第九節:Aria de lignes paralleles
あれから何分か、或いは何時間か、経ったかも知れない。
しかし、時間の感覚はたった一度の対峙で壊されてしまった。そして、未だ回復する兆しは見えない。
叔父──ディアルト・アルディウス・ハイブライト……彼に会うのが先ずは目的だったが、相槌を打つので精一杯だった。
イリア・ハーバードは広々とした通路を不安定な足取りで歩きながら考えていた。
(とにかく、何か甘いものが食べたいわ……)
彼女は疲れきった様子で、とにかく何かを口に入れることだけを考えていた。
別に食べたいわけではなく、考えないようにするには何かを食べるのが一番だと思うからだ。
(綺麗な、人、だった)
叔父は美しい人だった。正に美男。そして歌うような声、何もかも完璧。歪さが何処にも見当たらない。
それが、恐怖心を煽る。
特徴とも言える硝子のような赤い瞳を前にしたら、否定すら出来ない。
──母が逃げる理由が、分かってしまった……。
言葉にすることは出来ない。人間の本能の部分で知ってしまったのだ。
「好奇心だけでは、どうにもならないのね」
知りたいと思っていた。
母が、父が、フレアが、此処で何をしていたのか。
「私、知らないの。知らなさすぎると思うの」
自分はフレアの話でしかハイブライトを知らない。自分のことなのに。
だから、確かめたい。
自分の目で、耳で知る必要があると思ったのだ。
しかし、叔父を目の前にしただけでこの有り様である。
「まだ、始まってもいないのに、情けないわね。どうしよう……どうしたらいいのかしら……」
焦り始めた。
このままでは何も知らないまま飼い慣らされる。
これではいけない、いけないのだ。
考えることにとらわれるあまり、何時しか彼女は前すら見ていないまま歩いていた。
ドン!
「!?」
彼女は人にぶつかったことで漸く我に返り、慌てて体勢を立て直しながら頻りに謝る。
「ご、ごめんなさい!」
「此方こそすみません。イリア様……大丈夫ですか?」
冷静な性格なのか、相手は動揺することなく対応していたが、イリアは更に慌てて謝罪する。
「いえ、本当にごめんなさい! えっと、私のこと」
「もちろん知っていますよ。こうしてお話する機会が出来て嬉しいです」
「ま、まあ、私こそ」
そこで彼女はやっと、相手の顔を見上げた。
端正な顔立ちの、まだ少年らしさを残す青年。
「えっと、あなたは……」
どこか気恥ずかしさを覚えながらも彼女は彼に名前を聞く。
聞いておかないといけないと思った。
すると、彼は事も無げに言ったのだ。
「カイン。カイン・ノアシェランです」
「……カイン」
「もう夜も遅い。会えてよかったです、イリア様、お休みなさいませ」
カインは動揺するイリアの心情など露知らず、颯爽と自分に宛がわれた部屋に向かって帰っていく。
黒く長い髪を束ね、揺らしながら走って行く姿を彼女はぼんやりと見ていた。
しかし、彼の口から聞いた名前がイリアの心に深い影を落とす。
自分の弟である彼は、遥かに大人びていて、細やかな配慮も出来る。
だが、顔を見た時、声を聞いた時、それがどこか疲れきったような気がして、益々目を放せなくなった。
「カイン……」
気になる存在だ。
何度も何度も名前を呟き、彼の姿が見えなくなっても見送り続けた。
「イリア様」
わざわざ探しに来てくれただろう若いメイドに声をかけられるまで、彼女は若い青年に骨抜きにされていたのだ。
「イリア様、どうなされましたか?」
「あ……あら、ごめんなさい! もしかして、迎えに来てくれたの……?」
肩を叩かれて、やっと気付いた。
しまったと、心の中で思う。
(ハイブライトの人達に、知られるわけにはいかない)
カインのことは、絶対に。
そして、彼に心を奪われてしまったことも、だ。
しかし、メイドは深く追求することはしなかった。
「見つかって良かった。もう夜も遅いですし、明日は早いのでしょう? 早くお休みになっていただかないと。だから、お部屋までお送りしようと思っていたのです」
メイドとはどこか違うと、淡い紫をきっちりと束ねた彼女を見て咄嗟に感じたが然程気にしなかった。
それ以上に彼女に親近感を覚えたからだろう。
「わざわざありがとう。早く戻らないといけなかったんだけど……でも、探しに来てくれて嬉しかった!」
「えっ、あ、あの、イリア様……」
思わぬ形でイリアの笑顔を見ることが出来たのだが、彼女は理由が分からず首を傾げるばかりである。
「だって周りは男の人ばかりだから。あ、そうだわ。貴方の名前を聞いておきたいなあ。良かったら一緒にいてほしいの。ねえ、お願い」
ぎゅっと手を握られ、更に戸惑うが、必死に見つめるイリアの瞳や表情から何かを感じ取ったのだろう。
「わ、私の名前は、ティア・オールコットです。私で、良いのでしょうか」
若いメイド──ティア・オールコットはイリアを見て、困惑しながら聞いてくる。
仮にもハイブライトから寵愛を受けた彼女だ。自分で良いのだろうかとティアは思ったのだ。
「うん、ティアとお話したいの」
「……イリア様、わ、私で、良かったら」
「本当!? やったあ! ティア、嬉しいわ!」
「わわ、イリア様! えっと」
勢い余ってティアに抱き付いたイリアに戸惑いつつも、彼女はそっと両手を背中に回す。
この無邪気さを、純粋さを、失って欲しくないと思う。
「うふふ、よろしくね。ティアとは何だかとても沢山話せそうな気がするの」
この笑顔を失って欲しくないと思う。
「い、行きましょう。イリア様!」
ティアは張り切った声を発し、イリアとともに彼女の部屋に向かって歩き出した。
* * * *
形式的なスピーチも終え、豪華なパーティーも終えた。
セイシェル・ハイブライトは自室に戻り、早々にベッドに身を投げる。
本棚に囲まれ、窓際に机と椅子があって、どこか閉鎖的で孤独な、絶対領域。
此処は自分だけの空間。部屋は広いが誰も入って来れない。
それが、とても居心地が良かった。
「アイシアに任せれば良かったのに」
不満があるとするならこれだけ。無論、どうにもならないことはよく分かっているのだが。
「……さて、寝るか。お休み」
もう、返ってくることはない。
生きてきた中で、たった数日間だけの、しかも憎んでいた相手に返してしまうとは。
シリウス・ノアシェラン。
ふらりと現れて、いなくなる蜃気楼のような存在だと、今でも思う。
彼は色々な物を教えてくれたと思う。
知りたくもなかった寂しさを知り、分かりたくなかった優しさに触れた。
そんなものはないと諦めていたから目を背けていられたのに、欲しくなった。
だから、カインが憧れで羨ましくて憎い。
「でも、ハイブライトにいてほしくない……こんなところにはいてはいけない」
どこかで自分は彼を実の弟として……。
「セイシェル様」
扉を開けて入って来た存在で朧気な思考は止まり、意識が覚醒する。
「何だ……ティアか」
「うふふ、お疲れのようですね」
先程までイリアと一緒にいたティア・オールコットだ。
来訪者の前でみっともない姿は見せられないセイシェルはベッドから身を起こし、そこに座った。
「先程、イリア様とお会いしました。とても明るい方なのね。可愛らしかったわ。でも、カイン・ノアシェランと接触したようですけど」
「そうか……血は争えないな」
「そうですね。でも、イリア様のことは私にお任せください。必ずや守ってみせます」
彼女は真っ直ぐと、セイシェルの目を見てはっきり言い切った。
そこから、強い決意が見える。
「……ああ、頼もしいな」
感心してしまう。
自分はまだ、そんな風に思えないのだ。
すると、ティアはにっこりと笑って答えて見せる。
「そうでしょうか? ただ、望まない契りを交わすのは耐え難い苦痛だと思うだけです。私たちはいつか貴族のもとへ行かなければならない。貴方も、関心のない女性を愛するよう演じなければならない」
これが、ハイブライトの宿命だ。政略結婚が絶対とも言える世界で、愛し合った末に結ばれることは稀だ。
「私はそれがうんざりなのです」
「……リデルか」
「そう、私はアーサーの所に行かなければならない。今やアーサーはアルディ様の側近にまでなることを約束された方。リデルはそうならないでしょうね」
アーサーの名前が出てきて、セイシェルは顔を曇らせる。
上級生最終学年になると優秀な者からハイブライト内に引き抜かれる。
彼はつい最近警備隊の副官になったのだ。リデルは警備隊の一人。
理由はハイブライトにリデルが関心がなく、彼はよくハイブライト関係者全員に挨拶をしていたようなことを思い出す。
「私は、嫌です」
決められた道に無理矢理行かされるのは沢山だと、ティアは今にも泣きそうな声で言ったのだ。
「……ティア、イリア」
ハイブライトには囚われないで欲しいと思う。
しかし、何不自由なく過ごしているのが憎いと思う。
「だから、私はイリア様を守りたい」
これは、切実な願いでもあったのだ。
力尽きるまで忠誠を誓い、示された道から外れれば罪人として扱われる。
「……ここは、巨大な監獄かもしれないな」
まるで、白い監獄。
セイシェルは独白を漏らし、ため息をついて床を眺めていた。
暫く、ティアも何も言わず、床を眺めていたが思い立ったように顔を上げて歩き出す。
「長話に付き合わせてしまいましたね、セイシェル様」
「……あ、ああ、そうか、もうそんな時間か」
彼女の声にセイシェルも我に返り、顔を上げる。
「リデルが舌打ちしているかもしれないな。早く行ってやれ。あと、イリアのこと」
「セイシェル様?」
ティアは首を傾げ、彼に聞き返す。
いつもより饒舌だと思う。
「……任せてばかりですまないな。私も何とかしたいと思う」
彼が、そんなことを言うのは何かあるような気がするが聞けなかった。
「いえ……セイシェル様、また明日。お休みなさい」
もう、眠らなければならない。夜が濃くなっているのを窓から見えたのだ。
ティアはセイシェルの身を案じながら立ち去った。
* * * *
キーン、コーン、カーン、コーン……。
朝の始まりを告げる鐘だ。
目障りなくらい華やかな福の役人がやって来ると、シャール・レイモンドは舌打ちをし、レディシア・キースはのろのろと起き出した。
「下級生、一グループ。今から講義よ。早く部屋を片付けるように。それが終わったら着替えて私のところへ集まるように」
中に入って来た、淡い紫の髪をきっちりと束ねた女性。
険しい表情で、一グループと呼ぶシャールとレディシアを見ていた。
下級生は二人部屋に住み込み、グループで管理されていた。監視は上級生の役目だ。
それでもシャールは布団をきちんと畳み、服を着て女性の元へやって来る。
一方、レディシアはまだ布団を畳み終えていないでいたのだが。
「……シャール・レイモンド、早いのね」
「ありがとうございます」
チラリと様子を見て、一瞬怪訝そうにしながらもシャールを褒めた。
「す、すみません!」
レディシアも息を切らせながらドア前で待つ女性の元へやって来た。
「……構わないわ、レディシア・キース。さあ、行くわよ」
二人がいることを確認し、通路に出ると彼女と同じく監視役の上級生が下級生を連れてきていた。
「揃ったかしら?」
二人を連れて来た女性は責任者か何かだろうか。
ひとしきり話し、揃ったことが確認できたら彼女は咳払いをして話し始めた。
「全員揃ったようね。今日から講義が始まるわ。それで、まだ不慣れだと思うので、私、エレザ・クラヴィアが皆を案内します。此処から教室までは特に迷いやすいけど、時間厳守よ」
無表情で淡々と話を終え、エレザは目で合図し、下級生を歩かせた。
「シャール」
「……レディシア」
隣からレディシアがシャールに話し掛け、心を許せる存在に安心感を覚えたがまだ何処か余所余所しい。
「僕、緊張してるんだ……シャール」
「そっか……レディンも、か」
よく見ると、教科書を抱えた細い両腕が震えていた。
「エレザ様が怖いのかい?」
優しく問うと、レディシアはゆっくりと頷いた。
最も、無表情で淡々と、無駄のない言葉遣いをするエレザに下級生は内心震え上がっていたのだが。
エレザは後ろにいるであろうレディシアやシャールを注意した。
「そこ、何喋っているの。静かにしなさい」
容赦のない口調に二人は黙り、統一された足音が辺りに響く。
それからは誰も喋ることなく、庭園が拝める通路を渡り、礼拝堂のような建物がある。
ガラス張りの四窓がついていて、木造の両開きの扉をエレザが開けた。
「着いたわ。さっさと入って席に座りなさい。私語は慎むように」
最後まで笑うこともせず、無表情なエレザに促され、礼拝堂の中に入って行った。
****
カーン、カーン、カーン……。
高々と、五月蝿い鐘の音が鳴り響く。
「下級生が入ったのか……」
この音は下級生が礼拝堂に入った時のもので、同時に中級生の訓練や掃除が終わる合図でもある。
今日は訓練も掃除もないのだが、礼拝堂の中の清掃を念のためやっておくようにと言われたのだ。
自分ではなく、他の学生たちが。
もう慣れたが、手柄が他にいくのは今でも納得はいかない。
「カイン・ノアシェラン」
同級生の声にカイン・ノアシェランはため息をついて振り返る。
パシン!
飛んできた手が彼の頬を真っ直ぐと打つ。
また何か不満でもあったのだろうと考えていると、鋭い声が彼を責める。
「セイシェル様とどうやって繋がっていたんだよ」
彼は、この前の講義室の一件であることを瞬時に理解した。
「俺は別に」
「嘘をつくなよ、穢らわしい」
彼はまた何度か頬を打つ。
それでも何も言わないカインに飽きたのか舌打ちして「どうせ体でも売ったんだろ」と言って立ち去る。
姿が完全に見えなくなると彼はまたため息をつき、呆れていた。
理不尽な形で不満をぶつけられるのは腹立たしい。
それに加え、間接的にセイシェルを侮辱したことに、更なる怒りを増していく。
(セイシェル様はそんな人じゃない)
彼にとってセイシェル・ハイブライトは聖人のような存在である。何故、そう思うのかはよくわからないのだが。
その想いは誰にも届くことはなく、溜め息の数が増えるばかりだ。
「カイン、カインってばー!」
「……ラルク」
走りながらやって来る友人に気づいたのは直ぐ後だった。
(相変わらず、なんというか……元気というか、能天気というか)
一息つきつつも、この明るさが羨ましいと思う。
呆れ笑いを浮かべながらカインはラルクの元へ歩く。
「もー、心配したんだぜ? 昨日も派手にやられてたじゃんか。上級生が止めてたけどな」
「……まあな。でも、もう慣れた。ほら、俺にはラルクがいるし」
「えっ」
ラルクは意外だと言わんばかりにカインの方を向いてポカンとしていた。
「どうしたんだよ、全く」
また、カインは呆れた。しかし、彼と話すのは楽しかったのだ。
馬鹿で真っ直ぐな親友は瞬間的に色々な表情を見せてくれる。
そんな彼が自分と関わったことで周辺から疎ましい視線を向けられることに罪悪感を覚える。
悩む彼にまたしても「眠いよなー」と言うラルクの間抜けな声が響いて、頭が痛くなってきた。
「ま、まあ、珍しいこともあるもんだよなあ……そうそう。こうしちゃいられないな。カイン、怪我あるんだろ? 医務室。医務室行こうぜ」
思い出したように医務室を連呼するラルクにカインは「大丈夫」と返したが彼は一歩も引かず医務室を連呼し続ける。
「早く、早く行こうぜ」
もう反論も聞く気がないらしい。
(何考えてるんだか)
意図を掴み兼ねるが無邪気な彼についていくのもいいかなと考える自分もいたのだ。
彼の隣を歩けば絶えず話し声がする。
「そうそう、パーティー凄かったよな。俺あんなの初めてだったからさあ」
「舞台でセイシェル様を見れたし」
「そっか。セイシェル様格好良かったよな」
そう言ってラルクはキラキラとした視線を彼方へ向ける。
確かに、舞台に立つセイシェルの姿は凛としていて、それでいて穏やかな声で華麗に言葉を紡ぐ。
ハイブライトには思うことが沢山あるが少なくとも彼の出で立ちは見るものを魅了させる。
そばにいる控えめでまだ声変わりしきれていないアイシアもだ。
──そして、新たにやって来た聖女と多方から言われたイリアも。
『私、イリアっていうの』
ひたむきで明るい声が、忘れられない。
可愛くて、綺麗な人だった。
そこへわしゃわしゃと髪をくしゃくしゃにするラルクの手で我に返る。
「どうしたんだよー、カインー。ボーッとしてちゃ格好いい顔が台無しだぜ」
「あーもう、引っ張るなよ……何気に整えるの、苦労するんだから」
カインは煩わしそうにラルクを睨むがその手に安心していた自分もいる。
話題を変えようと、ラルクは目を更に輝かせながら話す。
「そうそう、イリア様! 舞台で挨拶したイリア様、とても綺麗だろ?」
「……あ、うん。綺麗だよな。途中、擦れ違ったけど」
急に声を潜め、カインは困ったように笑って頭を掻いた。何となく、言ってはいけない話題のような気がしたからだ。
「えっ、すれ違ったの!? 羨ましいな」
「しーっ、声が大きいよ」
「あ、ごめん」
カインに注意され、ラルクは慌てて謝る。
確かに、あまり大声で言うべき内容ではない。
「ラルクは見たことあるのか?」
「……い、いや、それは、だな。見たことが、あるだけだよ」
冷や汗をかきながらラルクはカインに慌てて言い返す。
身体が震えていないか、かいた汗がカインに見えてないか、それだけが気になる。
「どうかしたのか?」
案の定、である。
カインは怪訝そうにラルクを見ながら聞いてきたのだ。
「いや、下らない話だよ」
これは、イリアに会ったことがある理由を、自分の考えで答えるわけにはいかない。
カインだけは、どうしても話したくなかった。
「ラルク、覚えておいた方がいいよ」
あまりに分かりやすいのだろう。
見兼ねた彼が溜め息混じりに警告をする。
「ラルクがいきなり話を止める時って、とても重要な意味があるんだよ」
ドキリと、心臓が大きく脈打つ。
「そ、そうか? お前よく見てるよなあ。いつも相槌しか打たないから驚いたじゃんか」
こういう時にこんな調子で答えられる。
それだけが救いだった。
「……隠し事が、下手だよ」
空気とともに吐き出された本音。
「……えっ?」
取り敢えず、何を喋っているのかは分かったのだろう。
ラルクは慌てて聞き返すが、カインは「医務室に行こう」と言って、笑いながら歩いていく。
──彼は、どこまで知っているのか。
****
薬品特有の鼻を摘まみたくなるような、ある意味毒を含んだ臭いがふわりと漂う医務室。
薬品と言われたら自然と一体化するハイブライト本家より遥か先の小さな町が原材料を育てている。
その医務室の薬品は薬品を扱う技術に長けた者達が本来行うが、知識の欠片もないと戸惑うセイシェル・ハイブライトとイリア・ハーバードの二人である。
「お兄様、ちょっと聞いてくださる? ラルクったら、此処を押し付けてどっか行ってしまったのよ」
「おや、奇遇だな。私もリデルに此処を押し付けられたんだ」
「うわあ……嫌な予感がするわ。何を企んでいるのかしら」
こんな調子でセイシェルとイリアは今は行方を眩ます二人の友人のことを話していた。
「案外似た者同士だな、ラルク君とリデルは」
「あら、本当」
自分のことで頭が一杯になるのだろうか。悪いことではないが、むっとしてしまうのはやはり人間の性だろう。
「失礼しまーす、ラルク・トールスでーす」
「……ほら、噂をすれば、だ」
白衣をヒラヒラと靡かせ、セイシェルはやや呆れたようにハイブライトとしては珍しい引き戸を開ける。
「あ、セイシェル様!」
「……怪我人か?」
「あ、そうなんです」
活きの良い声がそのまま耳に入れられ、一気に体力を消費してしまった。
「まあいい、入ると良い……」
「あ、はい、失礼します!」
彼はある意味無敵だ。
セイシェルを全く恐れない。
疲れて椅子に座るセイシェルとは対照的にイリアは立ち上がり、ラルクに抗議する。
「ラルク、一体どういうつもり……えっ」
ガラガラと引き戸を開け、やって来た黒髪の青年、カイン・ノアシェラン。
「せ、セイシェル様、イリア様……」
微笑ましい空気は消え去り、緊迫感が広がっていく。
何故、カインが此処に。
「そうそう、俺の親友なんですよ。くれぐれも頼みますよ!」
ラルクだけがいつも通りの明るい声だ。
「か、カイン」
戸惑いつつもイリアは状況を掴めないカインを手招きし、薬品を手に取る。
「あ、はい、すみません」
カインも最初は戸惑っていたが、傷を見てもらうだけだと考え直し、イリアの元に駆け寄る。
「あ、ここの椅子に座ってね」
「はい、ありがとうございます……」
イリアの目の前にある座り心地のよさそうな椅子にゆっくりと腰を下ろす。
「訓練は過酷なの? 結構酷い傷と赤みがあちこちにあるけど」
「い、いえ、これから警備隊になるための、訓練ですから……」
イリアの何気無い話題の返しにカインは困ったようにしつつ、無難に返した。
「うふふ、真面目なのね。でも身体は大事にしなきゃダメよ。お兄様、当て布持ってきて」
本当は、この傷の意味が分かっていた。
同級生から心にもない仕打ちを受けて出来たものだろう。
だが、カインはあまり触れてほしく無さそうにしていたので、追求はやめた。
程なくしてセイシェルが当て布を持ってやって来た。
「はい、持ってきたぞ」
「ありがとう、お兄様。私、うまく巻けるかしら」
「可愛い女の子がした方が男は喜ぶだろう」
「そうかしら。じゃあ、頑張ってみようかしら」
イリアは張り切ってカインの膝にしっかりと当て布を当て、外れないよう縛り上げる。
「痛くない? 結構強くしてるけど」
「大丈夫ですよ、イリア様、ありがとうございます……」
彼女の気遣いにカインは戸惑いながらも冷静に答えた。
「はい、出来上がり!」
しっかり固定したのを確認したイリアは明るく言って立ち上がる。
「セイシェル様、イリア様、本当にありがとうございました。突然押し掛けて申し訳ありません……」
カインはセイシェルがあまり気の進まない様子で当て布を持って来ていたのを何と無く察した。
「では、これ──」
「待って、カイン。折角来てくれたもの! まだ話がしたいわ。いいでしょう?」
素早く去ろうとしたカインをイリアは必死で引き止める。
どこか、甘えたように見える。
「ええっ? でも……」
「……いいじゃないか、カイン君。イリアがこんなに言うのは珍しい……」
「セイシェル様……」
苦笑気味にカインに言ったセイシェルは今も祈るようにカインを見つめるイリアをチラリと視界に入れる。
「授業は終わったのだろう? まだ、イリアはハイブライトに来て間もない。話に付き合ってくれないか」
お願いされるように言われたらどうすることもできない。
「セイシェル様! わ、わかりました。自分でよければ」
「やったあ! カイン、ありがとうね」
嬉しさのあまりイリアはカインに抱き付いた。
「えっ、えっと、イリア様、あの……」
この状況をどうしたらよいのだろう。助けを求めるようにセイシェルに視線を向けるが、彼は目を背けて薬品を片付けていた。
「うふふ、ごめんね。カインとまた会えて嬉しくて、つい」
「あ、それは、気になさらなくてよいのですが」
女性に抱き付かれるのは初めてだ。
されるがままになってしまったが、彼女を意識してしまう。
華奢で細く、柔らかな感触。
「ハイブライトは大変よね。色々あって。私、お兄様とリデルしか知らないから学生ならカインと話すのが初めてかも」
「それでもいいですね。自分はラルクしか知らなくて」
彼女が気さくなことも手伝ってカインは思わず孤独を吐露する。
「そうなんだ。じゃあ此処に来て!」
「えっ?」
イリアの思わぬ提案にカインは目を見張る。
だが、この空間は楽しいと思ってしまった。
「……わかりました。自分でよければ!」
気が付けばカインはイリアに笑顔を向け、彼女の思いに答えようとしていたのだ。
キリキリキリ。
壊れる寸前まで保っていた心は崩壊の音を奏で出す。
いつ、爆発してしまうか分からない小さな爆弾。
薬品を整理しながらセイシェルはただ一点を見つめていた。
(セイシェル)
優しく呼び掛けるシリウス、幸せそうな二人、脳裏から離れられない父の顔。
「お兄様、お兄様……お兄様ってば」
後ろにつくカインとともに、セイシェルに呼び掛けるイリア。
今まで気付かなかった。
迷いと憎悪は今でも、何も見えなくなるほどに自分を苛ます。
「……カイン君、イリアを頼むな」
漸く言えた言葉はカインに届いたのだろうか。
「カイン、授業が終わったら迎えにいくね」
無邪気なイリアに、自分の複雑な思いはかき消された。
****
「よかった、たまたまイリア様がいたし。リデルのおかげだな」
医務室から早々と立ち去り、通路を弾むような足取りで歩くラルク・トールスは、自分のことのようにカインの願いが叶ったことが嬉しくなったのだ。
事の始まりは朝にこれまた偶然会ったリデル・オージリアス・マクレーンがイリアとセイシェルのことを教えてくれたのだ。
ぶっきらぼうだが、ラルクが切欠を掴む方法が分からないと見越して声をかけたのだろう。
ただ、厳しい一面もあるのだが。
「おーい、ラルク。ちょっと待って!」
「……あ、兄さん!?」
リデルやカインのことを考えていると、アーサー・トールスが大声でラルクを呼びながら走ってくるのが見えたので足を止めた。
「ラルク!」
「兄さん、今日は忙しくないの?」
「今日は休みを貰った。ラルク、ちょっと話があるんだ。来てくれないか」
再会の喜びに浸る暇もなく、アーサーはラルクを人気のないところに引っ張っていく。
「兄さん、どうしたの?」
「いいから来い。これは大事な話なんだよ」
「えっ、大事な話?」
「いいから来い!」
事情を聞こうとしてもアーサーは怒鳴るだけで答えなかった。だから、納得がいかないのだろう。
自分の手を引くアーサーの力の強さに驚きと恐れを交互に滲ませ、されるがままになっているのを他人事のように見つめる。
程無くして人気のない、柱の影に隠れるようにして向き合う形になる。
「ラルク、答えてくれよ。これは、大事な話なんだ」
「う、うん」
会えるのは嬉しいのに、アーサーはとても険しい顔でラルクを見る。
心が、離れていくのを、感じていた。
「カインをセイシェル様に会わせようとしてるって、上級生の間で噂されている。中にはラルクを危険視する者もいるぞ」
まるで彼を激しく罵るような口調で問いかける。
「兄さん……俺はただ」
こんなにも激しく怒り、醜く歪む兄の顔を見たのは生まれて始めてだった。
「よく考えろ。ラルク、カインはハイブライトを裏切ったシリウスとソフィアの息子だ」
「う、うん、そうだけど……」
強烈に感じたアーサーの醜さと、耐えることのできない侮蔑の視線。
「上級生に目をつけられたらカインのように、同級生からも迫害される。余計な真似は止せ」
「……兄さん……」
「分かるだろ? 此所で、安全に生きていくべきだ」
突如、火花のようなものが頭の中で爆発し、ラルクは身体を震わせる。
──目をつけられる?
──此所で生きていくべき?
──安全に、生きていくべき……?
兄が、分からない。
覚えた、違和感。
「ラルクが、カインと同じような目に合うのは耐えられないんだ」
──だから、関わるな?
何故、どうして?
彼は、彼は、ただ。
(家族と一緒にいたい人だよ)
気が付けばラルクはアーサーに向かって思いきり手をあげて、その頬を打つ。
「……ら、ラルクっ……」
周りに誰もいなかったのが幸いだ。
甲高い音がよく響いたからだ。
「兄さんはいつだってハイブライトに屈してる」
「ラルク……?」
悲しい。
アーサーに、自分の想いが届かない。
それが、とても、悲しい。
「兄さんならいつか分かってくれると思っていた。親友を助けたい、力になりたいって思い」
アーサーの瞳を真っ直ぐと見て、彼は自分でも不思議な位、静かな声でアーサーに話し掛ける。
「カインは、家族に会いたいと願った。俺は、それを助けたい。兄さん」
「ラルク……」
祈るように、兄の顔を見るラルク。
だが、兄は険しい顔を崩さず、ラルクを叱る。
「ダメだ、お前は何も知らない。そんなこと、出来ない」
「兄さん……」
僅かな可能性も自分の思いも、アーサーは一言で無惨に切り捨てた。
その瞳は虚ろで、長きに渡りハイブライトにいた結果起こしたものだ。
「ごめんね、兄さん」
ラルクはアーサーから背を向け、立ち去ろうとする。
「俺は、いつまでも俺のままでいたい。ハイブライトに怯えるよりも、僅かな可能性を信じたい」
心のどこかで、いつもアーサーの言葉に疑問を抱いていた。
だが、気にしなかったのだ。兄だったからかも知れない。
「黙っているより、僅かな可能性を信じて頑張って、終わりたいんだ」
訪れるべくして、訪れた結末なのかもしれない。
どこかで、いつかこうなると分かっていたのかも知れない。
「ごめん、警告してくれたのに。でも、それは聞けないよ」
「……ラルク……!」
引き止めようと手を伸ばすアーサーに向かって、ラルクは綺麗に笑った。
例え、考えは違えども、彼は紛れもなく唯一人のかけがえのない兄だから。
「兄さんには絶対に迷惑かけないようにするね」
違った道を歩く自分によって、どうか兄が苦しまないように願う。
それが、自分に出来る最後のことだった。
そうして、彼はゆっくりと、アーサーとは別の道を歩き出したのだ。
「ラルク……ラルク」
アーサーは何度もラルクの名前を呼んだ。
何度も、何度も何度も。
だが、ラルクは振り返らない。遠くなっていくばかりだ。
「……どうして、どうして、ラルク……」
あの笑顔を見て、彼は二度とラルクと話せないことを、会えないことを悟る。
だが、耐えられない。
今まで、ラルクだけが支えだったからだ。
ラルクしかいなかった。
──それまで、なくなってしまったら?
「許さない、許さない、許さない。俺からラルクを奪った奴は許さない……許さない!」
カッと目を見開き、青空に向かって叫んだ。
アーサーは、この瞬間から、もう、ラルクの知る「兄」ではなくなったのだ。
醜く歪んだ、悪魔のようになっていたことを、アーサー自身もまだ知らなかった。