第十六節:Nous ne pouvons rien faire
金と白と赤で飾られた空間を正面から見つめる一人の男――アーサー・トールスは夕日と同じ色の髪を整え、あることをアルディに持ちかけた。
「アルディ様、お話したいことがございます、よろしいでしょうか?」
「君は、アーサー? 警備隊の総指揮を執っているらしいね。何だろう、言ってみてほしい」
「覚えて下さったとは光栄です。もうご存じだと思いますが最近物騒なことが次々起きているのです」
「知っているよ、僕の部下が、しかも男に限ってね。次々と殺されるか傷を負っているか、ずっと気になる事件でね」
「そうです。それだけではありません。何やらハイブライトに反旗を翻す動きもあるのだとか」
「へえ、そうなんだ。色々なことが起こりだしているね。退屈しないからいいんだけどちょっと騒がしいかな? 近々イリアを迎えに入れるわけだから」
「では、私が収めてみせましょう」
「うん、期待しているよ、アーサー君」
心から楽しそうに笑うアルディと、恭しく頭を下げるアーサー。
どちらも凶器と優越が全面に出ていた。
それと同時に、今漸く手に入れた絶対的で安定した居場所を失いたくないと言う切実な思いも併せ持っていたわけだが。
苦労して手に入れた地位をやすやすと手放さなければならないなんて絶対に避けたい、壊されることなんて言語道断だ。
「アイシア、セイシェルとイリアの監視、お願いね」
「……御意」
ずっと、傍らにいるアイシアの顔が悲痛に塗れていたことなど、この二人は気にも留めないだろう。
****
あれからやり取りは進められ、セイシェルの出迎えを命じられたアイシアは執務室に戻ってくる。
「もう、覚えていないと思う」
机の隣にいつも置いてある黒い本をじっと見つめて、アイシアは昔に思いを馳せる。
幼い頃、自分はこんな華やかさからは縁遠い自然と土にまみれた日常の中でラサーニャと過ごしていた。
父もいたような気がするが、もう欠けていて組み立てることは不可能だった。
兎にも角にもラサーニャとともにハイブライトの王間へ通され、極度の緊張に胃が焼けそうになった感覚だけは鮮明にある。
彼――セイシェルと会ったのはそんな時だった。
「……アイシア君」
今と相も変わらず無愛想な声で名前を呼ぶセイシェルにアイシアはたどたどしく「はじめまして……」と言えた。
彼なりの精いっぱいの配慮だったのか傍から見れば引き攣ったようにしか見えない表情も、きっと安心させるように笑っていてくれたのだと思う。
不器用で無愛想で。
(この人が俺の兄になる)
セイシェルの弟なら、喜んでなってもいい。
それでも後から来た自分に対してどう接すればいいのか分からないぎこちなさは暫く続き、もどかしさで一杯一杯になりそうになった頃。
そっと扉を開けて突っ立ったまま頭を掻くセイシェルにアイシアは動揺しながら「セイシェル、さま、」と呼んだ。
「……アイ、シャ……だったよ、な……」
意識したまま、呼んでいるとセイシェルが照れくさそうに横を向いて、途切れ途切れの言葉を発する。
「父上がいない、から、あれ、だ……あれ」
「……?」
この距離をどうにかして縮めたい。
悩んでいたことは少なからず一致するようでアイシアは勇気を出した。
「兄上」
もう、彼は兄なのだ。
精一杯の気持ちを込めて呼ぶと彼も一歩遅れて「アイシャ……」と呼び返した。
「暇だから、来た」
「そうなの、ですか」
――ずっとわすれない。
あれが、兄弟として刻んだ僅かな思い出で、ハイブライトを異常なまでに守ろうとするアルディの方針に従うしかなく、年が離れたことも災いして距離は遠くなる一方だった。
更にアイシアを追い詰めたのは、外でもないノアシェランの存在。
血の繋がりのない自分より、半分でも血を分けた弟の方が彼にはいとしく思えるのだろうか。
自分は偽物にすらなれない。
「兄上、あなたは何も分かっていない」
なぜ、自分がハイブライトの駒として忠実に生きているのか、彼はきっと知らない。
(兄上が喜んでくれるなら!)
今でも変わらないのに。
(自分が、自分が、自分が!)
まさかこうなるなんて思いたくもない。
(兄上を追い詰める存在になるなんて!)
悔しかった。
何も出来ないことが。
臆病な自分が。
――どうあがいても無駄な現実が。
****
「カイン」
「何でしょう?」
朝一番、一緒に帰らなければならないのにぎこちない会話が延々と続く。
勢い余って取り返しのつかないことをしてしまったと慌てることになったがそれでもどこか満たされるのは何故だろう。
「えっと、ごめん、ね?」
「いえ、お、俺も、すみません」
想像していたものよりもずっと生々しくて、ロマンの欠片もない、本当に獣に成り下がったような気がした、昨夜。
お互いにぎこちなく謝罪して、おずおずと肩に身を寄せてハイブライトに戻る。
「何でしょうね」
「うん、何なんだろうね」
幼さを知った気がしたけれど。
「これが恋人、なんでしょうか」
「さあ、よく分からないわ」
強い気持ちはそこにあるけれど、恋と呼ぶにはあまりにもお粗末な感情に思えてならない。
「押しつけて、ごめんね」
本当はただただ抱きしめたくて、近くに居たくて、触りたくて。
これこそが恋なのかもしれない。
恐怖心が中心にあったまま、二人は奇妙なまでに通じ合っている感情に身を任せ、休日を終えていく。
「これを幸せって言うんでしょうか?」
「多分そうよ、カイン」
実はずっと心の中にあって、自覚していなかっただけなのかもしれない。
切っ掛けは残念なことに一時的な快楽に身を任せてしまったけれど。
――でも、愛していたよ。
****
もうすぐ、休日も、終わる。
警備隊の拠点ともいえるアエタイトはいつでも耳障りで鬱陶しい。
馴染みのある店も全て全て憎い、侮蔑の言葉を浴びせたくなる。
「エレザはどこにいる」
それでも一番の戦友であるエレザを探すために、リデル・オージリアス・マクレーンはやってきたのだ、彼女はどこにいるのだろう。
人の集まる場所には見向きもせずに歩くと雰囲気はガラリと変化し、華やかな服はどこへいったのか、土と瓦礫粉に塗れ、隠れるように生活する人々。
「おい」
一人の男が、いつからかは知らないが後ろからリデルの腕を掴み、気味の悪い笑みを浮かべている。
「持ってるだろ、若造」
「何を」
突然腕を掴まれた挙げ句、馴れ馴れしくすり寄って来て要求されるのは気分が悪い。
だが、敢えてリデルは男の瞳を真っ直ぐと見た。
黒く塗り潰され、曇天を模した濁った瞳と、一文字に締めた唇と、自分の腕を掴む手がどこか弱弱しく震えている。
(この男には何が見えているだろう)
ただ、分かるのは、今日か明日か少しだけ先か、決して遠くない日に訪れる死に対する怒りと恐怖と絶望が交じり合わさっていることだけだった。
ふと、自分のことが気になってしまう。
誰が見ても恐らく大筋は同じ印象を持つ男から、どう映っているのだろうか?
心の中にある問に答えるかのように男はニヤリとまた笑う。
「若造、いい目をしているじゃないか」
何かを見透かしたように。
「近々大きな事をやらかすだろ?」
怪しく問いかけて。
平静を装うようにリデルは切り捨てた。
「俺をどうしたらそんな風に見えるんだ」
逆に問い返し、早々と立ち去った。
答えなんて言わせてやらない。
エレザの行方を求め歩くリデルの顔には先ほどの男と同じように冷たく妖しい笑みがあったことを彼は知らないのだろうか。
リデルの身なりは見捨てられた場所ではよく目立つのか、好奇の視線を向けられるが彼に声をかける者はいない。
全身から放つ異様な空気が寄せ付けないからだろうか、元より返してやる言葉もないわけなのだが。
広い大都市には裏表が存在し、中枢である下流地区の道を淡々と歩けば、不似合いな紫が遠目から見えた。
「エレ、……!」
呼びかけようとしたところでリデルは硬直した。
(――どうして?)
汚れるのは自分だけでいいのに、彼も此処に来ている。
終始無表情だったリデルの顔が初めて歪んだ。
「……リデル、さん?」
心配そうに名前を呼ぶ声にゆっくりと振り返ると、自分と同じように見下されて生きてきた水色の少女――ルキリスと出会う。
元はアクロイドが保護した捨て子。
親はいない、どこの生まれかもわからない。
「ルキリス」
「俺を忘れないでくれよ、リデル」
少し後ろから二人を見守っていた少年――ルディアス。
濁ってしまった赤が元気に跳ねていて、まだまだあどけなさを残す顔。
「あの人の着てる服、綺麗だよな」
「……ああ」
恐らくはセイシェルのことだろう。
目立たぬ存在だと誰が言おうとも。
「綺麗な人だ」
愛を忘れない人だ。
憎しみしかなかった自分でさえ照らすような。
ぼんやりと遠くを見ていると、リデルのことに気づいたセイシェルが手招きをする。
「行くぞ」
「うん」
二人を連れて、リデルはセイシェルの元に向かった。
****
「アクロイドもなかなかやるな」
家なき子も多く集う下流地区に衣食住を提供していたアクロイド。
その代わり、彼らにある条件を突きつけたわけだが。
「ある意味、危険な方です」
「だが、僅かな可能性にかけているのは我々も同じだろう」
「ええ」
だが、誰かにこの動きを気付かれたかもしれない。
アクロイドが命を絶ったのはそのせいだろう。
「しかし、その後を継いだのが私だとは誰も思うまい」
エレザから受け取った牢屋の鍵を仕舞い込み、二人に指示を出す。
「調べてほしいことがある」
「……ハロルドでも、呼びましょうか?」
「相変わらず察しがいいな」
有能な医者でもあるハロルドなら知識もある。
――イリアを、きっと守れる。
「貴方も、もしかして?」
「何を馬鹿な」
ははっと快活に笑って、胸を張って答えた。
「大切な『妹弟』だ」
「……そうですか」
(あなたの口からそんなお言葉が出るなんて)
何が彼を変えたと言うのだろう。
今まで見た中で、恐らく一番輝いている。
「セイシェル様が言うだろうと思いまして、もうお呼びしております」
「ほう」
崩れかけの建物の中に入ると精悍な男性が――ハロルドが微笑んでいる。
「ハロルド殿」
「お久し振りです、セイシェル様」
優しげな眼差しの中に固い決意が見え隠れしている。
「いいのか」
彼の問いにハロルドは迷いなく頷いた。
「もうお伝えしています」
どこか切なく笑うハロルドにセイシェルは背を向け、歩きだした――白亜の城へと。
****
その頃、アエタイトに到着したジェイソン・キース達は久々の騒がしさに懐かしい昔を思い出していた。
「レディシア、離れないようにね」
「うん!」
故郷に帰って来れたレディシアは嬉しそうに頷き、ジェイソンの手をしっかりと握る。
静かに朝が始まるハイブライトとは違い、汗と怒号と吐息が幾重にも積み上げられ、生活していることを感じさせられる。
確かな温もりは非常に頼れる存在にもなって、二人は騒がしい日常の中を逆流して歩いた。
商いの声にも耳を貸さず、誘惑の単語を並べた知らせにも目を向けず、唯一の道を歩く。
できれば、手放したくなかった。
しかし、このような場所で失いたくもなかった。
どちらも、親として当たり前にある愛情だった。
少なくともジェイソンは二つの思いを大きな比率で持っていたが、此処に居てはどちらも実現できない。
(この道がきっと)
限りなく百に近い形で。
時間四進むなと何度願っただろう。
夢の中に閉じ込めてしまいたいと何度思っただろう。
幸せな空間に居てほしいから。
それでも歩いているうちは止まらず、時間も止まらない。
ジェイソンの思いはどれも叶わぬ夢物語だ。
程無くして、ジェイソンの家に着いた彼はレディシアに伝える。
「さあ、ついたよ」
達成感と損失館の相反する感情を芽吹かせて扉を開くと予想通りの人物が出迎えてくれる。
「ジェイソン様、待っていましたよ。僕のことはもう?」
「ええ、お伺いしています――アレン様」
喜びだけではない複雑な笑顔。
だが、ハイブライトよりも信じられる存在であったことは確か。
「私はおかしいでしょうか?」
故郷とも言える場所を顧みず、信じることも出来ない自分は。
「いいや――貴方も『人』でしょう」
アレンに言える最大の手向けであった。
選択を迫られる激しい痛みをどう受け止められればいいのか、まだよく分からないのだが。
「よろしくお願いします」
どうなるかは分からないのに、不思議なことにアレンに託したいと思うのはどうしてだろう。
「レディシア」
「うん」
短い間だったが、命がけの日々であった。
喜びと、悲しみと――愛情を授けてくれた子へ。
「アレン様の言うこと、ちゃんと聞けるね?」
「うん!」
レディシアが大きく頷くのを見たジェイソンは笑みを浮かべ、頭を撫でる。
子供の体温はどうしてこうも温かいのだろう。紛れもなく幸せで。
「レディシア……またね」
ゆっくりと手を放し、外に向かって歩き出す。
「――父上!」
レディシアが呼んでも、ジェイソンが戻ってくることはないだろう――二度と。