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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第2章 締切が割れる執務室

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第7話 謝罪の一文だけ、書けなかった

 今朝、抗議文が3通届いた。

 翻訳官が訳し終えたのは昨日の分で、今日の分はまだ机の上で封も切れていない。封蝋の赤がいやに鮮やかで、朝の光の中でほんの少し、滲んで見えた。


「殿下。昨日の同盟国向け返書ですが、先方の受領確認がまだ来ておりません」


 宰相の声は低い。朝の謁見の間でも執務室でも、この声の高さは変わらない。怒鳴る前の沈黙より、この均一な低音の方がよほど堪える。

 私は机の端を指先で叩いた。


「返事が遅いのは先方だろう」

「……いいえ。我々の返書の発送が、3日遅れておりました」

「なぜだ」

「翻訳が間に合いませんでした。儀礼条文に用いる法律用語の訳が、適切な辞典を欠いておりまして」


 辞典。

 私は視線を横へ流した。翻訳官の作業台が見える。六人いるはずが今日は4人で、棚の端に辞典が何冊かと、その間に空白が目立つ。抜き取った跡ではない。最初から無いのだ。隙間の色が、棚板の日焼けと違う。


 ——いつからそうだった。


「追加の辞典は」

「申請は5年間、計7回。すべて却下です」

 

 宰相は言い方を変えない。上げもしない、下げもしない。ただ事実を置く。その置き方が、反論の入口を塞ぐ。




 伝令が駆け込んできたのは、午前の中盤だった。封蝋付きの書簡を両手に持ち、息を切らしている。走ってきたのか、それとも封蝋に息を吹きかけて乾かそうとしたのか、どちらかは分からない。


「至急便です。北方回廊の取次事務所から——あ、まだ乾いて……」


 彼は封蝋を確認して顔を曇らせ、もう一度ふっと息を吹きかけた。

 次の瞬間、封蝋は中央からぱくりと割れて、二片が卓上に落ちた。


 執務室が静かになった。


 宰相は無言で立ち上がり、自分の卓の引き出しから新しい封蝋材を取り出して伝令の前に置いた。声は出さなかった。伝令は顔を赤くして、二片を拾って床を向いた。


 新しい封蝋が硬く冷えるまでの間、私は誰も笑わないことを確認した。

 笑う余裕もなかった。




 昼を過ぎて、会計官の前室で別の紙が届いた。

 翻訳局の追加予算申請、B様式、赤印で戻されたものだ。


「規定の費目に合致しません」


 会計官の声は事務的で、書類の端を爪先で弾く仕草だけが小さく響いた。


「合致しないとは、どういう意味だ」

「辞典購入は消耗品費でなく備品費になりますが、現在の備品費は今季の上限に達しており——」

「上限を上げろ」

「本年度の予算枠の変更には監査委員会の承認が必要です。最短でも2ヶ月かかります」


 私は紙の表を見た。申請日の欄に先月の日付がある。その上に赤い印が、右斜めに押されている。

 押した人間の速さだけが、この書類のどこよりも鮮明だった。


「2ヶ月後には、返書の期限が既に4回は切れている」

「規定ですので」


 会計官は目を逸らした。

 私は書類を机の上に戻した。音がした。




 夕方、執務室に戻った時、机の上に今日の抗議文の訳稿が積まれていた。

 翻訳官たちは引き上げていて、部屋には宰相だけがいる。


 私は一通目を手に取った。同盟国からの問い合わせだ。文面は丁寧だが、最後の一文の語尾だけが硬い。外交文書の中の硬さは、感情の硬さだ。


「なぜこうなった」


 自分でも問いの向きが分からなかった。責めたいのか、確認したいのか。


「人手が足りないからですか」

「いいえ」


 宰相は即座に答えた。


「人手では埋まらない穴があります。辞典が無ければ法律用語は訳せません。手順書が無ければ暗号書簡は処理できません。台帳が無ければ議事録は書けません」


 宰相は机の脇から紙束を持ち上げ、静かに卓上に置いた。音が出た。わずかだが確かな音が出た。束の一番上が申請書で、却下印が連なっている。


「書けないのは、忙しいからではありません。——いままで書けなくしてきたからです」


 私は返事をしなかった。できなかった。

 申請書の日付を目で追っていた。最初の一枚が、5年前の日付だ。

 5年。私がまだ外交の実務に関心を持っていなかった頃から、この書類は積み上がっていた。




 宰相が出て行った後、私は1人で机に向かった。

 窓の外が暗くなっていた。執務室の蝋燭がゆれる。


 紙を1枚手前に引いた。何を書くつもりなのか、自分でも分からなかった。

 ただ、何かを書かなければならない気がした。何かを——。


 万年筆を取る。黒いインクが滲む前に、紙の上で止まった。


 宛名が書けない。

 名前が、出てこない。


 クレスト、とは書けた。姓は、ある。

 しかし、その下に続く文字が——


 フィリーネ。

 その名前が頭に浮かぶまでに、3秒かかった。


 私は6年間、彼女を姓でしか呼ばなかった。いや、呼んだこともほとんど無かった。「翻訳官」か、「クレスト嬢」か、あるいは手を振って「頼んだ」と言うだけだった。

 謝りたかった。その気持ちだけは、本当だった。

 しかし何を謝るのかが、書けなかった。一行が出てこなかった。


 ペン先が紙の上で何度か滑った。

「……」だけ書いて、止まった。

 書けない。

 「すまない」と書こうとして、何に対してすまないのかが分からなくなる。「戻ってくれ」と書こうとして、それは謝罪ではなく命令だと気づく。


 私は紙を1度、強く握った。丸めて、机の端に押しやる。


「……一行でいいのに」


 声が出ていた。

 暗い執務室に、自分の声だけが残った。


 破った紙の端から、インクの滲みが少し染み出している。

 1文字だけ、読めた。「…」の後の、か細い「す」の字が。




 その夜遅く、北方回廊の取次事務所から急便が届いた。

 封蝋の形が、今日の昼間のものとは違う。護符の型が入っている。

 内容を確認しようとして、翻訳官が既に全員帰宅していることに気づいた。


 封を切っても、意味が分からない。

 文字は読めるが、文は読めない。暗号が混じっている。


 私は封筒を机の上に置いたまま、しばらく動かなかった。

 封蝋の中身は、まだ、誰にも読めない。


読んでいただき、ありがとうございます。


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