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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第1章 『たかが』の翌日、国が止まる

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第5話 走り続けた靴が、石段を知っている

 石段が、4段ある。


 6年間で何千回踏んだかわからない段差を、今日は「降りる」だけだ。


 書簡箱を両腕で抱えたまま、私は1段目に足を置いた。踵に石の硬さが返ってくる。同じ石だ。同じ段差だ。なのに、いつもと違う何かが足の裏を伝ってくる。


 急いでいないのに、脚が速い。


 体が覚えているのだ。この石段は「急いで降りるもの」だと。朝に、夕に、呼び出しのたびに、私はいつも急いでいた。間に合わせなければ叱責される。遅れれば書簡が詰まる。それ以外の使い方を、この脚は知らない。


 3段目。


 2段目。


 1段目。


 門の向こうで、秋の風が動いた。


 おかしい、と思った。風の温度が、ちゃんとわかる。いつもは走り抜けるから気づかなかった。冷たさの中に、乾いた草の匂いが混じっている。もう秋が終わりかけているのだと、今日はじめて知った。


 腕の中の書簡箱が、かすかに揺れた。


 軽い。6年分の控えが入っているのに、驚くほど軽い。それなのに腕の内側だけが重く、じんわりと熱を持っている。筋肉の疲れではない。言葉にならない何かが、骨の近くに溜まっているような感覚だった。


 私は足を止めなかった。


 止まったら、また戻ってしまいそうな気がした。


 衛兵詰所の前で、通行札の返納を求められた。儀礼的な手続きだ。赴任時に受け取り、退任時に返す。6年前にも同じ場所で同じことをした。ただ、あのときは「初めての通行札」を受け取って胸が弾んでいたはずだ。


 今はただ、返す。


 詰所の衛兵が、私の顔を一瞬見た。


「お疲れ様で——」


 声が、途中で止まった。


 職務顔に戻った衛兵が、小さく咳払いをして書類を整える。私は何も言わなかった。笑いかけようとして、うまく笑えなくて、結局口の端だけが微かに動いて、それだけで終わった。


 通行札が窓口の向こうに消える。


 たったそれだけのことで、私は「ここに入る権利」を返し終えた。


 書簡箱を抱え直す。


 腕が重い。でも、放す気にはならなかった。


 これは渡さない。渡さない、というだけだ。引き継がないのでも、盗んだのでもない。6年かけて積んだ控えは、誰の名前も載っていないが、確かに私が書いたものだ。正式な手続きで持ち出せる私物として、私はこれを選んだ。


 それだけでいい。


 今は、それだけで十分だ。


 門を出た。


 風が変わった、とまた思った。今度は匂いだけでなく、音も違う。石畳の向こうから馬車が通る音、市場の方角から遠く人の声。王宮の中では聞こえなかった音たちが、急に耳に戻ってくる。


 6年間、私はここにいたのだ。外の音が聞こえない場所に。


 脚がまだ速い。


 走らなくていい、と自分に言い聞かせる。急ぐ必要はない。書簡は締め切りに間に合わせなくていい。呼び出しに応じなくていい。今日から、誰かの速度に合わせなくていい。


 それなのに、どうして脚が止まらないのだろう。


 体だけが、まだ王宮の時間の中にいる。


 私は石畳の継ぎ目を踏みながら、少しだけ歩幅を狭くした。意識して、ゆっくり。一歩一歩、脚に「急がなくていい」と教えるように。書簡箱の重みが腕の中で揺れて、そのたびに少しずつ、骨の近くの何かが落ち着いていく気がした。


 風が、また動いた。


 草の匂い。冷たい空気。遠くの馬車の音。


 今日の空が何色か、私にはまだわからない。顔を上げる余裕が、まだない。でも足の裏には石畳の感触が返ってきて、腕には書簡箱の重みがあって、耳には外の音がある。


 それだけが、今の私のすべてだった。


――――


 その頃、王太子の執務室では。


 伝令が扉を叩いた。


「失礼します。隣国より、書簡が届いております」


 机に向かっていた文官の一人が、顔を上げる。


「返信の確認か? 先ほど翻訳官が——」


「いいえ」


 伝令が、封筒を机の上に置いた。


 封蝋の色が、いつもと違った。赤の中に金が入っている。儀礼色ではない。あの色には意味がある。外交文書を6年扱ってきた者なら誰でも知っている意味が。


「……正式抗議文です」


 文官の手が、封筒の上で止まった。


 誰も何も言わなかった。


 部屋の中に、紙の音だけが残った。




 私の脚は、まだ少し速い。


 でも門の外の風は、確かに秋の匂いがした。


読んでいただき、ありがとうございます。


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