第44話 責任の行き先はどこだ
公会は、静寂が武器だった。
前室での説明を終えたフィリーネが、資料の束を抱えて本席に入った瞬間、宰相は眉を上げた。纏めた比較表と、却下印がついた申請書の赤い束。提出卓に音をたてて置かれたそれは、王太子側の複数名が一瞬だけ硬直させた。
「お時間を取っていただきありがとうございます」
フィリーネの声は低かった。公開席の議事録係が筆を立てた。同僚書記官は列席の端で、敬称の読まれ方に神経を尖らせている。
宰相が口を開く前に、神殿の補助役が資料に目を走らせた。
「これは、というと」
「提出束の順序です」フィリーネが答える。「却下が先に来て、その後に暗号解読の依頼、その後に国境会談の期限が動きました。新事実と、出入り簿の照合をまとめてあります」
王太子側の席から咳が漏れた。レオンは同じ卓にいながら、一呼吸だけ間を置いた。
「却下印の日付に注目してください。予算申請の却下が2度」フィリーネは冷たく続ける。「1つ目は外交書簡官時代の申請。2つ目はヴァイス到着から10日後です。どちらも同じ権限で通っています」
議事録係が「権限」という言葉を丁寧に書く。
「名前ではなく、線を出してください」宰相が王太子を促した。「申請を通さなかったのは誰の決裁か」
その瞬間、王太子の顔が1度だけ歪んだ。名を呼ぶ代わりに、左隣を見た。ルチアが視線の端で首を横に振った。
「それは——」王太子が言いかけて、議事録係が筆を立てた。
「発言の記録が、確認いたします」
宰相が軽く手を上げた。
「殿下。決裁権者の肩書きだけで構いません。あなたの名ではなく、その線だけを」
背後の護衛席で、レオンが無意識に息を吸った。フィリーネは那辺に視線をやらず、次を待った。
「それは、会計官が——」王太子の声が細くなった。「つまり、予算執行の……」
「出入り簿です」フィリーネがさらりと進める。「会計官が却下した申請から、2日以内に、この申請の出入り簿に誰かが『緊急案件』と記載して上げています。その記載は、宰相の直筆ではなく——」
宰相が微かに眉を動かした。その一瞬を、神殿の補助役が捉えた。
「詰まり、命令系統は宰相ではなく、その上、というわけだ」補助役が静かに言った。「殿下、あなたではないということですね。決裁を急いだのは」
王太子の手が震えた。ルチアが身を乗り出した。その動きを見て、フィリーネは次を口にした。
「下の実務者を保護する条件があります。申請が通らなかった理由は、機構の都合です。その理由で実務者を責めるのであれば、私は証拠の開示を拒みます」
議事録係がまたも筆を止め、フィリーネの顔を見た。
「個人の名前で誰かを吊るすことはしません。ですが、決裁の線は切ります。——首を差し出す順番を、私にさせないでください」
その台詞が落ちた瞬間、公会の空気が冷えた。
王太子の口が開きかけて、閉じた。言葉の代わりに、視線が彷徨った。隣のルチアを見て、宰相を見て、神殿補助役を見た。誰も名前を呼んでくれなかった。その空気が、彼の喉に詰まっているものを証明していた。
「議事録係」宰相が指示する。「ここまで淡々と記録してください。言い換えは入れないで」
「かしこまりました」
議事録が確定する音が、鐘より重かった。
レオンの手がテーブルの下で、無意識に握られていた。フィリーネは視線をやらない。かわりに、次に提出する改竄ログの束を静かに机に寄せた。その赤い束を見て、王太子の顔がさらに青くなったのを、同僚書記官が捉えて、目をそらした。
「次の資料は——」フィリーネが続けようとしたとき、宰相が静かに手を上げた。
「今日はここまでで構いません。1日の猶予を殿下にさしあげましょう。——次回の会合は、明日の日の出後です。その時間までに、決裁ラインの全員が名前を出し、責任を明確にしてください」
王太子は頷かなかった。代わりに、ルチアが代わりに頭を下げた。その二人の立ち上がり方を見て、フィリーネは確信した。
言い換えは終わった。あとは、因果が落ちるだけだ。
退室の際、王太子はフィリーネの方を見た。その顔が「ごめんなさい」という形をしていても、口からは何も出なかった。その無音の詫びが、逆に全てを証明していた。
彼は、彼女の名前を呼ぶ資格を失ったのだ。
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