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緋の剣士に捧ぐ交響曲【第一番】  作者: 真北理奈
第三楽章:Dans la craie, et la noyade
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第十五節:Serment d'écarlate

 晴れた日の朝、雲一つ浮かばない澄んだ青が一面に広がっていこうとしていた時刻。

 箱庭に縛られて、徹底した従属を誓い、呼吸一つ出来ない狂気に囲われる一日が始まる合図でもあった。

 自我と憧れと憎しみの下に結束した三人が、あらゆる策を練り、唯一つの大切なものを守る為に計画を実行していた。

「……これが必要なの」

 男が持っていた札束を取り上げ、物言わぬ屍を静かに見下ろすエレザ・クラヴィア。

 昔からこうして生きてきた。

 ハイブライトが民に課す税金は日に日に重くなっていき、特に身寄りのない子の集まる此処では略奪を働かなければ到底生活できないまでに落ちた。

 見えるものは華やかな舞台ばかり。

 舞台裏は常に隠されて生きてきたのだ。

 彼女は昔やってきた方法を思い出し、短剣で刺した。

 体を武器にするのも慣れている。

 屍はそのままにして彼女は舞台裏から立ち去った。

 倒れていた屍はどうやら彼女と情事に耽った後だったのか、僅かな衣服の乱れが見られる。

 目的は資金。

 屍から素早く遠ざかり、軽い足取りで中流階級と位置づけられた街中に出た。

 まだ船も列車も動いていないらしい。

「私のためなのよ」

 いつだって忘れたことなどなかった。

 舞台裏の存在を。

 身を寄せ合って影の中を彷徨っていた時代を。

 ――どうしたんだい。

 思い出すのは、彼の声。

『どうしたんだい』

 何か獲物はないかと港を漂っていた朝に男の人に声をかけられた。

 あの時は名前も知らなかったけれど。

『お腹空いてるんだね。これを食べなさい』

 パンを一切れ差し出して、港へ行ってしまった。

 ――今は亡き恩人。

「アクロイド様」

 それからはオールコット家の支援を受けてハイブライト内で暮らせるようになった。

 これも、アクロイドの口利きがあったからだと言う。

 虐げられた生活から一転して安定を約束された生活へ変わったのは今から六年前。

 アクロイドがハイブライトに行ってからだった。

『エレザ・クラヴィア。ひとつ君に相談したいことがある』

 人が良いと言われたアクロイドの面影はそこには何一つなく。

『僕がね、上にお金を払えないからシャールを身売りしてはどうかと、役人が言って来たんだ』

 怒りに燃え、狂ったように笑う人がいて。

『あそこにいる子供らも次々いなくなってきてるけど、みんな役人の慰みものにされるんだよ』

 子供は尊く価値があって尚且つ無知である。

 身売りは希望だった。

 だが、使用人として使われるのはもっと希望だった。

 実際はそんなことはない、彼が言いたいのはそれだった。

『僕たちは、負け犬なんだよ』

 力もない哀れな存在。

 彼が歩む人生の中で何があったのかはエレザには分からないが、多分自分も無知だったと思う。

『思い知らせてやろうか』

 瓶に入った薬を見つめて笑うアクロイドがそこにいたことを。

 ――無益な殺戮に手を染めた自分の未来が、既に予言されていたのに。


****


 まだ日が昇る前のある日、父であるジェイソン・キースの突然の提案でアエタイトに行くことになったレディシア・キースは通過地点であるロンカの宿屋の一室で休んでいた。

 ロンカから発車される始発の列車に乗って大都市アエタイトに行くことにしたのだ。

 ロンカの朝は早い。

 もう少しで列車がやって来るらしく、駅でじっと待っていた。

 できるだけ待ち時間を少なくしようと努めたジェイソンの計算が合ったのか、程無くして煙を噴き出す音を出しながら走ってくる。

「寒くないかい」

「うん、寒くないよ」

 まだ肌寒い朝が続く。

 風邪を引かないようにとジェイソンが気遣ってくれる。

 寂しい親子が二人、列車に乗って窓際の席に座る。

 朝は早いとは言えど始発に乗る人間は疎らで緊張することなくゆったりと窓から見える景色を見ることができた。

 アグナル方面を経由してからハイブライト一番大きい大都市の生活圏、アエイト駅に着く列車で到着時間は始発にして一番長い。

 窓から見える景色の中で一番好きなのは野原だとレディシアは思う。

 純白、赤、桃色の花弁が幾重にも重なって小さな白い花が豪華さを引き立たせている。

 人の手が入らないが故の美しさが輝いて映るのだ。

 更に景色は移り変わり、今度は民家の庭に咲く赤や青一色の大きな花が咲き、中心に生命線となる部分が見えた。

「あれは何て言う花なの?」

 窓越しからでしか見えないからはっきりとは分からなかったがそれでも色がくっきり映ったのは幼い目に強烈な印象を焼き付けたようで。

「アネモネ、だよ」

 ジェイソンは植物に興味を持つレディシアに優しく答えた。

「アネモネ?」

「意外と育てやすい花なんだ」

「そうなの? 母上、好きそうだね」

「もちろん、ヘレンはアネモネが好きだった」

 ヘレンがハイブライトに関わるまでは庭を管理するのが大好きだったのをジェイソンは思い出す。

 元々彼女が大都市ではなく自然と過ごす小さな村に住む少女だったわけだが。

(もうすぐ行ける、この子を行かせれる……)

 此処に置いておけば何れ飼い殺されてしまうだろう。

(ヘレナに――ライハードに……)

 ライハード家の村の名前を何度も反芻しながら列車がアエタイトに着くのを待っていた。

「綺麗だね、アネモネ」

 レディシアはアネモネの名前を忘れないように必死に覚えているらしい。

 だが、花に見惚れる理由は、彼が自由を夢見ているからだということをジェイソンには分かっていた。

 ――願わくば、憎悪も争いもない場所へ。

 列車は進む、道なりに。

 刻一刻と、決断を迫られる日が近づいてくる。


****

 未だアグナル――ハイブライトより離れた未開の地に留まる三人はゆっくりと歩きながら足を休めていた。

「私って本当にアシーエルとハイブライトの一部しか知らなかったのね、何だか新鮮な感じだわ、カインは……って」

 空に向かって両手を限界まで伸ばし、リラックスをするイリアとは対照的にぐったりと項垂れるカイン。

「疲れたの?」

「……申し訳ありません」

「まあ、真面目なのね」

 自分の方が先に落ちてしまったことをカインは恥じているのだろう。

 最も、そんな一生懸命な性格が惹かれる要因ではあるけれども。

「少し休んでもいいのよ、カイン。こんなに長い距離を歩いたんだもの、私も疲れたわ。一緒に休みましょうよ!」

「……イリア」

 行動力に富み、明るくて眩しい。

 安心館から名前を呼ぶとイリアはいつものように「なあに?」と、首を傾げる。

 青い瞳が、上品な口元が、次の言葉を待っていてくれていた。

(綺麗だと思う)

 目の奥がチカチカと点滅でも引き起こして、どこかが鈍く痛み、少しだけ息苦しい。

「カイン?」

「……いえ、何でしょうか」

 呼びかけられて顔を上げると、イリアが心配そうに目を細めて自分の顔を覗き込んでいた。

 ――心配させてはいけない。

(強く、ならなければ)

「……イリア」

「? どうしたの?」

 先ずは、自分が思い切って。

「見ておきたい所があるんだけど、一緒に来てくれたら……うれしい」

 本当は宛などない、ただ、長閑な街を見て回りたいだけだ。

 不安になってイリアを見ると、嬉しそうな笑顔が返された。

「うん、行きましょうよ。私、気になっている所があるんだけど、いいかな」

「いいですよ、行きましょう」

 カインはあくまでも護衛。

 そのために、こんなにも優しくしてくれるだけなのに。

(今の話し方は?)

 幽かに聞こえた『イリア』と呼ぶ彼の声と、一緒に来てほしいという言葉。

(特別なのよ)

 血の繋がりがあったとしても。

 そんな事実を容易く超えられるくらい、とても大切で、苦しい、悲しい。

 それでも思うことは止めない、止めるつもりもない。

 ――貴方が好きよ、世界で一番。


****


 手を取り合う二人に、少しずつ芽生える思い。

 今はまだ小さくとも、時を刻むごとに点を打つように早く、大きくなっていく感情。

 このしあわせを、一瞬して壊すどころか、思うことも、きっと頭に過ぎることもない。

 それどころか、一文字も思い浮かばないのではないだろうか。

 結局、憎悪を覆すことなど出来ない。

「私は弱いな」

 セイシェル・ハイブライトは一人、小さな礼拝堂の明かりを見つめて自身を傷つけていた。

 まだ明かりは灯されない、仄かに色づいた硝子の輝きだけが全てで、建物の位置と木々が光を先取りし、中を照らしてはくれなかった。

 まるで、今の自分のよう。

 外に出ても、世界のすべてが「お前に光はいらない」と告げられているみたいに。

 不意に正面を向くと七色を散ばせて結合した巨大な硝子と長いローブを着た男の絵が視界に入る。

「……ゼーウェル?」

「どうやったらそう読むのさ、お兄さん」

「!?」

 後ろから突然声をかけられ、さっと振り返る。

 見開かれた目を気にすることなく現れた――フードを被った、声の高い黒い人。

「ザーヴェラー……召喚士。知っているかい?」

「いいや……」

 首を横に振ると黒い人は言葉を続ける。

「魔術――目に見えぬ力。願いを具現化する不可解な現象。それを自由自在に操る人達のことを、人々はそう呼ぶ」

 目が離せない。

 顔も見えぬ存在なのに、突然の衝動が起こる。

 身を捩って、喉が潰れるほど叫び、皮膚を掻き毟りたくなった。

 嵐のような激しい衝動とは裏腹にセイシェルは目を閉じて、意識を遠くに飛ばしたことで衝動を振り払った。

 目の前に立つ人を、速やかに忘れられるから。

「やっぱり君は面白いよ」

 か弱く、戦いを知らない。

 ただ、生まれたての子どものように叫ぶだけ。

「不可解に絡み合う糸を何とかして解こうとする」

 自我なのか、それが心なのか。

「何も、私は言っていない」

 一方的に話しかけられているだけだ。

 それなのに、かの人物は愉快そうに笑って言う。

「言っているよ、君の心は、今にも泣きそうだ。そんな哀れな君にさらなる悲報を持って来たんだ」

 なだらかで心地よい声だ。耳に甘く残る。

「夜、女の元に行くといいよ」

「女……?」

 分からなくて首を傾げていると、かの人はそれ以上答えず、背を向けて外の世界に一歩踏み出した。

「何なんだ……」

 問おうとしたわけでもなく、聞こうとしたわけでもなく。

 胸につっかえた名前のない感覚だけが残る。


****


「露店ですか」

「そうよ、だって見たことないんだもの」

 露店の並ぶ道を歩けば礼拝堂だが折角なので売り物を見て楽しむことにした。

 先ず、目についたのは花だ。

 細い花弁が目に入る。

 花を売る商人は二人も見るなり茶化すように「守ってやりなよ、少年」と言った。

「あ、えっと……」

 戸惑うイリアと、今度は対照的にカインは迷わず頷いた。

「カイン……」

 どうしよう、嬉しい。

「行くよ、イリア」

 当たり前のように自然な形で手を取った。

 彼はただ、兄が言うから守ってくれているだけだと、溢れない程度に抑える。

 これは何だろう。

 どうしてだろう。

 可愛いと思う、一緒にいて楽しいと思う。

 カイン・ノアシェランは、ぐるぐると回り続ける道を歩き続けていた。

(最初は、言われただけだった)

 目的はただ一つ。

 兄に会いたい、目に映ってほしい。

 ある意味では無邪気で一途、けれどもどこか狂気的な根深い感情は今もまだ心の中にあるけれど。

 でも、ラルクがいて、一度しか会わなかったけれど好きな人も嫌な人もいて、狭かった世界が広がって。

 今、自分は何もなくともこの手を放したくないと願っている。

(特別なんだ)

 どこからこんな感情が出てくるのだろう。

 多分、彼女がいつも「カイン」と呼び、信じていてくれるからだ。迷わず此処に来てくれて、眩しい笑顔を見せてくれるからだ。

(理由は、よく分からないけれど)

 でも、いいのかもしれない。

 理由を無理に探す必要は多分。

 それに、まだ、この感情にどんな名前をつけようか、彼は迷っている最中だ。

「ねえ、カイン、そろそろお兄様のところへ行かない?」

「ええ、そうですね」

「あんまり遅くなるとまた怒られそうだわ」

 顔を見合せて笑い、セイシェルがいるであろう礼拝堂に向かって寄り添いながら歩いた。

 もう、そろそろ夕暮れも近い。


****

 一瞬の邂逅は時に正常な理性を乱す。

 数分も立っていないように思えた会話の時間も外に出てみて空の色が茜に染まっていたことを知り、驚愕の息を吐いた。

 露天商は店をたたみ、それぞれの帰路へ急ぐ。

 何の変化もない日常だが、セイシェルには宝石よりも価値があるように思えてならなかった。

「セイシェル」

「お兄様」

 カインとイリアが程無くして迎えにきた。

「カイン、イリア」

 自分が考えていた以上に小さな声だったらしく、二人とも心配そうに見守っている。

「お兄様、どうしたの?」

「……いや、考え事をしていただけだ、二人とも、楽しんできたか?」

「それは勿論、時間って経つのが早いのね」

「ああ、そうだな、早く帰らないとまたうるさく言われそうだな」

 どこか面倒くさそうな声色に二人は笑って、村の人々と同じように帰路を歩き始めた。


****


「明日から退屈な抗議なのね、何だかがっかりだわ」

「学ぶべきことが多ければそのうち役に立つだろうな」

 少なくとも、此処で生きていきたいと願うなら、あの講義は大変有意義だとセイシェルは苦笑した。

 そこで、またしても不意に彼は真昼の出会いと、予言に等しい忠告を反芻していた。

『夜、女の元に行ってみるといい』

 その時は誰のことなのかはさっぱり分からないが湧き上がる不安を抑えることができず、セイシェルは二人に告げる。

「すまない、二人とも。私はアエタイトに寄って行きたい。ハイブライトには寄らないだろう、その機関では」

 すぐ其処に止まる機関を指さしてセイシェルは言ったが突然のことに二人は戸惑いを隠せないでいる。

「お兄様、もうすぐ夜よ。アルディ様に何て言われるか……」

「ああ、分かっている、だが……」

 それでも決めたことが揺らぐことはなく。

「気になることがある」

 断言した彼の前にはもう何も言っても駄目だとイリアは思い、見送ることにした。

「分かったわ、お兄様。でも、早く帰って来てね」

「ああ、二人ともすまない。気をつけろよ」

「うん」

 セイシェルはアエタイトへ行く機関の方へ走り、二人は今止まっている機関の方に乗り込んだ。

 機関に乗って席に座るとカインが口を開く。

「大丈夫なのでしょうか……何だか思いつめた様子でしたけど」

「……そうね」

 イリアも無意識に胸のあたりを押さえ、何とかして息を整えるが、彼の心臓が自分の体に宿ったように軋む。

 これは、何だろうか。

 この、得体の知れない不安は。

「ねえ、カイン」

 もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない。

 今まではゆっくりと時間を刻もうと思って抑えていたが、そんな時間は二度と自分にはやって来ないのかもしれない。

「……カイン」

 イリアは覚悟を決めたように膝の上で拳を作り、恐る恐る口を開いた。

「夜、付き合ってほしい」

「えっ?」

「ロンカで降りてほしいの」

 セイシェルの思いつめた表情がチラついて離れない。

 彼女からもただならぬ何かを感じ取ったカインは考えた末に頷き、ロンカで降りることに同意した。

 悲しげな顔を見ていられなかった。

 それからは二人とも何も言わず、あっという間にロンカへ辿り着いてしまった。

 行きは緩やかで楽しい空気が流れていたが、今は重く沈みそうな空気が流れたまま、二人は逃げるようにして降りた。

 周りを見ることなく宿へ飛び込み、お金を払って部屋へ急ぎ、入るなり扉をバタンと閉めた。

「もう、ハイブライトには戻れません。イリア、今日はここに泊まりましょう」

 淡々とした声にイリアは目を伏せ、そっと声を掛ける。

「……怒ってる?」

 あまりにも抑揚のない声だったから気になったと、扉の前に立ったままのカインを見ていると彼が弱弱しく言葉を発する。

「よく、分からないんです、俺は」

 今、イリアと一緒にハイブライトには戻れないような気がして、此処へ来てしまったが、二人きりであることを意識してしまっていた。

「俺が見張っています。イリア様、お休みください」

 一線を引くように告げるとイリアが無邪気な気遣いを見せた。

「だめよ、疲れているでしょう? カインもベットで休んだ方がいいわ」

「そういうわけにはいきません」

「でも、私のわがままに付き合ってくれているから」

「俺のことは気にしないでください」

 直ぐに返し、頑なに扉から離れないカインにイリアはスッと立ち上がり、カインを引っ張る。

「もう、頑固なんだから。寝なさい!」

「な……あなたはどうして……」

「いいから早く寝なさい!」

 無理やりベッドに寝かしつけて、何の躊躇いもなく隣で寝るとカインは呆れたように呟いた。

「……あなたは何も分かっていない」

 相手の体温を敏感に受け取って、不穏な騒ぎを起こし始めていた。

 夜が齎す効果なのかどうかは知らないが、それとも性なのかもしれないが、目の前の少女を手折ってみたくなった。

 彼女は、それでも笑ってくれるだろうか。

(くだらない)

 非現実的で倒錯した妄想を理性で振り払い、寝ようとしたところ、イリアが口を開く。

「私は何も知らないのね。月日が経つのがこんなにも早いこともきっと知らなかった」

「……イリア」

「カイン、お願いがあるんだけど」

「何でしょう?」

「そうねえ……」

 今から頼むことは、絶対に許されないことだ。

 下手をすれば後々傷つけ合う荒んだ未来になるかもしれない。

 お互いに怯え続ける日々を送るかもしれない。

 でも、でも、今。

 今、彼女は満たされたかった。

「私ね、とってもわがままなのよ」

「知っています」

「そうなの?」

 イリアが不思議そうに聞き返すとカインがクスリと笑う。

「何を今更」

「知ってたの?」

「唐突にロンカへ行こうなんて、わがままじゃないと言えない」

「そっか」

 そんなことも言えるのかと、カインの魅力をまた一つ知って微笑んだ。

「でも、貴方だから付き合うんでしょうね」

「カイン……」

 彼の優しさが、よりいっそう心に染み込んで泣きたくなった。

 この背中がいつも傍にあればいいのに、本来は掴むことも叶わない。

 それなら、どうして恋をしてしまったのだろうか。

「貴方が俺の寂しさを埋めてくれるからなのかもしれない」

 イリアの明るさがなくなれば、また詰まらない日常に鬱々とした時に戻されてしまう。

「じゃあ、私がいつでも傍に行くわよ」

 都合のいい関係だって構わない。

 穴の空いた心を埋めるには、お互いが偶々丁度良かっただけなのかもしれない。

「イリア」

 カインが向き直り、彼女の背中に両手を伸ばした。

 抱き合う以外に術がない。

 夜の闇は一層深くなり、理性が砕けて本能のまま温い行為を続けた。

 ――これを何と言うのだろう?


****


 気がつけばもう朝焼け。

 夜はとても不思議で、人ならざる欲望をむき出しにできる時間でもあったが、太陽が昇っていくのを見て理性が目を覚まし、お互いの状態を見て壮絶な痛みに苛まされた。

「まだ、夜明けなのね」

 本当に一線を越えてしまったのだ。

 全身に広がる痛みが、現実であることを示してくれる。

 これではもう堕ちて逝くだけだ。

「……泣いているの?」

「カイン……」

 薄く目を開けて問いかけるカインにイリアは首を横に振った。

「俺たち、何してるんでしょうね」

「……さあ」

 期限付きの恋人ごっこのようだ。

 満足したら終わりの、淡白で単純な。

「でも後悔していないの、不思議でしょ?」

「奇遇ですね、俺もなのですよ」

 もう二度と、交わることもないだろう。

 一度きりだから、いいのかもしれない。

「ねえ、このまま一緒に死ぬ?」

 物騒な会話も迷いなく言えて、カインも笑って返す。

「それも悪くないですよ、なかなか」

 いっそ、倒錯した背徳を背負ったまま、朽ちていくのも悪くない。

 触れた肌と繋いだ手はそれでも心地よくて。

「そろそろ出ましょうか」

「そうね、カイン」

 愛を確かめ合うことも告白することも、今の自分たちには相応しくない。

 ただ、お互いを殺し合うだけの、傷をつけ合うだけの閉鎖的な一日に過ぎない、早く忘れた方がいいと思っていたからだ。

『ずっと、愛していたよ』

 自覚がないだけで、最初から。


****


 過ちを犯したのは二人だけではない。

 夜が更け、不安に突き動かされるようにアエタイトへ向かうと夜の顔にすっかり変わっており、酒の匂いがあちらこちらに立ちこめる。

 セイシェル・ハイブライトは勇ましく駆けると、以前一回だけ足を踏み入れた――シリウスと初めて出会った場所に行っていた。

 随分時間が経ったと思ったが意外と覚えているらしく迷うことなく到着できた。

 依然として誰も使っている気配のないそこの扉を開けて中に入ると――一人の女性が血を浴びて、死骸を見下ろしていた。

「――エレザ」

「私のやったことを、あなたはどうお思いですか?」

 刃を仕舞い、鍵を持つ彼女にセイシェルは諦めの息を一つ吐いて。

「もう、戻れないのだな」

「ええ」

 恐らくこの者から奪ったものだろう。

 見れば牢番として認定された証が腕に見えたような気がする。

 その鍵を、彼女はセイシェルに託す。

「開けてはならない不幸の鍵です」

 哀れで暗い夜はまだ終わりそうにない。

 輝いた、掛け替えのない無邪気な日々が終わっていく。

 夜を迷う少年らは自ら賽を投げてしまった。

 それでも手に入れたい――自由への盲目的な渇望。

 坂を転がり落ちるように、一瞬の悦楽しか見出せない歪みは行き過ぎて、最早再起する可能性はゼロに等しかった。

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