第43話 静かな提示で空気が変わる
公会前室。手が震える。
封蝋の音を聞く。紙の角を揃える音。同僚書記官が真顔で、何度も何度も定規を引き直す。
「紙はまっすぐです」
その台詞が、今日は麻酔のように効いた。怖いのではなく、紙が頼りになってくる。封蝋の熱が冷めるのを待つ間、私は息を整える方法を忘れていたことを思い出す。
公会の扉が、遠く廊下の奥で開く音がした。儀式の時間が近づいている。
提出卓に着く瞬間。
それまでの喧騒が、一瞬だけ淡くなった。
神殿立会いの者、宰相、王太子、そして——ルチアの隣に立つエドワルド殿下の顔が、硬く傾く。まるで、そこに私がいることを計算に入れていなかったみたいに。
ええ。そうですね。6年間、私は机の下にいたのだから。
議事録係は手を止めずにペンを動かし続ける。何かが言葉よりも先に記されようとしている。
「提出束の内容をお聞かせください」
宰相の声が静かだった。何も責めていない。ただ事実を聞く声だ。
私は提出卓に束を置く。
——音がした。
書簡写し、出入り簿写し、真偽糸の記録。複数の紙を重ねた時の、確かな重さの音だ。その音が、公会の空気を一段階冷たくした。
「台帳管理室の開示記録と、出入り簿の照合から見える改竄痕です」
声が出た。自分の声だと思えない。怖くないのは、もう怖い段階を通り越していたからだ。
「書簡箱の出し入れと、該当日付の官印押印日時に齟齬があります。3度のずれです。全て、却下印が捺された日付の前後です」
宰相が身を乗り出す。いや、身を乗り出したのではなく、その目だけが提出束に吸い込まれたようだ。
王太子の方は違った。彼の顔だけ、一段階白くなった。
「どういう意味ですか。フィリーネ」
ルチアが声を掛けた。心配そうな顔で。
私は、彼女を見なかった。
「国益となった書簡の功績が、別の人物名で記録されています。その切り替えは、予算申請が却下された翌日に行われました」
真偽糸の記録紙を示す。神殿補助役が検査済みの封蝋が押されたそれを、議事録係が静かに写し取る。
記録に残る。拒否できない形で。
王太子が立ち上がった。
「これは——国家機密の横流しだ。そもそも、貴女がそれを持ち出した時点で」
「その問いでしたら」
宰相が、ゆっくり手を上げた。
「神殿に確認がございます」
神殿補助役が1歩、前に出た。
「真偽糸の照合では、『触れた痕』のみ判定します。書簡箱を開けた記録は3度。いずれも官印携帯者による開閉です。通常の業務範囲です」
王太子が何かを言いかけた。口が開いた。
「国家機密と仰りますが」
神殿補助役が続ける。声は淡々としていた。
「改竄痕の告発は、内容の真偽を判定するものではありません。ただ、記録が改変されたかどうか——それだけです」
議事録係が、その台詞を書いている。書きながら、手が止まることはなかった。
公会の空気が、もう一段階冷えた。
「では、この束について」
宰相が提出卓に両手を置いた。
「出入り簿に記された名と、功績記録に記された名が異なるという主張ですね」
「はい」
「その相違が、予算却下と連動して発生している」
「はい」
「個人的な怨恨ではなく」
宰相が、こちらを見た。その目は何も問いかけていない。ただ、聞いている。
「国家の決裁ラインに関わる異常だと、主張されている」
「はい。私は怒っていません」
自分の言葉が、どこから出ているのか分からなかった。けれど続いた。
「——ここに、残っています」
提出束を指す。その手が、震えていない。
「これ以上、奪われません」
言葉が、氷のように落ちた。
◇◇◇◇◇◇◇
エドワルド殿下が、何かを言おうとした。
口を開いた。喉が、かすれた音を出しかけた。
「それは——」
言葉が詰まった。
同じ詰まり方を、何度見たことがあっただろう。提出卓で書簡にペンを置く時。署名の前の一呼吸の間。その瞬間、いつも微かに、喉が詰まるのだ。
でも署名に、私の名はない。
宰相が静かに身を起こした。
「責任追及の順序を整理いたします。ご異議ございますか」
誰もいない。
王太子は、もう1度、提出束を見た。その目は、何かを探しているようだった。探し続けたまま、口を閉じた。
ルチアは、扇を握る手が少し、震えていた。
「続けます」
宰相が告げた。
「提出束の内容について、神殿による検証と、議事録への記録化を同時進行いたします」
神殿補助役が頷く。
議事録係は、すでに書いている。
その時だった。
議事録係の手元を見て、誰かが言葉を失った。
議事録係は、王太子の「それは——」という言いかけを、そのまま記していたのだ。完成しない言葉。詰まったまま。名を呼ぶ直前で止まった喉の音。
それが、公開の記録に残った。
神殿補助役が、静かに一言だけ落とした。
「匂いは裁けません。記録は裁けます」
その台詞の意味は、簡潔だった。
個人的な感情、恨み、正義感——そうした目に見えないものは、神殿は裁かない。でも、紙に残ったもの。改竄痕。決裁の履歴。開閉の時間。そうした痕跡だけは、誰も否定できない形で裁く。
宰相は提出束の最後の紙——却下印の赤い色を見ていた。
その赤色が、何度も何度も、同じパターンで繰り返されていたのだ。
申請書。却下印。翌日。功績改竄。出入り簿の時刻改変。
1度や2度ではない。5度。
5度の同じ流れ。5度の却下が、5度の改竄を呼んでいた。
ルチアが、何かを言おうとして、口を閉じた。
エドワルド殿下は、相変わらず、提出束を見つめ続けていた。
「公会は継続いたします」
宰相が告げた。
「本日の決議事項は、この相違点の因果追跡です。異議、ございませんか」
誰も、反論しなかった。
記録に残ることを知ったら、誰もが黙る。
私は卓を降りる。立ち去る。
後ろ髪を引かれる思いはしない。その代わり、背中がこわばった。
公会の扉の外で、レオンが立っていた。
護衛を従えて。
彼は何も言わなかった。ただ、私の手の平を見た。
震えていない手を。
「よくやったな」
小声で、そう言った。その一言が、初めて、私を人間として見ていることの証だった。
「こえから先は」
彼が続ける。
「君の言葉を信じる」
廊下を歩く足音が、向かう先は王宮ではなく、別の場所だった。
窓のある執務室へ。
未来の書簡が待つ場所へ。
けれど、その場所に着く前に、1つだけ確認しなければならないことがある。
「レオン様」
立ち止まった。
「責任の線は——どこまで伸びていますか」
彼は、その問いを笑わなかった。
「君が、追い詰めるまで。そこに私の手はない」
「……」
「君は、1人ではない。だが、選ぶのは君だ」
その言葉が、次の話へ続いていく。
責任の線がどこに伸びているのか。それを知る者は、記録の中に隠れている。
提出卓に置かれた束の中に。
赤い却下印の、その先に。
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