第十三節:Ailes écraser le rêve
「兄さん、ソフィア」
「あら、シリウス」
自分とソフィアの元へやって来るシリウス──シリウス・ハイブライト。
まだ、この時は邪な感情も苦しみも持っていなかった。
自分になつくシリウスをこれでもかと愛しく思った程だ。
三人でいるのが当たり前だと信じていて、これからも三人で未来を切り開くことを夢見ていた。
そんな夢は、ソフィアがシリウスだけに話したことで壊された。
「シリウス、貴方に話したいことがある」
「うん、いいよ」
これを聞いた時、裏切られた気がした。
切り離されていく日常、身を切られるような孤独。
今思えばソフィアがシリウスを選んだことも、シリウスが受け入れ、愛したことも憎かった。
二人を愛していたからこそ。
狂気に囚われた中でより恋に敏感になっていた。
ソフィアの愛娘がシリウスの血を引く子に惹かれたことくらい直ぐに気が付く。
カイン・ノアシェラン。憎むべき子どもだ。皮肉にも彼もまた愛されて育った子だ。
母や父のことを知りたいと思うのは当然の理。だが、漸く築いたものを壊されるわけにはいかなかった。
『やっと、手に入れたのに』
──夢は、簡単に砕ける。
****
窓から覗いてみても夜が深くなったことは認識できたが二人部屋にはまだ育ち盛りの少年が天井を見上げていただけ。
カイン・ノアシェランは相方であるラルク・トールスの帰りを待っていた。
それと同時に彼を呼び出したイリア・ハーバードのことも気にかかる。
自分がただ単に心配性であればよいのだが光る碧が印象的な明るい瞳が絶望の闇を描いていたように見えたのは気のせいか。
それに、この部屋は一人で寝るには寂しすぎる。
大の男が窮屈に寝ることに慣れていたから余計だ。慣れとは怖い。
一瞬だけ、ハイブライトの箱庭で大切に育てられているという優越感が沸き出すが一時の感情に過ぎない。
眠ることに集中し、目を閉じたら人肌が恋しくなり出し、熱い息を吐き出した。
優しさが欲しい。
温もりが欲しい。
──独りは、とても寂しい。
一度沸き出た欲求はなかなか収まらない。だが、彼はそれを嫌悪することも隠すこともしなかった。
そう言う意味では穢れを嫌い、白を好むハイブライトにとってみれば異端である。
「カイン、ただいま」
沸き上がる感情を処理していたところへ、ラルクが戻って来る。
明るくて、爽やかな声だ。安心感から微笑すると体を起こして出迎える。
「ふう、まだ監視役はこっちに来てなかった?」
「うん、まだ来てないよ。ラルクは見つからなかったか?」
「それは問題ない」
時間外に出ていただけで厳しい叱責が待っていて、ラルクの場合はもうひとつの危険にも今まで晒されていたわけだが。
「何だ、心配してくれたのか。お前、いい奴だな」
「ラルク……当たり前だろ」
「ははっ、そんな言葉をカインから聞けるなんて嬉しいなあ」
彼を心配する声にラルクは気分をよくして、勢いのままカインの隣側に寝転がる。
「……恋って分かんないな」
不安とも憂いとも受け取れる薄暗い呟きを吐き、彼はカインに問う。
「恋って苦しいのか?」
ラルクからは想像も出来ないことを聞かれ、カインは目を見開いた。
あまりにも不似合いだからと、やや失礼な理由でラルクに目をやると彼は深刻な表情をしている。
「恋って泣きたくなるものなのか」
「……よくわからない」
ラルクは恋でもしているのだろうかと思っていたら「彼女が泣いていたから」と返してきた。
敢えて、名前は聞かないでおこう。
それに、自分も恋なんて感情をまだ知らないわけで。
「俺は、経験したことないんだ」
望む答えを与えることは出来ない。
カインはそう言うと目を閉じた。
「……ごめんな、カイン」
それは自分も同じである。
考えるのをやめて彼も目を閉じた。
明日になれば解決していたらいいと、到底無理なことを願いながら二人は眠りについた。
****
「イリア様、お帰りなさい。お散歩なされていたのですか?」
イリア・ハーバードが眠るベッドを少しでも居心地よくしようと彼女の世話係のティア・オールコットは温かく迎え入れた。
弾むような明るい声に彼女の絞めつけていた心がほんの少し楽になる。
「ティア、いつもごめんね」
謝罪の言葉が口をついて出る。
彼女は私のために色々してくれているのに。
自分の不甲斐なさを見て、更に心が落ち込む。
「……イリア様」
ティアは彼女のただならぬ雰囲気を察するとシーツ交換を急いで終わらせて彼女の元へ駆け付ける。
「目の周りが少し赤くなっていますわ。シーツ交換も済みましたから横になってくださいませ。あ、冷たい水持ってきますわ」
何も言わないでいてくれる、日溜まりのような温かさが嬉しくて、悲しくて。
「ティア、私、どうしたらいいの?」
助けてほしかった。
そんなことは誰にも出来ないと分かっている筈なのに。
一瞬だけ戸惑ったティアだが、彼女は彼女なりに精一杯の答えをイリアに出そうと努めた。
「イリア様の信じるままに、でいい。だってその答えを否定する権利なんて誰にもないもの」
彼女の望むような答えをあげた自信はどこにもないけれど、伝わっていてほしい。
彼女の答えを聞くことは、いつでもできる。
ティアは相変わらず朗らかに笑ったまま水を汲みにその場を離れた。
「──私の信じるままに」
彼女の言葉は鎮静剤の効果でもあるのだろうか。
──いや、違う。
もう、答えは自分の心の中にあった。
ただ、想うことも許されなければ幸せになれないことも知ったからだ。
だから、認めるわけにはいかなかったのだ。
それが怖くて、泣いていただけなのだ。
「私、カインのことが好き」
吐き出せば、認めたら、こんなにも短い言葉だったとは思わなかった。
ティアの言う通りだ。
信じるままに、せめて思うことくらいは。
「明日もまた会いたいなあ」
多くを望むほど、自分はまだカインと話していないわけだ。ただ、芽吹く感情に気付いただけなのだ。
今は、それでいい。
彼女はやってくる明日を待ち遠しくしながら留まる一夜を過ごすのであった。
****
冷たい水を汲みに行こうと考えたがもう遅く、彼女を一人にしたほうが良いかもしれないと考えたティアは自室に向かって歩いていたのだが。
「やあ、ティア。お疲れ様」
警備隊という謂わば軍隊。その部隊を取りまとめる現場責任を負う男──アーサー・トールス。
勿論創作者の名家トールスの息子。トールスが無くなった後もハイブライトに忠実な彼は認められて その地位を築いた。
しかし、ティアにとって彼は少々複雑な人物である。
「アーサー、もう仕事は終わったの」
「うん、ティアが心配だからと言ったら上がらせてもらえたんだ。早く帰ろう」
「そうね、早く帰って寝ないと。明日も早いわけだし。アーサー、気を使わせてごめんね」
その気遣いが、アーサーの想いに応えられないという申し訳無さから謝ると彼は笑ったまま「いいよ」と言ってくれたので罪悪感が募った。
細やかな気遣いが、優しさが、彼女の中でアーサーとは違う人物を思い起こされる。
(隣にいるのがリデルなら、どれ程嬉しいんだろう)
リデル・オージリアス・マクレーン。
アーサーとは正反対の素っ気なくて無愛想で何考えているのかよく分からないし何より彼女の望む言葉を滅多にくれないけど。
表現することに慣れていないことを徐々に知っていくと何だか可愛く映る。
アーサーだって優しい筈なのに、どうしてリデルでなければ嫌なのだろうとティアは苦々しく思った。
「ティア、イリア様はどう?」
「うん、イリア様と一緒にいるの、楽しいよ」
召し使いとしての仕事を心配しているのかアーサーは問いかけるがティアは多くを答えなかった。
それに、気持ちに偽りはないからと考えたからだ。
最も、ティアの答えに満足した彼はそれ以上問うこともしなかったわけだが。
「あ、アーサー、部屋についたわ。送ってくれてありがとう」
部屋まで辿り着いたことに気付き、彼女は足を止めて彼に言う。
「あ、意外と早かったね。ティア、今日もお疲れ様。お休み」
「うん、お休みなさい」
軽く挨拶を交わして、ティアは部屋に入っていった。
彼女の後ろ姿を名残惜しく見つめ、彼は俯く。
違和感を覚えていた。
──彼女は、自分を切り離している。
「ティア」
名前を呼ぶ声が低く、咎めるように。
想いが向かれていないことをアーサーは何となく感じていたが、今日、それを確信し、虚しくなる。
「……何が、いけないの」
まだ夜更けの真っ只中、求めるような声が刻まれるように響いたのは、気のせいか。
****
夜から朝、人々を眠りと覚醒の両方をもたらす境目がやって来た時間。
布団を被ったまま天井を見上げる小さな双眼。試しに大袈裟な息を吐くと反芻するだけでその他の音は聞こえない。
シャール・レイモンドは眠れないでいた。
理由は勿論ずっと一緒だったレディシア・キースがいなかったからだ。
自分が思っている以上にレディシアの存在はかけがえないもので、いなくなったらこんなにも寂しくなるのかと思い知らされた。
彼を縛り付けていた。
それくらい、依存していた。
自分の父であるジェイソン・キースに会いに行ったきり戻って来ない。
何処に行ったのだろう?
此処に、戻って来るのだろうか?
不安は増していく一方だった。
「俺が、レディシアを必要としていたんだ」
守りたい存在だった。
父を失って、憎悪に身を焼かれても尚レディシアのことだけは守りたいと思っていた。
だから、気付かない。
──いつの間にか、彼が守られていたという真実に。
レディシアがいないとこんなにも弱くて寂しくて悲しくてどうしようもない。
『大丈夫だよ、シャール』
気丈な笑顔を見せ、離れたレディシアの行方はまだ知ることが出来ない。
だが、これ以上不安になることはいけないと止めた。
彼は自分のために頑張ってくれているのだから。
今の自分には信じて待つことがレディシアに報いる最適な方法だろう。
もう、明日はすぐそこまでやって来ている。
自分の心は余所に日常が迫ってくるのだから、日常は進むのだから眠ろうとした。
次は、笑って過ごせるようにと祈りながら。
****
「レディシア、眠れたかい?」
「……ううん」
窓から夜空を見つめつつ、ジェイソン・キースはベッドで横になるレディシアに問い掛ける。
眠ろうと勤めているのだろうが目が冴えて眠れないのか、落ち着きのない彼を心配する。
彼等がやって来たのはハイブライト近くのロンカの小さな宿屋である。そこで一夜を明かし、朝早くにアエタイトへ向かおうと考えた。
それに、レディシアは自分の元に来るまで色々な話を聞かされたのだ、きっと疲れていたに違いない。
疲労を少しでも取り除こうと宿屋に向かった時、彼はこのように問うたのだ。
「父上、僕は、皆は、どうなってしまうの?」
飾り気のない素直な気持ちだった。
本当は、ちゃんと答えたいのに。
「……大丈夫だよ、レディシア」
理由はまだ話せない。
だけど、大丈夫という言葉はレディシアに向けてのものである以上に自分自身への励ましでもある。
──何も起こらないで欲しい。
でも、もう願いは届かないだろう。
イリアを迎えに行ってから、何かが起こることをどこかで予想していたかもしれない。
「……レディシア、もう寝なさい。朝は早いよ? それに、子供はこんな時間まで起きてはいけないしね」
「……父上」
未だ眠れないレディシアだが、頭を撫でられると心地よくなってきて、気がつけば夢のなかに落ちていった。
(この子の夢は綺麗だろうか?)
現実の生々しい夢でなければいい。せめて、夢くらい綺麗で美しいものでいて欲しい。
それに、夜明けと同時に出発しなければならず、窓をもう一度覗くと温かな光が見えている。
あと、少しで、起こさなければならないのか。
生々しい現実に引き戻さなければならない。夢の中では笑っている彼も目を覚ませばまた悲しい思いをさせてしまうだろうか。
「今日も月は綺麗だな」
丸を描かない。
所々欠けていた淡い光、優しい星。
何故、地上はこれほどにも残酷な世界なのだろうか。
何故、ハイブライトはこんなにも冷たい場所なのだろうか。
「さあて、私も眠ろう」
今、そんなことを考えてみても仕方あるまいとジェイソンは思考を振り切り、柔らかなクッションが敷かれた椅子に腰掛け、瞼を閉じた。
光や風景を遮るだけでも休まるらしい。
確かに、身体がふわふわ浮いている。
このまま、どこにでも行けたらと思ったが、大切な息子を置いていくわけにはいかなった。
憂いを背負い、父と子は静かな夜を過ごしたのであった。
****
月がまだ空の頂上に照っていた頃、リデル・オージリアス・マクレーンとエレザ・クラヴィアは上級生の集まる話場──机と椅子と本棚と小さな窓がある木製の部屋。
元々監視役のエレザと警備隊でセイシェルの護衛であるリデルの朝は早い。
そして、この二人が一緒によくある話だ。
と、言うのも、監視役は警備隊の指揮下で動くからである。
今日も、その方針を話す、というのは表向きのことで。
「……リデル、本当にするのね」
エレザの問は恐れを含んだものだ。
彼はそれに対し、冷静に、当たり前に答えた。
「勿論。エレザ、君は抜けてもいい。いや、君は離れるべきだ」
「リデル……」
「血を流す戦いなど見たくないだろう。俺のやることは自我だ、自我のために人を殺す」
彼が言ったのは戦い──密かに、命を削るように猛然と、必死に隠しながら。
ほぼ全てをリデルが背負う形で。
もっと正しく言うならばこの世にはいないアクロイドが計画したものだ。
ハイブライトがシャールを金の代わりに使うことを心から嫌っていたのだろう。
人を殺すために、医師の技術を使い、身に付け、病に犯されたハイブライトの者の命を奪った。
愛すべき者が関わるとこれほどまで冷酷になれるのかと驚きもしたがリデルのように親が虐げられる上級生も数多い。
上に立つ者は忘れるが、下にいる者は一生忘れない。
事実、アクロイドのやり方にどこかで惹かれた自分がいたほどに。
ただひとつ。
ひとつだけ、良心があるのは。
幸せであるエレザとティア、親友のセイシェルをそこに置きたくなかった。
自分の醜悪さを見てほしくなかった。
「近々、ティアとも別れる。それだけ言いたかった。何を言っても無駄だ、俺は」
「何を言っているの、リデル」
淡々と告げるリデルを大声でエレザは制した。
非道な手段に出るリデルを叱咤するものかと思いきや、違うようだ。
「私の意思は無視するの? ティアの気持ちは? 勝手に話を進めないで。次、そんなことしたら許さないわよ」
「……エレザ」
本当は理解してほしいという願望を秘めながらも制止しようとするリデルにエレザは冷たく笑う。
「私も一緒にいくわ、リデル」
幼い日を思い出しながら、次は眩しい光を浴びた世界で伸び伸びと生きたいという願いが彼女を駆り出す。
彼女の瞳から、光が消え、憤怒が芽生えるのを見てこんなはずではなかったと顔を覆う。
だが、目を逸らさなかった。
それをしたら、またエレザを追い詰めるから。
そして、扉が乱暴に開かれるのをリデルは聞き、振り返る。
「リデル、話は聞いたぞ」
「!? セイシェル様」
ハイブライトで唯一無二の親友とも言えるセイシェル・ハイブライトが腕を組んでリデルを睨む。
アクロイドの心の内は知っていたが、深層部分は知らなかった。この話を聞いて少なからずショックを受けていた。
「その話は是非、私にしてほしいな。それとも私のことは信用していなかったのか?」
「……セイシェル様」
「エレザと私を無視しないでくれ。それにリデル、もっと頭を回せ。利用できる題材があるだろう」
「……ですが!」
「彼らも大人になれば、理解するさ」
「……セイシェル」
リデルは最も恐れていた。
「カインとイリアを利用する」
──その、冷酷で、悲しい答えを聞くことが。
セイシェルを愛する二人を、自分たちの目的のために利用することが、最も簡単で、それを提案するセイシェルを見ることが怖かった。
愛情を利用するセイシェルをどうして責めることができようか。
「……もう、地獄へ行く覚悟はできている」
母がハイブライトを捨てて去った日から、父が狂ったその日から生きることを諦めていた。
せめて、目的のために抵抗してみたかった。リデルには感謝してもしきれない、だから。
「憧れの世界を作ろうか?」
──それとも、地獄の炎に身を焼かれようか?
『どうしてこんなことに?』
セイシェルの決意を二人は悲しみを込めて受け止めたが……。
「私たちはいつまでも一緒。そうでしょ?」
それでも、何とかしたいという思いの方が強くて、そのためならばと考える三人の前にバタンと扉を開く音がした。
「──リデル」
「……ティア」
彼を慕う、ティアが血の気の引いた顔でリデルを見つめていた。
誰も言葉をかけられない中、ティアは直ぐにリデルに問い掛けた。
「今の話、本当なの?」
もう否定できない。
それに、ここで嘘をついて彼女を傷付けたくない。
「軽蔑したか」
当然である。
彼女にとって大切な存在であるイリアを利用するなんてと責める言葉が飛んでくると思ったのだが。
「そんなことないよ、リデル」
「ティア?」
リデルの想像とは真逆の、彼の苦悩を受け止めるように静かに佇んでいた。
そして、彼を安心させるように、苦悩を和らげるように笑った。
「だって、私、リデルのことが大好きだもん」
彼女はリデルに抱き付いた。
どうしてだろう。
どうして、こんなにも。
何もかも許されないのだろう。
「もう隠さないでね、リデル」
泣きそうな声で話すティアにすがるようにしてリデルは泣いた。
「ごめん、ごめん、ティア。もう二度と、二度と、しないから……!」
──泣かないで、欲しかった。