第3話 返書の猶予、残りわずか
王宮の廊下を歩きながら、ふいに理解した。
書簡箱の中身を、今さら数えていた。5カ国17の相手先との書簡の控え。暗号鍵の変更履歴。条約草案の写し。私が独自に整備した対訳補足注釈——王宮にその写しはない。私が控えとして作った唯一の記録が、今、私の腕にある。
這い上がってくる問いに気づいた瞬間、足が1歩だけ止まった。
これを持ち出すのは、何を意味するのか。
控えだ、と自分に言い聞かせる。本物は文書庫へ行った。引き継ぎ不要と言われた。必要とされていない記録だ。誰も困らない。
答えが定まらないまま、また歩き始めた。廊下の端で見慣れた書記官と目が合い、軽く頷いた。相手も何も言わなかった。それでいい。今の私には、言葉を探す余力がない。
門へ向かう通廊は、昼の光が厚く差し込んでいた。
胸が苦しかった。息は切れていない。体は普通に動いている。なのに胸の奥に何かがある。泣くわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ圧迫感として座り込んでいる。
6年間、この廊下を通るたびに足を速めていた。書簡が山積みで、返信期限があって、暗号の鍵更新が迫っていた。廊下は仕事と仕事の間でしかなかった。今日、急ぐ理由は何もない。
だというのに体は知っている速度で進んでいた。膝が覚えている。肩が覚えている。脇に抱えた書簡箱の重みが、いつもの荷物の重みに似ているから——そのせいかもしれない。
伝令詰所の前を通りかかったとき、掲示板が目に入った。
反射的に、見た。
職業病だ、と思う。掲示板には返信期日の一覧が貼られている。各国への返書が必要な案件と、その締切が縦に並んでいる。私が毎朝確認していたものだ。
右から2列目、上から3番目。
ヴァイス侯国宛て通商協定改定案への返書期限。
「……明日、か」
声が出た。小さく、誰にも向けていない言葉が。
足が止まっていた。気づかないうちに止まっていた。掲示板の前で、鍵付き書簡箱を抱えたまま、私は数字を見ていた。明日。明日の昼刻。
あれは私が担当していた案件だ。改定案の翻訳確認と返書の草案——下書きまでは終わっていた。あとは清書して、殿下の署名欄を空けて、封蝋を押すだけ。それだけの段階にまで、持ってきてあった。
今、私はここにいない。
あの草案は机に残してきた。誰かが処理するだろうか。できるだろうか。ヴァイス語の法律用語は——。
——私はもう、書かない。
心の中でそう言った。急ぐ理由がない。引き継ぎ不要と言われた。書いても、署名は誰かのものになる。名前は残らない。それを6年やって、「たかが」と言われた。
でも。
……でも、あれは明日だ。
数字が頭から消えなかった。明日の昼刻。ヴァイス侯国。改定案の返書期限。もし届かなければ——先方は何と思う。遅延の理由を問う。正式な問い合わせが来る。関係が少しだけ冷える。
追伸を書かないだけで、空気が冷える——
そんなはず、ないのに。
背中がざわっとした。言い聞かせた言葉が、自分で自分を打ち消した。知っていた。3年かけて知っていた。追伸1行が返信の温度を変える。温度が交渉の寛容さを作る。それが国益になる。
私はこの掲示板の前で、その因果を全部知っていた。
……だから、足が止まる。
後ろから声がかかった。
「クレスト嬢、いつも通りお急ぎですか」
門番の声だ。詰所の脇に立つ顔見知りの老衛兵。6年間、毎朝この門を通るたびに同じ声で同じことを言ってきた男だ。
私は——頷きかけた。
反射で。体が。
「いつも通り急いでいます」という言葉まで、喉に来ていた。
……急いでいない。
「……いいえ」
首を横に振ったとき、自分の声が少し変だった。掠れているわけでも震えているわけでもなく、ただ、いつもと音程が違う。
衛兵は少しだけ目を細めた。何も言わなかった。6年間、私が何時に出て何時に戻るかを見てきた人間の顔で、黙っていた。
通行証を返納台に置いた。6年間使ってきた王宮勤務の通行証。受け取った監察官が確認印を押した。形式通り、丁寧に。
「お勤め、お疲れ様でした」
その一言だけが、今日初めて、私に向けられた言葉だった。
喉の奥が一瞬だけ熱くなった。
頷くことしかできなかった。
門の外に出ると、風が変わった。
王宮の外の空気は、石と湿気の匂いがしない。乾いていて、少し遠くの野原の匂いがある。毎日ここを通っていたはずなのに、外の空気の匂いを覚えていなかった。
書簡箱を抱えたまま、立ち止まった。
掲示板の数字が頭から離れない。明日。ヴァイス侯国。返書期限。
もう私には関係ない——そう言い聞かせるたびに、数字だけが消えなかった。6年間、期限と呼吸を合わせて生きてきた体が、まだ覚えている。締切は私に向かって光っている。追うべきものとして、追いかけてくる。
私暦だった。
その言葉が、ふと浮かんだ。
返信の期日を管理して、暗号鍵の更新周期を組んで、5カ国の慣例行事の日程を頭に入れていた。私が書いた追伸は、相手国の季節と慣習に合わせた話題だった。厨房の使用人に今日の空の色を借りながら、他の国の季節を書いた。
私は暦だった。この国の外交に必要な時計だった。
それが今日、止まった。
腕の中の書簡箱が、また重く感じた。軽いはずなのに。6年間を証明する控えが入っているだけなのに。その重さの意味が、門の外に出て初めて少しだけわかった気がした。
石畳が靴の下で静かに鳴った。
——最初の返書の締切は、明日だ。
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