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【書籍化決定】「連載版」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第6章 署名まで一日

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第36話 書き換えたのは誰だ

 署名前夜の最終照合の机に、神殿公証官が真偽糸を垂らす白布を置いた。香炉の匂いを纏った彼女は、無言で糸の先をどこまでも細く調整している。調整しながら、その細さが「全てを見つけること」の重さだと、無表情で伝えている。


 私の目の前に広げられているのは、署名前夜に作った条文のコピーだ。本体は昨日の朝まで、明朝の国境会談室で開封されるはずだった。それが整えられた机で、大切に保管されている。


 その予定は崩れた。


 レオンが「署名は延期する」と言い切った瞬間、相手国の外交官の顔色は、はじめて「測定される側」に回った。彼は計算していた。ヴァイス侯国が署名を急ぐと。その急きが、判断を曇らせると。その曇りの中で、条件を押し通せると。


 だから今、この非公式の照合が組まれたのだ。改竄がないのを「確認」するのではなく、改竄があるなら「見つける」ための場だ。


 そしてそれは、同時に――「誰が書き換えたのか」を炙り出す場になるはずだった。


「真偽糸は認証と改竄痕の両方を出す」


 公証官の声は、毎度おなじ言い回しだった。


「ただし……意味は、出しません。判断の刃は、残しません」


 彼女は裁かない。ただ、記す。ただ、残す。その残し方で、後々の刃になるのだと、全員が知っている。


 私はその白い糸が条文に接する瞬間まで、息を整えた。不思議と動悸は落ち着いていた。代わりに、指先の冷えが増していく。


 公証官が糸を最初のページに立たせる。羊皮紙の上で、細い白い線が、文字のうえを歩く。追記なし。改竄痕なし。公証官が仕草だけで「次」と告げ、私たちは条文のページをめくる。


 2枚目も。3枚目も。4枚目も。5枚目も。6枚目も。同じ。全て同じ。


 レオンが身を乗り出している。相手国の外交官は、椅子を引きずりながら身を引いている。あのズルッという音が、彼の焦りを小さく暴露していた。


 7枚目をめくる瞬間。


「待ってください」


 その言葉は、私の口から出ていた。


 自分で言ったことに自分が驚いている感覚。それなのに、続きが口から流れてくる。


 ペンを握ったまま、条文の中盤に差し掛かった時、私の指先が、かすかに震えて、冷えていく。一文だけ。ほんの一行だけなのに、その言い回しが、明確に違う。


 真偽糸は、その位置で止まるべきだ。だが、この段階では――まだ、私の確認が必要だった。


 羊皮紙に印字された文字は、こう読まれた:


 〈北方同盟が自国の補給線確保の権利を、ヴァイス侯国の指定地域内でも保有する。この権利は、侯国の主権的判断の対象外とする〉


 私は元の草案を思い出す。作成の経過を、一文ずつ確認した、あの夜の感覚を。その夜、ペン先で選んだ言葉は――


 〈北方同盟は、自国の補給線確保に必要な通路利用を、ヴァイス侯国の同意のもと求める権利を有する〉


 微細な差。だが、その差は、国の主権を分かつ線だ。


 私は公証官の手を見た。彼女の指先が、真偽糸を静かに条文の上に垂らす。その瞬間、白い糸が、その7枚目の中盤でぴたりと止まる。


 その場所が光っている。文字通りではなく、私の目に。


「認証が出ました」


 公証官は低く言った。


「追記ですね?」


 神殿側の補助役も、厳しい顔で近づいてくる。真偽糸は、改竄を逃さない。追記・修正・上書き・削除――全てを記す。


 私は息を吸った。


「その一文は」


 私の声が、公室の中で、はっきり響く。


「相手国の尊厳を削ります」


 その言葉を言った瞬間に、全ての圧が、私の肩に集中した。相手国の外交官が、測るような眼差しを向けてくる。監察役が、封蝋のある小箱を握ったまま硬直する。神殿側も、動きを止める。


 だが、私は続けた。


「削った人間の都合が見える。この修正は、誰の国のために――いや、誰のために、入れられたのですか」


 言葉にすると、その重さがはっきりした。


 最初の文は「自国の判断を最優先させる」という圧力に読める。つまり、ヴァイス侯国の同意を「形式」にしてしまう。相手国の主権を、棚上げにする。


 しかし――。


 これは、相手国に有利な改竄ではない。


 ヴァイス侯国に有利な改竄でもない。


 本国に有利な改竄だ。


 「署名時の責任者」として、私の名が条文に入れば、この不当な改竄まで、私の「承認」に見える。署名は、名を入れた者の責任だ。その責任を、本国の思惑で捻じ曲げられ、後で「お前が通した」と切り捨てられる。


 その罠が、ここにある。


「公証官」


 レオンが、静かに立ち上がった。


 彼の目だけが、熱く光っている。礼儀正しい仕草のまま、彼の内側の何かが、静かに決定されたのが見える。


「署名は、今しない」


 相手国の外交官が、かすかに身を引く。


「改竄の確認が出た。この条文のまま署名することはできない」


 彼の言葉は、公式の言葉だった。だが、同時に――私の指摘を、完全に受け止めている。


「『残る』のは言葉だけで充分だ。この改竄の痕跡が、台帳に記される。それで充分」


 その声は、公式の場に落とされた石のようだった。水紋が広がり、全員を静かに冷やしていく。


 相手国の外交官が、口を開く。だが、言葉が出てこない。監察役は封蝋を握ったままで硬直し、神殿公証官は粛々と真偽糸をしまい、ただ「記録します」と言った。


 その「記録」が、この先の全てを決める。


 台帳に残る。改竄の痕跡が。誰が書き換えたのか、という痕跡は残らないが、「改竄が入った」という事実だけが、公式に記録される。


 そうなれば、署名は通らない。条件を直さなければ。そして条件を直すなら、改竄を入れた者は、もう隠せない。


 同僚書記官は凍った空気の中で、小さく鐘の真似をした。その音だけが、わずかに柔らかい。


「……昼食の時間です。命令です」


 全員が、ほんの一瞬だけ、人間に戻る。


 その一瞬の中で、私は気づいていた。


 レオンの決断は、改竄を「止める」ためだけではなかった。署名を止めることで、主導権は相手国ではなく、こちらの条件に移る。改竄を見つけた側が、いま、条文を握っているのだ。


 「署名を急がせるのか、それとも条件を直すのか」と、相手に選ばせる力を、この瞬間に手に入れた。


 そして――。


 条件を直すなら、その改竄を入れた者を、明かさなければならない。


「書き換えたのは誰だ」


 私は空白に向かって、音の出ない問いを落とした。


 その答えは、まだ出ていない。


 ただ、その答えが誰であれ、その人間は「何を得たくて、この一文を書き換えたのか」を知っている。


 失うもの。守りたいもの。己の国の威信か。己の身分か。あるいは――もっと大きな何かか。


 その知識が、改竄の線が、誰の手を炙り出すのか。


 その答えが、いま、鐘の音の後ろで、ゆっくり浮かび上がろうとしている。


 窓の外で、国境を越えた風が、夕刻の光を揺らしている。その風に、改竄者の名前は乗っていない。だが、組織の中を流れて、やがて誰かの頬に触れるだろう。


 そしてその時、その人間は、逃げる道を失う。

読んでいただき、ありがとうございます。


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