きてほしい」
そこでイリアはカインに背を向け、真逆の――牢獄に向かって歩く。
「カイン……私は貴方が好きよ」
最後に彼に自分の思いを伝えて――食い止めるべくハイブライトに留まった。
「……俺も、貴女のこと」
静かに返して、彼は隠し通路を歩いた。
もう一度、信じる為に――セイシェルに、会うために。