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「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第1章 『たかが』の翌日、国が止まる

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第4話 代役が詰まる理由はどこだ

 封書の山が、机の上で声を立てていた。


 比喩ではない。積み上げた順に番号を振った紙が貼られていて、一番上の1枚が午前の光に照らされている。ヴァイス侯国から届いた書簡、昨日から手つかずのまま。


 私は封書に指を触れて、止まった。


 翻訳官として6年、この部屋に出入りしてきた。書簡が届けば開封し、言語を確認し、担当者へ回す。それだけの手順だ。だというのに今日の朝から、私を含めた翻訳官3人が、この1通の封書の前で止まっている。


 封を切れないのではない。切り方を忘れたわけでもない。


 ただ、中身が読めない可能性がある。


「……ヴァイス語で来ている」


 隣の同僚が低い声で言った。


「わかってる」と私は答えた。「問題は次だ」


 同僚は返事をしなかった。わかっているから黙っている。


 今この部屋に、ヴァイス語の法律用語と外交慣用句を同時に読める人間がいない。いた人間は、昨日の朝、書簡箱を抱えて王宮を出ていった。




 会計官の執務室の前を通ったのは、午前の半ばだった。


 上の者に報告する前に、1つだけ確認したいことがあった。3年前から申請が上がっていた話だ。ヴァイス語の外交慣用句を収録した専門辞典——現行の王宮備品にない語彙を補うための冊子を作るという計画。


 私が廊下の端で立ち止まると、別の翻訳官がちょうど部屋から出てくるところだった。


「辞典の件、聞いてきた?」


 私が尋ねると、彼は首を横に振った。ゆっくりと、1回だけ。


「予算審査のところで……」


 彼は続きを言わなかった。言う必要がなかった。


 私は廊下の壁を見た。石の継ぎ目に目が止まる。5年前、最初の申請書が出たとき。4年前、2回目。3年前、3回目。毎回同じ文言で戻ってきたと聞いている。「年度末予算審査が必要」「前例なし」「効果の数値化を要す」。


 赤い却下印が押された申請書が、どこかの棚に3枚眠っている。


 廊下に3人で立ち尽くした。誰も口を開かなかった。窓から外の光が差して、石床の目地が白く浮いていた。


 ——笑えない話だ、と思った。それだけだった。




 午後になって、宰相が執務室に入ってきた。


 私たちはその時点でまだ封書を開いていた。1通目はなんとか読んだ。ヴァイス語の通商用語については先代の対訳帳に用例があり、2人がかりで2時間かけて翻訳した。正確かどうかは、自信がない。


 王太子は窓際に立っていた。ルチア様が少し離れた椅子に座っていて、「殿下、お顔の色が」と声をかけようとして、止まった。場の空気の色を読む人だ。今は声をかけない方がいいと判断したのだろう。


「報告を」と宰相が言った。私ではなく、上司の翻訳官長に向けて。


 翻訳官長が答えた。ヴァイス語の1通に2時間かかったこと。残りが4通あること。1通は語彙が専門すぎて手がつけられていないこと。明日の昼刻がヴァイス侯国への返書期限であること。


 王太子が振り返った。


「2時間? たかが1通に?」


 部屋の温度が、一段下がった気がした。


 翻訳官長が何か言おうとした。私も何か言えばよかった。でも言葉が出なかった。「たかが」という2文字が壁に貼りついて、反響していた。


 宰相は動かなかった。ただ翻訳官長の言葉を最後まで聞いてから、ゆっくりと王太子の方を向いた。


「殿下。国が困っているのではありません」


 声が低かった。荒げてはいない。低い。それだけで部屋の全員が体を固くした。


「殿下が誰を捨てたかが、露呈しているのです」


 王太子は何も言わなかった。手が、机の縁を探る仕草をした。何かを持ちたいのだろう、あるいは何かを振りたいのかもしれない。でも手は止まった。


「……クレスト、……」


 名前が出ようとした。出なかった。


 「クレスト」という姓が来た後、次の音が喉で詰まったのを、私は聞いた。部屋の全員が聞いたと思う。王太子が6年間、その書簡官を「クレスト嬢」とだけ呼び続けて、名を一度も口にしなかったことを、私は知っていた。同僚も知っている。今この部屋に集まった全員が、たぶん知っていた。


 でも誰も何も言わなかった。




 宰相が書類の束を机に置いた。


 音がした。書類の角が揃っていて、置き方に迷いがない。赤い却下印が、一番上の紙の端から見えた。


 王太子はその束を見た。1秒、見た。それから視線を外した。


 私は翻訳官長の袖を引いた。廊下に出る合図だ。


 部屋を出る直前、後ろで封蝋の話が出た。明日の返書に押す封蝋の色を確認しているらしい。別の翻訳官が蝋の見本を持ってきていたが、私は廊下に出て初めて気づいた——彼が持ってきたのは、儀礼封蝋の標準色ではなく、検閲用の色だ。扉が閉まりかけたとき、詰所の衛兵の声が聞こえた。


「それ、検閲色です」


 廊下に沈黙が落ちた。


 翻訳官長が額に手を当てた。私は何も言えなかった。


 なぜ、一人欠けただけで、これほど回らない?


 机の上に積まれた封書を思った。2時間かけた1通を。読めていない4通を。あの人が朝に来ると、仕事の山はなぜか片付いていた——いつも、そうだった。今日初めて、その理由が見え始めた気がした。


 でも答えは、まだどこにもなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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