第39話 足跡が二つに増える
囮写しの封蝋護符が、2段階で濁っていた。
神殿の台帳前で、真偽糸に絡んだ紙片を見たとき、私は息を止めた。1度目の触れた痕に加えて、さらに別の日の触れた痕が重ねられている。つまり、囮に反応した者は、1人ではない。
「2度、ですね」と神殿補助役が言った。香炉の匂いが、薄く髪に纏わりついている。「同じ方角です。期限までに、もう1度触れられる予定がある、という意味」
その言葉の先が、私の胸に刺さった。
「予定がある」——つまり、まだ終わっていない。囮に反応した者はこれからも動く。その動きは必ず記録に残る。でも、残った記録は誰かを裁くための刃になる。
棺桶に釘が打ち込まれるときのような音がした。実際には無音だったはずなのに。
導線が1本のはずだった。囮を通す道筋は、制限されている。閲覧札で発行元を縛り、出入り簿で通過時刻を押さえ、護衛詰所の記録で搬入時間を固定する。その3つの穴を通れば、誰が手を出したのか、記録から必ず名前が浮かぶはずだった。
それが2度、だ。
同じ方角へ、2回。
つまり、導線が絞れていない。もっと悪く言えば、権限の穴が思ったより深い。あるいは——権限を持つ者が複数いる。上の何層かで、同時に指示が動いている可能性がある。
門番詰所の出入り簿を見たとき、私の手が止まった。
出入り簿の筆跡が、2種類だ。同僚書記官がそっと指でそこを示した。「ここまでがこの筆、ここからが別の筆」 その2つの線を見比べると、明らかに違う。筆圧も、文字の角度も、筆の開き具合も。
1人が書いたのではない。確実に、別人だ。
「どちらも……」と門番筆記係が言った。その声は小さかった。両肩が縮こまっている。「どちらも、下の字です」
下の字——つまり、実務者レベルの筆跡。命令を受けて書いた者の字。上の指示を実行した痕跡でしかない。
1人の犯人ではなく、2人の実務者。2人の命令者。その構造が、私の喉に詰まった。
「何時と何時」と同僚が聞いた。その声は無機質だったが、指先が出入り簿の角をなぞっている。緊張の表れだ。
「午前10時と、午後2時です。囮が通った時間帯が……」
同僚書記官と目を合わせた。囮は1度だけ通す予定だった。午前中に神殿から発行されて、外交庁を経由して、護衛詰所で検収されて——という1本の導線。
それが午後にも記録が付いている。
つまり、囮は2度通った。あるいは、記録を追記する権限が2箇所にある。あるいは——上の命令が異なる2つの筋から出ている。
棺桶ではなく、土をかけられる感覚だった。
書庫の隅で、若い書記官に会った。
1人で会わせてくれ、と私が同僚に言ったのだ。見張りの目の中では、あの子は何も言えない。でも2人きりなら、もしかして——。そう思ったのは、本当は自分の弱さ逃げだったのかもしれない。
「教えてくれませんか」と私は言った。指先が震えていることに気づいた。「何かを、知っていることはありませんか。本当のこと」
若い書記官の目が、上を見た。書庫の棚へ。その視線だけで、答えが出た。上の命令だ。上の誰かが、指示を出している。
「……私、知りません」
その言葉は嘘だった。でも嘘だと指摘することはできない。そうしたら、あの子が折れる。正しさで斬れば、この子が掴んでいる最後の1本の綱も切れる。
親指が震えていた。爪を噛む癖が、無意識に出ている。6年前の王宮の廊下で、「たかが書簡」と言われたあの日からずっと、私の手は震えやすくなってしまった。
「印章の……」と若い書記官が呟いた。言葉を続ける勇気がない。でもほんの1瞬、その子の目が上を見た。そこには、権限と命令と、巻き添えの恐怖がある。
同僚書記官が、静かに扉を開いた。
「震える手で印泥を持つと、床が汚れます」
それだけ言って、布を差し出した。若い書記官が受け取った布は、清潔で白かった。生活規律の中での、静かな救い。
でも私は、その救いから視線を逸らした。あの子が折れ始めるのを見たくなかった。正しさで刈る前に、巻き添えの形を見せられたくなかった。
記録には残る。封蝋護符が2度濁ったという事実。筆跡が2種類だという事実。そして、あの子の沈黙という事実。その沈黙だけが、上へ繋がっていく。
執務室の窓に、夕方が色を落とし始めていた。
窓辺に行った。1人きりになるために。誰にも見られない場所で、自分の弱さを確認するために。
執務室の窓から見える、侯国の景色。石造りの道、並んだ樹木、遠くの門。全部が整然としているのに、不穏に見える。あるはずのない2人の足跡。あるはずのない複数の命令系統。あるはずのない、あの子の沈黙。
私が正しさで切り込めば、誰かが壊れる。
その事実から目を背けることはできない。刃は、使った瞬間に何かを傷つける。だから何度も確認した。正しいのか。誰が傷つくのか。その傷は、公会で晴らされるのか。それとも、新しい傷を作るだけなのか。
それでも、自分が「ちょうど傷つける」という選択肢を握っているのが、怖い。
私が正しいほど、誰かが壊れる。あの子も。上の誰かも。その痛みを公会に引き出すことで、何が変わるのか。何が救われるのか。
それすら、わからなくなっていた。
廊下から足音がした。
レオンだ。その足音の早さで、何かを察していることがわかった。
「夜中に大事な判断を重ねるべきではありません」
彼は執務室に入ってこず、廊下から声をかけた。護衛班長への配慮だ。公的な距離を守りながら、個人的な心配をする。その矛盾が、彼の全てだった。
「何か、わかったことはありますか」
その問い方は、優しかった。責めではなく、確認だった。
「複数です」と私は答えた。「足跡が、2つ」
窓に映る自分の顔が、蒼ざめている。自分でも気づかないうちに、表情が失われていた。
「では、ここから先は」とレオンが言った。「慎重に進めましょう。焦ると、巻き添えが増えます」
その言葉が、私の心臓に触れた。焦ると、巻き添えが増える。あの子が、1人から2人に増える。2人から3人に増える。正しさで追うほどに、壊れる者の数が増える。
「救う範囲を、決めましょう」
その言い方は、命令ではなかった。提案だった。でも、それは同時に、私の判断を1段階引き上げるものだった。
「救う範囲というのは」と私は聞いた。自分の声が、かすれているのに気づいた。
「下の実務者は、保護する。命令系統だけを、追う」
短い言葉だった。でも重かった。あの子は守る。でも上の誰かは、責任を取らせる。その線引きが、私の手を止めさせた。
正しさで斬ることと、守ることの両立。その矛盾を、どう紙に落とすのか。どう公会で説明するのか。
「明日の朝、もう1度、記録を整えます。その上で、公会へ出します」
レオンが頷いた。その頷きが、私の呼吸をようやく緩めた。でも心臓は、まだ荒い。
逃げられない日時までに、導線の2つを、どう繋ぐのか。あの子を守りながら、上の誰かを記録で追うのか。その答えは、明日の朝、紙の上に書かれるはずだった。
でも今は、窓の外が暗くなり始めていた。夜が長い。その長さに、もう耐えられないような気がしていた。
内通は1人じゃない——。その事実だけが、私の中で何度も何度も反響していた。
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